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姓は誰のものか――伝統、制度、そして日本社会の現在地

「姓は誰のものか」──この根源的な問いに立ち戻らずして、夫婦別姓の議論は進まない。 制度、文化、そして社会の成熟度。変えるべきは何か、変えるべきではないのか。 変化を急がぬ立場から、今という時代を静かに見つめる、思索エッセイというあらたな試みです。


姓の本質に立ち戻る

夫婦別姓の議論が再燃している。法制化の是非をめぐって、SNSでは感情的な応酬も散見される。だが、制度の是非を語る前に、そもそも「姓とは何か」「それは誰のものなのか」という根源的な問いが、曖昧なまま放置されているように感じる。

姓の持ち主は誰か──個人か、家族か、国家か。

その問いに向き合わないまま、「自由」や「伝統」という言葉だけが独り歩きしているのが、いまの議論の実態ではないか。

制度が守ってきたものと、その代償

姓を家族が持つようになったのは、実のところ明治以降のことである。
それ以前、庶民が姓を名乗る文化は一般的ではなかった。
むしろ“姓を持つこと”自体が、近代国家における国民管理や家制度の道具として導入された制度的な構築物だった。

したがって、「夫婦同姓」は“日本の伝統”というより、“近代国家の秩序設計”として導入されたルールだと言える。
にもかかわらず、現代ではこれが“文化”として根付いており、「姓の一致=家族の絆」という感覚は、多くの日本人にとって自然なものとなっている。

この制度によって守られてきたものは確かにある。
家族のまとまり、社会的認知のしやすさ、子の姓に対する一貫性。
ときに、地域共同体の中で「姓」が個人のアイデンティティを超えて、“所属”や“関係性”の証として機能する場面もあった。

一方で、この制度のもとで不利益を被る人もいる。
結婚に際し、自らの姓を手放すことへの葛藤。職場での名前変更による混乱。実績や資格との紐づけが困難になる問題。とりわけ女性に偏る負担は、社会構造的な課題として見過ごせない。

「今ではない」と考える理由

では、選択的夫婦別姓を導入すべきか。 その問いに対して私は、慎重である。

理由はシンプルだ。「その時ではない」と考えるからだ。

制度はただのルールではない。制度は、それを支える社会の意識と成熟度があってこそ機能する。
たとえば、民法第750条では「夫婦は夫または妻の氏を称する」と定められており、夫婦同姓が原則とされている一方で、どちらの姓を選ぶかは合意に委ねられている。
つまり、現行制度下でも法的には選択の自由は存在する。
しかし、実際には社会的な力学──特に性別による役割期待──によって、女性側に改姓が偏るという実質的な拘束力が生じてしまっている。

また、「選択肢がある=自由」という発想には注意が必要だ。
自由な選択とは、選ばない自由も含め、どの選択肢も等しく尊重される土壌があってこそ成り立つ。

重複する内容になるが、実のところ、現在の制度は形式上は「選択的夫婦同姓制度」とも言える構造になっている。
どちらの姓を名乗るかは法律上は自由であり、制度上は選択肢が存在している。しかし、現実にはこの制度が機能しているとは言いがたい。圧倒的に女性が改姓を強いられる現状においては、“選択”が制度上の形式にとどまり、実質的な自由とはかけ離れている。だからこそ、まず取り組むべきは、この“選択的夫婦同姓制度”を実質的に機能させる努力である。なお、夫婦同姓を理由として事実婚を選択しているカップルが存在するという主張もある──つまり、姓の一致が婚姻の障壁になっているという見方である──が、それが統計的なエビデンスに基づいた事実として、制度改正の決定的な根拠たりうるかどうかは、慎重に検討する必要がある。そうした主張を含め、制度の在り方やその運用実態を社会がどれだけ受容し、共有の課題として認識できるか──その成熟度を見極めたうえで、制度改正の議論を深めていくことも決して遅くはない。

制度改正を考えるための「その時」とは

だから私は、以下のような社会的・構造的な転換点が訪れたときこそが、制度改正を考えるべき“その時”だと考えている。それぞれの条件について、少し具体的に補足しておきたい:

  1. 国家という枠組みが統治単位として機能しなくなったとき 
    例:国際的な人的移動が常態化し、国籍や法制度の壁が流動化することで、家族の単位が“国家に属する”という前提が崩れるような局面。

  2. 現行制度が制度的・実務的に限界を迎え、国が明確な対処不能状態に陥ったとき
    例:戸籍や公的書類における姓の取り扱いが混乱し、行政・法務・民間サービスにおける実務が広範に支障をきたす状況。

  3. 同世代婚姻率が大きく崩れ、家族という単位が制度的多数派でなくなったとき  
    例:婚姻を選択するカップルよりも事実婚や非婚を選ぶ個人の割合が多数派となり、家族法全体の設計そのものが再構築を迫られる局面。

  4. 日本的国家観が、家族制度以外の領域からも完全に瓦解したとき
    例:国家と個人の間を取り持っていた“中間共同体”──地域、企業、学校など──の機能が著しく低下し、個人と国家が直接向き合うしかない構造となったとき。人々が“家族的なるもの”を通じて社会を認識する感覚そのものが希薄になる状況。

このいずれかが顕在化したとき、ようやく制度変更の議論は「社会に根差した選択」として可能になる。現時点では、それらの条件はいまだ整っていないと私は考える。

問い続けるという姿勢

夫婦同姓は、変えてはならない“伝統”ではない。 だが、“今、変えるべき制度”でもない。

重要なのは、問い続けることそのものだ。 姓とは何か。誰のものなのか。

その問いを投げ続ける営みこそが、制度の正統性を支え、社会の成熟度を映す鏡になる。


#創作大賞2025 #エッセイ部門

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