ディア・ソムニア【最終話】
「なあ瑠璃。本当にやめるのか」
「うん」
「そっか」
「なあ瑠璃。まだ俺に、悪いって思ってる?」
「それは、もちろんだよ」
「じゃあ瑠璃が辞めるその日まで、お願いがあるんだけど」
「お願い?」
「ああ。夕飯また、ご馳走になってもいいか」
子どもじみた、卑怯な懇願だった。それでも航平は瑠璃との電話の中で、再び通いの再開を提案すると、瑠璃は戸惑いつつも「うん」と肯定してくれた。
そうして迎えた退社後、航平は久しぶりに瑠璃の自宅へとあがる。居間に入るとまもなくして、仄かな夕食の香りが漂ってきた。
「そういえばこの前着て帰ったスウェット、間違って捨ててしまって……。ゴメン、返さないといけなかったのに」
「いいよ別に。何ならずっと、航くんの家で使ってもらっていいって思ってたから」
「だから新しいの、今度はお揃いのとか買い足すのはどうかな」
直後、食事を盛る瑠璃の手がピタリと止まった。
少々踏み込み過ぎたの発言かもしれない。それでも航平は、自分の気持ちに嘘は尽きたくないと思った。
「航くん……それってどういうい、」
航平は立ち上がり、瑠璃の腕を強く引いた。
「瑠璃」
ただ、彼女の名を呼ぶ。手繰り寄せたその身は華奢で、温かかった。
職場は離れても仕方がない。けれどもずっと、瑠璃とは一緒に居たい。そう思った。
「……航くん……やっぱり、あたし」
揺れ、迷い、不安定ながらも絡まる細い腕。詰め寄る航平の誘いを、瑠璃はゆっくりと優しく受け入れた。
「あたし、航くんに迷惑ばっかかけてる」
「瑠璃は何も悪くない。俺と同じで、じつは不器用なだけ」
「でも……」
囁くように、瑠璃は何かを発した。けれどわからない。何も聞き取れなかった。彼女の唇は塞がれていた。
塞いでいたのは、航平の唇だった。重なった皮膚と皮膚の間に、透明な水膜が広がる。その膜を打ち破るように、彼女の唇に圧力と熱が宿った。言葉はもう何もいらなかった。
そこには確かな、熱があった。温度があった。
その夜航平は瑠璃と互いの感情を分かち合うも、泊まることはしなかった。それにはまだ、決着しないといけないことが残っている。
自分は悪だ。最低だ。
傷つけたのも自分。全部わかっている。
ベッドに沈みこみ、航平は目を閉じた。
「――希美花」
現れた夢中。だが妻は一切振り向くこともせず、ソファーに顔を埋めるようにして俯いていた。
「なあ、希美花」
「じつは、希美花に話したいことがあって」
「や」
「えっ」
「いやっ!」
突如希美花が、声を荒げた。
「聴いてくれ希美花。俺は」
「聴きたくない」
「聴きたくない聴きたくない聴きたくない聴きたくない!」
希美花は大層取り乱し、ローテーブルを激しく叩いた。
妻は何もかも、もうわかっていた。だからこそ、ウソは余計に傷つけることになる。どう繕ったって意味が無い。だって彼女は、自分の中にいるのだから。
「こんなんなら……普通に死んじゃえばよかった」
「希美花――すまない。でもこのままの感情で生き続けたって、幸せな生活なんて」
「私は!」
航平の言葉を塞ぎ、希美花が声をさらに荒げた。
「私は……あなたの中でしか生きられないの! あなたの夢の中でしか。居場所が無いのよ。一緒に写真を撮って、アルバムも作れない。思い出を見返せない。直接、生身の体温を感じたくても叶わない」
「それだけの覚悟があって、決めたんじゃないの! どうなのよ!」
「……ゴメン」
「ああ。希美花は何も間違ってはいない。希美花の言う通りだ。確かにそう誓った。――けど」
全てを受け止めながら。航平も口火を切るも、希美花は号泣していた。「どうして……」
「どうしてそんな事言うの? 私を、一人ぼっちにするの?」
「そうじゃない。俺は希美花と。できるならずっと」
言いながらも、航平は同時に公園の景色を思い浮かべていた。
「でも俺はこの先、老いていく。でも、希美花は年をとらない。ずっとこのままなんて、無理だったんだよ」
体のいい言い訳だって、自分勝手なんだって、言いながら十二分に自覚していた。わかっていた。
「聴きたくない……もう」
「本当に……ゴメン」
「別れよう」なんて、言葉は言えなかった。望ましくも無かった。希美花は航平の中にいる。だからが故、その夜航平は泣きじゃくる希美花に向け、ひたすら「すまない」と、言い続ける事しかできなかった。
◆◆◆
ある日の深夜。
場所は都内。高層マンションの一室に、インターホンの音が響き渡る。「すいません急に」
「ああ、正直驚きましたよ。こんな夜遅くに。どうしても話があるって」
「すいません」
「それで、お話とは? おそらく摘出手術の件ですよね」
ええ、と会釈を返しながら、航ヘイは唇の端を歪ませ微笑した。
