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ディア・ソムニア【第二話】

 希美花の癌は既に全身へと転移しており、ステージⅣ。余命は多く見積もって、あと三ヶ月だった。希美花の父は彼女が十七歳の時に他界しており、母もつい三年前に亡くなっている。二人とも癌だった。
 残された彼女にはもう、自分しかいない。なのにそんな彼女をも、狡猾なる病は亡き者として連れ去ろうとしていた。
 お互い二十五の時に結婚し、それからわずか四年。続くように癌の余命宣告を受け、二人で何度も対話を重ねた結果。天秤にかけるかのような不確実な生存率。天命に委ねることしか縋り付けない命。それならば、と。
 希美花は自己の生存について、自ら人為的に終えることを決断した。
「航ちゃんがいいなら……私はずっと、一緒にいたい」
「あなたの夢の中で、生き続けたい」
 愛する人の言葉。彼女の、心からの願い。
 そうして妻は脳の「提供者」に、夫である航平は「受植者じゅしょくしゃ」になる決心を踏んだ。
 希美花は二十九年というその短い生命を終了させ、そして、今年でちょうど三十になる航平の夢の中で、新たに生まれ変わる。
 いつまでも離れない両の手。共鳴する体温。愛の絆。
 その日、航平と希美花の二人は終始寄り添い合いながら。
 来たる手術の日に向け、安雲の説明を黙々と聴き続けた。
 

 2042年。AI技術の発達により、新たに誕生した脳移植――「夢現手術」
 脳と機械を直接接続し、思考や意図に基づく情報の伝達や操作を可能にするブレインマシーンインターフェース(BMI)が高度に発展したことにより、新たな脳移植が可能となった。その結果、ICチップ内に凝縮した脳の海馬を貯蔵させ、チップごとそのまま別の移植者の脳幹へと埋め込む「夢現手術」が誕生。この夢現手術を施された者は、その寿命が尽きるまで、愛する人と夢の中で共存することができる。
 開発当時、安雲が顧問を務める「近未来特化医学チーム」のこの発表は、大いに民衆を沸かせた。他方で、実現性と生死観の点において物議を醸したのも事実。だがそれでも、パートナーを持ちながらも余命宣告を受けている者、日々の生活が困難で日常的に苦労を強いられる重難病患者にとって、この夢現手術は「生きる」と同義、希望の光と同等の価値を有した。
 現実世界ではこれ以上、存在し続けることが叶わない。難しい。それでも愛する人と、離れ離れになりたくはない。そう、心から願う人々にとって。
「夢現」は新たなる人生の、選択肢の一つとなった。
 

 木漏れ日が差す病室に、並んだ二つのベッド。
「希美花。大丈夫か?」
 術日当日。患者衣を着た航平は囁くように言いつつ、隣にいる妻へと手を伸ばす。
「ええ。ありがとう、航ちゃん」
「私、すっごく嬉しいの。だってこれからは、元気な姿で航ちゃんと会えるから。だから悲しくはないわ」
 こけた頬。青白い唇。笑顔で語りながらも、彼女の癌は着々と歩みを進めていた。
「希美花さん。航平さん。それでは、準備ができましたので」
「では、まずは希美花さんから、参りましょうか」
「はい。お願いします」
 安雲と共に四名の看護師が現れ、希美花のベッドの四つ角に立ちストッパーを外す。
「希美花……」
「航ちゃん」
「キミ、カ……っ、っ」
「じゃあ、行ってくるね。航ちゃん」
「っ……っあ、あぁ……うん」
 これは別れではない。それでも……。
 生身としての彼女とは、今日が最後。航平は大粒の涙を流しながら、差し伸べられた希美花の手を強く握った。
「泣かないで航ちゃん。大丈夫だから。また、会えるから。だからね。次に航ちゃんと会った時には……温かい料理をいっぱい作って、おかえりって言うから」
 返答と共に、力無き力が返って来る。だけれど懸命で、優しくて。彼女の手は温かかった。
 ガラガラガラと、静謐で無機質な空間へと進んでいく車輪の音。希美花は最後まで笑顔のまま、手術室へと運ばれていった。
 提供者となる彼女の心臓は、これから終幕へと向かう。それでも妻は笑みを絶やさず、最後まで強かった。強くあり続けていた。
 だからもう、泣いてはいけない。夫として、笑顔で迎える覚悟でないと。航平はそっと天を仰ぎ、目元を拭った。
「では、航平さんも」
 およそ十五分後。看護師たちが再び入室し、ストッパーを解錠する。
 俺たちはこれから、一つになる。だから、涙はこれで最後にしよう。
 これは「別れ」ではなく、「再会」なのだから。
「はい。お願いします」
 航平は無用な雑念を雲散霧消させ、静かに目を瞑った。
 瞼の裏に映る、穏やかな表情。暗くはなかった。光だった。
 彷彿から、鮮明度を増す相好そうごう
 そこには愛する妻の破顔が、いつまでも咲き誇っていた。
 

