【創作】おじいちゃんのギター
誰一人として弾けもしない古いギターを、1本だけ持っていました。
もともとは、私の祖父の持ち物だったそうです。経緯は不明ですが、彼の息子である私の父が、それをもらい受けたのち、延々と物置で埃をかぶって忘れ去られていました。
それを私は、中学生くらいの頃でしたか、学校で使うために借りたいと頼んで探し出してもらいました。私の頼みで探し出されるまで、ほかの誰もがその存在を忘れ去っていたようでした。
剥き出しで放置されていましたので、学校に持っていくのに、おじいちゃんのギターが裸では困る、という口実で、とりあえずケースを買ってもらいました。なんだかんだと、その後の流れで、そのまま私が貰いました。
それまで私の記憶には、誰からも忘れ去られていたそれの存在がいつでも、うっすらとありました。恐らくは、まだ赤ちゃんと言ってもいいくらい頃の記憶だと思います。暖かく晴れた日に、父がギターを弾きながら歌を歌ってくれているのを見上げていたことがあったように思っていたのですが、実際、父はギターを弾くことはできず、そのような記憶もないようでした。私の記憶というよりはむしろ、心象風景のようなものなのかもしれません。
ギターの持ち主である祖父がどのような人物だったのかは、今となっては、もうよくわかりません。私がまだ幼稚園に通っていたころに亡くなりました。かろうじて1枚だけ、生まれたばかりの私を膝に乗せた祖父の写真がありますが、当然私の記憶には残っていません。
そういえば、いつでしたか、祖父の遺影の写真を見たとき、父に「おじいちゃんは、きりっとして、なかなか男前だね」といったところ「そんなはずない!」と一刀両断されたことがあります。
その時、なぜその反応だったのかはわかりませんが、父は自分の都合が悪くなると、話の論点をすり替えてごまかすか、「そんなはずない!」とバッサリ切って背を向け、それ以上は一切何も言わなくなるのが常です。
私の記憶の中の祖父は、寝たきりになっていた入院先の病院で、亡くなる少し前、床ずれを消毒してもらっていた足首のみです。
あの頃はよく、両親に「おじいちゃんのところに行こう」と連れていかれました。入院に付き添いが必要だったようで、交代するタイミングだったのだと思います。入院の理由も死因も、ギターをどの程度弾けたのか、そもそも、いつ頃どうやって手に入れて、なぜ父にわたる流れになったのか、そんなことすら、何一つわかりません。
父が、私をとても可愛く思っていたことは間違いがないと思います。それこそ、目の中に入れても痛くない、というたとえのようにです。が、小学校の高学年に至る前あたりから、私は父の存在を疎ましく思うようになっていました。出張などで父が不在にしていると、それだけで、とても気が楽でした。当時はもちろん、そんなことは誰にも言えず、理由はそれなりにあったものの、必死に自分の中に押し隠していました。
まだ少女である娘にとっての、父親が異性であることへの違和感、というところであれば、思春期のころにはよくある話で、そのうち解消されるものだと思います。世間一般的に、父親からの娘に対する愛情は、例えば父親から息子への、また母親から娘へのそれとは異なることも、ある程度は理解しています。
しかし、私の父への違和感は、いつまでたっても解消されませんでした。父と接しなければならないときは、気持ち悪さを必死に押し隠さなければなりませんでした。何というか、父の自分を見る眼付は、少々尋常でない気がしていたのです。ですが、それを誰かに話してみたところで、誰がまともに取り合ってくれるでしょう。私はまだ子供だから、わからないのです。もう少し大きくなれば、わかることなのです。
ある程度大きくなってからは、こういう人なのだから自衛策をとるしかない、と思うようになりました。こういう人なのだから慣れる、ということではありません。私の認識は正しかった、まだ子供とはいえ、よくわかっていた、と思っています。
小学校の高学年か、中学校に上がったあたりだったと思いますが、私に自室が与えられました。初めて得られた私だけの空間でしたが、両親が、ノックや声をかけてから入ってくるということは、ただの一度もありませんでした。いつも必ず、突然勝手にドアを開けて入ってきます。
特に父は、私が着替えていてもまったく頓着しません。申し訳程度に「あ、ごめん」と口にすることがある程度です。「ごめん」とは思っていなかったと思います。思っていたなら、同じことを何度でもするでしょうか。
つまり父は「娘の着替え中に父親が、声もかけずノックもせず勝手に部屋を開けて突然入る」のは、彼が「してよいこと」であると認識している、ということです。世間一般的には、そうは認識されていないことであるにもかかわらず、です。
またあるときは、学校の図書室から本を借り、あとで読もうと机の上に出しておきました。少したってから読もうと戻ってきたら、机に置いたはずの本がありませんでした。思い違いかと探しましたが、どこにも見当たりません。借りた本がない、と青くなって探し回り、父にも母にも聞きました。しかし、どこにもありません。
どうしたものかと生きた心地のしないまま数日過ごした後、「おい、これ、面白かったぞ!」と、父が私に本を返してきたのです。なくなったと大騒ぎしていたときには、しれっと「知らない」と言っていたのに。
しかも、図書室から借りた直後は綺麗な本だったのに、父がどこかに持ち歩いていた間に、ぼろぼろになっています。この時、怒りが沸点に到達した以降のことを、もうよく覚えていません。黙って人の物を、しかも私の持ち物ではないものを断りもなく勝手に持ち出し、聞かれたら知らないと嘘をつき、しかもぼろぼろにして戻すなんて!私が手荒く扱って破損したのと同じになってしまうではありませんか。
しかし父は、私の怒りも説明もなんのそのでした。「どこがぼろいんだよ、全部元の通りと同じだろう!!」と怒鳴り返してきたことだけが、記憶に残っています。それ以前から、私の本棚を勝手にあさっては、主に歴史小説の類を勝手に取り出し、ぼろぼろにして無造作に戻す人物でしたが、まさか、明らかに図書室から借りてきた本まで同じように扱うとは、思いもよりませんでした。自分のしていることを認識できないのでしょうか。
変わっていた、というか、どうやら世の中的なところと認知の仕方が違う、という考え方もできますが、表で同じことをしていたら、間違いなく
何処かで何らかの罰をうけることになったでしょう。やはり、私だけを相手に行っていたのです。相手が私だから、非常識なことも、嫌がることも平気で行ったのです。自分の娘は自分のもので自分と同じだから、自分が何をしても許さずにはいられないものと、意識すら持たずに思い込んで。
ドアに鍵は設置されていませんのでしたので、自衛は困難でした。バリケードを築いてしまうと、自分の出入りが難しくなります。
母は母で、非常にユニークな人物でした。もう少し踏み込んでしまえば、ややエキセントリック。さらに踏み込んでしまえば、アナーキーというかカオスというか、良くも悪くも繊細で神経質なところがあるというか、一般人には、なかなか理解も対応も困難な人物でした。
とにかく感情的で、気分の上下が激しすぎるのです。よくわからないことで突然激高しだしたかと思えば、よくわからないことで突然上機嫌になったりします。母個人的に気に食わないご近所の方には、顔を合わせても平気あいさつ一つせず、どうかすると些細な嫌がらせさえ行ったりしました。止めても止まらず、もう少し昔であれば、今では使われない4文字ほどの単語で一般的に評価されていたかもしれないと思っています。この母がとにかく、父を毛嫌いして冷遇する傾向にありました。
父に話しかけられて母が無視する、父が苛立ちをあらわにし、母が口答えをし、怒鳴りあいが始まり、母が泣きだし、父が誰彼構わず不機嫌に当たり散らし、そのうちどちらかが出ていき、子供心にハラハラしていると、そのうち戻ってきて、何事もなかったかのように日常が再開する、というパターンが、気づけば我が家のルーティンのようになっていました。いつからそんな風だったのか、はっきりしたことはわかりません。
家族の汚れ物を洗濯する際に父親のそれだけ別にする、などという話はよく聞きます。母は洗濯物は分けませんでしたが、父の下着を買いかえたことが、察するに私の10代の始め頃あたりからは、おそらく一度もないと思います。
たまに母に代わって洗濯物を取り込むときなど、洗いざらして無残に伸び切った、雑巾にもならなさそうな父のブリーフを見る羽目になりました。よくも、こんなになるまで放っておけるものだと、子供心に半ば感心し、半ば呆れました。こんなになっても買いかえてやらない母に対しては勿論のこと、こんなにも無残な下着を使い続ける父に対しても、です。
母が買いかえないなら、いっそ父が自分で買いかえればよかったのではないでしょうか。たとえそれが、夫婦の間に新たな亀裂を生じさせたとしても、どうせ、そんなのはいつものことだったのですから、大きな違いはありません。
