短編小説|ゴーアラウンド
タクシーを降りると、
バンコクの熱気がまとわりついた。
運転手が笑いながらメーターを指さす。
高い。
久しぶりに、きれいにぼったくられた。
まあいいか、と息を吐く。
3ヶ月ぶりに、日本へ帰る。
自動ドアを抜けると、
スワンナプーム空港の冷気が
外の湿気を断ち切った。
ガラス張りの高い天井から
白い光が落ちる。
甘い花の匂いが、空調の風に薄く混じる。
チェックインカウンターの列は長い。
スーツケースを横に置き、
空いているベンチに腰を下ろす。
スマホを開く。
通知がいくつか溜まっている。
カイから、ビデオ通話。
出る。
『パパ!』
画面いっぱいに顔が出る。
前髪が少し額に貼りついている。
たぶん、風呂の前だ。
『今日帰る?』
「帰るよ」
『ほんと? 何時に着くの?』
「夜の10時10分に羽田。
そこからバスだから夜中かな」
『起きてる!』
「無理すんな。寝てていい」
カイが少しスマホを遠ざけた。
『ほら』
画面の向こうで背伸びする。
『見て見て、もっと、背、伸びた』
冷蔵庫の横に立つ。
去年つけたペンの線より、
頭が少し上に出ている。
「ほんとだな」
『発表会、来れなかったよね』
「ごめんな……仕事だったからな」
『うん』
少し間。
『お土産ある?』
思わず笑いそうになって、
笑えなかった。
「あるよ。じゃあ、また後でな」
『やったー!パパ、はやく帰ってきてね』
通話が切れる。
溜まっていた通知を一つ開く。
妻からだった。
短い。
『離婚届は用意してあります。』
画面の文字が、やけに整っている。
指が止まる。
返事は打たない。
画面を閉じる。
周りではスーツケースの車輪が床を転がる。
どこかの便の搭乗案内が流れている。
俺は、しばらくベンチから立たなかった。
カイの声が、まだ耳に残っている。
やがて搭乗案内の表示が切り替わる。
NH878
TOKYO / HANEDA立ち上がる。
スーツケースを引いて、搭乗口へ向かう。
搭乗口の前。
動く歩道を抜けた腿の奥が、じんと重い。
足だけが、まだ前に出ない。
ガラス越しに、青い尾翼がいくつも並んでいる。
周りの会話が、
いつの間にか日本語ばかりになっていた。
頭上のスピーカーが鳴った。
May I have your attention, please.
All Nippon Airways flight NH878
to Tokyo Haneda is now ready for boarding.
Scheduled departure time is 14:20.
「搭乗開始」という声は、胸に響く。
機内は、
乾いた空気と人の匂いが混じっている。
チケットを見ながら自分の座席を探す。
「38K」
窓側の席に体を滑り込ませる。
隣の女性は、小さなポーチを膝に抱えている。
肩がこちらに触れない距離を、
最初から計っているみたいだった。
通路の向こうの男性は、
頭をもたれて目を閉じていた。
俺も真似をしたいのに、
まだ目が閉じられない。
閉じたら、
「離婚届」という文字が
まぶたの裏に浮かびそうだった。
窓の外には、
昼の滑走路が広がっている。
『本日の機長の吉井、副操縦士の椎野でございます』
落ち着いた声。
『飛行時間は約5時間30分、
到着は日本時間22時10分を予定しております。
なお、航路上の一部で
雲の影響による揺れが予想されます。
シートベルトは、いつでもお締めください』
日本語のあと、英語。
シートベルトを締める。
カチッ。
機体が動き出す。
床の振動が、
座席の骨組みを通って腰に伝わる。
滑走路へ。
エンジン音が太くなる。
低い唸りが、腹の底まで押してくる。
加速。
窓の外の白線が、流れる速さを変える。
音がひとつ段階上がり、
身体が背もたれに貼りつく。
腹の奥が、軽くなる。
浮く。
地面が離れる瞬間、
俺はいつも息を止める。
窓の外が、白くなる。
雲に入る。
離陸から30分ほどで、
機内は落ち着き始める。
シートベルトサインが消え、
通路に人が立つ。
カートの金属音が、ゆっくり近づく。
