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短編小説|死ぬ予定ですが、母は今日も元気です|第1話

【あらすじ】
57歳の主婦・霜月直子は、
夫の誠と結婚して29年になる。

娘のさくらが結婚して家を出てから、
母親として忙しくしていた日々は遠ざかり、
夫婦ふたりの時間が戻ってきていた。

このまま二人で年を重ねていくのだと、
直子は思っていた。

けれどある日、
直子は自分に残された時間を知る。

そして同じ日、
さくらから妊娠を知らされる。

孫に会える日まで、残された時間が足りるのか。

直子にはわからなかった。

本当のことを話せば、
娘の喜びも、夫との食卓も、
今まで通りではなくなってしまう。

直子は本当のことを抱えたまま、
笑って、ご飯を作り、家族と話す。

終わりとはじまりが、いつもの食卓に並んでいる。

全5話で描く、ある家族の、いつもの時間。


第1話「同じ日に」



5月に入った頃から、食後だけ、
みぞおちのあたりが重かった。

鈍く痛む感じで、最初は胃炎だと思っていた。

好きだった唐揚げを、2個で箸を置く日が増えた。

2週間しても治らなくて、
かかりつけ医に診察してもらったら、
「精密検査を」と言われた。


大学病院の待合室は混んでいた。

先週受けた検査の結果を聞く日だった。

整理番号を持って、長椅子の端に座った。

隣に老人が座っていた。

スポーツ新聞を読んでいたが、
3分もしないうちに居眠りを始めた。

口が開いていた。


『霜月さん』

呼ばれて、診察室に入った。

ドアを開けたら、先生はもうモニターを見ていた。

椅子を引いて、座った。

先生が、わたしを見た。

「霜月さん、検査の結果についてお話しします」

わたしは先生の顔を見た。




「すい臓がんです」

先生が、モニターに目を移した。

「……周辺リンパ節と、肝臓への転移も確認されました」

モニターを見たまま、続けた。

「ステージ4になります」



わたしは1回、時計を見た。

秒針だけが動いていた。



「…………末期ということですか?」

先生が、わたしを見た。

うなずいた。


「手術で取り切れる段階ではありません。
 抗がん剤治療を中心に……」

先生が何か説明していた。

言葉だけが、通り過ぎていった。

わたしは先生の手元を見ていた。

キーボードに、一度も触れなかった。


しばらくして、先生が黙った。


「先生、聞いていいですか?」

「はい」

「わたし、あとどれくらい生きられますか?」

先生が間を置いた。

「発見が遅かった分、進行が早い状態です。
 個人差はありますが、一般的には、
 半年前後というお話になることが多いです」

手が、膝の上で止まった。

「ただ、現在の進行状況を踏まえると、
 4ヶ月前後を目安にお考えいただくのが
 現実的かと思います」

4ヶ月。

9月、10月?