先日依頼した夢現手術の摘出手術。移植したチップを取り除くという施術は移植とはまた別の難しさを要し、綿密な事前計画が必要との事で、施術は数ヶ月先との連絡を受けていた。――が。
まだ先のこととはいえ、悠長にしていてはならない。
航ヘイはすぐにでも話したいことがあるとしつこく連絡を入れ、安雲の住む高層マンションへと足を運んでいた。
だが意外にも短時間に終わり。
話を終えた航ヘイは颯爽とその場を後にした。
◆◆◆
「大丈夫か? 家まで送るから」
「うん、ありがと」
「ごめんね航くん、ちょっと飲みすぎちゃった」
この日は自宅ではなくレストラン、そして個室居酒屋と、航平と瑠璃は外食をハシゴした。
仕事のこと、二人のこと、これからのこと。話は尽きず、高校時代に戻ったようで、だけれど話の中身と外見は大人に成長している。それが何だか不思議で懐かしくて、時間は足りなかった。
今月末で瑠璃は退職する。けれど二人の関係はこの先も続いていく。この紛れもない事実に二人は歓喜し、その夜はアルコールが進んだ。
瑠璃のマンション前に到着すると、肩に瑠璃の腕を回し、部屋まで。玄関に入るとすぐさま、靴を脱ごうとして瑠璃が転びそうになる。慌てて両腕をその身に回すと、心音が高鳴った。その拍子に、眼前に瑠璃の艶やかなまつげが閃く。至近距離で、瑠璃の息を吸う音がした。
「ごめん。じゃあ、今日は俺――」
だが間を空けず、手を離し体勢を立て直そうとする航平が寄り戻された。と同時に、彼女の髪が頬にピタリと張り付いた。
アルコールを上回る、甘いコロンの匂い。首に回された細い腕。そして、重なる唇。
縋りつくように抱き締められる形で、航平は瑠璃とキスをした。一瞬何が起きたのか。自分自身も酒が入っているせいもあり、頭が整理できない。
そこには人肌の、心地良い温かさがあった。
「航……くん」
「好き」
長い接吻を終わると、瑠璃が僅かに距離を開け、航平を見つめた。
「瑠璃、完全に酔っぱらってる。ほら、今日はもう寝たほうがいい」
「ううん。航くんあたし、ちゃんと意識あるよ。本心だよ」
「ねえ航くん。あたしが航くんの、悲しみを埋めてあげたい。そしてずっと傍に居たい。あの頃はお互い子どもだったから、一時の関係で終わってしまったけど。だからもう一度、航くんと」
何を言ってと、微笑んで見せる。既に交際関係であるというのに、まだどこか不安に思っているのだろうかと、航平は愛おしさを覚えた。
それからの言葉を遮り、航平は瑠璃を腕の中に閉じ込める。
航平はこの日、瑠璃の自宅で一夜を過ごした。
翌日。どうにか酔いも冷めた休日の朝、キッチンで朝食を準備してくれている瑠璃を横目に、何気なくニュースを見ていた航平は絶句した。
報道局からの速報によると、一昨日の夜、高層マンションの自宅で頭から血を流して死亡している男性が発見されたとのこと。その被害者の名前と顔写真が流れた瞬間、航平の血の気が瞬時にして急降下した。
被害者は安雲本人だった。警察の調べによると、部屋を荒らされた形跡はなく、おそらくは顔見知りの何者かに殺害されたとのこと。ドライバーのようなモノで頭部を数十か所刺され、怨恨による犯行との見立てもなされていた。
映像を見ながら、航平はあの日見たスウェットを思い出した。あの日瑠璃が貸してくれたスウェットが知らぬ間にビリビリに引き裂かれ、ゴミ捨て場に放り出されていたこと。またその日以降、自宅の食器類や鏡がまるで誰かが暴れたかのように割れていたこと。
まさか。
前々から自覚はあったが、器物破損から「殺人」にまで事象が飛躍したことに、航平は寒気を覚え震えていた。
「できたよ」
「悪い瑠璃。ちょっと急用、思い出して」
「帰るわ。また連絡するからさ」
昨晩を経て既に信頼を委ねるようになった瑠璃は、一切の嫌悪を見せることなく首肯する。航平は急いで玄関を後にした。
自宅へ戻るとすぐ、航平はキッチン下の収納棚を開いた。そこには食材関係の備品の他に、僅かだが工具類も置いてある。戸棚の奥にしまってある工具ボックスを掴み引き出すと、手前に貯蔵してあった米櫃が倒れ、中のコメが床上に散乱した。けれど気にしてなどいられなかった。脂汗を纏った指先が震えている。ボックスの一段目、二段目と中をまさぐると、航平は言葉にならない声をあげた。見慣れない液体の乾いた色。紅色の光沢がギラギラと双眸を刺激する。そこにはうっすらと血痕のついた、プラスドライバーが入っていた。
誰が、安雲に手をかけたのか。
信じたくなかった。現実だと思いたくなかった。
ニュースでは、黒のパーカーにフードを羽織った男がマンションのロビーに出入りしているのが監視カメラで確認されたと報道がなされていた。
俺じゃない。
違う。
ちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがう!
