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評価に呑まれないための、静かな自己理解

最初に

今回の記事は以前に公開したこの記事の気付きを元に書いています。

最初に公開した時は個人メモの内容を本当にそのまま出したので。

全く読んでもらえないかもとドキドキしていました。

しかし思ったより多くの人に読んでもらえて。

そして個人的には世界の本質だと感じている内容なので。

改めて今の自分の言葉で表現し直してみます。



核心の自分には、誰も触れられないのかもしれない。

そんなことを考えた日から。

他人の評価の重さが、少しだけ変わった。

世界は、目や耳を通って入ってくる。

その時点で、もう解釈が始まっている。

言葉にした瞬間にも、世界は小さな物語になる。

だとすれば。

「見えているもの」は、いつもそのままではない。

この構造は、世界だけではなく。

自分を見る時にも、同じように働いている。

自分が思う自分も。

他人が見る自分も。

どちらも、核心そのものではなく。

輪郭としての像なのだろう。

そう思えると。

きつい言葉に触れた時の痛みが、少し和らぐ。

届いているのは、像の表面であって。

核心そのものではないと感じられるからである。


ただ。

この見方は、都合のいい逃げ道でもない。

「愛された」という実感さえ。

核心の証明としては、握れなくなるからである。

それでも。

誰かが丁寧に関わってくれた事実は残る。

その事実は、今日を生きるあたたかさとして受け取れる。


身体についても、同じように思う。

身体は、世界に触れるための大切な道具である。

傷つく日もある。

調子が崩れる日もある。

それは「自分が壊れた」というより。

道具の状態が変わった、と見ることもできる。

だからこそ。

手入れをする。

休ませる。

必要なら守る。

その繰り返しでいいのだと思う。

性格もまた。

固定した正体というより、使い方のある特性なのかもしれない。

内向的であること。

慎重であること。

考えすぎること。

それらは欠点として閉じることもできるし。

別の景色を読むための感度として、育てることもできる。


最近、同じ問いに戻ってきた感覚があった。

前にも考えたはずのこと。

また同じ場所に立っているように見えた。

でも、前とは少し違っていた。

前より、慌てずに見られる。

前より、人にやさしく触れられる。

前より、自分を責める時間が短い。

同じ場所に戻ったのではなく。

同じ場所を、別の高さから見ていたのかもしれない。

まっすぐ進む実感がない日もある。

それでも、静かに積み上がっているものはある。

その積み上がりが。

明日を怖がりすぎないための、細い灯りになる。

今日の自分は、世界のすべてを理解してはいない。

それで十分である。

見える範囲を丁寧に生きる。

触れられるものを大切に扱う。

そして、まだ言葉にならない核心を。

急いで証明しようとしない。

そのくらいの歩幅で。

もう一周してみてもいいのかもしれない。


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