そういえば幼稚園の頃、母に祖父の病院に連れていかれ、帰宅した後、母が「孫に会いたいだろうと思ってせっかく連れていってやったのに!何よ、『あんたの旦那はどうしたんだ』って!!」と、一人で怒っていたことがありました。祖父が母の顔を見て、そのように発言したようですが、単純に、そのままの意味だと思います。孫の顔も嫁の顔も嬉しくないわけではないが、自分の息子の顔だけないので、ただ聞いただけでしょう。「今日は出張ですので、私とこの子だけで参りましたの。次はご子息も連れてまいりますね」で済んだ話だったと思います。
もともとの母の性質として、変に僻みっぽいというか、家族や親せきなどの母自身に近い他人は、おしなべて母の希望をすべて叶え、母を一番に持ち上げ、母の気持ちを最も満足させてくれなければいけない存在のようです。
父と似ています。
私が中学生くらいの頃の、さる日曜日の夕方、何やら両親が険悪な雰囲気になっていたことがありました。
そのような事態は特別珍しいものではありませんでしたので、私はあまり深くは気にせず、ただ余計な接触を避けるために、大好きな「笑点」を見たいのを諦め、放送の見られない自分の部屋にいたのですが「ちょっと来なさい」と、呼ばれました。
なんだか、あまりいい予感はしないかも、と思いながら、しぶしぶ彼らのもとに出て行くと、母が泣きじゃくっており、父が難しい顔をして「お父さんとお母さんは離婚しようと思うんだが、お前はどう思う」と聞かれました。
「そんなの、私に聞かれても」
他に答えようがありません。まず、どのような経緯から、どのような話し合いがあり、何が理由で離婚しようとしているか、状況の説明があるかと思ったのですが、ただの沈黙が続くばかりです。説明を求めたとしても、これまでのパターンから言って、ただ際限なく不満をぶつけあうだけの大げんかが再度始まりそうな気がします。
さては、自分たちで収拾がつけられないので、「お父さんもお母さんも大好きだから、二人と一緒にいたい」と子供が泣けば丸く収められると考えたのか、と、心からうんざりしました。
「そういうことは、あなた方二人の間の問題だと思うので、私が意見することじゃないと思う。大人なので、自分たちのことは自分たちで決めるべきだと思う」
そんな意味のことだけ簡単に告げて、さっさと自分の部屋に戻ったような記憶があります。我ながら、ずいぶんよくやった、と思いました。まだ中学生だった当時の自分にしては、なかなかのできだった。と、いまだに思います。
翌日から彼らは、何事もなかったように、いつも通りふるまっていました。たとえば父のぼろぼろのブリーフに、ほんの1枚だけ新品が加わるようなことさえ、当然の様に、ありませんでした。
早くこの二人から離れたい。
私は、毎日、切に、そう願っていました。
それから少し経ったある時、思い立って父に聞いてみました。
「お父さん、どうしてお母さんと結婚したの?」
「お父さんのお父さん、つまりお前のおじいちゃんには反対されたんだよ。お母さんは片親育ちだから、必ず問題が発生するって」
……。
当時は紛れもなく時代が昭和だったことを考えると、祖父の認識は無理もなかったのかもしれませんが、今、敢えてここに持ってくるには、問題発言すぎます。それ以前に、私の質問に対する回答ではありません。都合が悪くなると、こうして論点をすり替えてごまかすか、「そんなはずない!」と言い捨てて話を一方的に終了させる、いつものパターンです。試しに、少しだけ食い下がってみました。
「おじいちゃんに反対されたのに、どうしてお母さんと結婚したの?」
「あき子伯母さんから、お見合いを世話されたから」
「お見合いなんて他にもしたでしょ」
黙ってしまったところを見ると、さしずめ、お見合いの時点で即座に断られなかったのが母だけだった、とでもいうところでしょう。父からは結局、それ以上の情報は引き出せませんでした。
さほど間を置かずに、母にも同じ質問をしました。
「お母さんのお母さん、つまりあんたのおばあちゃんに、とりあえず一回嫁っとけ、さもなくば後家の口しかないって言われたのよ」
これも、漂う昭和臭を差し引いたうえでも、よい回答とは言えません。少なくとも、私の求めた情報とは違います。
ともかく、どうやら双方ともに、お互いがお互いにとってよい相手ではないが、自分には何の責任もなく、他人から押し付けられたのでむしろ被害者だ、と言いたいことだけはわかりました。しかも、その二人の産物である私を前にして、です。
もう少し日頃の状況が違ったならば、何とも微笑ましい、愛情あふれる冗談にもなれる会話でしたのに。そして幸か不幸か、私はそれを残念に思うほど、彼らに対する希望も期待も、既に持っていませんでした。
私が大きくなるにつれて、彼らの闇は、確実に私にも、深く及んでくるようになりました。
まずは母です。小学校の高学年くらいから、私の体は日に日に大きくなっていくのに、大きい服を買ってもらえず、何年着ているかわからないパツパツのトップスに、やけに短いスカートといういで立ちが、あの頃の私のデフォルトだったと思います。当時よく、知らない男子中学生に後をつけられたりしていましたが、さもありなんといったところです。父からも「おしりまで出てるなあ」と、嬉しそうに言われたことが何度もありました。そんな時、母は私を床に押さえつけてうつぶせに寝かせ、私のおしりの上に自分の頭をのせて仰向けに寝そべり「これ、枕にちょうどいい」と、嬉しそうに、勝ち誇ったように言うのでした。
なんだかよくわかりませんが、とにかく気持ち悪いですし、迷惑千万以外の何物でもありません。安ものか古着でよいので、トップス、ボトム共に大きいのを2枚ずつほど買い足してくれれば済む話でしょうに、この夫婦はいったい何をしていたのでしょう。
そうこうしているうちに、私の胸が膨らんで、何枚か重ね着しても、明らかに形が丸わかりになってきましたので、やむを得ず母からブラジャーを与えられましたが、これも、私のために買ってくれたのではありません。母の使い古しをお下がりとして与えられていたもので、サイズなどはお構いなしです。戦時中の物のない時代でもあるまいに、親子とはいえ下着の使いまわし。
買ってもらえないのは仕方がないので使っていましたが、父のブリーフが買いかえられないわけだと、子供心に納得してしまいました。
中学校に上がると、更なる母のイニシエーションが始まりました。思春期を迎えた多感な時期の私の姿が、母の何かのスイッチを押してしまったのだと思います。
例えば、朝から私の顔をみては「おー、ブース!今日も朝からブスー!信じられないブース!ブース!ブース!あっはっはっはー!!」と爆笑します。やけに嬉しそうです。
試しに「お前に似たんじゃないの?」と言い返すと、突然鬼の形相に変わり「親父に似たに決まってんだろ、お前みたいなブスなんか私から生まれるわけないんだよ、このドンブスが!!面だけじゃなく中身も筋金入りのブス!親父と同じだな、親父がな、お前のブス顔に責任感じてるって言ってたよ!一生親父と仲良くしろよ!親父の嫁になって親父のガキ生んでそっくり親子で仲良くくらせばいいんだよこの信じらんないドブスが、何でお前なんかが生まれたんだよ!!」と、荒々しく朝ご飯の茶碗をたたきつけるのでした。こんなのが毎朝です。
夜は夜で、私の入浴後に脱衣所に入ってきては、私の裸をじろじろ眺めまわし、やれ足が太いだの、姿勢が悪くて胸も尻も腹も垂れてババアみたいでとても10代とは思えないだの、信じられないブスデブだから相撲部屋に入れば相撲界初の女横綱になれるだのと、実に嬉しそうに大声で罵倒するのです。
風呂場へ逃げると、のぼせて耐えきれずに出てくるまで待ち構えて、同じことが始まりますので、入浴後は、それと悟られないよう、静かに速やかに脱衣所に準備してあるパジャマとタオルを手にして風呂場に戻り、完全に服を着こんでからでないと出なくなりました。
私の裸が見られなくなっても、母は「湯気吸ってさらに太ったんじゃなーい?血色のいい雌豚ちゃーん!、ちょうどゆだって食べごろじゃないのー!やっぱデブは違うー!!ブスだけどデブだから肉だけは高く売れるー!!あんた感謝しなさいよ、高値で身売りしてもらえてー!!」などと、目を輝かせて叫びます。
「お前が低能だから、ゲスなエサしか与えられないせいだもんな。お前の低知能はかわいそうだけど、虐待っていうんだよ、それ」と、言葉で応酬すると
「信じられない!この糞アマ、親不孝者!!せっかく生んでやったのに、それが親に対する態度か、憎まれ口を叩いて自分がブスって認めて、低能はどっちだよ!?育ててもらってそれか、死ねこの恩知らずの糞ブスデブ!!」等と、目だけはじろじろと、人の体を嘗め回すように光らせながらの罵詈雑言を好きなだけ発して、機嫌が悪いまま気が済むと出ていきます。母親から娘への日常の言葉です。これも毎晩なのです。
