時給18円のレシート入力から、「川下り」のキャリアを肯定できるようになるまでの話
スマホで撮影されたレシートの文字を、ひたすらエクセルに打ち込む。品名、金額、日付、品名、金額、日付……。
40,000文字を打ち込んで、報酬は750円。時給に換算したら、18円だった。
1時間働いても、島の自販機のさんぴん茶ですら買えないじゃん! 早々に心が折れた。
2020年、沖縄・竹富島。人口約350人、コンビニも信号もない島で専業主婦だった私は、打っても打っても終わらないレシートと向き合っていた。
あれから6年。今では、日本最大級のビジネス系ニュースサイト「東洋経済オンライン」にアイドルにまつわるコラムを寄稿したり、エンタメ系の媒体でライブレポートやアーティストインタビューを担当したり。全国の小・中学校でキャリア教育教材として活用される『おしごと年鑑』の制作にも毎年関わっている。ありがたいことに仕事は途切れず、扶養も抜けた。
自己紹介で経歴の話をすると、驚かれる。
「専業主婦からいきなりライターを始めたんですか?」 「どうやってなったんですか?」
……と書くと、キラキラした成功譚に見えるかもしれないが、安心してほしい。これは、隠れた才能が開花する話でも、一念発起して血のにじむ努力が実る話でもない。「こわい」「自分には無理」「失敗する」とつぶやきながら、それでもオロオロと進んでいたら、気づけばここにいた——そういう話だ。
だからこの文章は、挑戦する前から「自分なんてどうせ」とブレーキを踏んでしまう人に向けて書く。何かを始めたい気持ちはあるのに、もう遅い気がしている人。履歴書の空白を、夜中にひとりで責めてしまう人。ぜんぶ、かつての私だ。
読み終わる頃に、「この人にできたなら、私も半歩くらい出してみようかな」と思ってもらえたら、これほど嬉しいことはない。
目標に向かってコツコツ取り組めない
「やってみないと、楽しめるかどうかわからないじゃないか」
何事においても、そう思って目の前のことに取り組んできた。自分の「強み」がわかるというストレングスファインダーで「適応性」が1位と出たのも、無理はない。過去にこだわらず、未来を固定せず、常に“今”を見ている。それが私なのだ。
裏を返せば、自分で「◯◯をやりたい」と旗を立てて進むのが、とても怖かった。「やりたいと言ったのに、できなかったらどうしよう」。そんな不安があったのかもしれない。いつからか、私の中にはひとつの思い込みが住みついていた。
「自分で選ぶと、失敗する」。
だから大事なことほど、自分では選ばないようにしてきた。例えば、受験する高校も2つで迷って決め手は母の「近い方がいいんじゃない?」だし、大学の第一志望も担任から「吹奏楽部の副部長をやってたあなたなら、ここがいいと思う!」と勧められたからだし。
そのくせ、何をしても2年ほど経つと新しいことをしたくなってしまう自分に、ダメだなあと思っていた。
「小学生の頃から片づけ雑誌を見るのが好きで家中の整理をしていました。今は整理収納アドバイザーをしています」とか、「20歳の頃から料理人一筋、世界的な料理コンクールで入賞」とか、「40歳で出会ったヨガが自分にとても合って、ヨガインストラクターに」とか、とか……!
