福島日帰り大ゴッホ展
ゴッホが来る。パスポートなしで、飛行機に乗らずにゴッホが見られる。
ということで、ゴッホ見に行きました。
東京にもくるけど、福島の方が見やすいかなというのと、ちょっとどこかへ行きたいという気持ちから、前売り券をとってしまった。
アプリで買ったチケットは4/10までってなってるけど、館のアナウンスは3/31まで…!
えっ!
しかも平日限定…!
となって、いろいろ予定を考え、結局日帰り新幹線という贅沢な美術館巡りになってしまった。
激混み福島県立美術館
東京より混んでないんじゃないかなーという浅い考えは、事前情報の時点で粉々に砕かれました。
大変な盛況ぶり。
まあ、阿修羅像が東京来た時ほどではないとか、台湾の故宮博物院の白菜が東京に来た時ほどではないと思い直して、電車に乗る。

新幹線自由席、往復で取るとかなりの金額。前売り券で浮いた200円の90倍を払う。
福島県立美術館は、若冲コレクション展で来たけど、その頃はまだ庭の芝生の一部にロープが貼られて「除染中立ち入り禁止」と書かれていた。
一言では言えないあれこれがあった。
今回のゴッホも、阪神淡路大震災と東日本大震災を巡り、東京にくる。
そういう意図のゴッホ。



もう街を上げての大騒ぎで、福島駅も全面ゴッホ。
教科書でも見る、いろんな雑貨の模様にもなっていて、見ただけでゴッホ作品とわかるとなんか分かった人っぽくなれる、有名な有名な、そして信じられないレベルの高額絵画のスター!
しかもそれだけ有名なのに、一生見るチャンスなんかないものが来たのだから。
ゴッホは有名過ぎて、もはや実体が見えない。
ゴッホという概念みたいになってる。
だから、やっぱり見てみたくなったのです。
あの「夜のカフェテラス」を見れる。
大ゴッホ展は平日の方が混んでるらしく、入り口で折り返しの長蛇の列。最後尾こちらです案内があります。(土日の方は予約制なので落ち着いてる)
最寄りの駅は福島交通の小さな駅で、このゴッホフィーバーに合わせて警備の人や鉄道会社の人たちが総出の勢いできめ細やかに案内してくれていて、大混雑ではあるけどとっても行き届いているので、あんまり心配はないです。