ちなみに、この当時の私の身長は152センチほど、体重は40キロほどだったように記憶しています。「事実がどうあるか」ではなく、ただひたすら、罵詈雑言を浴びせて貶めたくて、毎日同じことを実行しているわけです。私が泣いたり、嫌がったり、抵抗したり、無視したり、というところは一切、関係ありません。私に反論されると不快感をあらわにし、さらに激しい罵倒を浴びせ、あくまで自分が優位だということにして返そうとするのがパターンです。きっと私の反論に真剣に傷ついていたのかもしれません。自分はその何倍ものことを言っているのに。
小さい女の子が若い女になり、競争相手になる。勝てなくなる。自分のほうが、女として下になる、という焦りのような気持ちがあったかもしれませんが、それにしてもこの出方は、あまりに極端です。日頃から、あんなにも冷遇している父の、一緒に暮らす男性としての存在が無関係だったと思えません。
母は恐らく、もともと何らかの精神疾患、もしくは精神障害の持ち主だったのでしょう。そんな冷静な見解を出せるようになったのは、もう少し後のことです。この時は、ただ毎日が不快どころの話ではありませんでした。いくら事実無根でも、まだ自分がどうなるかわからない、まだ自信が持てない、人の目が気になって仕方のない思春期の少女に、実の母から毎日のように暴力的な視線を浴びせられ、ブスだのデブだのと罵られるのは、間違いなく、相当堪えることでした。
なお父は、母のこれらの行為を黙って見聞きしていただけで、止めに入ることはありませんでした。それどころか、後になって「お母さんが変なことを言っていたな。お前は確かにちょっとやぼったいなあ。でも、まだ子供だもんなあ」などと言ってくるのです。彼からすればフォローし慰めているつもりだったのでしょうが、内容としては母の言うことを認め、私に、自分はやはり醜いのだ、と再確認させ、結局貶めているのですから、逆効果もいいところです。何なら、ニヤニヤ笑いながら「どれどれ」と風呂場を覗きに来なかっただけまし、とでも思わなければならない、ということにされそうです。
私はただ、毎日のように自分の容姿を自分に与えた自分の両親の、私へのハラスメントだけが目的の、逃げ道はふさがれている不快で不気味な視線と、鋭い凶器と、べたべたするスライムのような妖怪のような、二種類の言葉の暴力に耐えるしかありませんでした。
「白雪姫」における「継母」が、鏡に世界一美しいと言われなくなったため、世界一の美女の立場を奪還すべく、白雪姫を殺害しようとします。
ですが何も殺害を犯さなくても、その継母は、なるべく毎日綺麗に上品に着飾って、愛想よくして、自国の国民たちや、自分の家来たちに「世界で一番お美しいのは、この国の王妃様です」と、ことあるごとに方々で言わせればよかったのです。
白雪姫を殺害したところで、嘘をつかない鏡の「世界一の美女」たる評価はいつか必ず覆るでしょう。それよりも「いつまでも、何があってもやはり一番お美しい、誰よりも貴い素晴らしい王妃様」と、世の中的な評価を得ることができたほうが、プライドも承認要求も永く満たされ、気分よく幸せに生きられたのではないでしょうか。終わらない努力は要しますが、現実的な労力の度合いの問題で行ったら、通常であれば殺人よりもよほど少ないエネルギーで済みそうな気がします。
ところで、白雪姫のストーリーにおける悪役が「王妃」ということは、「王」がいると思うのですが、私の知っている限り「王」は終始、登場する様子がなさそうな気がします。果たして、あの国に王の存在はあるのでしょうか。王妃に「焼けた鉄の靴を履かせて死ぬまで踊らせる」という、何とも残酷な処遇は、一体誰のアイディアで、どのような経緯の末、誰が決定し実施に至ったのでしょう。
さて、私の心は日に日に削られ、えぐられ、踏みにじられて何のケアもないまま、毎日のように力を失っていきました。
勉強も何もできませんでした。自分の周りで何が起こっているのか、わからなくなっていきました。日に日に力も自信も失っていき、うつろな目しかしなくなり、誰とも口を利かなくなった私は、学校でも、格好のいじめのターゲットになってしまいました。あまりはっきりとは思い出せませんが、男の子から、面と向かって悪口めいたものを毎日浴びせられていたのは、うっすらと記憶にあります。
助けようとしてくれたクラスメイトも、先生方に告げ口してくれたクラスメイトもいましたが、とどのつまり、大人は騒ぎになりさえしなければよいので、私が黙ってやられている限り、黙って傍観しているだけであまり変化はありません。嫌で嫌で仕方がない、という感情さえ、日々すり減っていきました。これ以上誰かに助けを求めるわけにもいかず、ただうつろな目をして、いやなことを黙ってされているだけの日々が続きました。
両親は、私のあからさまな成績の低下や、持ち物や制服などの不自然な劣化を不審に思うでもなく、ただ、私の勉強不足や、不器用さや、管理能力の低さをののしり、貶めるだけでした。この世は地獄といいますが、本当です。血の池も針の山も、こことたいして変わらないでしょう。
他の同級生のお母さんや、近所の人に、私の父母のような人たちはいなさそうに思えました。よそのうちに生まれたら、私はこんな目に遭わずにすんだのでしょうか。こんなにも毎日毎日毎日毎日、家でも学校でも嫌なことをされて、嫌がってもやめてもらえる様子がなく、誰からも守ってもらず、抵抗するエネルギーもなくなり、ただ毎日黙ってやられているだけ。なぜこうなってしまっているのでしょう。
なぜここに生まれてしまったのか。毎日絶望しかなく、死にたい、としか思えませんでした。
「それでは、生きていなければよいのではないか」
最初にそう思ったのは、いつのことだったのでしょうか。
何かで「死」を、例えば有名人の訃報などを目にしたからこその着想だったのだろうとは思いますが、そこは、よく覚えていません。学校と自宅に安心できる居場所がなく、どちらでも、虐げられるだけの役割しか持たず、ぼんやりと絶望だけを感じ、完全に思考停止してしまって、ただひたすら毎日繰り返し複数から「ヤられる」だけの毎日。せめて、どちらかからだけでも、一時的にでも逃げられれば、少し違ったのかもしれませんが、残念なことに、逃げ道はどこにもありませんでした。
ただでさえ私が内気で、しかも彼らの毎日の虐待のため、自信も希望も何も失っていたことに加え、両親は私が目の届かないところに行くのを好みませんでしたので、塾や習い事すら行けませんでした。今と違って、スマホで簡単に、自分の住処とは違う世界にアクセスできるような時代でもありません。まだ少女だった私は、見事なまでに、どんなに食い荒らされてもなくなることのない、彼らをどこまでも満足させることだけを義務付けられた、彼らの理想的で恰好な家畜でした。
そういえば、祖父が亡くなったばかりの頃でしたから、おそらく幼稚園か、それとも小学校に上がったばかりの頃でしたでしょうか。何か母に、理不尽ことで理不尽な叱られ方をした私(ように記憶していますが、実際のところは定かではありません)は、幼いペシミズムにさいなまれて。隠れて一人ひっそりと、こうつぶやきながら、ただ泣きじゃくっていたことがありました。
「おじいちゃん、お願いだから、お迎えに来て……」
まだ小さかったので当然「おじいちゃんのお迎え」の意味は、よくわかっていなかったと思うのですが、それにしても、そんな年ごろで死を求めるとは。どんな状況だったのか全く覚えていませんが、その時点で私は、父も母も、すでにあまり信じていなかったのでしょう。
ともかく、いまさら祖父の迎えを待つ必要はありません。自力で違う世界の扉を開けて、一歩中に踏み出せばよいのです。恐れずに、若さに任せて先に進めばよい、とかいうような、大人の好きなやつです。
ふと見上げた、壁に埋め込まれているドアの戸当たりに目が行きました。太くてしっかりしていて、とても丈夫そうです。
少し前に、気まぐれを起こした母から、頼みもしないのに投げるように与えられた、何処かの安い洋品店で100円ほどで買われてきたものと思しきベルトが目に入りました。趣味も使い勝手もあまりに悪くて一度も使っていませんが、100円ほどとはいえ、せっかく買ってもらったのですから、使わないよりは、使われたほうがよいでしょう。
ベルトの一番外側の穴に、「お母さんには内緒な」と父に買い与えられたピンクのシルクのショーツを通し、固く結んで、戸当たりにかけました。中国出張のお土産にもらったものですが、「あの母に内緒で、あの父から与えられたシルクのピンクのショーツ」なんて、気持ち悪すぎて本来の用途では使えませんので、ちょうどいいでしょう。ベルトを輪にしました。金具は懸けず、重力で閉まるようにしました。
これで良し。私は、準備のできたベルトに首を通しました。別の学校に進んだ、小学生の頃の仲良し達の顔が浮かびました。彼女たちはうまくやっていくはずです。だってとても素敵なご両親に、とても大切に愛されているのですもの。私は息を止めて、思い切って、一気に体重をかけました。
……、何も起こりません。
なぜ?