「人生を懸けて取り組むのはこれだあ!!」
と開眼する瞬間がいつかやってくるのでは? という憧れを長年持ち続けていた。いや、今でも持っているかも。
しかし、私は昔から、長期的な目標を立てるのが苦手だ。その代わり、短期決戦は割と得意。
例えば、高校時代は、受験勉強もそこそこに部活や文化祭を満喫し、半年間のラストスパートで第一志望の大学に現役合格。しかし、入学後は周りの勉強熱心さに「自分はここにいていいのか」という感覚になって恥ずかしくなった。最小の労力で、ギリギリ卒業。
就職活動は、頭を抱えた。教育学部だったため、友人たちは教員採用試験に向かって勉強をしている。しかし、「教員」の仕事の重さを考えると、「自分にはとても務まらない」とハッキリ思った。就活では「好きだから」という理由で、漫画や雑誌の編集者、アパレル、エンタメ企業をちょこちょこ受けたり。なんとな〜く就活をしていた。
偶然出会ったリゾート運営会社に内定をもらえて、東京の実家から長野の寮へ。新卒2年目に社内公募に手を挙げて憧れの「広報」職についた。最初は要領よく仕事を覚えて目の前のことに夢中だったものの、広報も2年目になると、気持ちがしんどくなっていった。
よくもわるくも「行き当たりばったりでなんとかなってきた」人生。コツコツ努力するのは苦手で、社会人になって「5年後のキャリアプラン」を問われても、全くピンとこない。
「このまま働くのかなあ」「どうなりたいんだろう」と、思考のぐるぐるが止まらない。プロフェッショナルを目指す? 管理職にも興味は持てない…。じゃあ、どうするの? じっくり考えても頭に浮かぶのは、「毎日楽しく過ごしたい」ということばかり。じゃあ、私にとっての「楽しい」って?
そもそも、私はずっと子どもが欲しかった。子育てをしながら、バリバリ働くなんてかっこいいじゃん、みたいなことをふわっと考えていた。そう、とにかくもうデパートでもらう風船のようにふわっふわな考えしかなかった。
そして、25歳で結婚して、26歳で出産。産休に入るときは、「仕事から離れられること」にどこかほっとしていた。目の前の子どもが可愛くて子育てが楽しすぎて、仕事への情熱は年々薄れていった気がする。

専業主婦になった理由と6年間の空白期間
2014年、なんだかんだ大きな挫折がなかった人生において、いきなり超弩級の大きな壁が現れた。
東京で暮らす母が、末期のがんで長くないと告げられたのだ。最初に受診した病院でいきなりホスピスを探すことを勧められた。当時、母は50代で、私はまだ29歳。京都で仕事と3歳と1歳の息子たちの子育てに奔走していたころだ。
実家の父が思った以上にショックを受けていて、「受け入れるしかない」モードになっていた。私は、仕事の合間に病気にまつわる本や記事を読みまくった。父に連絡して、「セカンドオピニオンを受けた方がいい」と伝えるなど。また、家族ががんになった方の体験記を読み、どんな風に接していたのか、過ごしていたのかもよく読んでいた。頭がいっぱいで、仕事はまったく手につかない。仕事をする気が起こらない。
この事情を会社に伝えたところ、夫に東京への異動の打診をしてくれた。東京にいたら、母の近くで過ごせる。これを機に、私は退職を決めた。
今思うと、退職せずに私も異動して仕事を続ける選択肢もあっただろう。でも、仕事と子育ての両立に限界を感じていたところに、親の病気がわかり、キャパオーバーだった。
年度途中で異動して、引越しの家探し。引越し先で子どもたちの保育園は見つかるのだろうか? 仕事をしていたら、母と過ごす時間はほとんどないかもしれない。
色々なことを考えていると、考えることがめんどくさくもなった。こういう悩みをあまり人に相談もしていなかったし。夫も、「しんどければ退職したらいいよ」と言ってくれた。
ただ、私の親世代の女性で唯一、ずっと働き続けていた叔母からは「仕事は手放さない方がいいよ」と言われていたことを思い出す。当時、ワーママ向けのメディアや雑誌もよく見ていて、「細くていいから仕事は手放さないほうがいい」と言われていたことも知っていた。
世の中の人は、親が亡くなっても働いているのにな……。そんな自分へのダメ出しの気持ちが頭の中によぎりながらも、退職を選んだ。