とにかく入るまでが大変です。
私が並んでいた時にNHKのカメラクルーが入場列を撮影していたので、うっかり見切れている可能性…。
展示作品は直球
それで、肝心の展示内容はというと。
作品は、ゴッホの初期から、ゴッホに影響を与えた作家の作品を織り交ぜて展示されてる。
特にほとんど見ることがないパリ以前の作品がじっくり見れた。
単純にただ絵が描けるだけの人の作品って感じがする初期の絵は、これがのちにあのゴッホになるのか???という疑問を感じる。
特に地元にいた時期の絵は、牧師の家に生まれて、貧しい人たちに心を寄せるべき!と言われて育ったのかなという感じがする。親の呪縛に従っているような、いい子であろうとする本心を偽るような不自由さが全面に出ている。
小汚い、暗くて陰鬱な画風。
当時そういう農民の日常を描くドキュメンタリータッチがめっちゃ流行っていたというのもあって、なんか本心というより「(その時代の)正しい絵画を描く画家になって一発当てたい」みたいな、欲と社会性に閉じ込められた感じの絵だ。
ゴッホはミレーの絵に憧れたというのもなんとなくわかる。
ミレーは確かに農民のリアルな生活をモチーフにしているけど、それを何か美しく崇高な雰囲気をたたえた物語のように描き出していて、本当はそうありたいと誰もが思う気持ちに共鳴させてしまう。だけど、実際には泥と汗と垢にまみれた汚いのが生活だ。
ゴッホは、ミレーに憧れながら現実から抜け出せなかったのかもしれない。
特に若い頃は、親の影響が強いので余計そうなってしまう。
だから、初期作品には後年の星月夜などに見る飛び抜けた感じが全然見出せない。それがとても印象深かった。
しかし、精密な風景画はとてもうまくて、ちゃんと絵がうまい人だなと感じるし、織り機の職人を描いたものは後の作品にも見られるゴッホらしさがあった。
織り機の職人の絵は、のちのアルルの跳ね橋と同じものじゃないかと思う。
複雑だけどシンプルなエネルギーで動くアナログな大型機械への執着は、ゴッホにとってなにか心地よいものが脳内いっぱいに広がるものだったのではないかと思う。
アルルの跳ね橋を模写した時、とても気持ちよかった。ゴッホもこの心地よさに筆を走らせていたのではないかと思うくらいに。
電車が好き、ガンダムが好きというのと、おそらくすごい似た部分がある気がしている。
でも、やっぱりパリに来る前の作品は垢染みて暗くて鬱っぽく、それをよしとする歪んだ正義感が漂う。
パリに来ると、一気に明るくなる。
そして、印象派や点描などの新進気鋭の画風にも影響される。
なんか、環境に振り回されやすいタイプだなって感じ。
パリ時代はモデルを雇う金がないから仕方なく静物画や花の絵を描きまくっていたらしい。
のちに、ひまわりやアーモンドの花、アイリスなどの花の名画もたくさん残すのだけど、その原点が金のないパリ生活だったのか。花の都パリ。田舎の泥臭く垢じみた花ではなく、明るく美しく贅沢な花。
私はゴッホの描く花の絵がとても好きなんだけど、花っぽくない変な自我が混じっている感じは、モデルを雇って人物を描きたかったのにそれができない鬱屈した感覚が反映されているのかもしれないと思うと、ちょっと納得した。

まだ耳のある自画像。
下手くそな静物画。

こんなに努力して絵を描いていても、後年の精神を病んで視覚異常が出てきて破綻してからの絵の方がよいとされているのを見ると、なんかなって気持ちにもなる。
理性と努力は、味方にはならないのだろうか。
アルル以降の画風の力強くわかりやすい衝撃のみをゴッホだと思ってしまうけど、その前のたくさんの絵を見ると、評価されなかったり、努力が報われない気持ちと、死んでからやたら持ち上げられる苦々しさがある。
だけど前半のぱっとしない画風も、実際にぱっとしないし、アルル以降のゴッホ芸術が炸裂した素晴らしさもまごうことなき芸術の完成を感じる。
下手くそは下手くそなのだ。そして傑作は傑作。
同じ人間が描いていても、そこには越えられない壁が存在している。
その壁の前にぶつかってもがく時期が人生のほとんどだし、もがいても壁を越えられるかわからない。
そしてゴッホが壁を越えたとき、何か人間として大事なものが壊れている状態になっていたらしいし、それは「いいこと」なのか考えると、絵を描かずに幸せに暮らす事だって本人にとってはよかったのかもしれないよね…なんてことも思う。
そんな複雑な気持ちで進んでいき、最後にアルルの章がくる。
あのカフェテラスは、誰もの心にうっすらと存在してしまっている
アルルの章の部屋は、急に絵が消えた。
そこにはあのカフェテラスが。
何百回もそのコピーは見たことがあるあのカフェテラスの絵。
それは、なんだかびっくりするくらい素朴だった。
3Dにされたり、動画でドラマチックな加工をかけられたりと、散々素材にされてきた名画だけど、実物はただの田舎町の明るい夜のカフェテリア。
その街の日常、その地域の人達の嬉しい夜の風景。
星空は明るく、ガス燈の黄色い光が胸をときめかせる、でも全然特別じゃないいつもの夜。
ゴッホは、その時思っていた感情や感覚がそのまま絵に出てくるタイプなのかなと思う。
策を弄してテクニカルに描くよりも、嬉しさや心地よさをそのまま絵の具にして平面に押し付けていくような。
その絵は、素朴で楽しげで、ストーリーの気配があり、人はそこになにか自分の物語を重ねてしまう。