航平は視界が定まらず、狂ったように咆哮を繰り返した。
あの日からずっと、夢は見ていない。見ることは無くなっていた。
そして妻は、希美花は現れることもなかった。きっとこのままフェードアウトのように、妻との時間は思い出として、昇華されていく。いつしかそう、信じ込んでいる自分がいたことに、そこに生まれた油断に、航平は自らを憂い涙が溢れた。
報い。
これはきっと、罰。
錯乱しながらも航平は、もう「会ってはならない」と自覚した。
外出も、仕事も、彼女にも――もう、何もかも。
唯一、ただそれだけの思考をもって、航平は憔悴しながらも部屋を漁った。そして押入れから取り出したこたつコードを見つけ、急いで自らの手足を縛る。
頭がズキズキと痛む。希美花か。希美花なのか。
その鈍痛は怒りからなのか、復讐心からなのか。解はわからない。
航平は知りたかった。今すぐ希美花に会って、話したかった。会うべきだと思った。
内出血が起きてもおかしくないほどに強力に自らの両手両足を縛り上げると、これまでの焦燥から来る疲労感がどっと押し寄せる。
航平は床の上に倒れ込み、そのまま目を閉じた。
◆◆◆
「もしもし」
「ルリ? 今、平気か?」
「うん。どうしたの?」
「ルリに、どうしても会いたくなって。今朝は急に飛び出して悪かった」「ううん。航くん――待ってる」
通話を終えてまもなく、航ヘイはインターホンを押す。扉を開け出迎えた瑠璃の姿はどこか、狙ったかのような薄手のサテン地を身に纏っており、航ヘイは唇の端を歪めた。
肩越しに伝う熱。少し飲んでいるのか。僅かなアルコールと融合し、いつもの甘い香りに妖艶さが内包していた。
抱擁を重ねた後、航ヘイはそのまま抱き上げるようにして、ベッドへと向かった。横に寝かせた瑠璃は全てを受け入れたような体勢で、ただじっと、嬉しそうに妖艶な瞳を浮かべている。航ヘイは身を寄せつつ、ベッド脇に置かれていたペットボトルを掴み取った。
一口、二口と。瑠璃は微笑みながら、嬉しそうに航平の口から与えられたそれを含み飲み干した。
まどろんだ双眸を彩る睫毛が揺れ、きらめく。航平は腕を回し、身に着けていた全ての衣類をはぎ取った。
とろけた瞳を、真っ直ぐな眼差しで上からなぞる。微笑みが甲高い声音と共に咲き誇った。
航ヘイはじらしながら、指を這わせる。瑠璃は航平の皮膚を無条件に受け入れた。
「航くん」
「ルリ」
二人はその身を重ねた。航ヘイは我を忘れ、ただまっすぐに求めた。
まぎれもなく。そこには、実体が存在していた。
「ルリ。俺のこと、好きか?」
「航くん。すき。大好き」
航ヘイは歓喜し、力を込めた。
「好きか?」
「すき」
「愛してるか?」
「あい……してる」
目の前の瑠璃が嬉しさのあまり、咳き込む。
その一咳の時。
時が止まった、そんな感覚を覚えた。
――あれ。
ふと、意識が飛んだ。
――俺は今、どこにいる。何をしている。
――黒々とした砂嵐が脳裏に流れ、感覚がゆらいだ。
行為は続いていた。
その間ずっと、瑠璃は微笑んでいた。
虚ろな瞳。紅潮した頬。
どうして瑠璃は苦しそうなのか。口をパクパクさせ、繰り返し何を言おうとしているのか。
思案しながらも、対する航ヘイは一定のリズムを崩さなかった。
航ヘイは笑った。笑うと、同じように瑠璃も笑ってくれた。
だから一層、航ヘイは力を込めた。全身全霊で、瑠璃へと注いだ。
徐々に青白くなる顔面。それでもずっと、瑠璃は笑ってくれた。微笑み続けていた。
「航……くん」
やがて、その表情はピタリと止まった。
同時に航ヘイは絶頂を迎え、果てた。だが航ヘイよりも十秒ほど先に、瑠璃は果てていた。
噛み締めるような表情で瞑目し佇む瑠璃を前に、航ヘイは悦を覚えた。「航ちゃん――これで、いいんだよね」