退職するとき、いろいろな人にご挨拶をしたところ、憧れの上司が声をかけてくれた。当時は広報チームのリーダーをしてバリバリ働いていた方で、実は専業主婦の期間が長かったらしい。
「焦らなくても大丈夫。私は三男が小学校に入るまで待って、週3日のバイトから始めたのよ。でも後悔はないよ」
ありがたい言葉だった。改めて、入社するときの決め手は「出会った人のすてきさ」だったけれど、その印象のままの会社だった。美しい景色やものに触れられたのもかけがえのない経験だった。離れることが惜しい気持ちにもちょっぴり。
こうして、専業主婦になった。母は、転院先での治療が功を奏して、出かけられるくらい安定した時期を過ごせていた。病気のことを忘れて、近くで生活をしながら一緒に買い物に行くことも。元々、子どもは3人欲しいと思っていたこともあって、2015年に女の子が生まれた。
「1人は女の子がいるといいよ」
いつも私にそう話していた母は、誰よりも喜んでくれた。母の容体が急変して、坂道を転がり落ちるようにあっという間に見送ることになったのは、娘がまだ半年のころだ。
「私は母に何ができたのかな」という無力感。しかし、先ほどの叔母が「近くで暮らして孫3人と過ごせて、絶対幸せだった。ゆいちゃんがしてきたことはすごいことなんだよ」と声をかけてくれて、救われた気がした。
ここから、「人はいつどうなるかわからない」「自分の好きなことをしよう」と、強く意識するようになって、ゴスペルやピアノを習ったりもした。
でも、現実問題、趣味をするには、お金がかかる。“自分に収入がないことの負い目”が、砂時計のように年々じわじわと積み重なっていく。気づけば、専業主婦になって5年が経っていた。
「主婦歴」が長くなるほど、社会で働くことへの自信がなくなっていった。履歴書に書ける経歴が増えない。資格も取っていない。子どもの送り迎えと家事で毎日が終わる。
「大学まで行ったのにもったいない」。
誰にも言われていないのに、自分で自分にそう言っていた。「自分には何のスキルもない。もうどこにも就職できないかもしれない」。本気でそう思っていた。ブロガーになろうか? Instagramガチろうか? 頭に思い浮かぶも、ちょっと試してみては続かない。覆面調査員のサイトに登録してポイントをもらったり、ポイ活をしたり、ママ向けの単発仕事サイトに登録したり、少しずつ収入を得ることを模索し始めた。
時給18円からの再スタート
2019年、夫が沖縄の竹富島に転勤することになった。この話を聞いたとき、「面白そう」と思った。
人口約350人。Amazonの荷物が届くのに10日かかる(でも送料無料なのは神)。コンビニもスーパーもないどころか、信号すらない。海がきれいで、空が広くて、時間がゆっくり流れる島。ここで暮らす人は、そうそういない。「会社の異動で経験できるなんて、面白いじゃん!」 って思ったのだ。

島には幼稚園がなく、保育園しかない。専業主婦でも、「求職中」にすることで子どもを預けられる。子どもたちが学校や保育園に行っている間、思いがけず家に一人でいる時間が増えた。友達も少ないし夫も仕事である。というか、島の人たちみんな忙しいんだ。何かしら仕事や役割を持っている! 人恋しさや寂しさを覚えるようになった。
「何か仕事をしようかな……」
と思うも、接客業はあまり向いていないとの自認だし、毎日同じ場所に出勤することも苦手だ。うーん。その頃、Instagramのフォロワーさんが1,500人になっていたけど、これが仕事になるとも思えない。
なんだかんだで島での暮らしに慣れることに精一杯だった1年目を過ごして、2年目の2020年。コロナ禍になったことで、在宅ワークが広がり始めた。在宅ワークや副業について調べていたところ、インターネット上で業務委託の仕事を得られる「クラウドソーシング」という仕組みと出会った。
最初はアンケートに回答して50円、というような単発の作業をいくつかやって、仕組みを把握。継続した作業として、「レシート入力」に取り組むことに。
——そう、冒頭の時給18円である。
打っても打っても終わらない作業に、正直心が折れそうになった。同じ作業を繰り返すことがそもそも苦手だということも認識。苦手なことが多すぎる。めっちゃ苦しい。とてもじゃないけど続けられない!
