応用が先にやってくる日常で
「これは、この先生に渡すんだよ」
そう言ったのは逸花(いつか)だった。
提出書類を朝陽(あさひ)のランドセルに入れながら、優しく伝える声。
朝陽は「うん」とうなずいていたけれど、僕はその顔を見逃さなかった。
目が少し泳いでいる。どこか、曖昧な返事。——あ、これは分かってないな。
逸花と朝陽が話し終わった後、僕はそっと朝陽に声をかけた。
「さっきの話、わかった?」
「うーん……よくわからなかった。どうすればいいの?」
やっぱりな、と思った。
たしかに、「この先生に渡す」という指示はシンプルで明確だ。
間違っていない。むしろ、親として自然な伝え方だと思う。
でも、それは“その先生が誰なのかを認識している”という前提がある。
入学してまだ数日。
朝陽にとって、先生の名前と顔が一致しているかは怪しいし、
もしその先生が今日はお休みだったら?
何かの事情で教室にいなかったら?
きっと朝陽は、どうしていいか分からず困惑する。
そう思った僕は、朝陽にこう伝えた。
「じゃあね、もしわからなくなったら、他の先生でもいいから聞いてみて。
“このプリント、どうしたらいいですか?”って聞けば、きっと教えてくれるよ」
朝陽は少しほっとしたようにうなずいた。
うん、それでいい。それができれば十分だ。
この一連のやりとりの中で、僕はふと“基礎と応用”という言葉を思い浮かべた。
「この先生に渡す」——これは一見基礎的な指示のように見えて、実は応用だ。
なぜなら、その行動を成立させるには、
・その先生が誰か分かっていること
・その先生に実際に会えること
・その場面での判断力があること
といった複数の“基礎”が整っていなければいけない。
でも、生活はいつも教科書どおりにはいかない。
勉強なら、まず基礎問題、次に応用問題、という順序がある。
問題集だって、そうやって構成されている。
けれど、日常はそうじゃない。
突然やってくる“応用の場面”に、まだ基礎が整っていない子どもが立たされることはよくある。
「渡す相手が分からなかったら、他の先生に聞けばいい」
そんな一言があるだけで、朝陽の中には“第二の選択肢”が生まれる。
それだけで、世界の見え方が少し変わるんじゃないかと思う。
正解はひとつじゃない。
分からない時に“どうするか”を教えること。
それもまた、大切な教育の一つなのかもしれない。
それから数日後。
朝陽が学校から帰ってきて、元気に言った。
「今日ね、先生いなかったの。でも、違う先生に聞いてみたよ!」
「そしたら、『この箱に入れといてね』って言われたから、ちゃんと入れてきた!」
自信に満ちたその表情に、僕は心の中でガッツポーズをした。
そうそう、それでいい。
“この先生に渡す”ができなかったとしても、ちゃんと“届ける”という目的は果たせたんだ。
何より、自分で考えて、動けた。それがすごい。
朝陽の中で、“聞いていいんだ”という許可がしっかり根付いてくれたこと。
その小さな芽生えが、僕にとっては何より嬉しかった。
教えるというのは、ただ方法を伝えることじゃない。
もしものときの“次の一手”を、一緒に考えること。
正しい道だけじゃなく、“間違えても戻れる道”があることを、伝えていくこと。
基礎を伝えるだけでも足りない。
応用を押しつけるだけでも足りない。
その両方の“橋渡し”が必要なんだ。
僕たちの毎日は、子どもたちにとっては突然やってくる応用問題の連続だ。
だからこそ、親としてどう教えるか——それもまた、毎日が実践と反省の連続なんだなと、あらためて思う。
(前回のエピソードはこちら)