ふと気づいて、よく見ると、自分の両手が、しっかりとベルトを握りしめているのでした。これでは、首は吊れません。首を吊って死ぬためには、この手を外さなければなりません。
でも、怖い。
どうしても怖くて、手を離すことができません。
勇気を出さなければ。それでなければ、私はここから出られない。毎日心を凍り付かせて、とてもいやなこと、ひどくつらいこと、決して報われないこと、逃げ出したいことだけを味わい、いやなこと、つらいこと、苦しいこと、逃げ出したいことだけの日々だけが延々と続く、逃げられない、逃げられない、苦しい、助けを求める先がわからない。多分、誰も助けてくれない、ならば自分でどうかするしか。勇気をだして。
勇気を出すところが違う、と人は言うのでしょうが、例え逃げ場所を教えられても、この時の私は、こうするしかなかったのだろう、と思っています。まだ子供の、狭い世界を苦しみでいっぱいにしてしまったら、もっと心地よく過ごすことのできる、ほかの世界があるなんて、想像もつきません。
まずは左手から、かたまって、引っかかってうまくいきません。小指……、頑張って、次は、薬指……、そして、中指……、人差し指……人差し指……右手の人差し指を、親指と一緒に、この重すぎる荷物から解放して……、左手だけ、なんとか外すことに成功しましたが、問題は右手です。怖くて怖くて、外せません。
でも、このまま生きるのは、絶対にいや。
ひと思いに。
意識的に失おうとした意識のどこかの片隅から、突然、何か銃弾のような、とても強い力が飛び出したように感じました。
咄嗟に、力強く大きな感触が頬に食い込み、顎をつよく持ち上げられ、息が止まりました。
私の目は閉じています。まぶたに力が入れられなくて、開けられません。でも、暗闇のように感じません。
両肩を強く抱きしめられたような、ほんの僅かにですが、あたたかみ、懐かしさのようなものが鼻先をかすめたような、少し目の奥が熱くなったような……。
遠い感覚で、よくわかりません。強い眠気が押し寄せてきたようです。私の意識が薄れて、消えてゆきます。
どこか硬いところに強くぶつけた……私の体なのに、よくわからない……。
世界から隔離されて、シャボン玉の中にでも、閉じ込められたような気分になりました。そのあとのことは、何もわかりません。
気づけば、病院の個室のベッドにいました。母が声を上げて泣きじゃくり、父が声を出さずにうつむいて、小刻みに震えていました。
どうして、こんなことに。何があっても耐えられる強い子になってほしかったのに……という母のとぎれとぎれの言葉を聞きました。なるほど。この女のこれまでの奇行の目的はまさにそれだったのか、そのような大義名分のもとに自分専用のサンドバッグを育成してきたと。
この女は、自分のしてきたことが、ほめられないことであると認識できています。そして、この状況は恐らくはそれが原因なのだと思いこんでいます。当たらずとも遠からずですが、そう簡単に変わると思えません。今後どうするのでしょうか。そして、その後ろでうつむいて肩を震わせている、この男のほうはどう見ているのでしょう。
帰宅すると、あれほど頑丈そうだったドアの戸当たりが、壁から抜けて床に落ち、ドアから見て部屋の対角線上の壁に立てかけてあった祖父のギターが、ケースのまま床に倒れて寝ていました。
この後、朝食時や、入浴後の母によるイニシエーションはなくなりました。時折、突然部屋の中に侵入してきては「何よあんたのその目!死んだ魚のような目で見るんじゃないわよ!」と謎に怒鳴られる事態が、たまに発生するくらいでした。
さらに数日後、元通りに学校にも行かされました。
流石に学校では、何かされることはなくなりましたが、その代わり、誰もが私を避けるようになりました。
恐るべきことに私は、この事件の後の数年を耐え抜いてしまいました。
そして、代償のように、わずかな自由時間を得ることに成功しました。つまり離れた場所にある大学への進学です。
私に大卒という学歴がつけば、彼らには「一人娘を大学までやった」というステータスが得られ、多方面に自慢できるようで、なかなか魅力的だったようです。
家から通えるところ、という条件が最初のうちはついていたのですが、それでは希望の勉強ができないという理由で、家から離れたところに進学する希望を無理に押し通しました。大きくなる私に大きい服を買い与えず、家長の下着も買いかえない家庭ですから、経済的に難しいと拒絶されるかと思いましたが、この家から離れることが大切である私にとって、進学である必要はありませんから、その場合はまた適当なことを言って、離れた土地で就職すればよいのです。
結局、私の希望は意外とあっさりまかり通りました。この娘は、いざとなれば自爆しかねない。生きてそう思わせられたのは、実に幸運で、しかも効果的でした。人生に無駄はないという人がいますが、まったくもって、その通りかもしれません。少々不謹慎ですが。
引っ越しは、両親によって行われました。いつの間にか私の生活に必要な家財道具を勝手に揃えていて、ワゴン車を借りてきて、それらを積んで3人で乗って移動したのです。作業後は、私がこれから一人暮らしをする建物に、いまさら鵜目鷹の目で何かとアラを探し、何のかんのと文句をつけ、なんとか不安をあおろうとし、いつまでも居座り続けようとする両親を、無理やり帰宅させました。
私への心配がまったくなかったわけではないと思いますが、どちらかといえば両親からすると、唯一無二の存在である私がいなければ、関係の悪い自分たち二人きりになってしまうことのほうが、よほど心配だったと思います。ですがそれらもともと、最初から私の仕事ではありません。もっと早いうちから、自分たちの鎹を失った後のことを見越して、それぞれで頑張ってもらわなければならなかったものです。子供はいつか巣立つのですから。
一人になり、引っ越し作業の体の疲れと、両親との戦いでフルに使った頭と心の疲れに、ずいぶんぐったりしてしまいました。
ですが、それでも、心は素晴らしい爽快感と充足感に満ち足りていました。
髪も梳かず歯も磨かず、昼間は汗だくになっていたのにシャワーも浴びないまま、フローリングの床に大の字になって寝そべって、部屋の角に立てかけた、頼みもせず必要もなかったのに父が持ってきてしまったギターケースを眺めていたら、笑みが漏れてきました。
「やったよ」と、口からこぼれました。
「おじいちゃん。やったよ」
おかげさまで、しばらくは、闘う必要も耐える必要もなくなります。私は、ようやく、心から安心して「寛ぐ」とはこういうことなのだな、と、つくづく思いました。「家族」も「クラスのお友達」もいません。
この小さな部屋には、鍵がかかります。着替え中に断りなく入ってくる男はいません。突然、よくわからない感情に任せて怒鳴り込んでくる女もいません。自分の物や借りたものを勝手に盗み出され、劣化した状態で戻されることもありません。
誰もいない、ということが、こんなにも快適なことだとは知りませんでした。
ただし両親は、この後も、何らかの抜き打ち検査の様に、ちょいちょい、予告なしに突然訪ねてきました。家にいさえすれば、「勉強の邪魔」という一言で、取り合えず数時間追い払い、その後、申し訳程度に食事をして追い帰しました。問題は、学校に行っていたり、バイトなどの用事でいないときでした。合い鍵を使って侵入され、家探しされるのです。
一番最初に、買った覚えのない飲み物が、開封された状態で冷蔵庫に冷えていたのを発見したときの恐怖感といったら、ほかにありませんでした。落ち着いて考えるうちに両親の可能性を考え、電話で問い詰めて発覚しました。「だって心配なのよ!」と電話口で叫んだ母に、「心配って何?何かの犯罪被害に遭っていてほしいわけ?で、娘の遺体の第一発見者の悲劇の母親になりたいってこと?お前が殺されろ」と返して、電話を切りました。