次に、「Webライティング」の仕事を知った。YouTubeやブログで仕事の得方を発信している人たちを見ながら、見よう見まねで仕事を探し始めた。見つけたのは、文字単価が0.1円のライティングの仕事。
文字単価とは、1文字あたりの単価のことで、この場合は2,000文字書いて200円もらえる。子どもの肩たたき券のほうが、まだ単価がいいのでは? そうよぎりながらも、初心者歓迎だったので応募したところ採用してもらえた。必死に調べて、構成を考えて、書き上げて。何時間かかったんだろう……。実績として表に出せるわけでもなかった。
「やっぱり0.1円っておかしいよな」
SNSで「搾取案件」に気をつけて、と発信するライターも見かけた。搾取案件とは一体何なのかいまいちわからなかったものの、違和感を抱いたので、早々にこの仕事からは離れた。
そこから、YouTubeや書籍、SNSなどを見ながら、なんとなく目指す方向を2つ定めた。
「まずは文字単価1円を目指そう」
「記名記事を書いて、それを実績に他の媒体に応募しよう」
そう思って、少しずつ案件を探し始めた。すると、文字単価2円の子育てメディアでの記名記事の仕事と出会った。これは、専門家的な経歴が必要で、私が小学校の教員免許を持っていたから採用されたようだった。
さらに、子育て関連のプロダクトを扱う企業がHPに載せる「導入事例記事」(自社の製品を使った取引先にインタビューをして、使った感想や効果などを答えている記事)を書く仕事も請けることに。
この仕事は、採用枠が1人のところに40人くらいエントリーしていた。激戦のなか、私1人採用してもらえたことで、小さな自信が芽生えた。
「どうして採用してもらえたのだろう?」と尋ねてみると、広報や子育ての経験があったこと、そして応募した文章を読んで「商品を理解して書いてもらえそう」だと感じたとのことだった。なるほど……! ちなみに、フリーランスとして、採用されたり声をかけられたりしたときに、理由を聞くのは次の仕事につながるヒントをもらえておすすめ。
先輩からのアドバイスで視野が広がる
しかし、早々に1人で仕事を進めることに行き詰まった。「こういう場合、どうしたら?」が積み重なっていたころ、Twitter(当時)でとあるnote記事に出会った。
旅やご自身の体験を文章にしていた、ライターの中村洋太さんが書いた、「Webライターが単価を高めるためのアドバイス」というnote記事だ。当時、Webを中心に記事を書いていたライターの中で、大きく話題になっていた。
さらに、この中村さんがライターのキャリア相談に乗ることになったと、Twitterで見かけた。
「私も相談したい!」
そう思って、中村さんにDMを送ったときの緊張たるや。自分から声をかけるのが苦手な私は、変な文章になっていないかな? 失礼じゃないかな? と不安でいっぱいだった。すぐに返信をもらい、LINE通話で相談をすることに。
すでに公開していた導入事例記事を見てもらったところ、こう言われた。
「よく書けています。プロとしての仕事だと自信を持っていいと思いますよ」
えっ。
正直、かなり驚いた。そして、すごく嬉しかった。さらに、これまでの経歴を話すと、中村さんは言った。
「由衣さんのこれまでの経験が、全部活きているんですね」
そう言われて気づいた。
大学時代に塾のアルバイトで小学生と中学生に国語を教えていて、受験生の作文添削もしていたこと。
会社では広報としてプレスリリースやHPの文章を書いていたこと。
さらに、育休中に何か勉強をしようかなと、本当は英語の勉強をするべきところを、「学生時代得意だったから」という理由で「日本語検定」の勉強をして2級に合格していたのだ。(日本語検定は、日本語の文法など正しい運用能力を学べる)
とはいえ、どれも経験としては弱い。「経験がある」と言っていいのかわからなかったし、「職務経歴書には書けないでしょ!?」 と思っていた。けれど、思いがけずライティングスキルの基礎になっていたのか!!
それと、もう一つ、今後の流れを大きく変えるアドバイスをもらった。
「絶対に竹富島暮らしをプロフィールに入れたほうがいいと思います。人口350人の島で暮らしたことがある人って、どれほどいますかね?」
竹富島で暮らしていること。専業主婦として子育てしてきたこと。転勤族の妻として各地を転々としてきたこと。「キャリアにならない」と思っていた経験が、活きる場所がある。そう思えたのは、この言葉があったからだ。
ライター講座に参加してみた
そのころ、あるライター講座に出会った。Twitterでフォロワーが10万人を超えるインフルエンサーで、ライターの“5歳”さん主催の期間限定ライター講座「ぶんしょう舎」だ。(ちなみに、5歳さんは今や“麻婆豆腐の人”になっており、渋谷に店舗を開店させたばかり! おめでとうございます!)
