着差は“人”が付けるもの〜極僅差と同着のあいだ〜
まずはじめに、本稿は特定のレース結果、個人、団体を批判する意図は無いことをお断りしておきます。
そのような理解・解釈を行うことの無きようお願いいたします。
1.2026年宝塚記念、決着!
クロワデュノールの春古馬三冠がかかったこのレース、結果はメイショウタバルが2連覇を果たし、クロワデュノールはクビ差の2着と、惜しくも日本競馬史上初の春古馬三冠は成りませんでした。
本稿を書くにあたっては、本レースの結果が出るのを待たねばなりませんでした。その結果次第で、以下の書き方が変わるからです。
2.2026年天皇賞(春)の順位判定
ここで時を少し戻します。クロワデュノールの春古馬三冠チャレンジである天皇賞(春)。クロワデュノールは既に大阪杯を勝っています。
結果はクロワデュノールが“約2センチ差”のハナ差でヴェルテンベルクに先着し1着。
これが判定結果であり、事実となります。
ですが、この判定には、10分以上の長い時間がかけられました。
それほどの接戦であったことは、私もレースを観ていた(現地ではないですが)ので分かります。
一方で、時間の経過と共に、「これは同着ではなく、クロワデュノールの単独1着かな」との予想を強め、予想通りの判定結果となりました。そう、「やっぱりな」と思ったのです。
3.判定結果から観えるもの
まず前提として、順位決定は、最終的に「判定者」という人間が行うものです。
計測機器の測定精度がいかに高くとも、機器が順位を決めているわけではありません。
つまり、機器が着差を正確に測定できているかどうかは順位の決定的要素ではないのです。
写真判定における写真撮影技術の高さが、順位の正当性を保証するわけではないことが解るでしょう。
では天皇賞(春)の判定に戻ります。
考えられるのは、その高精度な撮影技術をもってしても、明確な着差を判別することが難しかったのではという状況です。
ここで判定者に採り得る判断はほぼ2つ。
①それでも着差を決める
②同着とする
となります。
日本競馬史上同着は前例が存在します。
よって、②にできない理由は無いはずです。
しかし判定結果は①が選択されました。
判定時間の長さから考えると、突如明確な差異が見つかって着差が決まったとは考え難い。
ここで判定に影響を及ぼすと考えられる要素として、
「極僅差の順位判定における、状況・環境が与える認知への影響」
というものが挙げられます。
まず原則として、
「1着は基本的に1頭」
というものが判定者にはあるのではないかと考えます。
これは、
「1着を1頭に決めようとする方向に認知バイアスが働く可能性」
を示唆します。
次に、先の2頭のバックボーンが同じではないことです。
片や日本競馬史上初の春古馬三冠へ挑戦中の人気馬です。
“決して恣意的にではなく”、無意識にクロワデュノール先着の要素を見出してしまっても不思議ではないということです。
なぜなら、人間は、
「見たいものを見出す存在」
だからです。
もう少し踏み込むと、クロワデュノール先着の結論を出すこと自体には、それほど長くの時間はかからなかったであろうとみています。
では一体何に時間をかけたのか?それは、
「対外的な説明内容」
の方だとみています。
公式発表は「約2センチ」の僅差。
これに至るまでの時間が、あの長い写真判定の本質だと考えられるのです。
そしてこの「約」「2センチ」には、それぞれに熟慮されたであろうと思われる意味が込められていると考えます。
まず、「約」ですが、これは差異確定の難しさを強調するために付けられた接頭語です。
2センチ、だけでも良かったはずなのに、あえて「約」を付けた。
それほどの接戦であったことを強調するために付けられたものだと考えています。
次に「2センチ」。
接頭語に「約」が付いている以上、実際に何センチであったかは最早あまり問題にはなりません。
ではなぜ「1ミリ」や「1センチ」ではなかったのか?
