私のPivot:SIerサラリーマンから経営者・実装型IT/DXコンサルタントへ
はじめまして。株式会社ラヴィ代表 毛利裕介 です。
今日(2025年12月1日)から25 日間のアドベントカレンダー形式で記事を書いていきます。
最初のテーマは、私自身の “Pivot(方向転換)” について。
マンション営業 → SIer(下流・上流) → フリーランス → 経営者・実践型コンサルタント の流れを書いていきます。
(結果的に長くなって SIer 苦労話がメインになりましたが、、よかったら最後まで読んで頂けると嬉しいです)
プログラマからキャリアスタート
私は大学卒業後にマンション営業を半年経験して、一回目の Pivot となるプログラマの職を得ました。
最初の配属は NEC 系 SIer の開発案件でした。VB 6.0 が出た頃です。DB は Oracle で outer join の書き方が (+) だったことを覚えてます。分かりやすかったけど今では使えません。
その次は NTT 系。Solaris + C言語 という開発環境で、Vi の使い方が全く分からず途方にくれた記憶があります。Vimmer に憧れてた時期があります。
まだテレホーダイの時代で、少ない給料からパソコン買って週末の深夜に勉強してました。
行き詰まったらネットに転がってるおもしろ情報を漁ってました。「体育座り &&&」が印象に残ってますが、何が面白かったのか今では分かりません。
SIer最下層という自覚
「手に職をつけたい」という動機で見つけたプログラマ職ですが、次第に「スキルは身についても大して給料は上がらない」という構造に気づきます。
就職したのはハローワークで見つけた小さい会社でプログラマ派遣業。
多重の下請構造になってるので私に入るお金(給料)はかなり少なくなっていたはずです。
リーダー経験を経て一部上場企業へ転職
そんな会社も2〜3年も居ると、現場では5名程度のチームリーダーになってました。
飲み会で転職の話をしていると派遣先の課長から「うちに来るか?」と誘いを頂き、二つ返事で「行きます」。
引き抜きはよろしくないということで1年間は個人事業主として北九州の案件に入り、1年後に晴れて東証一部上場企業の社員に。
給料はそこそこ上がって福利厚生がかなりよくなったのと、サラリーマンとしての安心感を得ました。
親にも誇らしい気持ちで報告した気がします。(覚えてない)
システム開発の階段を登った現実
上場企業の待遇と安心感を得て、転職先ではいわゆる上流工程に関わることが多くなりました。
「東京で半年くらい要件定義やってきてほしい」と言われ 抜擢してもらった という高揚感を感じたのは記憶しています。1ヶ月に一度は福岡に戻る生活で Nintendo DS の「逆転裁判」にハマりました。
ただ、飛び込んでみると「これじゃどのプロジェクトも炎上する訳だ」との知見を得ます。
それは、開発現場を知らない人たちが複雑な資料を見ながら喧々諤々して、定時になったら何も決まってないのに帰ってしまう光景を見てしまったから。どうしても伸ばせない期限が来たら多少曖昧でも下流に資料を流す。
首都圏の綺麗なオフィスで年収も高いはずなのに、ここにはどんな価値があるのだろうと思うようになります。
ビッグプロジェクトで瀕死のプロマネを経験
前述の要件定義はなんとか終わり、持ち帰って開発が始まりました。
結果的には60名以上の開発チームに膨れ上がり、私は実質的なプロジェクトマネージャーとして残業しまくりました。
(60名を超えるチームの Excel WBS はやばいんです。そんな話はまた今度)
当時は世界のナベアツ「3の倍数で馬鹿になる」が流行ってたので月の勤務時間を「さーんびゃくさーんじゅうさーん」時間(月稼働 333時間、本来は160時間前後)に合わせたりして、少しでも楽しくやろうと考えてました。
週末はドラゴンボールZ 見て会社に行ってたの思い出します。
これは私のキャリアで一番大きなプロジェクト規模でした。
今ならもう少し上手に管理できるかもしれませんが、もうやりたくありません。笑
PM職・管理職で「手に職がなくなる」危機感
大規模なプロジェクトのマネージャーを経験して感じたのは、管理者になったことによる喜びではなく危機感でした。
「技術が変わって開発者の言うことが理解できず、本当の状況を把握できなくなるかもしれない」
「組織にいないと自分の価値はないのでは」
「会社がなくなったら自分に価値ないかも」
「上流のあの人達のように、自分もなるのかな」
