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サラサラ食えないモクモク茶漬け



けぶ鮭や 泳ぐうつわの 出汁のおと

あまりにも有名な芭蕉の句だが、もちろん嘘である。嘘ではあるが、私の芭蕉のゆかりは深い──と言いたいところだが、ハッキリ言って縁もゆかりもハシシもない。すこし早口で言われたら、バショーとプジョーの区別もつくかどうか怪しいレベルだ。

不意に茶漬けが食べたくなったので、せっかくだから俳句でも詠んでみるかと思い立ったのが、冒頭の失敗作である。俳句に暗い私にも「俳句のやべー人」くらいの認識を松尾芭蕉に持っていたから、せめて看板くらい掲げれば格好が───つかなかった。
芭蕉を知らないくせに、こうして記事にするには故人に対してあまりに失礼だろう。芭蕉の略歴と、いくつかの句に目を通してみた。

古池や 蛙飛び込む 水の音

閑さや 岩にしみ入る 蝉の声

といった、あまりにも有名な句のほかに、ひときわ私の目をひくものがあった。

秋深き 隣は何を する人ぞ

たとえば、健康な人間のことばなら、生々しさすら漂いかねない響きだが、これは芭蕉が没する二週間前に詠んだものだ。たった17文字のことばに、死がちかい男の寂寥と、生のぬくもりへの憧憬が横溢していて、思わず目頭が熱くなった。彼はそれから2週間後に、

旅に病んで夢は枯野をかけ廻る

という辞世の句(諸説あるが)を残し、没したそうだ。
この句には、

「旅半ばで病に臥したが、枯野をかけ廻ることを私は夢みている」

あるいは、

「病床の夢のなか、私は枯野をかけ廻っていた」

といった意味が込められているのだろうか。芭蕉に訊くわけにもいかず、彼の意図するところは知る由もなかったが、とにかく胸にじんわり沁み入るような辞世の句である。

たとえば──自分の死を悟ったとき、最期に私はどんな言葉を残すだろう。

曇りなき 心の月を さき立てて
浮世の闇を 照らしてぞ行く

伊達政宗の、ビっと見栄を切るような言葉もかっこいいし、ケンシロウに敗れたラオウの、

我が生涯に 一片の悔いなし!!

裂帛れっぱくの言葉とともに拳を天に突き上げ、立ったまま果てるのも暑苦しくて良い。けれども私は、そういった雄々しく一本筋の通った生きかたはしてこなかったし、家庭を持ったいまでも──愚にもつかぬことばかり考えてはニタニタして過ごしている。だから、最期だけ厳しい顔をつくってデデーンと振る舞っても、家族や知人は失笑するにちがいない。飄々ひょうひょうと力を抜けた最期を迎えるほうが性に合っているのかもしれなかった。

ここで、私が好きな「脱力系辞世の句」をいくつか紹介しておく。

散る桜 残る桜も 散る桜

江戸時代の良寛という僧侶のものと言われる言葉だが、諸行無常をさらりと表現した乾いた魅力がある。振り返ることなく去っていくニヒルな背中が素敵だ。
次は、幕末から明治初期の画家である淡島椿岳が言ってのけた──

いままでは さまざまな事をしてみたが
死んでみるのはこれが初めて

という辞世の句だ。迫る死の足音もどこ吹く風、といった様子がたまらなく良いし、可愛らしくさえある。

この世をば どりゃおいとまに せん香の 
煙とともに 灰さようなら

自身の死にすら諧謔シャレっ気たっぷりだ。この粋でいなせな辞世の句を遺したのは、江戸後期の戯作者、十返舎一九である。

あの世にも 粋な年増としまが いるかしら

きわめつけは、落語家・三遊亭一朝の句である。落語家の矜持を感じる辞世の句だ。今際いまわきわにポロッとつぶやいて、そのまま旅立つ──そんな映画的な画を思い描いてしまうような、飄々とした去りかたである。

彼らは、ほんとうに死を恐れていなかったのかもしれないし、あるいは恐怖を韜晦とうかいする虚勢だったのかもしれなかった。けれども、恨みつらみや泣き言を遺して逝くよりも、「あの人らしい最期だったねぇ」と、笑い話になるくらいがいいなぁ──と、つくづく思うのだった。