講師は、文章術の本を出しているコピーライターの方や、ウェブでのバズがきっかけで書籍を何冊も出して脚本まで手掛けるようになった方など多種多様。
「面白そう!」と飛び込んだ。同じ時期にWebライターを始めた人たちが、続々と申し込んでいたし、何より、月3,000円で課題も出て、添削もしてもらえるという良心的な価格も決め手だった。
子育て本や絵本ばかり読んでいて、ウェブ記事をほとんど読んでいなかった私は、Twitterで話題のインフルエンサーや文筆家、ライターのことをほとんど知らなかったので、登壇している方もその時初めて知った方ばかり。
だからこそ、毎回楽しくて仕方がなかった。
知らない世界を知るのが楽しかったし、島にいながらオンラインで講義を見られること、人生初のSlackでのやりとりなど全てが新鮮。講義の動画を家事をしている間も何回も見返していた。
あのころの自分は、乾いたスポンジが水を吸収するような感じだったのかも。それまでの空白があったからこそ、“学ぶこと”に貪欲だったのかもしれない。
さらに、講座の課題として、子育て中にどハマりしていた「木のおもちゃと子育て」のことを書いて提出したところ、5歳さんに言われた。
「かたおかさんって、オタクですよね? 『好きなこと』を書かせたら、相当いい文章を書くタイプですね」
(バレてる。)
さらに、「講座の受講生の書いた記事の添削をしてほしい」という打診までいただいた。しかも仕事として……!
まあ、私の悪いくせで、添削がこわい、記事を書くのがこわい、みんな文章が上手ですごい、と人と比べたりこわがったり、揺らぐこともたくさんあった。それでも、声をかけてもらえたことや、その後仕事もいくつかご一緒したこともまた、自信をもらえる出来事だった。
ちなみに、ぶんしょう舎の卒業生には、本を出版した人が複数名いたり、最大手ビジネスメディアでインタビュー記事を書いているライターが多数いて、みんなすごいなあと今でも同期のような心境で見守っている。(中には、創作大賞で受賞して本を出している方もいます!)
自ら企画の売り込み営業へ! 突然軌道に乗る
学びと並行しながら、色々なメディアに企画案とともに営業をするようになった。noteにも離島での暮らし、子育ての日々、自分が感じたこと、好きなこと、ものなどを書き始めた。
するとある日、営業メールを送った小学館が運営するWebメディアの編集さんから返信が届いた。
「片岡さんのこれまでの記事、noteにあるものも含めて読ませていただきました。ぜひ、お願いできればと思っています」
しかも、「島で暮らす人へのインタビュー記事を書いてもらえませんか」という依頼だった。自分が考えた企画ではなくて、noteで書いた島暮らしの日記のような文章を読んで、こう言ってくれた。中村さんからの助言が、このようにつながるとは。
ありがたすぎるし、光栄すぎる……!!!!