二人は寄り添い合い、そのまま深い眠りについた。
夜明け前。目覚めると、航平はふかふかのベッドの中にいた。場所は瑠璃の部屋、寝室だった。
隣には生まれたままの姿の、瑠璃が眠っていた。航平も瑠璃も、服を着ていなかった。
何も覚えていなかった。カーテンの隙間から差し込んだ僅かなオレンジの陽光が瑠璃の額に当たり、避けるように彼女の頭を自らの肩に寄せる。とその時、航平はカッと目を見開いた。
蛇のようなうねり、湾曲した傷跡。
瑠璃の首一帯に、赤紫色の太いアザがあった。
航平は呼びかけた。瑠璃の名を何度も呼び、叫んだ。
何度も呼びながら。嗚咽のように、無条件に涙がこぼれていた。
無力だった。どれだけ巡らしても、何も覚えていなかった。
やがて一筋の光のようにして、唯一自分が昨日、自らの身体を拘束していたことを思い出した。けれど無駄だった。狡猾と化したもう一人の自分は、こうしてこの場に辿り着いていた。
最低限の衣類を纏い、航平は慌てて家を飛び出した。住宅街に街道と、夜明け前の道をひた走る。裸足だった。けれど何も感じなかった。外には誰もいなかった。
自宅に着くと、真っ先に薬を探した。手術を受けた際にもらっていた誘眠剤が、まだ残っているはず。
航平はそのありったけを口に含み、テーブルに置きっぱなしだった飲みかけの水で体内に流し込んだ。
「航ちゃん」
「希美花か。希美花なのか」
「航ちゃん」
「希美花なんだな! そうなんだな!」
「航ちゃん、会いたかった」
「夢……だよな?」
「そうよ。ここは夢中よ。だって、私がいるんだもの」
「そっか。そうだよな」
だが、破顔を咲かす希美花の両腕は真っ赤な血に塗れていた。
……もう、わかった。もういい。
目覚めたら、警察に行こう。それで洗いざらい、全てを話すから。
俺は妻を裏切った。全ての元凶は自分だ。
だからその代償は、罪を償うことで――。
「ねえ航ちゃん。散歩しない? 私、外の空気が吸いたい。ここの所ずっと、家の中で閉じ籠ってたから」
「ああ……そうだな」
そうして航平は、外に出た。明け方の交通音が、徐々に大きくなっている。
朝日を見たいと望む希美花のため、航平は歩道橋を駆け上がる。
ふわり。最後の夜風が吹いた。熱は無く、冷たい。
航平は笑った。
――あれ。
――今、何をしているんだっけ。
意識が朦朧としていた。航平は今、自分がどこに居て、何をしているのかはわからなかった。
けれど虚ろながら、希美花の声がしたような気がした。
再び、意識が揺らぐ。
ぶーんぶーんぶーん。
度重なるクラクションの轟音に、航平は漸く目を覚ました。身体が浮いていた。
「ねえ、航ちゃん」
「私ね。航ちゃんが刑務所に行くなんて、嫌」
「だからね、航ちゃんと一緒に」
航平は無意識に、そう口ずさんでいた。
――ぐちゃ。
瞬間、湿った肉体がアスファルトに横たわった。
夜明け前の大通り、運送トラックが次々と通り過ぎる。エンジン音がこだまする中、肉体がアスファルトと同化し、急ブレーキでタイヤがこすれる音が響いた。
徐々に空に浮かび上がるオレンジと地面にへばりついた紅が共鳴し、一帯を薄暗く照らしている。肉体からはドロドロした液体が流れ続けていた。
走行音、金属音、サイレンの音が入り乱れ、増殖する。
その音に交じり、何か微細な精密機器が潰れたような、粉々に砕け散るような音が、プチッっと肉体の上部で音を奏でた。
◆◆◆
2046年。医学界において、世紀の大発明とも称された「夢現手術」は。
発表からわずか四年で、法律により施術禁止の制定がなされた。
経緯としては、「夢現手術」を受けた受植者の半数以上が、重度の夢遊病とみられる症状を発病。
そして何らかの原因で、自死に至るという症例が多発したという。
「航ちゃん」
「私たちは、いつまでも」
「ずっと一緒よ」
了
