5分で読める短編小説:独白
澄んだ雲を見ていた。
昨日見た星空の光と重ね合わせるように。
遠い後悔という名の霧に隠れた、君と過ごした思い出が今も脳裏にこびりついて離れない。
「一体何処で間違えたのだろうか。」
ある片田舎の駅から離れた小さなワンルームで男は呟いた。
彼がその廃れた借家を住処として選んだのは、ただ単に家賃が安価であるという理由のみであった。彼は元々東京のある小さな映像制作の会社に勤め、糸を紡ぐように細々と日々を紡いでいた。しかしある時、原因不明の病にかかり右の眼の視力を失ってしまったことで彼は職を追われ路頭に迷ってしまったのである。
そうして彼は東京都心のアパートを追われ、失意のうちに現在の借家へとたどり着き、蓄えた貯金を切り崩しながら何とか生き長らえているところであった。
特に生産的な行為に取り組むというわけでもなく、世俗的なものからは極力距離を置き日々惰眠と腹を満たすためだけの食事を繰り返すだけの毎日であった。
そんなある日彼は車窓から流れる景色をぼうっと見つめながら、電車に運ばれていた。
彼はあてもなく旅へと出ることにしたのだ。
彼がそう思い立ったのには、何か直接的な原因があったわけではない。眠れない夜にふと親しい友人の声が聞きたくなるように衝動的に何処かへと向かいたくなったのだ。
自己嫌悪と憎悪にみちた頭を垂らしながら彼は五年前の幸せな日々、幸せであった日常のことを考えていた。
五年前、彼がまだ学生であったとき、ある一人の女性と共に暮らしていた。
彼女はまさに純粋無垢という言葉そのものであった。
記憶の中の彼女は、まだ幼さが残る顔立ちで笑っている。彼と彼女の間には3年弱の年の差があり、身長は自分より二回りほど小さく、彼女の誕生日に彼が奮発して購入した透明感のある黒色のショルダーバッグを掛けていた。
夕日で、白い肌がほんのりと色づいており、きめ細やかな短髪が河川敷に吹くそよ風で僅かにたなびく。
「帰ろうか。」
そう言って彼女はまたそっと笑みを浮かべた。
彼は彼女のその花がほころぶような笑顔を見るのが何よりも好きだった。
車窓の向こうの山並みはうっすらと初夏の青を纏い、透明水彩のように広がっている。
映画のシーンが切り替わるように風景は次々とその姿を変えていく。
彼女には思春期特有というのだろうか、多感な年頃の精神的な不安定さがあった。
学校にはあまり通わず一人部屋にこもり泣いていたり、夜中になると町へ繰り出し放浪したりするのが常であり、時には左腕の同じ場所にカッターの跡が見えたりもした。
彼女の育ってきた家庭環境は誰から見てもとても良いものとは言えず、その影響が彼女に大きな影響を与えていたのかもしれない。父親は一言でいえばマザーコンプレックスであり言動に母(彼女からすれば祖母に当たる)の意志が深く影響する傾向があった。一方母親はそのストレスもあってかアルコール依存症となっていたらしい。
知っていたことはそれくらいで、彼自身も彼女の家族環境に関しての知識を殆ど持ち合わせてはいなかった。
当時、彼は彼女の悲しみを拭い去ろうと躍起になっていた。カメリアコンプレックスに陥っていたのかもしれない。。
彼は彼女の支えとなり、必要とされる存在となっていることにこれ以上無い喜びを覚え、それが自分の存在意義であるとさえ感じるようになっていた。
実際彼女は事あるごとに話を親身に聞き、相談に乗ってくれる彼に対し絶対的な信頼を置いている様であった。
こうして二人は一種の共依存的な関係のようなものによって結びついていた。
ふと気が付くと列車から見える景色は夕暮れへと変わっていた。
木製の桟橋の上を2羽のカワセミが仲睦まじく飛んでいる。
二人の関係に小さな綻びができたのはいつだろうか。
最初は水回りの掃除を忘れていたとか、洗濯物の干し方が粗雑であったとかそんなくだらない事であったのかもしれないが、今となってはよく覚えていない。ただ単に出会った頃の熱情が徐々に冷めてきただけかもしれない。
二人は少しずつ口論をすることが多くなっていた。
ある日、いつものたわいない喧嘩のさなか、彼は必要以上に強く彼女を罵った。
その言葉には彼女を芯から否定する鋭さがあった。
学校や当時していたアルバイトの疲れのせいなのか、彼女がいつも抱いていた孤独や不安を受け止める心の余裕がなかったからかもしれない。
彼女は酷く泣き喚き、荷物も何も持たず二人の家を飛び出していった。彼は部屋に残り彼女を追うことはしなかった。
そうして一週間後、彼女は “今までお世話になりました” とだけメッセージアプリの履歴に残し、彼の元を去っていった。こうして二人の関係は幕を閉じた。
もう当たりはすっかり夜になっていた。
車窓からはもはや何も見えず、列車の中の光景と自分の顔が反射して見えるだけである。
彼女が出て行ったあと自分がどう生活をしていたのかはあまりよく覚えていない。
かつて彼女の部屋だった空間はいつまでもがらんどうとしたままで、彼の胸に空いた穴を表しているかのようであった。その後彼は学生を卒業すると同
時に就職し、東京のアパートへと引っ越していったのであった。
車両は終点へと到着し、彼はまた別の列車へと向かう。
今も変わらず心の奥底で、夕暮れの中小恥ずかしさで顔を深く染めた彼女が笑みを浮かべている。彼女は今どこで何をしているのだろうか。何処かで知らない土地で幸福に暮らしてくれていたらいいと思う反面、独善的で傲慢な心がこう思う。
“もう死んでいてくれていたらいい“と。
自分と過ごした幸福の日々を最後の幸せな思い出として、彼女の時間が止まっていたらいい。どこかで自分より優良な男と幸福な家庭を築くことなどせず、自分との別れを後悔しながら幸せだった自分との日々を最後に、命を終えていて欲しいと。
これはただのどこにでもあるつまらない話だ。
結局のところ俺は君のことを忘れられないまま少しずつ年を重ねていくのだろう。
エンドロールが終わり、また別の物話が始まるように。
俺は旅の途中、一筋の小説を書いた。
この話の続きは俺にしかわからないのだ。
