短編小説|佐藤さん、羽田で待っててもらえますか
乗客が降り終わると、通路に静けさが戻った。
ギャレーでは、
グラスを重ねる乾いた音が続いていた。
フライトを終えた客室の空気が少しだけ緩む。
その中に、一人だけ気になる人がいた。
俺はコックピットの最後の確認を終え、
ヘッドセットを外した。
「お疲れー」
システムの最終確認に入った吉井機長を残し、
俺はログを記録してコックピットを出た。
「お疲れさまでした」
ドアを開けると、
客室乗務員たちが後片付けをしていた。
ブランケットをまとめる人。
カートのロックを外す人。
氷のケースが軽くぶつかる音がする。
通路の真ん中に、佐藤さんがいた。
回収したヘッドレストカバーを腕に抱えている。
目が合う。
佐藤さんは小さく会釈した。
俺も軽く頭を下げる。
羽田の出発前ブリーフィングでは顔を合わせていた。
でも、ああいう場では
お互い仕事の顔しか見ない。
フライトを終えた今になって、
半年ぶりなのだと実感した。
「副操縦士」
客室の奥から声がした。
富岡チーフだった。
「客室、最終確認します」
「ありがとうございます」
チーフは笑う。
「今日は静かなフライトでしたね」
チーフは客室へ向き直った。
「最後、シートポケットもう一回見て」
その声を背中に、俺は先に降機した。
ウォークアラウンドを済ませ、
ターミナルへ入った。
翼の下で制服に貼りついた湿気が、
空調の冷気で引いていく。
入国を終えて外へ出ると、
熱気のなかでホテル行きのクルーバスが待っていた。
客室乗務員たちは、もうバスに乗っていた。
俺は窓側の前方に座った。
長いフライトのあとの車内は静かで、
冷房の風と、
ペットボトルのキャップを開ける音だけがあった。
しばらくして、機長が乗り込んできた。
通路を挟んだ向かいでは、
佐藤さんがチーフと話していた。
かすかな笑い声が届く。
バスが動き出した。
空港を出て、高速道路に乗る。
窓の外では、空港の灯りがやがて消えて、
街の明かりが点々と流れはじめた。
その光景を見ながら、
俺は半年前の羽田到着後を思い出していた。
乗客がほとんど降りたあと、
通路の途中で男の子が立ち止まっていた。
父親の腰くらいの背丈だった。
「コックピット見たい!」
「ほら、行くよ」
父親が困った顔で促しても、
男の子は動かなかった。
そこへ来た佐藤さんが、
男の子と同じ高さにしゃがんだ。
「今日はコックピット、入れないんです」
男の子の顔が曇る。
父親が慌てて頭を下げる。
「すみません」
「いえ」
佐藤さんは座席ポケットから機内誌を取り出し、
コックピットの写真を開いた。
「これがコックピットです」
男の子が顔を上げる。
「ほんと?」
「ほんとです」
指で写真を指す。
「ここが飛行機のハンドル。
ヨークって言うんですよ」
「ここがエンジンのレバーです」
男の子の目が輝く。
父親がまた頭を下げた。
「ありがとうございました」
佐藤さんは男の子に言った。
「また飛行機、乗ってくださいね」
男の子は今度はちゃんと頷いた。
少し離れて見ているうちに、
目を離せなくなっていた。
ほんの数分の出来事だった。
それ以来、
乗務スケジュールに佐藤さんの名前を見つけると、
つい目が止まる。
同じ便はほとんどなく、
今回、客室で目が合ったときには息が止まった。
高速を降りると、街の匂いが濃くなった。
コンビニと屋台の明かりのあいだを、
バイクが群れのように走っていく。
通路を挟んだ向こうで、
佐藤さんが窓の外を見ていた。
街の灯りが横顔に流れていく。
半年ぶりの同じ便だった。
それだけのはずなのに、
一度外した視線がまた戻った。
バンコクのステイでは、到着した夜は寝るだけだ。
翌日、昼近くに目が覚める。
いつものようにマッサージを受けてホテルへ戻ると、
外はもう暮れかけていた。
腹が減り、部屋を出てロビーへ降りると、
チーフに声をかけられた。
「副操縦士、お出かけですか」
「ええ、少し」
「どちらへ?」
「ターミナル21でご飯でも」
チーフは笑った。
「いいですね」
それだけ言って、
チーフはロビーの奥へ歩いていった。
夜に変わりかけたスクンビット通りは、まだ暑い。
屋台の甘い匂いと油の匂いを抜け、
ホテルから歩いて1分のターミナル21へ入った。
空港みたいな長いエスカレーターを上がり、
大戸屋の席に着いた。
焼き魚定食を食べていると、
聞き覚えのある声がした。
「副操縦士」
顔を上げると、
佐藤さんがこちらを見て微笑んでいた。
私服の佐藤さんは、
髪も表情も仕事のときとは違っていた。
チーフも一緒だった。
「ここ、いいですか?」
佐藤さんが言った。
「どうぞ」
二人は向かいの席に座った。
「海外来ても結局これなんですよね」
チーフが笑う。
「……安心するんですよね」
佐藤さんは微笑んだ。
「副操縦士も焼き魚定食なんですね」
佐藤さんが言う。
「海外来ると、逆に食べたくなりませんか」
「分かります」
佐藤さんは笑った。
俺は箸を動かしながら聞く。
「今日は何をしてたんですか」
「買い物です。お土産を見てました」
佐藤さんは箸を置いて笑った。
「そういえば、今日ロイクラトンですよ」
「なんですか、それ?」
佐藤さんは驚いた顔をした。
「え、もしかして知らないんですか?