自分が絵の中の登場人物を知っているような、あるいは自分こそがその絵の主人公のような目で見てしまう。
ゴッホは暗い夜にイーゼルを立てて、夜にこの絵を描いたと音声ガイドの綾瀬はるかが教えてくれた。
その土地の、その時代のその生活への期待と喜びがある。
暗く苦労している農民を描くのではなく、明るい南国(と思い込んでる)の楽しい暮らしを描く。
パリのような大都会でもなく、貧困にあえぐ寒村でもなく、生きている喜びをのびのび描く。アルルにはそれがあったのかなと思う。
私が今アルルへ行っても、ゴッホが感じたようなものは感じ取れない気がする。ゴッホがその時に見た感覚は、ゴッホだけのものであり、しかし絵になることで世界中の人がそれをほんのりと共有することになった。
私たちはゴッホではないけれど、ゴッホが感じたアルルの街の素敵なカフェに対する嬉しく喜びに満ちた気持ちが、一枚の絵から伝わる。
ゴッホは有名過ぎて概念になってしまったけれど、ゴッホという厄介なおっさんの描いた絵は、ただの素朴な、ちょっとした感動だった。
信じられない高額になるのはちょっと違う気もするくらい、素朴なものだった。
この絵を見ていると、「アルルに来たことが嬉しかったんだろうな」って、なんとなく思う。コピーされたものや、画像では伝わらないものだ。
とてもささやかで、他愛のない感情。
超高額だとか、有名だとかで見る絵だけど、本質というか実体はそんなものなのだ。ただのちょっとした感動。この街が好き、という心躍る気持ち。

余計な物語、過剰な意味づけと価値、それにバフをかける贋作事件など、ゴッホ作品には独特の本質ではない混乱が生じている。
混乱を巻き起こす絵だし、その混乱をさもコントロールしているふうに悪化させる人もたくさんいて、それに加担するかたちで私たちもゴッホを知ることになった。
その無用な混乱を全て捨てて、ただ自分の目で実物を見る機会は、やはり得難いものだと思う。
そこには、単純に大好きな街の素敵なカフェの絵が描かれているだけだった。
あなどりがたし、常設展
常設展も同じチケットで見られるんだけど、常設展がまた大変良かったです。
その地域を代表する美術館として、正しく真面目に文化をしっかり支えてる感じがひしひし伝わってきた。
有名な作家の作品、しかも名前だけじゃなくてすごく良い絵、良い作品。
それがとても見やすい普遍的な展示の仕方で、とても優しく賢い先生の存在を感じる。
岸田劉生の超うまい静物画なんて、ゴッホのわざと下手に描くことで芸術性を得ようとモタモタしたやり方(特に初期の作品)を見た後だと、「岸田劉生うま過ぎ」ってなります。
ポストカード買った。
岸田劉生も、麗子像が教科書で大人気で、絶対に誰かは麗子像にちなんだあだ名をつけられるような国民的絵画だけど、実物を見ると「ああー麗子めっちゃかわいいな」ってなる。坂の絵(道路と土手と塀(切通之写生))もなんでこれが重要文化財?って思うけど、実物を見ると「ああ、重要な文化財といっていいやつだ」ってなる。
とにかくめちゃくちゃ絵がうまい。うますぎる。
そしてうまいだけではない、妙な吸引力がある。めまいがするほどの吸引力。
そういう、岸田劉生らしい吸引力のある静物画が展示されていた。
それにアンドリュー・ワイエスなどアメリカの作家もあって、近代的。
東日本大震災をテーマにした展示室は、あれだけの衝撃的な出来事を受け止めるのに芸術というルートは必要だと感じる空気があった。
それこそ言葉少ないけれど、共有される大きな出来事があり、しかしそれを誰もが無差別に共有できるわけではない断絶も存在して、それらが芸術の形でそこに集まっている。