──何も考えずに書き出したら、話があらぬ方向に行ってしまった。そもそも私は真冬でも下着パンイチ徘徊ウロウロできるほど元気だ。子供が成人するまではウッホウッホと働かなくてはならないので、サヨナラの話は茶漬けを食べてサラサラと流してしまおう。



さて、今日の茶漬けの主役は塩鮭だ。そして、茶漬けにつかう塩鮭は中辛〜辛口くらいがいい。私が子供のころは、塩鮭といえば塩っからいのが当たりまえだった。いまや塩鮭は甘口ばかりで、塩っぱいやつはスーパーの隅っこに追いやられてしまった。身体への良し悪しはさておいて、保存食の側面がつよい食べものは、おしなべて美味しい。とくに塩っぱい鮭は、おかずとしては言うまでもなく、茶漬けにおにぎりと──めっぽう米に合う。そして、煙との相性も抜群だ。

さっそく、辛口の塩鮭を燻製にしていく。スモークしながらローストする熱燻だ。我が家の熱燻は、煙漏れが少なくキッチンの使用も可能な土鍋燻製器だが、使わなくなったフライパンや鍋でも可能だ。

けむり前
けむり後

ふっくらと燻しあがった塩鮭の粗熱が取れたら、ほぐしながら骨を外していく。はずした皮も取っておこう。茶漬けに入れてもいいし、炙って酒のあてにも最高の珍味だ。

辛口の塩鮭に限っては、煎茶や番茶を注いだものが美味しいが、今回はすこし穏やかな中辛だったため、出汁茶漬けにしてみよう。

顆粒やパック出汁も美味しいが、昆布と干し椎茸を水にひと晩浸けただけで、びっくりするくらい魅力的な出汁が取れる。夜に仕込めば、朝のみそ汁や麺類に活躍してくれるのでオススメだ。

今回は、水出しのものをさらに火にかけ本枯節でうまみを加えた。淡めにはなるが、鰹節や煮干しだって水出しで構わない。

ペーパーでしっかりと濾したら、出汁500mlに対し、

薄口醤油小さじ1
塩ひとつまみ

を加えれば、茶漬け用の淡い出汁の完成だ。

茶漬けスペシャル2025
二日酔いの朝に、にゅうめんに注いでも◎


それにしても──茶漬けには「なにをしてもいい」という安心感がある。出汁でも茶でも、なんなら夏場は水を注いだっていい。私の知人には「温めた牛乳と砂糖」を米に注ぐ、という茶漬けモラルがたいへんにミルキーな男も存在する。

かつて再現した饅頭茶漬け

あの森鴎外で有名な饅頭に煎茶を注いだ「饅頭茶漬け」だってあるくらいだから、乗せる具材だって何でもありだ。日本人の〝八百万観やおよろずかん〟を体現した食文化、とすら言えるのかもしれなかった。
ちなみに、私が饅頭茶漬けを食べた所感は、「饅頭を米に乗せて茶を注いだ味」である。まんじゅうこわい。

さて──今日も自由な精神で、塩鮭と合うクリームチーズを散りばめ、アクセントに揚げ玉をほんの少し。アフロの大葉をあしらって、燻製鮭茶漬けの完成だ。

──失礼いたします...

と、二礼二拍手一礼してから、慎ましく出汁を注ぐ。

出汁が満ち、椀を手にしてそれを迎え入れた。
熱さを口のなかで転がすと、やがてじんわり──幸せが出現してくる。
スモーキーな塩鮭とたくみに溶けあう出汁。熱でくったりとしたクリームチーズ、出汁を吸った揚げ玉のうまみと相まって、たいへんにヤバヤバしい美味しさだ。食むほどに目尻が下がりそうになるが、世帯主の私は臍下丹田にフンヌと力をこめ──おごそかな顔はけっして崩さない。顔は冬の朝のように凛として、心は亜熱帯トロピカルなのである。

我ながら、何を言っているのかサッパリな、食えない食レポだ。食いものを扱うのに、食えない文章とは皮肉なものだが、あいにく私はこのスタイルを曲げる気が──

──食えない茶漬け文だけに、サラサラない。

つって。

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