一方で、正直こわい気持ちもあった。緊張しいで、人に自分から声をかけることに強い苦手意識がある私は、「インタビューを依頼して、その人について記事を書くなんて、自分には無理」と思っていた。
でも、編集さんはこう言ってくれた。
「片岡さんが話を聞いて、目で見て、その人のキラッと感じた部分を書いてほしいです!」
この言葉は今でも私の中に残っている。勇気を出して、初めてのインタビュー記事を書いた。一眼レフカメラも買った。このときの記事は、今でも自分らしさを感じるお気に入りだ。もうサイトはなくなってしまったのだけど、noteに転載する準備を進めている。
同じころ、Twitterでたまたま見かけた投稿があった。
「知り合いの編集者が子育てメディアのライターを募集しています」
詳細を問い合わせてみたところ、講談社の子育てメディア「コクリコ」だった。新しいメディアだったこともあり、竹富島暮らしの子育てについて連載させてもらえることになった。こうして始まったのが、「離島暮らしの子育てと学び」だった。
なんと、ライターを始めて1年足らずで、小学館と講談社のウェブ媒体で連載を持つことになったのだ。
うまくいきすぎて、詐欺を疑うレベルでこわかった。
「こわい気持ちを持っている書き手の方が安心できる」。ある編集者さんにそう言われたとき、少し救われた気がしたけど、それでもやっぱりこわかった……!(こわい言い過ぎですみません)
この時の連載は、のちに1冊のZINEにもまとめた。

家族の記録を“本”という形に残せたことも、とても嬉しい。
エンタメメディアで書くことに
ここから、またもうひと展開ある。
竹富島での暮らしは、私にもうひとつの出会いをくれた。2020年1月。デビューしたばかりのアイドルグループ“SixTONES”にハマったのだ。
家に一人でいる時間が長くて、寂しさを感じていた。「新しいグループがデビューするんだ〜、へ〜」と何げなく見ていたテレビで、デビューしたばかりとは思えない実力や、トークスキルに驚いた。
YouTubeチャンネルもあるらしい。彼らの動画をなにげなく見始めると、仲の良さや、デビューできるかわからない不安な時期が長かったことなど、次々と詳しくなっていった。
「この人が好き!」
なかでも、メインボーカルのひとりでミュージカルなどでも活躍する実力派・京本大我さんがひときわ輝いて見えた。こうして、「嵐」以来、10年ぶりにファンクラブに入った。
いそいそとツアーに申し込むと、「熊本公演」が当選。このとき、竹富島からだったから「近いな」と思った。いや、冷静に考えたら全然近くない。飛行機の距離だ。でも、島で暮らすようになったからこそ、飛行機に乗ることのハードルも下がっていた。「推し」がいる生活は、想像以上に世界を広げてくれたのだ。

アイドルについてコラムやレビューを書く「エンタメライター」の仕事を認識したのもこの頃。好きな気持ちを抱えながら、好きすぎてなかなかnoteに書けずにいたのだけれども。SixTONESを好きになって2年ほど経った2022年に、好きになった経緯をnoteに書いたところ、次々と拡散され、200を超える「スキ」をもらった。
このnoteを実績の一つにして、勇気を出してエンタメ媒体に問い合わせてみることに。こうして、島にいながら、エンタメのコラムを少しずつ寄稿するようになった。アイドルだけではない。子どもたちとハマった「スーパー戦隊ヒーロー」についてもコラムを書いたことがある。気づいたら、好きなことについて書けるようになっていた!
関東に戻ってさらに仕事が広がる
2023年春、竹富島を離れ、埼玉に移り住んだ。
ライターの仕事は続けていた。首都圏に引っ越したことをSNSで発信したり、知人に伝えたり。新しい媒体にも営業をしたことで、都内での取材の仕事をもらうことも増えた。
東京出身だったけれど、地元は“ほぼ神奈川”と言われる町田。都心には全く縁がないまま、社会人になってすぐ地方へ行った私。40歳すぎた今、都内に出かけることが新鮮で面白い。
2025年夏。SNSでやり取りをしたことのあった編集者さんから、大型アイドルグループのドーム公演のライブレポートの相談をもらった。まず、相談してくれたことがとてもありがたい。ライブの翌日にレポートを送るというスピード感だ。これまでイベントレポートや記者発表などの記事も書いていたので、近い感覚で書いた。
5年前、レシートを打ち込んでいた私が、仕事としてステージを見つめている。不思議で仕方がなかった。
オフラインのイベントや講座にも足を運んだ。2025年、東洋経済オンラインの副編集長の岡本拓さんと、ライターの谷頭和希さんによる「実践!ビジネスライター完全攻略マニュアル」を受講。課題として書いたエンタメ解説記事が、東洋経済オンラインに掲載された。