それは、
「観客等が明確に着差があった(同着にすべきでは?と思われない)と納得できる最小着差」
として、「2センチ」という着差を設定したと考えると、非常に考え抜かれた着差であると見ることができるのです。
まとめると、あの着差は観測された着差ではなく、
「認知によって見出された着差」
である可能性がある、ということです。
断っておきますが、
「“恣意的に”見出された着差ではない」
ので、その点は誤解のないように願います。
あくまでも想像の域を出ない仮説ではありますが、
「極限状態で為される人間の判断」
の一例として、こう考えると、起きた現象の理解としては整合的だな、と考えています。
4.2026年安田記念の順位判定
上記ひとまずの結論を得て、上記のことは忘れていました。
天皇賞(春)から約1月後の安田記念、結果はシックスペンスの1着。
そしてなんと、ワールズエンドとガイアフォースが2着同着。
これを見た時の私の第一感は、
「おいおいどういうことだ?」
というものでした。
同着そのものには前例があることから、そのこと自体は気にならなかったのですが、判定時間の短さが気になりました。
写真判定になったのは天皇賞(春)と同様だったのですが、判定結果の発表タイミングが、2着同着の方が明らかに早いと感じました。
あくまでも私の感覚になりますが、着差を決めるよりも、同着の判断の方が難しいはずです。
「同じ」であることを判断し、決定するには、着差を決めることと、求められる条件が大きく異なるからです。
そう、
「先の天皇賞(春)の判定と同等以上の時間がかからないと道理が合わない」
のです。
でも実際は私の感覚と逆のことが起きた。
で、これは一体何を意味するんだ?となったわけです。
考えられることとしては、
(1)1着と2着とでは、着差決定における心理的負荷が異なる
(2)1着と2着(以降)では、着差決定基準が異なる
あたりでしょうか。
まず(1)をみてみましょう。
1着かそうでないかには、天と地ほどの差があると言って良いでしょう。
その差こそが求められるところもあるからです。
よって1着同着にはし難い状況になりやすいのは想像に難くありません。
これが2着同着となると話は大きく変わります。
2着の意味は1着に比べてさほど大きなものではないからです。
よって2着同着はむしろ公平性・公正性を示すためには成立させやすいものと見ることが可能です。
続いて(2)。
1着判定のみ特別な基準があるのだとしたら、これはスポーツとしてもギャンブルとしても、ちょっと問題になりかねないのでは、と思えます。
興行、としてのみ見るのならギリギリ認められそうな話ではありますが、それにしてもあまり考えたくない理由です。
しかしながら、そういうルールなんだと言われてしまえば、1着の持つ重みや大きさを考えると、共感はできませんが一応の理解はできるかな、とは思います。
5.これは競馬に限った話ではない
ここまでくれば、競馬のレースの結果判定を事例にしているだけで、本稿が、
「人間が判定を行う競技全般」
を射程に入れた話であることが解ると思います。
人間は世界を直接観測していません。
目や耳、鼻、皮膚といった感覚器が捉えた情報を脳で再構成して認知、認識しているに過ぎません。
その意味では、誰一人同じ世界を観ていません。
この前提に立てば、着差は観測されるものではなく、「見出されるもの」であるとする方が自然だと考えます。
ただ、着差が大きい場合には、誤認の余地は相対的に小さくなるので、特段認知の問題が前景化することはありません。
ですが、着差が極僅差、あるいは本当にゼロだった場合はどうなるでしょうか?
今度は認知による判定バイアスが前景化します。
人間は環境や状況、価値観などの影響を完全排除できないからです。
これが、「人間による差異判定の限界」ということもできるでしょう。
なので、私は恣意的なものでない限り、「見出された」「作られた」着差を批判するものではありません。
人間が行う判定、とはどういう性質のものか、ということは理解しておいた方が良いのでは?と思うだけです。
6.おわりに
斯様なわけで、私としては、正直なところ、
「天皇賞(春)は1着同着でも良かったのでは?」
と考えています。
同着でも決して公平な結果とはなりません。
それでも、最も疑義の少ない、納得性の高い、バランスの良い判定結果は同着であっただろうと考えるからです。
そして、この延長上として、
「僅差着差と同着の判断を分けているものは何か?」
ということは今もなおとても気になるところです。
なお、クロワデュノール自身に対して私が特に思うところはありません。
彼は常にただ死力を尽くし走っただけだからです。
そのことには敬意を表します。
ただ、その走りに意味付けを行った人間側の行為については、ちょっとどうなのかな?という思いがあるだけです。