 ◆◆◆

 
「ピッ、ピッ、ピッ、ピッ……」
 電子音が聞こえてきた。徐々に、徐々に。
 だがやがて、一定のリズムを刻み続けていたそれは、指先が無意識に動いたと同時に終わりを告げ、乱れ始める。速度が早まり、まるで「そろそろ」と叩き起こされているかのよう。
 頭が重たい。背中が熱い。そして何より、無性に喉が渇く。
「ん、ああ……」
 吐いた息が跳ね返る。酸素マスクの感触がした。
「あ、航平さん」
「航平さん、分かりますか?」
 瞼を開くと、霞がかった視界に薬品と日光が入り混じった独特な匂いがマスク越しから微かに伝わる。
 頭上に浮かぶ安雲の形相を捉えると、航平はかすれた声で「……はい」と返した。
「航平さん、良かった。手術は無事、成功しました。もう大丈夫ですよ」
 笑みを放ちながら、安雲と傍に立つ看護師が何度も頷いて見せる。瞬間航平のまどろみは解消され、術前時の意識と繋がった。
「っ、希美花……」
 ピピッ――。
 心中で零した妻の名に呼応するかのように、頭の中で微かに電子音が響いた、そんな気がした。
 段々と鮮明になっていく意識。頭には何重にも包帯が撒かれていた。そして内側の脳内にも、僅かだが重力を感じた。
 温かい熱と、ぬくもり。
 ――妻だ、希美花がいる。
 実感し、航平は水を得た魚のように目頭を激しく濡らした。
「航平さん。今日は四月二十日です。手術から、一週間が経過しています」
 枕元でこれまでの経過を語り始める安雲。夢現手術は無事に成功し、航平は術後から七日間のダウンタイムを経て、今日を迎えていた。
 夢現手術の提供者は一般的に、脳の移植を終えた後、残った体内の臓器がドナーとして利用される。けれど希美花の場合、心臓を含む全身に癌が転移しており、生命活動そのものを停止させる特効薬が投与された。
 けど、希美花はここに居る。
 俺の中で、確かに生きている。
 航平は穏やかに頬を綻ばせ、幸福を噛み締めた。

 それから二日後。無事に退院した航平はその夜、久方ぶりに自宅へと帰宅した。
 上司にはリフレッシュ休暇と偽り、事前に会社へと申告していた休暇も明日まで。体調は良いものの食欲は一切無く、航平はすぐにでも希美花に会いたい――その気持ちでいっぱいだった。
 時刻は気づけば午後九時。病院から処方された誘眠剤を飲用し、航平は即座にベッドの中へ。
 
「…………」
「…………」
「………ん」
「……ちゃん」
「航ちゃん。航ちゃん」
「…………」
「――キミ、カか?」
「ええ。そうよ。私よ」
 
「希美花よ」
 
 映し出されたのは自宅。そこには希美花がいた。
 今と同じ住まいではあるものの、雰囲気が明らかに違う。新品の家具が並び、ピカピカに光るフローリング。レイアウトも大幅に変わっている。
 それは、新婚当時の風景そのものだった。
 眼前を彩る、美しいシルエット。イイ匂いがする。奥のキッチンに向かうと、そこには橙色のエプロンを身に着けた妻が、希美花が立っていた。
 キッチン台には湯気を放ち、お皿の上に鮮やかに盛られた酢豚が見える。美しい彩色。航平の大好物だった。とろみがかった豚肉と野菜に加え、パイナップルがたくさん添えられている。世間の大多数と異なり、航平も希美花もお互いパイン入りが好きだった。加えて先程からぐつぐつと音をたて、香りを放ち続けている味噌汁。忘れかけていた懐かしさが、航平の鼻腔を優しく刺激した。
「おかえり、航ちゃん」
「もう。夜ごはん摂らないなんて。ちゃんと食べないとダメじゃない」
「もうすぐでできるから、座って待っててね」
 飲まず食わずで寝床へと着いた航平を心配してか、言いつつも穏やかな表情を見せる希美花。血色は良く、手足を自由に動かしながらテキパキと支度をしている。
 そこには、病室で見た晩年の彼女はもういなかった。
「希美花っ!」
「あっ。航ちゃんったらもう、フフッ」
 強く、強く。支度中でもなりふり構わず、航平は希美花を抱きしめた。回した航平の手に、みずみずしく、しっとりとした手の平が重なる。コンロの火が止まった。
 希美花はゆっくりと振り返り、航平と向かい合う。二人は抱擁の中、口づけを交わした。
「航ちゃんと。こうしてまた、会えた」
「ああ」
「嬉しい……嬉しいわ」
「ああ」
 何度も何度も。妻の放つその全てを、優しく受け止める。
「これからは、ずっと一緒だ」
「ええ」
「愛してる、航ちゃん」
 再び唇を重ねる。止まってしまった時計の針を巻き戻し、再び進めるように。二人は腫れてしまうほどに強く、甘く、愛を重ね続けた。
 幸せだった。求めていた世界だった。
 第二の新婚生活が始まったと、感涙する航平。一方の希美花も、笑顔で涙していた。

 夢であって。だけど、夢じゃない。
 夢中ここは愛する人との、二人だけの楽園だった。


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