タイのお祭りなんです」
佐藤さんの声が、さっきより明るくなる。
「願いごとをしながら、灯籠を水に流すんですよ」
「そういうお祭りなんですね」
「きれいですよ」
佐藤さんは言う。
「ルンピニ公園でもやるみたいです」
チーフは定食を食べながら言う。
「副操縦士は行きます?」
俺は考える。
そのとき、
佐藤さんがこちらを見た。
「椎野さんは?」
名前で呼ばれる。
一瞬、返事が遅れた。
「行ってみます」
俺は言う。
佐藤さんの目もとがやわらいだ。
「じゃあ、一緒に行きましょうか!」
ターミナル21を出ると、外の空気がまだ暖かい。
BTSの高架の下で、チーフが立ち止まる。
チーフが俺を見た。
「副操縦士はロイクラトンでしたね」
「はい」
チーフは笑い、佐藤さんへ顔を向けた。
「佐藤さん、よろしくお願いします」
「はい」
チーフはそれから俺に小さく頷き、
手を軽く上げた。
「じゃあ、おやすみなさい」
「お疲れさまでした」
チーフがホテルの方向へ歩いていく。
気がつくと、
俺と佐藤さんだけが残っていた。
二人でBTSの階段を上る。
改札を抜けると、高架の上に風が流れていた。
「椎野さんがお祭りに行くなんて、意外です」
「そう見えますか」
佐藤さんは笑った。
「半年前、
搭乗中に酔ったお客様が騒いだの、覚えてますか?」
「羽田を出る前の、あれか」
「私、あのときすごく怖かったんです」
高架の上を風が抜ける。
佐藤さんは前を向いたまま続けた。
「椎野さんが前に出て、そのお客様と話してくれて」
間があく。
電車のライトが近づいてくる。
「あのときから、覚えてました」
電車がホームに入ってきた。
夜の灯りが車体に映っていた。
電車のドアが開く。
ホームの夜の空気が、少し湿っていた。
電車に乗り込み、
サイアム駅でシーロム線に乗り換えた。
サラデーン駅で降りると、
同じ方向へ歩く人が多かった。
「今日は混みます。ロイクラトンですから」
駅の階段を降りると、
屋台の明かりが並んでいた。
甘い匂い。
焼いた肉の匂い。
花の匂いが混じる。
その先に、暗い木の塊が見える。
ルンピニ公園だ。
入口に近づくにつれて、人の声が増える。
公園の入口には、
花で飾られた灯籠の屋台が並んでいた。
「ここで買いましょう」
佐藤さんが立ち止まる。
俺たちは屋台で灯籠を一つずつ買った。
佐藤さんが灯籠を受け取るとき、
店員に何かタイ語で返していた。
振り向いて、俺の顔を見る。
「二つで値引きしてもらいました!」
その笑い方が、機内で見る顔とは違っていた。
「これです」
佐藤さんが丸い灯籠を持ち上げた。
「ろうそくに火をつけて、
願いごとをしながら池に流すんです」
俺は灯籠の中央に立てられたろうそくを見た。
「椎野さんは?」
佐藤さんが聞く。
「願いごと」
俺は少し考える。
「まだ決めてないですね」
佐藤さんは一瞬、こちらを見た。
「そうなんですか」
池のそばまで歩く。
ろうそくに火をつけたが、風ですぐに消えた。
もう一度つけようとすると、
佐藤さんが先に自分のろうそくを傾けた。
火が移った。
思ったより、距離が近かった。
「どうぞ」
それから、また前を向いた。
水面には、たくさんの灯籠がゆっくり漂っていた。
「きれいですね」
佐藤さんが言った。
俺は聞く。
「佐藤さんの願いごとは?」
「聞かないで下さい。秘密です」
「そういうものなんですね」
俺はそれ以上、聞かなかった。
周囲には人の声も笑い声もあるのに、
音だけが遠く感じられた。
佐藤さんがしゃがむ。
小さく目を閉じた。
手を合わせる。
その横顔を、俺は見ていた。
二人で灯籠を水面へ近づけた。
「一緒に流しましょう」
二つの灯籠が水に触れ、
ろうそくの光を揺らしながら離れていく。
夜空には、丸い月が出ていた。
灯籠の光を、二人でしばらく見ていた。
気がつくと、灯籠じゃなくて、佐藤さんを見ていた。
「椎野さん」
佐藤さんが言う。
「はい」
「椎野さんは願いごとしないんですか?」
俺は灯籠の光を見る。
それから言う。
「しないですね」
佐藤さんが首をかしげる。
「どうしてですか?」
少し考える。
「願うより……」
言葉を選ぶように、
「自分で叶えたいので」
佐藤さんは一瞬黙る。
それから、目を細めた。
「椎野さんらしいですね」
「そうですか」
「はい」
そのあと、佐藤さんの表情から笑いが引いた。
「私の願い、叶うと思いますか?」
俺は考えた。
「分からないです」
佐藤さんの口もとが動いた。
「正直ですね」
「でも、待っているだけじゃ何も起きないと思うんです」
