短編小説|夜桜の下で、ゆりなが消えた
頂上に夜桜の名所がある。
年に一度、この日だけ開放される。
妻と5歳の娘で、日が暮れてから毎年行っている。
石段が続く、15分ほどの道だ。
散り始めだと、朝からニュースで言っていた。
駐車場から出てすぐ、登山口に、
大きなブルーシートが広がっていた。
5、6人のガラの悪そうな男たち。
通路にはみ出すように座り込み、
缶を転がし、笑い声がやけに大きい。
人の流れが滞っている。
ひとりが、通り過ぎる人間を
ひとりずつ、目で追っていた。
子連れを、じっと見ていた。
「なに見てんだよ!」
野太い声が、通路に響いた。
――頂上にもっと綺麗な桜があるのに。
通路が、そのまま細くなる。
「見ない見ない」
後ろから妻が言った。
「今日くらい、楽しもうよ」
ゆりなが手を引いた。
「パパ、はやく」
「はいはい」
そのまま、登山道を上がる。
頂上についた瞬間、
光と音と、行き場のない人の波が
一気にぶつかってきた。
何もかもが混ざって、耳が慣れない。
両脇に屋台が、奥まで続いている。
その奥に、暗い空がある。
提灯の灯り。屋台の湯気。人の声。
焼きそばの油の匂いに、
甘い酒の匂いが混ざっている。
屋台を抜けると、人が散らばった。
上を見る人が増える。
つられて、見上げる。
枝が、頭の上まで降りてきていた。
ライトに照らされた桜が、夜の中で白く浮いている。
提灯の灯りが、花びらを染めている。
柵の向こうに、街の光が広がっていた。
風が抜ける。
花びらが、ゆっくり落ちる。
ざわめきが、引く。
「わあ……」
ゆりなが言った。
手を握ったまま、上を見ている。
「いっぱい」
「いっぱいだな」
指でつまもうとして、空を切る。
妻が笑う。
「取れないよ、それ」
もう一度、風。
今度は肩に落ちる。
ゆりながつまむ。
「とれた」
しばらく、3人で上を見ていた。
「来年も来ような」
夜景と夜桜を見ながら言う。
「うん!」
花びらが、次々と落ちてくる。
ゆりなが振り返り、指さす。
さっき歩いてきた屋台の光。
「お腹すいた」
花見も早々に、屋台の方へ引き返す。
ゆりなのワンピースの裾が、よれていた。
しゃがんで直す。
ゆりなのポケットに指を入れる。
こども用GPS端末の、丸い感触。
昔、自分が迷子になったことがある。
だから買った。
ボタンを留める。
「迷子になったらこのボタン押すんだぞ」
「わかった!」
「だから、GPSなんてやりすぎだって
一応、わたしのスマホにも入れてあるけど」
妻が笑う。
「トイレ行ってくるね、この辺にいて」
「わかった」
妻が人の中に消える。
「パパ、じゃがバタ」
ゆりなが俺の手を離して、
屋台の方へ駆け出した。
そのときだった。
「すみません」
後ろから声がした。
女性だった。
「駐車場って、どっちでしたっけ」
一瞬だけ、視線を向ける。
「えーと、あっちの道を下りて……」
言いながら、視線はゆりなに戻す。
赤いワンピースが見えた。
「あっちです」
手だけで方向を示す。
「ありがとうございます」
女性が去る。
その背中を、一瞬だけ目で追う。
ゆりなのいたはずの場所に、
視線を戻す。
もう一度、見る。
いない。
ほんの数秒だ。
まだ、このへんにいる。
人の流れは、そのまま動いている。
右、左、前。
赤いワンピースを探す。
見えない。
「ゆりな」
声が浮いた。
「ゆりな!」
もう一度呼ぶ。
返事はない。
息を、吸い込めない。
人のあいだに身体をねじ込む。
肩が当たる。
屋台の裏をのぞく。
いない。
もう一度、周りを見る。
さっきまでいた位置。
いない。
赤いワンピースが、どこにも見えない。
息が、浅くなる。
「ちょっと、どうしたの?」
後ろから妻の声。
振り返る。
「ゆりながいない」
言った瞬間、妻の顔が変わる。
「は?」
「さっきまで……」
「目ぇ離したの?」
声が強くなる。
「……一瞬」
「なんで目を離すのよ!」
周りの何人かが、こっちを見る。
「ごめん……」
妻はすぐに動く。
周りを見渡す。
「ゆりな!」
声を張る。
返事はない。
二人で動く。
トイレの前。
ステージの脇。
さっきいた桜の下まで戻る。
いない。
「わたし、迷子のとこ行ってくる!」
妻は人をかき分けて戻っていく。
スマホを出す。
画面を開くと、ゆりなの位置が出た。
屋台の並びの中、さっきいた場所から少しずれている。
その方向へ、歩く。
人の中を進む。
画面を見る。
まだ同じ場所だ。
更新されない。
歩きながら、また見る。
ずれていた。
さっきより、会場の端に寄っている。
同じ方向に。
また待つ。
また見る。
さらに外へ、ずれていた。
足が、止まりかけた。
それでも、動く。
スマホが震えた。
通知。
《ゆりなさんのGPSが、
連続測位モードに切り替わりました。》
ゆりなが自分でボタンを押したときに出る通知だった。