今思えば、常に親の目が光っていると知らせて、行動を牽制するつもりだったのでしょう。お前は俺たちの物なんだから、くれぐれも自分自身なんかの意思で勝手なことをするなよ、よその男なんかにうつつを抜かしたら承知しないぞ、と。何しろ、私は、彼らの大切な一人娘ですから。
大学生活は、実に貴重で有用な経験でした。
興味本位でいくつか潜り込んでみた、そして実際に受講を決めた授業の数々の中から、私は、いかに父と母が、そして彼らの生活が、どれだけ非常に個性的か、率直過ぎてあまり感心されないであろう言い方をすれば「おかしい」かが、大変よくわかりました。
そして、それらの原因のうちのいくつかは、彼らの育ち方や、これまで受けてきた教育、置かれてきた環境、そして彼らの精神、恐らくは脳の一部の発達が未熟である、あるいは何らかの障害を持っている可能性が考えられることなども知りました。残念なことに、決して望ましくないそれらの影響を、ほかならぬ自分自身が、ありとあらゆる点で、ふんだんに受けてしまっていると思われることもです。
恐るべき事態です。私は、可能な限り私の中の父母を吐き出し、私自身を育てなおしてやらねばなりません。
私は、自分にマイルールを課すようになりました。
・ 誰彼構わず、周りの人の話を聞くように、よく観察するように努めること。
・ 誰が相手だとしても、どんなに興味を持ったとしても、例え好きになった男性だとしても、よほどのことがない限り、なるべく深入りを避けるようこころがけること。
2点目は難しそうで、あまり自信が持てませんでした。
何より私は、両親をなるべく自分から、物理的にも心理的にも遠ざけ、尊敬できる他者の影響をふんだんに受けたいと思っていました。もっと言ってしまうと、愛されたい、と願いました。何の見返りも求めずに与えられる愛を、経験したかったのです。
本当であれば、生まれて一番最初に、ふんだんに与えられるはずの両親の愛情は、愛情というよりはむしろ、「支配と独占」というふうに感じ取らずにいられませんでした。
恐らくは、父も母も同じように感じて育っていたかもしれないな、と思うことがありました。愛されたいと願っていたのだろうな、と。
しかし背景的な部分はともかくとしても、残念なことに、彼らは紛れもなく、いろいろと間違えています。もっと若いうちから、自分のことも、周りものことも、まっすぐに見さだめ、受け止めなければいけなかったのです。
私は、ああなりたくありません。反面教師はそろそろ、もう要らないな、とも思っています。
やがて時間がたち、母は私が卒業できるかどうかよりも、卒業式の袴に情熱を燃やし始めました。そして、父は私の就職を気にしだしました。
私は彼らに懸念事項をぶつけられるたびに、適当に流して済ませていました。
実際のところ、私はもう少し学びたいと思っていました。もっと言ってしまうと、社会に出る自信が、どうも持てません。生きるためには働く必要がありますが、社会に適合しているとは思えない両親から生まれ、その両親に育てられた個性を持つ自分が、組織に向くとは思えませんでした。卒業式の袴へのあこがれはありますが、卒業できないほうが、私の率直な心理として、むしろ好都合です。
しかし、言っていても仕方がありません。とにかく形だけ整えて適当に働いておけば両親も納得するだろうと思っていたら、思わぬ事態が発生していました。
こともあろうに、父が、就職難に付け込んで、私を自分の働く会社に入社させようとしていたのでした。
「もうさあ、このところの就職難だからって、社長が言ってくれて。よかったな」
電話で父に自慢げに告げられた時は、さすがに顔から血の気が引きました。さーっ、という音が聞こえるような気さえしました。
田舎の中小企業の社長なので、社員の家族のことも知っていますが、不況も就職難も、どこもたいして変わりませんし、私と同じ状況の社員の子供が、ほかにも何人かいるはずです。どうして社長から私に対してそんな話が出るのでしょう。父がどうしてもと頼み込んだ以外の可能性は、低そうな気がします。
父からすれば、私の監視はできるわ、人前で年頃の娘との仲の良さ(と、本人だけが信じているところのもの)を見せつけられて悦に入れるわ、自分が上の立場としてのマウンティングをことあるごとに私にはかれるわで、まさに一石二鳥ならぬ一石三鳥というところだったのでしょうが、こちらは、ようやく離れられた実家に戻らなければならなくなるうえ、二十四時間気ぶっせいなまま、逃げ場がどこにもありません。下手をすると、死ぬまで。
冗談じゃあありません。
とにかく必死になって、ブラックでも何でもよいので自宅から離れた企業ばかりを狙い撃ちました。下手な鉄砲も数撃ちゃ当たるといいますが、何とか内定を一社だけ取ったときは、心底ほっとしました。
ほかに受け入れ先がなかったと言いくるめ、「お父さんの会社で親子二代なんて恥ずかしすぎて絶対嫌、なんでそんなこと思いつくのか理解できない。死ぬほうがまし」と、ド直球をとどめに放ちました。ありがたいことに、どうやら今回もこれが効いたようで、何とか認めてもらうことに成功しました。
入社式に出なければならないと息巻く母を同じ方法で阻止し、学生時代とは変わったものの、何とか平和な日常が続きました。
この期に及んで平和な日常は、突然破られました。
父が、何の連絡もなく距離の離れた社会人の一人暮らしの私の部屋のチャイムを突然鳴らしに来たのです。ある土曜日の午前中でした。私は朝寝をゆっくり楽しんで、そろそろ起き上がろうとしていたところでした。チャイムがなりそうな予定は何一つありませんでしたが、普通に出てしまいました。あろうことか、一番起こってほしくない事態が、私を待っていました。
「お父さんでーっす!!」
「は?」
能天気で無意味な大声に、一瞬時間が止まりました。
ご近所のご迷惑など気にもかける風もありません。地元の方言丸出しの大声で、昼食を一緒にとろうといっています。休日の私に予定や、何らかの事情があることを全く想定していないのか、それとも、たとえ予定があったところで父親の自分のためであれば、この娘は休日の予定など即座にすべて返上するものとでも考えていたのでしょうか。
いずれにしても従いたい要求ではありませんし、迷惑なだけです。
「だめです」とだけ言うと、激しい反撃が開始されました。
「なんでだよー!いいじゃんかよー!お前は一円も減らないんだぞ!お父さんがせっかく遠路はるばる会いにきてやったんじゃないかー!!今日はだめですって、いつだったらいいんだ!昼飯食わしてやるって言ってんだよ!いいからさっさと出てこーい!早くしろー!早く出てこい!お父さんだって暇じゃないんだぞ!わざわざお前のために時間あけて、お前のためにお金使ってきてやったんだぞ!!」
やや乱暴かつ幼稚な口調になり、内容も若干なんというか、下種になったような気がします。「暇じゃないのにわざわざ時間あける」なら、より一層、事前の確認が必要です。
なかなか大声がやむ様子がありません。冷静に考えて、大声で騒ぐ必要があることなのでしょうか。いつまでもは騒いでいられないでしょうから、そのうちいなくはなるでしょうが、ご近所迷惑も甚だしい所です。何の前触れもなく突然現れて食事を共にすることを要求し、断られると逆切れして大騒ぎ。立派な迷惑行為だと思いますが、果たして、自分の父親である人物を通報してよいものか。私は携帯電話を握りしめて、パジャマのまま葛藤していました。
そのうち、本当に警察がやってきました。ご近所の方が通報してくださったのでしょう。
「なんだよ!なんで警察が来るんだよ!民事不介入じゃないのか!俺は娘を食事に連れて行くだけだ、離せよ!!」
抵抗していたようでしたが、やがて連れ去られたようで静かになり、その日はもうやってきませんでした。
警察から私への接触はありませんでしたが、その後、家族でよく話すよう警察に言われたので電話をしてきてほしい、という旨の手紙が父から来ました。よく話すも何も、アポなしの訪問を普通に断っただけです。押し売りか何かと同じではありませんか。