常設展は、総じて清潔で広くて、だけどあたたかみのある空間。無駄なひねりに走らない、正しいチョイスの作品たちが適切に並んでいて、とかく権威的になったり特別になろうとしがちな芸術という分野だけど、そういうことより基礎基本をしっかり保つ事を大切にしている感じが伝わってくるし、だからといってそれが退屈なものにもなっていない。すごくいい。
地域の文化のために絶対に必要な仕事をしている。
東京にいると、どうしてもエキセントリックというか、先鋭たれ!!みたいな圧によって普通であることを否定しないといけない苦しさがあるけれど、てらいなく普通のよいものを並べる正しい優しさと懐の深さみたいなのを再認識する。
別に、東京だから、地方だからの話しではないんだけど、公的な機関の良さって、大事だよなって話です。
福島土産
日帰りの新幹線旅だったので、美術館見たあとはコラッセふくしまというお土産売り場であれこれ買って、新幹線に飛び乗って帰った。
正直、駅のまわりの雰囲気はザ・地方都市!という感じの無機質で変化のない外観。うっすらと貧血な、いつも具合悪いけどちゃんと学校には行ってます、みたいな、動きはあるけどたいして健康でもない、無表情の学生みたいな感じ。
自動車文化なので、徒歩で見るのに向いていないです。
本当は、土湯温泉というところにいきたいんだけど、福島駅からバスでしばらくいかないといけないので、パニック発作が心配で今回は日帰りにしちゃった。直前までいつ予約しようかと思っていたけど…
なので、福島の良さをたいして実感することなく戻ってしまった。



新幹線を通して、祭りをアピール。それも海外からのコンテンツを持ってきて、というのは、かつて私が生まれ育った地域でやっていた一連の出来事を思い出させる。(海外のコンテンツはゴッホじゃなくてオリンピック)

閉じた空間から飛び出すこと(牢獄と美術館)
田舎で幸せに暮らすなんてビジョンは全くない。そこに生まれ育ったにも関わらず、そういうふうになる人間もいるのだ。
地方都市に行くと、そんな個人的な、マイナスの郷愁を思い出させる。
田舎の痛み。
文化的なものにアクセスできない閉じ込められた世界。
だけど美術館は唯一親から行ってもいいと許された不思議な場所。
おそらく、そんなところに行ってもその先に行くことはできない牢獄の延長だったのだけど、それでもその牢獄の延長を何の手がかりもなく感性だけでこじ開けて行ったのが今の私の美術館巡りだ。
壁はいつか扉になる。
でも扉になる前に力尽きて死んでいく人間の方が多い。
ゴッホも結局は力尽きて死んだ。
死ぬ前に少し日の目を見ていたんだけど、認められるといじけるタイプっぽいので生きているうちはどうにもならなかったんじゃないかなって思う。
が、彼は絵という表現においては壁を突き破った。
ほとんどの人は、それはできない。
壁の中で死ぬか、壁の中でひっそり生きて次の壁になる。
そうなると壁にぶち当たって乗り越えようとする人間はもはや敵で害悪になる。壁に負けて壁になると、壁をよりしっかり守るようになる。
美術館には、そういう壁がある。
越えられる人間は本当に少ない。
壁は無傷では越えられない。
そして傷だらけで壁を越えた向こうには、最初から壁の向こうに生まれた傷ひとつない健康な人たちがニコニコ暮らしていて、傷だらけの来訪者を不審な目で見つめるのだ。
壁の向こうで最初から何の苦労もなく生きている人が、人生の苦悩を語り合っている。
貧乏で精神疾患があった汚い男の描いた絵を、いい服を着て立派な教育を受けた人たちが高額で売り買いしている。
そのすべてが、同じ私の生きる世界に存在している。
実に、世界は多様である。
1枚目の壁を扉にできたけれど、次の壁の前にたたきつけられて、私は死ぬまでその壁の前でうずくまるのだろうか。
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つよく生きていきたい。