ゆりなの位置が、細かく動く。
速い。
ゆりなの足じゃない。
止まらない。
会場を、一気に外れていく。
走る。
肩がぶつかる。
誰かが何か言う。
聞こえない。
画面を見る。
山の、中腹を下りている。
後を追う。人が減り、提灯の間隔が空いていく。
足音だけが残る。
もう一度、画面を見る。
まだ動いている。
止まらない。
一定の速さで、下へ。
足が速くなる。
段差を踏み外しかける。
それでも止まらない。
画面を見る。
駐車場の端。
顔を上げる。
車の列のいちばん外側、街灯が切れている。
画面の位置と、目の前の景色が重なった。
人の影が、ない。
その中で、動く影が見えた。
男と、女。
大柄な男が、ゆりなを抱えている。
赤いワンピースが、腕の中で揺れている。
走った。
女の顔が見えた。
さっき、駐車場の位置を聞いてきた女だ……。
「ゆりな!」
ゆりなが、こちらを見た。
「ぱぱ!」
男の腕に手をかける。
「離せ!」
肘が、顔に来た。
地面に、倒れた。
「ぱぱぁ、いやぁ!」
その声だけが残る。
立つ。
拳が来た。
口の中に、鉄の味が広がった。
膝が落ちる。
男がゆりなを抱えたまま、奥の車へ向かう。
後部座席のドアが開く。
ゆりなの足がばたつく。
「やだ! 離して! ぱぱぁ!」
押し込まれる。
立とうとする。
膝が、上がらない。
指先が、地面を掻く。
間に合わない。
そのとき、
「おい、待てや!何してんだ!」
登山口で聞いた、野太い声だった。
男たちが、暗がりに飛び込んできた。
先頭の男が、連れ去り男の横から体当たりする。
別の一人が腕を掴む。
3人、4人と重なる。
怒鳴り声が重なる。
連れ去り女がスマホを耳に当て、短く何か話した。
日本語じゃなかった。
顔を上げたときには、連れ去り女はもう
暗がりの向こうに消えていた。
連れ去り男はその場に残ったまま、
まだ押さえ込まれている。
「離せ!」
「離すか!」
もみ合いが続く。
ゆりなが泣きながら、地面に座り込む。
膝立ちのまま、にじり寄る。
腕を伸ばす。
「ゆりな!」
引き寄せる。
体温が戻る。
そのままでいた。
その背後で、まだ怒鳴り声が続いている。
連れ去り男は押さえつけられたまま、動けない。
「警察呼べ!」
暗がりだけが残る。
小さい身体を、抱きしめる。
震えている。
腕の中で、まだ暴れている。
「いや……いや……」
声が途切れる。
背中を押さえる。
手を、放さない。
「大丈夫だ」
髪の匂いがする。
息が、ようやく入る。
膝が崩れる。
そのまま座り込む。
腕に力が入らない。
「……ごめん」
声が、うまく出なかった。
血の味がまだ残っている。
「ゆりな!」
妻の声。
振り返る余裕がない。
次の瞬間、横から抱きつかれる。
妻だった。
「ゆりな……!」
ゆりなを抱きしめる。
すぐに妻が俺を見た。
顔が歪む。
「ちょっと……なにこれ……」
頬に手が触れる。
血。
「大丈夫なの?」
答えようとして、声が出ない。
「立てる?」
腕を引かれる。
立てない。
力が抜ける。
「ちょっと待って」
妻がスマホを出す。
「救急車、お願いします――」
ゆりなが、俺の服を掴む。
離れない。
顔を上げる。
涙でぐしゃぐしゃのまま、
「ぱぱ……」
息を吸う。
「ありがとう……」
小さく言う。
遠くでサイレンの音が近づいてくる。
赤い光が、木の影を揺らす。
ざわめきが、少しずつ戻ってくる。
誰かが「大丈夫ですか」と言う。
俺は、ゆりなを抱いたまま動けない。
妻が、隣にいた。
「……役に立っただろ、GPS」
少し間があった。
「……そうだね。ごめん。でも、目ぇ離すなよ」
妻が、少し笑った。
腕の中の重さだけを、確かめる。
離さない。
警察官と救急隊員が来て、
地面に座ったまま手当てを受けた。
空を見る。
『ピンポンパンポーン。
本部から、繰り返し、迷子のお知らせです』
場違いなくらい、澄んだ音だった。
『相田ゆりなちゃん、5歳の女の子を
お探しの保護者の方がいらっしゃいます』
『赤いワンピースに、白い靴を履いています。
お見かけの方は、本部テントまでお知らせください』
思わず声が出た。
「ゆりなは、ここにいるよ!ありがとう!」
迷子のお知らせは続く。
『風間かのんちゃん、6歳の女の子、
白いカーディガンに――』
『大島みおちゃん、4歳――』
間が、なかった。
『太田はるちゃん、4歳――』
『山本こずえちゃん、5歳――』
『小泉かえでちゃん、6歳――』
『広瀬――』
息が、止まった。
全員、4歳から6歳の女の子だった。
手に、力が入った。
ゆりなを、もう一度、強く抱き直した。
頭の上で、花びらが舞っていた。
読んでくださって、本当にありがとうございます。
※本作はフィクションです。他の作品はこちら👇
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