当時の私は「管理」という役割にあまり価値を感じてませんでした。
「誰でも出来る」と思ってたんです。
でも、違いました。(なぜそう考えるのか、そのうち書きます)
今は、60名を超えるプロジェクトの管理をやりきったことは一つの実績として胸を張れることだと考えています。
とにかく当時は「管理業務は大した事ない」と思ってました。
退職を決意させた大前研一氏の言葉
このままではマズいかも、と思いつつ困ってるわけではなく焦燥感はない状況でした。そんな中、大前研一の言葉に出会います。
この話を知ってる人も多いでしょう。私は別の言葉で知りましたが、検索すると以下の文脈のようです。
「今年こそは」と新年の決意をする人は少なくないだろう。だが、決意を新たにしたぐらいで人はそうそう変わらない。年度替わりの4月にまた決意を新たにして、上半期が終わる頃にまた決意して、秋を迎えた頃にはなし崩しになって「来年こそは」で1年が終わる。決意の無駄打ちをしないで、自分を変えるにはどうしたらいいか。私が昔から使っている簡単な方法が3つある。時間配分を変えること。住む場所を変えること。そして付き合う人を変えることである。
私も「そうそう変わらない」ことを繰り返してました。副業を意図してアフィリエイトにチャレンジしては大した成果がでなくてすぐ諦める。そんなことの繰り返し。
「このままでは変われない」と決意して、 2018 年末を以て当時の東証一部上場企業を辞めました。
ここで大きな2回目の "Pivot" をします。
個人事業主になって「黄金の羽根」を理解した
長くなったので会社を辞めてからこの発信を行うまでの過程は別の機会に譲りますが、個人事業主として仕事すると橘玲氏の「黄金の羽根」を理解できるようになり、実践編としてマイクロ法人を立ち上げました。
そしてやってみると、欲が出ました。
黄金の羽根は、広げたほうが豊かな人生になる?
黄金の羽根は基本的に社会保険料や税を最適化するメソッドという認識です。最適には限界があります。
でも事業を伸ばせれば税金を払ったとしても手取りが大きくなるし、選択肢も広がって人生が豊かになるような気がします。
そんな経緯から、この先は法人を一本化して事業を伸ばしていくのが目標になりました。3回目の Pivot かもしれません。
黄金の羽根を拾うのではなく、羽根を広げるのです。
直感的ですが、大変そうですが豊かになるような気がします。
私の中では 豊か=選択+自在 です。
そのためにも、自分が何者で、何ができるかを言語化して発信する必要があると思いました。発信力がなかったらビジネスの世界に居ないも同然という認識になりました。これも小さな Pivot かも。
田中渓( @KeiTanaka_Radio ) さんの発信を追ってて
— 毛利 裕介|経営戦略を実行に結びつける、開発出身の実装型コンサルタント (@rabirgo) November 18, 2025
・「発信は人それぞれの形でデザインする(できる)もの」で
・「発信力/影響力のなさはリスク」という焦り
みたいな感情が大きくなってきた。
これから自分で作りに行こう。
(自然に使ってても変化は起きない)#kp897
まとめ
私は SIer サラリーマンとして伝統的大企業の開発現場を、
フリーランスとして中小企業、零細企業まで様々な IT/DX 現場を見て、経験して、自分なりの "Pivot" を行ってきました。
この note では、SIerサラリーマン → フリーランス → 経営者へと道を変えてきた過程で得た考え方や、実務のヒントを書いていこうと考えています。
それが私が発信できることです。
もしあなたの会社が IT や業務改善でつまずいていたり、「誰に相談すればいいか分からない」と感じているなら、気軽に問い合わせていただければと思います。
お問い合わせは note.com DM, x.com DM, 以下のコーポレートサイトからどうぞ。
例えば、こんな相談:
・「システム会社に頼んだけど、話が通じない」
・「DXって何から始めればいいの?」
・「開発チームと経営層の板挟みで困っている」
26年、色々な現場を見てきました。 気軽に問い合わせてください。
明日は、会社の理念や大切にしている価値観の話を書きます。
どうぞよろしくお願いします。
※アイキャッチは nano banana 3 に『「人生のWinding road」をテーマにして、イラストを作成してください』とお願いしてちょっとやり取りしてできたもの。差し替えるかも。