佐藤さんは何も言わず、俺を見ていた。
池にはまだ灯籠が流れている。
ろうそくの火が、
ゆっくり遠ざかっていく。
水の匂いのする風が、水辺を抜けてきた。
佐藤さんが立ち上がった。
「そろそろ戻りますか」
「そうですね」
公園を出ると、バンコクの音が戻ってきた。
駅へ向かいながら、佐藤さんが言った。
「さっきの『自分で叶えたい』って……」
「強気すぎましたか」
佐藤さんは笑う。
「少し」
駅の階段を上る。
混み合う電車で吊り革につかまる。
車窓をバンコクの夜の灯りが流れていく。
佐藤さんは窓の外を見た。
「実は、さっきの願い」
佐藤さんは一度だけこちらを見た。
俺は佐藤さんを見る。
「秘密じゃなかったんですか」
「秘密です」
「でも」
「一つだけ言えます」
電車が揺れる。
沈黙があった。
それから佐藤さんが言った。
「椎野さんに、関係あります」
「……叶うといいなって思ってます」
言葉が出なかった。
「それは」
言いかけて、止めた。
佐藤さんは笑った。
「これ以上は秘密です」
サイアム駅でスクンビット線に乗り換えた。
アソーク駅で降り、
まだ賑わうスクンビット通りをホテルへ戻った。
二人でエレベーターに乗り込む。
「今日はありがとうございました」
「こちらこそ」
佐藤さんは笑った。
「椎野さんとロイクラトンに行けて、よかったです」
「また来年も来たいですね」
「来年も同じ便なら」
3階で止まる。
佐藤さんが降りる。
ドアの外から、佐藤さんが言った。
「……また行きましょう」
それから軽く頭を下げる。
「おやすみなさい」
「おやすみなさい」
ドアが閉まり、エレベーターが動き出す。
『椎野さんに、関係あります』
願いごとは、聞かなかった。
ここで聞くのは違う気がした。
翌日の昼前、
ロビーには帰国するクルーが集まっていた。
チーフが人数を確認し、
ホテルの前ではクルーバスが待っていた。
列に並ぶと、後ろから声がした。
「椎野さん」
振り向く。
佐藤さんだった。
「昨日はありがとうございました」
「こちらこそ」
それだけの会話だった。
帰りのバスから、一昨日と同じ道を見た。
昨夜の水面と、灯籠の光が浮かぶ。
『椎野さんに、関係あります』
俺は息を吐く。
このまま何も言わずに帰ることもできる。
でも、そのまま帰る気はなかった。
膝の上で拳を握った。
バンコクの街が、
ゆっくり後ろへ遠ざかっていく。
数時間後、帰国便は夜の空を飛んでいた。
揺れが収まると、機内は静かになった。
コックピットのインターフォンが鳴る。
機長がスイッチを押す。
「どうぞ」
『客室です』
佐藤さんの声だった。
『先ほどの体調不良のお客様は、
医師の方が対応してくださり、落ち着いています』
「了解です。ありがとうございます」
電子音が鳴って、回線が切れた。
さっきまで積乱雲の縁をかすめていたが、
もう揺れは抜けている。
暗いコックピットを、計器の光だけが照らしていた。
俺は一度だけ息を吐く。
ヨークに置いた手が、わずかに湿っていた。
「……もう一回、客室いいですか」
機長が一瞬だけこちらを見る。
何も言わず、インターフォンのスイッチを押した。
「客室」
『はい』
「佐藤さん」
『はい』
口の中が、乾いた。
「羽田で待っててもらえますか」
インターフォンの向こうで、息をのむ気配がした。
『……何ですか、それ』
長く間があいた。
「羽田で、ちゃんと話します」
インターフォンの向こうが、黙った。
「佐藤さんに、関係あります」
俺は前を見る。
オートパイロットは安定している。
指先だけが、まだ落ち着かない。
向こうで、
息の気配だけがあった。
『……副操縦士、強気ですね』
雲海が広がっている。
「パイロットですから」
機長が小さく笑った。
回線の向こうで、間があく。
それから、小さな声がした。
『…………待ってます』
俺は、計器から目を上げた。
電子音が鳴って、回線が切れる。
計器の光だけがコックピットに残る。
機長が横目でこちらを見る。
「業務連絡か?」
「はい……すみません」
「そういうのもあるよな」
機長が笑う。
「さっきまで積乱雲で、あんな顔してたのに」
俺は照れたように笑った。
「揺れは、慣れてます」
ヘッドセットの内側だけ、熱がこもっていた。
「……こういうのは、慣れてないので」
機長が小さく笑った。
俺は、窓の外を見た。
雲の上に、
丸い月が浮かんでいた。
読んでくださって、本当にありがとうございます。
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