味が決められない日は、自己肯定感が揺らいでいる日
オベントロジー学部|自己肯定感と味覚の講義
講義担当:みっちゃんプロフェッサー
オベントロジー学部では、料理をただの技術ではなく、その人の生き方や心の構造が映し出されるものとして研究しています。
今日は、「味が決められない日」のお話です。
■ 味が決められない日
台所に立つと、
味が決められない日があります。
塩をひとつまみ。もうひとつまみ。
味見をしても、
「あれ?」
もう一回。
「あれれ?」
気づけば五回くらい味見をしていて 笑)
最後には、
「もう、お前が決めてくれ。」
と、お鍋にお願いしたくなる日があります(笑)。
でも、それは料理が下手になったわけではありません。
センスがなくなったわけでもありません。
私は長く料理をしてきて思うのです。
味が決められない日は、自分の中心が少し揺れている日。
■ 味覚と自己肯定感は、とても近い
味を決めるということは、
実は、
「私は今日、この味でいい。」と決めることです。
私は今日、この味を美味しいと思う。
私は今日、この塩加減を信じる。
私は今日、この一皿を差し出す。
つまり、
今日の味を決めることは、今日の自分を肯定すること。
だから、自分への信頼が揺れる日は、味も一緒に揺れます。
環境の問題ではありません。
心の問題ですらありません。
もっと静かなところで、「私はこれでいい。」
という感覚が少しだけ見えにくくなっているだけなのです。
■ 味覚の土台は、幼い頃のまなざしで育つ
長く人の料理を見てきて、ひとつ感じていることがあります。
味覚の土台は、幼い頃に向けられた「まなざし」に育てられます。
「美味しいね。」
「あなたらしいね。」
「それでいいよ。」
そんな言葉を受け取りながら育った人は、
多少失敗しても、
「今日はこれでいこう。」と決められます。
反対に、どれだけ料理が上手でも、
「これで本当にいいのかな。」「これって本当に美味しいの?」
と、最後の最後で自分を疑ってしまう人がいます。
味覚は、技術よりも先に、
自分を信じる力の影響を受けるのかもしれません。
※この記事では便宜上「母」という言葉を使うことがありますが、父親や祖父母など、幼少期にもっとも大きな影響を与えた養育者を含む意味で書いています。ここでいう「母」とは、「子どもの世界を形づくる最初の大きな存在」の象徴としての表現です。
■ 味が決められない日は、責めなくていい
だから私は、
味が決まらない日があっても、もう自分を責めません。
「ああ、今日は味覚じゃなくて、自分への信頼が少し揺れている日なんだな。」そう思います。
そういう日は、料理より先に、自分を整える。
それだけで十分です。
■ 今日の味は、今日の私が決める
昨日の私でもない。
誰かの正解でもない。
料理本でもない。
今日の私が、「これが美味しい」と決める。
その一さじは、
料理の味を決めているようでいて、
本当は、今日という一日を生きている自分を、静かに肯定しているのかもしれません。
オベントロジー学部では、料理を通して見えてくる心の構造や、味覚と人生の不思議なつながりを、これからも研究レポートとして綴っていきます。
「なるほど」と思っていただけたら、ぜひフォローして、また講義を受けにいらしてください ♪
いいなと思ったら応援しよう!
⭐そっと心が軽くなったり、景色が澄んで見えたら…
お茶代として応援いただけると嬉しいです。
いただいたサポートは、どこかのカフェで新しい記事をしたためる時間へと、静かに循環させていただきます🍵✨️ありがとう