「お飲み物はいかがなさいますか」
コーヒーを受け取る。
紙カップの縁から、
湯気が細く揺れている。
窓の外は白い。
境目がない。
空なのか雲なのか、分からない白だ。
帰ったら、カイはもう寝ている。
寝顔くらいは、見られるかもしれない。
目を閉じる。
エンジンの低い音が、
遠くで唸り続けている。
この前帰ったときは、
運動会のあとだった。
その前は、入学式。
どれも、写真だけ見た。
玄関の靴の場所も、冷蔵庫の中身も、
もう自分の場所じゃない。
帰るたびに、自分の家なのに、
客みたいだった。
最初の海外赴任は、2年。
帰国して、半年。
次は1年。
また、数ヶ月。
ドン、と
鈍い音が機体の奥で鳴った。
目が開く。
身体が一瞬、座席から離れた。
窓の外では、
白い雲の壁の奥を灰色の塊が流れている。
そのとき、
小さな揺れが来た。
通路にいた乗客が足を止める。
もう一度、揺れる。
今度は少し長い。
「皆様、機体が揺れております。
恐れ入りますが、お席にお戻りください」
通路にいた人たちが、急いで席へ戻る。
客室乗務員も
カートを固定しながら自席へ向かう。
シートベルトサインが点灯し、
あちこちでバックルの音が鳴る。
3度目の揺れは、はっきりしていた。
コーヒーが縁を越え、指に落ちる。
熱い。
隣の女性が肘掛けを強く握る。
その指が白くなる。
「You okay?」
彼女は小さくうなずく。
うなずいたあとで、唇だけが何かを言った。
声にはならなかった。
その直後だった。
ドン、と
機体が一段落ちた。
胃が一瞬、宙に浮く。
反射で息を吸って、次の瞬間に吐けなくなる。
シートベルトが腰に食い込む。
後方で子どもの泣き声が上がる。
その奥で、誰かが苦しそうに咳き込んだ。
このまま落ちたら、
最後の言葉が、頭に浮かんだ。
「帰るよ」
揺れより、そのほうが怖かった。
通路の向こうでは、
客室乗務員がすでに自席に座り、
ハーネスを締めている。
その目だけが、まだ客席を見ていた。
細かい振動が、
機体の骨を伝って座席まで響く。
機内スピーカーから、機長の声が流れる。
『機長の吉井でございます。
現在、航路上の積乱雲の影響により
揺れが発生しております。
安全に飛行しておりますので、
ご安心ください』
雲の隙間から、暗い塊が流れていく。
ズボンにこぼれたコーヒーを、
指で押さえる。
機体が
もう一度沈む。
今度は、
さっきより深い。
思わず
肘掛けを握る。
やがて、
揺れの間隔が少しずつ空き始める。
機体の振動が、ゆっくり弱くなる。
誰かが小さく息を吐く。
俺の指先からも、
ようやく肘掛けの硬さが離れていく。
雲の層は、まだ厚い。
だが飛行機は、その中を抜けていく。
長い時間が過ぎている。
機内の灯りは落とされ、
さっきまで起きていた声が、
いつの間にか寝息に変わっている。
窓の外は、暗い。
エンジンの低い唸りだけが、
ずっと続いている。
シートベルトサインが点灯する。
『皆様、お休みのところ失礼いたします。
当機はまもなく降下を開始いたします。
座席の背もたれとテーブルをお戻しください』
機内アナウンスが流れる。
窓の外の白が、機内灯を吸って鈍く濁る。
黒い雲の縁が、薄く浮かぶ。
雲を抜ける。
夜の光が見える。
『まもなく東京羽田空港に到着いたします』
羽田、という言葉を聞いた瞬間、
肩の力が抜けた。
3ヶ月ぶりだ。
前に帰ったとき、
カイは玄関で会うなり、
頭のてっぺんを俺の腹にぶつけてきた。
あの時より、
もう少し大きくなっているかもしれない。
光の粒が、網のように広がっている。
高度が下がるにつれて、
建物の輪郭が浮かび上がる。
帰れると思った瞬間、
別の重さが遅れて浮いた。
エンジン音が静かになる。
フラップが動く、低い機械音。
機体が、ゆっくりと角度を変える。
着陸は、いつもこの時間が長い。
窓の外に、滑走路の灯りが見える。
もう、地面が近い。
息を止める。
タイヤが触れる瞬間を待つ。
そのときだった。
一瞬、機体が沈んだ。
次の瞬間、
体が座席に強く押し付けられる。
着陸の減速ではない。