去年、異常なしだったのに。

音として聞こえてから、
意味になるまでに、間があった。


「通院しながら、自宅で過ごしていただけます。
 必要であれば、私からご家族にもお話しできます」

「……そうですか……ありがとうございます」

そう言ったあと、
唇が乾いていることに気づいた。


「他に何かありますか?」

口が、動かなかった。

「…ここの駐車場って…」とわたしは言った。

「2時間超えると有料ですよね?」

先生が一瞬止まった。

「……はい。追加料金になります」

「ありがとうございます……帰らないと」

立ち上がって、ドアを開けた。


廊下に出たら、
においが濃くなった気がした。

消毒液と、古い空気と、
どこかから漂う柑橘系の飴のにおい。

エレベーターのボタンを押した。

中には誰もいなかった。

ドアが閉まると、壁に手をついた。

鏡に自分の顔が映っていた。

目だけが熱かった。

でも涙は出なかった。

出ないまま、1階のボタンを押した。



車での帰り道、ハンドルを握ったまま、
頭の中がうるさかった。

誠さんにどう言う。

今までみたいに、
「おかえり」と言えなくなる気がした。

さくらには——

右からクラクションが鳴った。

気づいたら、車の鼻先が交差点に出ていた。

信号が、赤だった。

ブレーキを踏んだのはそのあとで、
タイヤが鳴って、
体がハンドルに向かって前に出た。

シートベルトが食い込んで、止まった。

交差点に入っていた。

白い車が、右から来て前に止まった。
助手席側の窓が開いた。

20代くらいの男だった。

「あぶねーだろクソババア!死にてぇのか!?」

声が飛んできた。

車が走り去った。


わたしはまだ止まっていた。

クラクションが、また鳴った。

別の方向から、もう一度。

ハンドルを両手で握ったまま、
動けなかった。

あのまま行っていたら。

そこまで考えて、頭が止まった。

余命を告げられた日に。

赤信号を無視して、交差点に突っ込んだ。

「ばかじゃないの……」

息が漏れた。


「死にたいわけ……ないでしょ」

もう一回漏れた。

ハンドルに額をつけたまま、笑っていた。

後ろの車にクラクションを鳴らされて、
ようやく発進した。



家に着いたのは夕方だった。

「ただいまー!」

返事がなかった。

誠さんはまだ会社だった。

台所に立って、夕飯の支度を始めた。

冷蔵庫を開けた。

豚肉を取り出した。

右手が震えた。

フライパンを持つと、また震えた。

自分の手を見た。

「……なにやってんの」

声に出したら、笑えてきた。

深呼吸して、もう一回持った。

今度は大丈夫だった。

玉ねぎを切り始めた。

目が沁みた。

玉ねぎのせいにした。



玄関のチャイムが鳴ったのは、
夜の7時を過ぎた頃だった。

この時間に来客は珍しかった。

ドアを開けたら、
さくらと拓也さんが並んで立っていた。

「遅れてごめん、これ、母の日」

さくらがカーネーションを差し出した。

「急に来ちゃった!」

さくらが照れくさそうに笑った。

「いいのよ、家族なんだから!上がって」


リビングに通して、
立ったままテーブルの上を片付けた。

花瓶を出して、カーネーションを挿した。

「きれい……わたしみたいね」

拓也さんが、苦笑いした。


「あのさ……」

さくらが、拓也さんを見た。

「おかあさんに報告があって」

「なに、拓也さんがおかあさんに告白?
 ごめんね、わたし誠さんいるから!」

拓也さんが「えー!?」と言った。

さくらが「違う違う!」と笑った。



「赤ちゃん……できた」

さくらがお腹に手を当てた。

両手で、包むように。

「やっと落ち着いてきたから、今日報告!」


「……え」

「おかあさん?」

「ちょっと待って……よかった……」

声が震えた。

「本当によかった……え、待って。
 ……そっか。わたし、おばあちゃんか」

さくらが
「そうだよ。
 おばあちゃんが泣いてまーす!」
と言った。

拓也さんが
「すみません、急ですよね……」
と頭を下げた。

「ううん、謝らないで。
 心の整理が追い付かなくて。
 でも……
 拓也さんのこと、これで本当に家族だと思えた」

拓也さんが
「ありがとうございます…」と言って、
目を赤くした。

わたしは拓也さんの背中を思い切り叩いた。

「泣くの早いって!パパ、しっかりしてよ」

さくらが「お、おかあさん!」と言った。

拓也さんが「す、すみません」と言った。

3人で笑った。


お茶を入れて、3人で飲んだ。

さくらが「つわりがひどくてさ」と言い、

拓也さんが
「それはもう大変で、
 僕が料理してるんですけど
 全然食べてくれなくて」と言い、

さくらが「だって下手くそなんだもん」と言い、

拓也さんが
「レシピ通りにやってます」と言った。

「最近どう? 食べれてる?」

「うん、だいぶ落ち着いてきた」

「じゃあ夕飯食べていきなよ。
 ちょうど今日、しょうが焼きだから」

「やったー!」とさくらが言った。


わたしはさくらのお腹を見ていた。

まだ目立たない。

さくらの手が、お腹の上にあった。


誠さんが帰ってきたのは、それから少しして。

「ただいまー!
 あ、さくら来てたのか。拓也くんも」

「おかえり!おとうさん、聞いて聞いて!」

リビングから笑い声がした。

わたしは台所でお湯を沸かしながら、
その声を聞いていた。

台所の入口から、顔を出した。

誠さんが、何か言っていた。

さくらと拓也さんが笑った。


台所に戻って、しょうが焼きを皿に盛った。

テーブルに置いた。

誠さんが冷蔵庫から、マヨネーズを持っていった。

「またかけるの?味ついてるでしょ」

「うまいんだよ!」

誠さんがしょうが焼きにマヨネーズをドバドバとかけた。

「やば、この人」とさくらが笑った。

「この人とはなんだ。誠ちゃんと呼びなさい」
と誠さんが言った。

拓也さんが「え……」と引いた。

空いた湯呑みを持って、台所に戻った。


「出産予定日は11月で……」

さくらの声が、リビングから弾んだ。


壁のカレンダーが目に入った。

11月。

しばらく、そこを見ていた。


出産まで、あと5ヶ月と少し。

わたしに残された時間は、4ヶ月。



1ヶ月、足りなかった。



テーブルのカーネーションが、目に入った。


「お茶、もう一杯いる?」

リビングに向かって声をかけた。

「いるー!」とさくらが言った。

「拓也くん、ビールにしようぜ」と誠さんが言った。

「俺、車なんです」と拓也さんが言った。

「じゃあ泊まってけよ」と誠さんが言った。

「おとうさん!急だから!」とさくらが言った。

リビングで、また笑い声が上がった。


やかんの火を止めた。



言えない。



・・・続く

第2話「目も笑ってたよ」


読んでくださって、本当にありがとうございます。
※本作はフィクションです。

マガジン(第1話~最終話まとめ)


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