しばらくして今度は、巨大な段ボール箱が送られてくるようになりました。
最初のうちは、差出人を見て嫌な予感がしても拒否できなくて、受け取ってしまいました。開封すると、つぶれたイチゴが豪快に箱の中全体をまんべんなくコーティングしていたり、白っぽいカビが一面にびっしり生えたミカンが、隙間なく詰まっていたりしました。腐ったり、カビたりつぶれた果物以外では、ウジみたいな形態の白っぽい虫の湧いたドライフルーツらしきもの、賞味期限が1か月以上切れていて、しかも開封済みでつまみ食い済みのお菓子、などでした。豪快な生ごみの詰め合わせセットを、クール便も使わず送ってくるのです。
運ばれてきた箱は、甘ったるい嫌なにおいがして、箱の外側まで、異常な色の果汁がしみだしていたりします。配達員さんは、とにかく渡してしまえばこちらのもの、という雰囲気をふんだんに漂わせて、なんだか不気味な笑顔を顔に張り付けています。夏の出来事だったり、生ごみの日が2日以上あとだったりすると、心底やりきれなくなりました。
そうこうしているうちに、受け取り拒否という方法があることを知ったので、ためしてみました。最初に郵便で来たものは、数日後に宅配便で届きました。これも拒否すると、別会社の便で。
「せめて、受け取るだけでも」という連絡が、父方の伯母を通じてありました。受け取るだけでも。つまり、「私に生ごみを受け取らせる」ことが。父の目的というわけです。
今思うと、送り主は父の名前で、中身は母が詰めたということもあり得たかもしれません。報復というよりも、要は、私に構いたかったのでしょうが、恐らくは「親子なんだから、自分たちのことはすべて受け入れなければならないんだ」という、暗黙の脅迫とも取れます。通常、世間一般的に嫌がらせと認識される方法です。
彼らから可能な限り離れようとしていたこの時の私が、「そうかー、私に構ってほしくて、たゆまず嫌がらせをしてきてるのかー、じゃ1回ぐらい顔見てやってもいいかなー」などという忖度をおこなうわけもありません。
それで私がどうしたかというと、あまりにもひどいので、彼らには告げずに、引っ越しを考えることにしたのでした。職場に乗り込んでくるのも時間の問題です。仕事もやめなければなりません。
ありがたいことに、自分の一人暮らしの部屋にちょいちょい来るように、といってくれた男の人がいました。
この人は、社会人になってから知り合いました。私は最初、彼の存在を全く気にしていなかったのですが、何かと私のことを気にかけてくれ、優しい言葉をかけてくれ、頼みもしないのに連絡先を教えてくれ、しばしば話し相手になってくれました。いろいろと細かく気遣ってくれ、妙に波長が合うような部分もあり、私は彼に心を開くようになってしまいました。お互いのこともよく話すようになっていました。
そのうち、実家から送られてくる豪華生ごみ詰め合わせセットのことを愚痴ってしまいました。彼の反応はこうでした。
「それは困るね、大変だね。どうして、そういうことをしちゃうんだろうね?普通、嫌がられるよね?人の嫌がることと、自分がされて嫌なことはしちゃいけないって、学校に上がる前に教わることだよね?ご自身が、子供に教えてきた身だよね?」
驚きでした。同時にほっとしました。親のことを悪く言うと、世間はなだめてきたり、話してみるようにしたり顔でアドバイスしてきたり、あるいは眉を顰めるものと知っていましたので、この人は私を受け入れてくれる、と信じ切ってしまった瞬間でした。
彼の存在が、どれだけ私の癒しと助けだったかわかりません。もしもうまくいきさえすれば、このまま駆け落ちの様にして一緒になろうと、甘い夢まで二人で見ました。
実際、もしも彼と一緒になるなら、彼が私の両親に許しを得るという状況がちょっと想像できませんので、あとは、駆け落ちしかなさそうでした。間違っても、彼を父母に会わせるわけにはいきません。下手をすると、真剣に殺されてしまいかねません。
そんな時、何の脈絡もなく、彼がふと「先に惚れたほうが負けだよ」と、独り言のように漏らしました。
「え、今の何?」
聞いてみましたが、スルーされました。
なんとなく引っかかりましたが、それ以上聞けませんでした。彼の言うところの「先に惚れたほうが負け」というのは、何を指しているのか。
少し慎重になるべき出来事でしたが、残念なことに、私は自分の感覚を信じる、ということがあまりできないのでした。さんざん、実の親の行為で、いやな思いばかりして逃げられずにきたので、苦しみを感じないよう、自分の心を鈍磨させる訓練ばかり積んできたのですから、当然の結果ではあったと思います。よくわからないがなんだか妙に引っかかる。でも、たまたま変な言い方をしてしまっただけかもしれないし……。
油断がならないかもしれない、という、なんとなく嫌な感覚だけが、後々まで、一筋だけ残りました。
彼らと同じ人種の人々は、自分たちにとって都合の良さそうな人々を、実に敏感に嗅ぎ分けるように思います。おっとりして大人しそうな、あまり抵抗しなさそうな子供が、いじめられやすいようなものだと思います。このタイミングと彼の申し出は、私にとって、あまりに都合がよすぎました。そして彼にとっても、非常に都合の良い出来事すぎたのです。
一緒に住みだした途端、彼の様子が日増しに変わってきました。
なんだか違和感のある発言がみられることや、少々子供っぽい、と思うことは以前からあったのですが、違う人間同士だから、男の人だから、程度に思っていました。自分以外の人だから、自分と違う点は容認してあげることも必要になるだろう。
ですがだんだん、違う点どころか、人を下に見ようとしているような言動や、全く事実を反映しない妄想らしき発言も増えてきました。
テレビに出ている女性のお笑い芸人を指して、やれブスだの、若い娘のくせにおっさんみたいだのと言ってみたり、コンビのボケ役を指して、やれバカだの、空気読めないだの、学歴がないだのと言います。役割だからそうしているのが本気で分からないのでは、と、何度も妙に気になりました。高学歴を謳っている芸能人ほど、バカだとかバカっぽいとか評価するのです。
芸能人に関してだけではなくなりました。私のことも、「バカ」「アホ」「クズ」等と呼び始めました。そして「私が大きな音を立てたので、怒った下の階の住人に棒でをガンガン突きあげられた」等と、なんだかものすごい内容の妄想話が出るようになりました。表では普通の人で、普通に仕事をし、普通に友達もいる人物なのです。
彼の中では「先に惚れたほう」は私で、私が泣きながら必死で彼を口説き落として、彼は仕方がないので私と付き合うことになったが、私は両親から離れて働かずに生きるために彼を利用しているとのことで、彼は私に食いつくされないよう自分の身を守るため、そこかしこにそのように吹聴して歩いているそうです。悔しかったら、私の収入をすべて彼に献上し、家事全般も完璧に行い、絶対服従する必要があるそうです。
何を言っているのかわかりません。私に声をかけてきたのも、何かと構ってくれたのも、家に来いと言ってくれたのも彼ですし、経済的に利用するなら、月収二十万の人は普通に非現実的です。
「悔しかったら」って何なんでしょう。「そこかしこ」は私との共通の友人知人も含みます。「彼と私の共通の知人」は全員、間違いなく、「彼のいうことだけ」を、頭から信じ切るのでしょうか。(そりゃ、彼の前では当然、そのようにふるまうでしょうが……)
色々と謎すぎですが、とりあえず、先のことを考えたほうがよさそうです。
万が一の時のために、彼の発言はなるべくこっそり録音し、録音できなければメモを取って記録を残し、同時進行で、こっそり引っ越す算段を考え始めましたが、あまり時間がたたないうちに、うっかりそれらを見つけられてしまいました。彼はわざとらしく目を大きく見開き、やけに芝居がかった口調で、大声で叫びました。
「ひ、卑怯だーっ!!いっ、いっ、異常だああーっ!!お前は、お前はあああ!!いっ、いっ、いい異常だああああーー!!」