エンジン音が跳ね上がる。
腹の奥が、持ち上がる。
息が、止まった。
通路側の女性も顔を上げる。
滑走路の灯りが、遠ざかる。
上がっている。
上がっている。
もう終わると思っていた。
違った。
嫌な重さが、腹の底に落ちる。
何が起きているのか、分からない。
何秒経ったのかも分からない。
客席のあちこちで、小さく声が上がる。
「え?」
「何?」
通路の向こうで、客室乗務員が静かに言った。
「皆様、大丈夫でございます」
その直後、機内放送が流れる。
『当機は現在、着陸をやり直しております。
安全のため、再度進入いたします』
機内放送の声が、
息を急いでいるように聞こえた。
光が遠ざかる。
機体は旋回に入る。
エンジン音が落ち着く。
誰も喋らない。
なのに、
さっきより息ができる。
やり直す。
その言葉が、頭の中に残る。
窓の外の灯りを、まっすぐ見る。
2度目の進入は、
さっきより高く始まった。
窓の外の滑走路の灯りが、まだ遠い。
機体はゆっくり角度を下げる。
一直線の灯りが、少しずつ近づいてくる。
フラップの低い音。
エンジンが、わずかに唸る。
地面が近づく。
今度は、誰も声を出さない。
タイヤが触れる。
ドン、と短い衝撃。
逆噴射の音が機内に響く。
体が前に押される。
滑走路の灯りが横へ流れていく。
そして、ゆっくり止まる。
どこかで小さな拍手が起きて、
すぐに消える。
通路側の女性が目を開ける。
肘掛けを握っていた指が、
1本ずつ離れていく。
その手で、
胸元の小さなお守りを一度だけ押さえた。
肩の力が、ようやく抜ける。
シートベルトサインが消える前に、
もう腰を浮かせる人がいる。
俺は立たない。
頭上の荷物入れは、
開ける音だけが先に増えていく。
ゲートに着き、
シートベルトサインが消える。
荷物を下ろしながら、出口へ進む。
ドアの横で、
客室乗務員が1人ずつに頭を下げている。
「ご搭乗ありがとうございました」
何でもない一言が、思ったより深く残った。
ボーディングブリッジを抜け、
長い通路を歩く。
ターミナルのガラス越しに、滑走路が見える。
もう静かだ。
周りの何人かが、
もうスマホを開いていた。
俺も画面を見る。
立ち止まったまま、
さっきのメッセージを開く。
「離婚届は用意してあります。」
画面の下に、入力欄がある。
何も打てない。
消して、また打つ。
消して、また打つ。
ガラスの向こうで、
着いたばかりの機体が、
ゆっくり地上を曲がっていく。
やり直す。
指が、止まる。
それでも、連絡先を押す。
コール音が、3回鳴る。
出ない。
切ろうとした瞬間、つながる。
『……もしもし』
妻の声だった。
「今、着いた」
少し間。
『そう』
そのあとは、何も返ってこなかった。
後ろで、小さく物音がする。
食器か、水の音か、よく分からない。
家の音だった。
「離婚届のこと、見た」
少し間。
『……わたしの欄は、もう書いたから』
少し遅れて、重くなる。
「カイは?」
『寝てる』
短い沈黙。
「すぐに、うまく言える気はしない」
少し息を吸う。
「でも」
ガラスの向こうに、滑走路がまだ見えている。
「帰ったら、話したい」
返事はない。
「もう、いない方がいいなら、それも聞く」
言ってから、遅れて痛みが来る。
「でも」
一呼吸。
「まだ終わりだとは思ってない」
「カイの成長を、見たい」
少し間。
「この前帰ったとき、
背が伸びてたのに俺、見てなかった」
「……これからは、」
長い沈黙。
空港のアナウンスが、
遠くで別の便を呼んでいる。
『……いまさら』
少し間。
『……もう、遅いよ』
通話が切れる。
通路を、スーツケースの車輪の音が通っていく。
しばらく、画面を見たまま立っている。
出口の自動ドアが開く。
夜風が、冷たかった。
スマホが震える。
妻からだった。
『気をつけて帰ってきて』
読んでくださって、本当にありがとうございます。
※本作はフィクションです。他の作品はこちら👇
いいなと思ったら応援しよう!
読んでくださって、本当にありがとうございます。
そのお気持ちが、とても励みになります。