テーマは、timeleszのオーディション番組「タイプロ」。ハマりにハマった番組について、ビジネスの視点から分析する記事を書いた。
「好きなこと」と「仕事」が重なった瞬間だった。
2作目に書いた、timelesz・篠塚大輝さんの分析記事の反響が特に大きく、公開から3日で、東洋経済オンラインの公式Xのポストが130万回表示を超えていた。8,000いいね。2,700リポスト。ランキングで3位に入った。
どんどん増える通知や引用に、ドキドキするやらそわそわするやら。Yahoo!ニュースにも載って、コメントがたくさんついた。
そのほとんどが、彼らを応援する人からの好意的なコメントだった。
以前は「Yahoo!ニュースに載るような影響力のある媒体で書くのはこわい。どんなコメントを書かれるかわからないから」と思っていた。
でも、今は東洋経済オンラインで書いて、コメントとも向き合っている。恐れていたことは、意外と起こらなかったりするんだなと知った。
仕事と家族、どちらも大切にしたい
ある時は、息子が大好きな本の監修者に取材する機会があった。
何度も読み返して、ページがボロボロになるほど愛読していた本。その監修者に、私が話を聞くことができる。なんとも不思議な気持ちだった。
子どもと一緒に見ていた動画クリエイターユニットへの取材が決まったときは、娘がその方たちの似顔絵を描いてくれた。
取材のときに持っていこうかな。でも、仕事の場に子どもの絵なんて……。
迷っていたら、編集さんが「いいじゃないですか! 渡しましょう!」と背中を押してくれた。結果的に、その似顔絵のおかげで、和やかな雰囲気でインタビューすることができた。
今、わが家の3人の子どもたちは、学校に行っていない。学校に行こうとすると、頭痛やめまいが出るのだ。長男が小学校2年生のときに登校しぶりを始めて以降、行ったり行かなかったりを繰り返してきた。もちろん、悩んだ。「どうしよう」「私のせいかな」「この先どうなるんだろう」と不安でいっぱいだった。
でも、あるときから考え方を変えた。
彼らは学校という「会社」に所属しないだけで、学ぶことをやめたわけじゃない。「フリーランスの小中学生みたいだな」と思えてきたのだ。私もフリーランスとして、複数の仕事を組み合わせて働いている。子どもたちもフリースクールなどいくつかの居場所と出会い、組み合わせて学んでいる。似てるな…!!
私は、目標を決めて、計画を立てて、一歩一歩登っていくような、いわゆる「山登り型」の人生を歩んでいない。どちらかというと「川下り型」だ。流れに乗って、目の前に来たチャンスをつかんで、気づいたらここにいた。
——と、ずっと思っていた。でも、この文章を書きながら気づいたことがある。
0.1円の案件から離れたのも、緊張しながらDMを送ったのも、「面白そう!」と講座に飛び込んだのも、営業メールを送ったのも、全部、小さな「選択」だった。「自分で選ぶと失敗する」と思い込んで、大きな旗を立てることから逃げてきたと思っていたけれど、実は、川の流れの中で、そのつど小さく選び続けてきたのだ。
何をやっても長続きしない、中途半端な自分。地域の人に人見知りして、友達がなかなかできない自分。ウジウジ悩みがちで、人と比べた自分の現在地や、周囲からどう見られているかで、気づくと頭がいっぱいになっちゃう自分。それは今も変わらない。
でも、自分の過去からしたら想像したことのなかった景色にいるよなと気づく。比べる相手は「他人」じゃなくて「過去の自分」でありたい。
以前、こんなメモを書いていたことがある。
「ライターに限らず、楽しそう! やってみたい! と思ったことに対して、心と体の軽さを持っていたい」
これはだいぶできているのかも。昨年の夏は、1人で人生初のサマフェスにも行ったし。
特に、子育てと仕事を両立しようとすると、全部が中途半端に思えて、自信をなくしてしまう人もいると思う。でも、ずっと走り続けている必要なんてないと、思う。
私にも止まっていた時期はあった。今でも、「何もしないで1日が終わってしまった……」と頭をかかえることもしょっちゅう。時には立ち止まって、こうやって過去を振り返ってみる。そうすると、思いがけない道が見えてくるんだと思う。ここに名前を書ききれなかったたくさんの方々とのご縁で、この道はできている。
私の人生は「行き当たりばったり」だと思っていた。でも、行き当たった先で小さく選び続けて、ちゃんとここまで来た。それって「行き当たりバッチリ」ではないだろうか。

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