良い親プレッシャーという言葉に、どうしても頷けなかった夜
「良い親プレッシャー」
その言葉を初めて目にしたとき、僕の中には、不思議なくらい共感が湧かなかった。
怒りでも、反発でもない。ただ、ぽっかりとした違和感だけが残った。
育児にかける時間が増えている。
母親は25年で1.4倍、父親は3.6倍。
世界的にも、子どもに費やす時間は増え続けている。
背景には、「良い親でいなければならない」という無言の圧力がある——。
数字も分析も、きっと正しいのだろう。
現場の声も、決して嘘ではない。
それでも僕は、読み進めるほどに、ひとつの問いから離れられなくなっていった。
——それは、本当に「プレッシャー」なのだろうか。
まず、育児時間が増えていること自体について。
これは、僕自身の実感ともズレていない。
朝、子どもを起こす。
一緒に朝ごはんを食べる。
学校や保育園の話を聞く。
帰ってきたら、その日の出来事を聞く。
一緒に考え、悩み、時には黙る。
確かに、時間は使っている。
でもそれを、「負担」として数えたことがあっただろうか。
少なくとも、僕自身は、そうではなかった。
育児の時間が増えたというより、「子どもと同じ時間を生きている」という感覚に近い。
それは、何かを犠牲にしている感覚とも違う。
ましてや、「押し付けられている」感じでもない。
記事には、こうした声が紹介されていた。
「夫は協力的で、育休も1年取得し、育児は完全に分担。それでも負担感は大きい。」
ここで、僕は立ち止まってしまった。
分担しても、しんどい。
協力しても、苦しい。
それなら、その「しんどさ」は、どこから来ているのだろう。
時間の問題なのか。
量の問題なのか。
それとも、別の何かなのか。
僕は、人事として長く「しんどさ」を扱ってきた。
仕事がしんどい、組織がしんどい、人間関係がしんどい。その多くは、「やっていること」そのものよりも、“どう捉えているか”に起因していることを、何度も見てきた。
育児も、同じではないだろうか。
「良い親でいなければならない」
この言葉自体は、一見するととても健全だ。誰もが、子どもにとって良い存在でありたいと思う。そこに、異論はない。
でも、この言葉が基準になった瞬間、空気は変わる。
・良い親とは、どんな親か
・誰が、それを決めるのか
・できていない親は、何者なのか
答えが曖昧なまま、「もっと」「まだ足りない」「他の家はやっている」という比較だけが増えていく。
ここで生まれているのは、プレッシャーというより、軸の喪失ではないだろうか。
少し極端に聞こえるかもしれない。
でも、正直に言えば、僕は「良い親になろう」と思ったことがない。
代わりに、いつも考えてきたのは、これだけだ。
——この子の人生を、奪っていないだろうか。
——この子の考える余白を、塞いでいないだろうか。
教えすぎていないか。
守りすぎていないか。
先回りしすぎていないか。
それは、「良い親」を目指す問いではない。
「余計なことをしていないか」を問う視点だ。
記事の後半で、とある教授はこう語っている。
「過度の育児は、子どもの将来にも負担になる。」
この一文だけは、僕の中で静かに深く沈んだ。
そうだ。
負担を感じているのは、親だけではない。
・常に見守られている子ども
・失敗を許されない子ども
・期待を背負わされる子ども
それは、本当に「大事に育てられている」状態だろうか。
僕は、子どもが転ぶ瞬間を、何度も見てきた。
泣く前に立ち上がることもある。
泣きながら、しばらく地面を睨むこともある。
その時間を奪わないこと。
それも、親の大切な役割だと思っている。
育児時間が増えている、という事実は、必ずしも悪いことではない。
でも、その時間が、「子どものために何かをしてあげる時間」だけで埋まっているとしたら、そこには、危うさも潜んでいる。
何もしない時間。
任せる時間。
信じて、離れる時間。
それらは、統計には表れない。
でも、確実に、子どもの中に残る。
改めて考えてみて、ようやく言葉にできた。
僕が理解できなかったのは、「良い親プレッシャー」という言葉そのものではない。
親であることを、“評価の対象”にしてしまう視点が、どうしても腑に落ちなかったのだ。
良いか、悪いか。
足りているか、足りていないか。
もっとやるべきか、まだ足りないか。
その物差しは、いつの間にか、親自身を追い込み、子どもの人生にまで入り込んでしまう。
記事は最後に、「持続可能な育児」を社会で模索すべきだと結んでいる。
僕も、その言葉自体には賛成だ。
でも、持続可能性とは、頑張り続けられることではない。
手を抜けることだ。
委ねられることだ。
「まあ、いいか」と言えることだ。
完璧じゃなくていい。
揃っていなくていい。
誰かと比べなくていい。
親は、聖人じゃない。
正解を知っている存在でもない。
ただ、少しだけ長く生きている人間だ。
だからこそ、迷う姿を見せていい。
分からないと言っていい。
一緒に考えていい。
それができる関係性の中で、子どもは、自分で考える力を育てていく。
「良い親プレッシャー」という言葉が示しているものを、否定したいわけではない。
ただ、僕はこう思っている。
——プレッシャーを感じているとしたら、それは「良い親であろうとしすぎている」サインかもしれない。
親が背負うべきなのは、評価でも、期待でもない。
子どもが、自分の人生を生きられるように、余計なものを背負わせない責任だけだ。
それが、僕が親として、どうしても手放したくない軸である。
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