どうして「卑怯」なのでしょう。録音などの記録がなされていると知ったのであれば、発言に気を付け、問題のあることは言わなかった、ということに他ならないのではないでしょうか。つまり自分の行動がどういうことかを自覚して行っていた、ということです。
「異常」は、誰のどういう行為を指しているのでしょうか。距離を置いていたはずの父と母に近いような人物が、目の前にいます。
「大体、その記録も嘘ばかりだ、貸せ」
私のノートのメモまで、自分の手で書き換えようとしています。どうやら、この人物の行動、発言、妄想、常にすべて「自分が悲劇の主人公として都合がよいように」プログラミングされてできているように思われます。つまり彼は、私の被害者でなければならないようです。私がそれに合わせる必要は、もちろんありません。
「これは私の意思でとった、私の記録です。あなたの意思で、私の意思を書き換えることは許しません。必要なら、あなたはあなたで、あなたの記録をとればよいと思います。」
このあと、よくわからない、あまり意味の通じないように思われる、妄想交じりのことをめちゃくちゃに言われながら、なんだかひたすら殴られ、首を絞められたことを覚えています。
翌朝、私は当座必要な荷物をまとめて彼の家を出、近所の交番に保護してもらいました。
自分だけの小さな部屋の、安穏で平和な一人暮らしが続いています。いろんなところに協力してもらって、ようやく得られた、小さな私のお城です。
実家は絶対に頼れないことを話し、必要な措置を取ってもらうことができました。元彼がその後どうなったのか知りませんが、少なくとも私のその後の人生を考えれば、警察を頼って正解でした。友人のところなどにお世話になってしまったら、どんなとばっちりがいってしまったか、わかったものではありません。
両親にも、あの男にも、どこから伝わってしまうかわからないので、親戚や地元の友人などにも、住所を教えるどころか連絡一つとっていませんが、不自由はありません。もう10年が経ちました
思い立ったときに、祖父のギターをケースから取り出して、ガーゼで軽く拭くことがあります。学校で習った弾き方は忘れてしまいましたが、ふとさみしくなった時など、ケース越しのまま、祖父に見立てて話しかけることがあります。
ほとんど身一つで元彼のDVから逃げてきたにも拘わらず、何故かこのギターがずっと私と一緒にいてくれているのは、祖父が守ってくれているからに違いない、と思いたい気がしています。事実としては、DV案件に対応してくれる引っ越し屋さんが、特に指示をしなかったにもかかわらず持ってきてくれてしまったのでしたが。
他愛もない私の日常を、顔も覚えていない祖父が、目を細めてうなずきながら聞いてくれているような気がしてきます。私はしばしば、何かの世間話の折に、ギターにこう言いました。
おじいちゃんがギターじゃなく、実際の人間の家族だったら最高なのにな。個人の事情はあると思うけれど、私は、私という個人を尊重してくれる人を家族としたいの。結局私は、一人でいるのが寂しいの。こんなにも快適なのに、おかしなものね。果たして、おじいちゃんにわかってもらえるものかしら。大体、私はおじいちゃんがどんな人だか知らないのにね。
ある日、突然、ドアチャイムが鳴りました。
アポイント、心当たりのない訪問者は応対しないことにしていましたが、なんとなく嫌な予感がしました。
驚いたことに、チャイムを鳴らした後、その訪問者はドアノブをがちゃがちゃと回して、ドアを開けようとしました。鍵がかかっていたので開きませんでしたが、何の目的の、どういう訪問者なのでしょう。警察に情報提供する必要があるだろうか、と、ちらと思いました。
その時はそれだけでしたが、数時間後、再度ドアチャイムがなり、何かがドアポストに差し込まれた気配がありました。念のため、少し時間をおいてから、そっと見に行くと、茶封筒が入っていました。取り出してみると、父の名前が書かれていました。
背筋が凍り付く、というのは、まさにこのことでした。
もう10年以上も連絡を絶っていたのにもかかわらず、ついに、ここを突き止められてしまったのです。
恐らくは、戸籍を辿ってきたのでしょう。
親は戸籍を閲覧することができますが、閲覧制限をかけてブロックすることが可能です。
しかし、閲覧制限は一年ごとの申請が必要です。
率直なところ、閲覧制限の申請のために、思い出したいと思っていない同じ話を毎年しなければならないのは、あまりにも重荷すぎました。彼らが戸籍を閲覧できることを知っているかどうかわかりませんし、10年もたてば諦めているだろうと、今年から更新の申請をやめてしまっていたのです。
しかしながら、少なくとも私の戸籍上の両親に関していえば、彼らの脳は普通とは言えない可能性が高いことを、私は大学生の時に学んだはずなのでした。今更ながら、ここまで執念深く執着されていたとは。
まずは嫌悪感が先に立ちました。ですが、見ないで捨ててしまうのは一番危険です。少し考えましたが、やはり封を切ることにしました。まずは封筒を振ってみました。紙以外のものは入っていなさそうな気がしたので、思い切って封を切りました。手帳を破ったものと思しき紙に、見覚えのある父のひどい癖字が、ちまちまと並んでいました。
内容は彼の定年退職後の近況、よくわからない理由で母が家を出ていき、今どこにいるかわからず連絡も取れないこと。掃除や片づけや洗濯が面倒で、ゴミ屋敷と化した築40年の実家に一人で住んでいること。ついては、古いアパートで健気に一人で暮らしている私の老後が心配なので、そのゴミ屋敷を相続させたく、ありがたく思って見に来てほしいこと。私がDV男のところから出て警察に保護されたあと、その男と連絡を取りあって、私が彼の家や、元の住所など心当たりのある場所、および戻りそうな頃合いを二人がかりで見計らって何度も待ち伏せしたが、ついに捕まえることができなかったこと(ここを読んだときは、文字通り全身が総毛だちました)私さえ帰ってくれば、家族が笑顔でまた一つになれるという希望的妄想(父は「夢」という言葉を使っていました)、そして、携帯電話の番号を教えろという要求でした。
どんなに私が恋しく心配で探し続けたかという恋文のような湿っぽくくどくどした文章、妄想なのか、それとも私の気を惹くための嘘なのか、事実と異なる点も多々含まれ、また「祖父が今の自分と同じくらいの年に脳梗塞で亡くなった」という記述もありました。つまり一人で死にたくないので私に一緒にいてくれ、介護の末看取ってくれ、ということでしょう。
とにかく、泣き落としでも何でも、使えるものは何でも使ってどうにか私をおびき出し、おびき出せさえすれば勝算があるものと考えているように読み取れました。
築40年のゴミ屋敷を相続したい人は、あまりいないと思います。私の老後よりも、既に訪れている自分の老後を考えて、実家は処分して老人ホームに入るほうが、絶対に現実的な気がします。
DV加害者と申し合わせて被害者を探すことを試み、協力しあって一緒に待ち伏せなんて、それこそ警察沙汰にすべき事件です。実際に私は、元彼の家に荷物を取りに、こっそり何度か赴いています。タイミングが合わなかった天の采配に感謝しかありません。遭遇しないで済んで本当に良かった。
父はそうは思っていないようですが、「笑顔で集まれる俺の家族」は、もう何十年も前から、夫婦仲も、親子仲もよくありませんでした。割と小さいうちから、父が気持ち悪く、母を信じていなかった私が両親の前で笑ったことなど、10歳前が最後だと思います。
これが「笑顔で集まれる」場合となると、よほど大きな見返りが期待できる状態しかないでしょうが、少なくとも、父とゴミ屋敷は、それほど大きな見返りに該当すると思えません。
見返りに相当するもの、それは紛れもなく、「ギニーピッグとして」の「私の存在」です。
