掌編小説|またあしたね
卒園式が始まった。
ホールの入口で、列の横に立った。
子どもたちの声がする。
この一年、毎朝聞いてきた声だった。
わたしのクラス、なのはな組の入場だ。
子どもたちが、順番にホールに入る。
緑の通園服のまま、
胸だけコサージュをつけていた。
わたしも続いて入りながら、
一人ひとりの顔を見た。
きょろきょろしている子。
唇をきゅっと結んで前を向いている子。
隣の子の手をこっそり触っている子。
全員の名前が、
顔を見ただけですぐに出てきた。
開会の言葉から始まり、
しばらく式は、続いた。
足をぶらぶらさせる子が、増えていた。
わたしは目で合図を送った。
気づいた子が、姿勢を直した。
卒園証書の授与が始まった。
他のクラスの子どもたちが、
壇上で証書を受け取る。
わたしのクラスの番だ。
「朝日 たつきさん」
たつきくん。
ケンカのあと、必ず謝りにいった。
それがずっと好きだった。
「風間 かのんさん」
かのんちゃん。
鉄棒のやり方を、
みんなに教えてたね。
「水瀬 ゆいさん」
ゆいちゃん。
普段はあんなに元気なのに、
人前に出るたびに固まった。
こないだの発表会でも、
舞台袖で、手を握ったまま離さなかった。
出番の直前まで。
ゆいちゃんが、壇上に上がり、
両手で証書を受け取る。
保護者席に向き直った。
保護者席の視線が、
ゆいちゃんに集まった。
ゆいちゃんの足が、止まった。
いつもなら、手を引いた。
「ゆいちゃん、おいで」と。
立ち上がりかけた。
口が、開かなかった。
言いかけた言葉を、飲み込んだ。
しばらくして、ゆいちゃんは
自分で席に戻った。
視界の端で、
お母さんが口を押さえているのが見えた。
わたしはまっすぐ前を向いたまま、
奥歯を噛んだ。
最後の子が席に戻った。
「それでは、
卒園児によるお別れの歌です」
子どもたちが席から立ち上がり、
保護者席のほうへ、体ごと向ける。
その瞬間、息を、飲む。
ピアノが、鳴る。
子どもたちが歌い始める。
不揃いな声が、
少しずつ重なっていった。
練習の時より大きく聞こえた。
けいとくんが、
誰よりも大きな声で歌っていた。
最初の頃、けいとくんは
いつも下を向いていた。
音程は外れていた。
でも一番前を向いていた。
こはるちゃんが、
口をいっぱい開けて歌っていた。
あんなに大きな声、
聞いたことがなかった。
全員が、前を向いていた。
この顔を、明日から見られない。
息がうまく吸えなかった。
唇を、噛んだ。
泣くわけにはいかなかった。
子どもたちは、
最後まで歌い切った。
ホールが、静かになった。
それから、すすり泣く声が広がった。
保護者席から。
先生たちの列から。
子どもたちだけが、
泣いていなかった。
式が終わり、クラスに戻った。
「みんな、今日の歌、
いままでで一番上手だったよ、
先生ね…………」
「先生、泣いてる!」
わたしは笑った。
笑いながら、涙が出た。
「泣いてないよ」
「泣いてるってー!」
何人かが飛びついてくる。
「先生、泣かないで!」
わたしはしゃがんで、
両腕を広げた。
小さな体が、全部あたたかかった。
みんな、大きくなっていた。
一つひとつが、痛いくらい届いた。
誰にも言ったことはなかったけれど、
この子たちのことを、
ずっとわたしの子どもだと思ってきた。
もう二度と、同じ日は来ないと、
言葉にしなくても知っていた。
立ち上がれなかった。
「みんな、おめでとう。
幼稚園、今日で最後だよ」
「知ってるよ!でも、
かのんちゃん、けいとくん、
ゆいちゃん、こはるちゃん、
みんな小学校一緒だから寂しくない」
そんな中、
ゆいちゃんだけが、
輪の外に立っていた。
わたしの顔を、
じっと見ていた。
やがて、こちらに来て、
言った。
「小学校でも、
田中先生のクラスがいいな……」
声が、出なかった。
間があった。
「……先生も……」
ゆいちゃんは笑った。
「よかった。そしたら、また小学校でね」
わたしは、
ゆいちゃんをぎゅっと抱きしめた。
すぐには、離せなかった。
手を、離した。
ゆいちゃんがお母さんの手を握って、
園の出口へ向かっていった。
またあしたね。
声には出さなかった。
背中が、遠くなっていった。
振り返ったゆいちゃんは、
目に涙をためたまま、笑っていた。
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※本作はフィクションです。他の作品はこちら👇
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