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掌編小説|人間が専門じゃありませんが

長い揺れだった。

雲を突っ切ったんだろう。

やがて揺れは収まった。


『お客様の中に医師の方はいらっしゃいませんか。
 いらっしゃいましたら、
 お近くの客室乗務員までお知らせください』

機内アナウンスが流れた。

俺は本から目を上げた。

通路の向こうで、
乗務員が何席か先まで目を配っている。

そのうち誰かが立つだろう。
一人くらい乗っている。

俺は医者だが――

そう思って、ページに目を落とした。


少しして、もう一度。

『医療関係のお仕事をされている方が
 いらっしゃいましたら、お知らせください』

機内が、少し静かになった。

通路を見る。

誰も立たない。

ページに目を落とすが、落ち着かない。

このまま誰も立たなかったら。


本当は、立たないつもりだった。

指が、本のページを離れない。

それでも、俺は立った。

乗務員が近づいてくる。

「お医者様ですか?」

俺は迷ってから言った。

「……人間が専門じゃありませんが」

乗務員がとまどう。

「…つまり、獣医です」


ほんの一瞬、間があった。

それでも彼女は言った。

「お願いします」

座席のところまで連れて行かれる。


若い女性が通路側の座席にもたれるようにしていた。
顔色が悪い。

バッグを胸の前で強く抱えたまま、
うまく息が吸えないようだった。

周りの乗客が、俺を見る。

“医者”を見る目だ。

違う。
俺は、人間の医者じゃない。

しゃがんで声をかける。

「聞こえますか」

女性の目が、ゆっくりこちらを向く。

息を吸おうとして、胸が小さく上下する。

「…いき…くるしい…」

呼吸を見る。

浅く、速い。

女性の手首に触れる。

脈。

速い。

「少しスペースをください」

周りの人が席を立つ。

俺はできるだけ落ち着いた声で言う。

「大丈夫です。ゆっくり息をしてください」

女性の肩が、小さく上下する。

「ゆっくり吐きましょう」

女性の背中に手を添える。
呼吸のリズムを合わせる。

乗務員が小さな酸素ボンベを持ってきた。
少しして、医療キットも足元に置く。

「酸素、使いますか?」

「お願いします」

声は、思ったより落ち着いていた。

犬も猫も、
こういう呼吸になる。

人間も、同じだ。

ただ一つ違うのは、
人間は「苦しい」と言葉にする。

「大丈夫です」


数分後。

女性の呼吸が、少しずつ落ち着いてくる。

まぶたが、ゆっくり開く。

「…大丈夫ですか」

女性が、小さくうなずく。

誰かが、息を吐く音がした。

そのとき、後方の席から声がした。

「医師です。内科です」

振り返る。
男が立っていた。

俺は場所を譲った。


席に戻る途中、乗務員が小さく言った。

「本当にありがとうございました」

俺は苦笑する。

「いや……獣医なので」

彼女は少し考えてから言った。

「関係ないです。先生が、最初に来てくれました」

席に座る。

窓の外には、まだ厚い雲が広がっている。



しばらくして、さっきの女性が
こちらに向かって頭を下げた。



本を、閉じた。




読んでくださって、本当にありがとうございます。
※本作はフィクションです。他の作品はこちら👇

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