翌日、私は仕事を休んで所轄の警察署に電話し、問題の手紙をもって赴きました。担当警察官にじかにそれを見てもらい、これまでの事情も思い出せる限り、言語化できる限り洗いざらい話しました。
担当警察官から、父に電話してもらいました。彼は父との根気のいる押し問答を強いられた末、何とか説得に成功したようでしたが、話の最後にぽつりと「引っ越したほうがいいかもしれないと思います」と、付け加えました。
「引っ越し………。危険な感じですか」
「危険というか……、あなたの心理状況とかも、あると思いますので……」
「私の心理状況」
「ええ、ですが、何も今日明日とかいうわけでは。万が一本当に何かあったら、すぐに通報してくださいね」
担当警察官の予言は当たってしまいました。数日後、父が訪ねてきたのです。
夜間のことでした。突然続けざまになるドアチャイム。ガチャガチャと激しく回るドアノブ。ガンガンと激しく叩かれるドア。私の名前を何故かフルネームで何度も呼ぶ、方言交じりの大声。
「お前ひとりが全部台無しにしたんだ!お前さえ俺の言うとおりにしていれば!お前が一人で、俺の家族をぶち壊した!お前さえ俺の思い通りになりさえすれば、すべて平和で、うまくいったのに!お前ひとりが戻ってくればすべて丸く収まるのに!!俺の家族、俺のささやかな大切な夢を、すべて一人でぶち壊しやがって!!しかも親を警察に売るってどういうことだ、この親不孝者が!!いいからさっさと出てこい、話を聞いてやる!!!」
彼にとって不本意なことは、すべて私一人が悪いことになっています。「警察に売る」って何なんでしょう。警察がお金をだしてでも探すほどの犯罪を犯しているのでしょうか。かつてのDV男を髣髴とさせます。さぞや意気投合でもしたのでしょうか。下手したら、いまだに仲良くしているかもしれません。「話を聞いてやる」って、夜間に突然押しかけて大声でわめく人物に、話し合いができると思えません。「話を聞いてやる」ためではなく「危害を加え」に来たと解釈するほうが的確です。
とにかく急いで110番通報しました。騒いでいる大声が響いているので、電話の向こうに状況が伝わるのも早く、また最近に相談に赴いていたせいもあったのでしょうか、すぐに駆け付けてもらえたようです。
外で何人かで大声でもめている声が聞こえます。ドアを開けるわけにはいかず、覗き穴からはあまり見えませんが、かなりの修羅場のようです。
ハラハラしながら、息をつめてなおも様子をうかがっていると、すごい音がしました。
一瞬、どこからの何の音かわかりませんでしたが、途端に騒ぎの質が変わりました。救急車の音が聞こえてきて、やがて静かになりました。
そのまま、あくまでドア越しに少し様子を見ていましたが、それ以上特に何かが変わる様子は見られませんでした。
とりあえず、いったん部屋の中に戻りました。入口から対角線上の壁に立てかけてあったギターケースが、床に倒れています。
どこかで見た光景のような気がします。
ケースの上からネックの部分をつかんで、元に戻したその時、いつもと少し違和感があるような気がしました。私は、ギターケースを再び床に寝かせて開けました。
おじいちゃん。
私は、その場に立ち尽くしました。
そして、へたへたと座り込みました。祖父を呼びました。助けをもとめるでもなく、迎えを乞うのでもなく、話を聞いてもらいたいのでもなく。ただ、顔も覚えていない彼を呼びました。
おじいちゃん。
いま、私の心はとても散らかっています。あまりにもひどく散らかってしまって、ここがどこなのかわからないほどです。自分の心の中で、乱雑に散らばる自分の心のかけらたちに囲まれて、迷子になってしまいそうです。
おじいちゃん。
おじいちゃん。おじいちゃん。おじいちゃん。おじいちゃん。おじいちゃん……
翌日、父への電話を担当してくれた警察官から連絡があり、父が救急搬送ののち入院中であると知らされました。昨日の大きな音は、父が、あの場で突然脳梗塞を起こして倒れ、どこかに頭を強くぶつけた音だったようなのです。一命はとりとめたようですが、くしくも、祖父の死因だったという脳梗塞。
年齢的なこともあり、今後は半身不随となる可能性が高いそうです。意識障害も懸念されているのことでした。私は、母や親戚などの連絡先はいま、まったく知らないこと、これまでお話ししていることがあるのでお分かりいただけると思うが、今後、父に関わるための物質的及び精神的余裕、および意思も一切ないことを、きっぱりと告げました。
電話を切って、改めて祖父のギターのケースを開けました。
ボディは無残に割れ、人の頭ほどの大きな穴ができ、弦はすべて切れています。
おじいちゃん。
守ってくれてありがとう、と、私はギターに向かって告げました。
ちょっと不謹慎だけど、やったね。
このギターは、祖父が守ってくれている証だと信じたいと思っていましたが、本当に、その通りだったのです。父と母の買ってくれた要らないものを使って、命を絶とうとしたとき、助けてくれたのは、祖父だったのです。お迎えに来て、と泣いていた、小さかった日から、ずっと一緒にいてくれたのです、恐らくは。
でも、おじいちゃん。
お父さんは、かけがえのないあなたの大切な息子だったのに。
おじいちゃん、ごめんね。
でも、ありがとう。
それから数年が経ちました。
あれほど、もう他人とはかかわりたくはないと思っていた私ですが、結局、本当に私を大切にしてくださる方とのご縁がありました。あちらのご家族にも受け入れていただけ、幸せに暮らしています。
彼曰く、一番最初に私を見たときに、とても美しくて、一目で恋してしまったのだそうです。それを言われたときは既に約束がまとまっていましたが、相当戸惑いました。そんなJ-POPの歌詞みたいなことを実際に言われる日が来るなんて、思ってもみなかったのです。一瞬、この人は大丈夫なのだろうか、とさえ思ったほどでした。私が正直にそういうと、彼は照れを隠すように、向こうを向いて笑いました。その横顔が、見た覚えのないはずの、祖父の笑顔と重なったような気がしました。
私は来月、出産予定です。
祖父のギターはあの後、お寺へ供養をお願いしました。切れた弦を一本だけ外して、お守りがわりに持つことにしました。結局、祖父から父へ、父から私へと渡り、ほとんど誰も弾くことのないまま壊れてしまったギターでしたが、切れてしまったこの弦が、このあとも、祖父と私をつないでくれます。
あの父を育てた祖父が、父にとってどんな父親だったのか、私には、やはり正確なところはわかりません。父母がその後、それぞれどうなっているのか、いま、私は知りません。今後接触の必要が発生したら、その都度どなたかに、例えば弁護士さんなどにお願いするつもりです。それで平和に生きていけるなら、それが一番良いと思います。
結局、その人の人生は、その人自身が、全面的に自力で背負うしかないものなのでしょう。自分一人の重み以上のそれに耐えられる人は、存在しないのだと思います。
私は、昨日より少し大きくなったような気がするおなかを撫でます。
今は私の体の中にいて、私の遺伝子も、夫の遺伝子も、父と母のそれも持っています。そして、その誰とも別の人間です。ありがたいことに。
生まれてくる我が子には、どんな子だったとしても、その子に何が起こったとしても、安心感と愛情をたっぷりと与え、自分の希望や思い込みを押し付けないよう、その子そのものを、否定せず大切に育てたいと思っています。私は、私の父や母のような子育てをずにいられるでしょうか。しっかり刷り込まれてしまっていることが心配でならないときもあります。
でも、たぶん大丈夫かもしれません。
どうしても困ったら、また、おじいさんが力を貸してあげる。どうかお互いを大切に、幸せに生きておくれ。そんな時は決まって、祖父の声が聞こえるような気がしますから。
そういえば、私が幼い日に見上げていた記憶の中の、ギターを弾きながら歌う男性の姿は、今の父よりもまだ若かった祖父の姿だったのではないか、などと、時折思ったりするのです。
