ネクタイは“お手本”なのか——入社式の一通の連絡に、僕が立ち止まった理由

「ネクタイ着用で、社会人のお手本になっていただけたら嬉しいです」

その一文を読んだとき、僕の指は一瞬だけ止まった。

画面の向こうには、とある会社の採用担当からの連絡が表示されている。
明後日に控えた入社式についての案内だった。

服装の指定。
参加可否の確認。
よくある連絡だ。

内容自体に、特別な違和感があるわけではない。
むしろ、丁寧に整理されている。

でも、その一文だけが、妙に引っかかった。

——社会人のお手本。
ネクタイをつけることが。

僕はスマートフォンを持ったまま、しばらく動けなかった。

違和感というほど強いものではない。
でも、確かに何かがずれている気がした。

それはきっと、「ネクタイが悪い」という話ではない。

僕自身も、必要な場面ではネクタイをつける。
入社式という場で、フォーマルな服装を求めることも理解できる。

でも、「お手本」という言葉と、ネクタイが結びついた瞬間に、何かが変わる。
その違和感の正体を、僕は考え始めていた。

入社式というのは、不思議な場だ。
これから社会人になる人たちにとっては、ひとつの節目であり、スタート地点でもある。
そして企業側にとっては、「社会とはこういうものだ」という最初のメッセージを伝える場でもある。

だからこそ、そこに込められる意味は、想像以上に大きい。

服装もそうだ。
「スーツで来てください」
「ネクタイを着用してください」
それ自体は、形式の話に見える。
でも、その裏側には、「こうあるべきだ」という価値観が乗っている。

問題は、その価値観がどこから来ているのかだ。

僕が最初に働いていた会社でも、入社式はあった。
みんなが同じようなスーツを着て、同じようなネクタイを締めて、同じように並んでいた。

違和感はなかった。
むしろ、それが当たり前だと思っていた。

「社会人とはこういうものだ」

誰かに教わったわけではない。
でも、なんとなくそう理解していた。

そして、数年が経ち、人事として働くようになった今、その「当たり前」を、少しだけ疑うようになった。

ネクタイをつけることは、本当に「社会人のお手本」なのだろうか?

この問いは、単なる服装の話ではない。
もっと深いところにある。
「社会人とは何か」という問いだ。

もし、ネクタイが社会人のお手本だとするなら。
ネクタイをしていない人は、お手本ではないのか。
Tシャツで働いている人。
パーカーで仕事をしている人。
リモートでカメラオフのまま成果を出している人。

彼らは、「社会人として未熟」なのだろうか。

そんなことはない。

むしろ、成果を出している人ほど、服装に縛られていないケースも多い。

じゃあ、「お手本」とは何なのか。

僕は、人事としてたくさんの人と関わってきた。

その中で感じているのは、「お手本」という言葉の危うさだ。

お手本とは、何かを真似る対象だ。
つまり、「正解」が前提にある。
でも、本当にそうだろうか。

社会人としての正解は、ひとつではない。

どんな働き方をするのか。
どんな価値を提供するのか。
どんな姿勢で人と向き合うのか。

それは、人によって違う。
会社によっても違う。

それなのに、「これがお手本です」と示された瞬間に、人の思考は止まりやすくなる。

「こうすればいいんだ」
「これが正しいんだ」

そうやって、外側に正解を求めるようになる。
僕は、そこに少しだけ怖さを感じている。

ネクタイをつけること自体は、何も悪くない。
むしろ、場に応じて適切な服装を選べることは大事だ。

でも、それを「お手本」として提示した瞬間に、本質から少しだけズレる。

本来伝えるべきなのは、そこではないはずだ。

例えば。

時間を守ること。
約束を守ること。
相手の話をきちんと聞くこと。
自分の役割を理解して行動すること。

こういったもののほうが、よほど「社会人としてのお手本」に近い。
でも、これらは見えにくい。
ネクタイのように、目に見える形ではない。
だからこそ、扱いにくい。

そして人は、扱いやすいものを「お手本」として提示しがちになる。
形式は、わかりやすい。
でも、わかりやすいものほど、本質ではないことが多い。

僕は、あの一文を読みながら、そんなことを考えていた。

そして、もうひとつ思ったことがある。
それは、「なぜこの言葉が出てきたのか」ということだ。

採用担当の人が、悪意を持って書いたわけではないだろう。
むしろ、先輩社員に対して、丁寧に伝えようとしている。

「新入社員にとっては社会人としての最初の場だから、先輩社員にはきちんとした姿で来てほしい」

その気持ちは、よくわかる。

でも、その伝え方の中に、「無意識の前提」が含まれている。

「ネクタイ=社会人らしさ」という前提だ。

人事の仕事をしていると、こういう「無意識の前提」に何度も出会う。
そして、それが組織の中で、当たり前のように共有されていく。

誰も疑わない。
だから、変わらない。
でも、本来は、そこにこそ、問いを立てるべきなのだと思う。

「それって、本当にそうなんだっけ?」

この問いを持てるかどうかで、組織の在り方は大きく変わる。

ネクタイの話は、小さなことに見えるかもしれない。
でも、その小さな違和感の中に、組織の価値観が表れている。

何を大事にしているのか。
何を“お手本”とするのか。

もし、その会社が本当に伝えたかったのが、「社会人としての基本を新入社員に見せてあげてほしい」ということだったとしたら、伝え方は、もっと違うものになるはずだ。

「時間を守ること」
「周りへの配慮を忘れないこと」
「自分の役割を理解して行動すること」

そういったことを伝えた上で、「その一つの表れとして、今回はネクタイの着用をお願いしています」と書かれていたら、僕の受け取り方は変わっていたと思う。

でも、現実にはそうなっていない。
だからこそ、僕は立ち止まった。

「社会人とは何か?」

この問いに、正解はない。
でも、だからこそ、「わかりやすいもの」をお手本にしてしまうと、本質から遠ざかる。

僕は、人事として、そして、一人の社会人として、できるだけ、「見えないもの」に目を向けていたいと思っている。

ネクタイではなく、その人の姿勢を見る。
服装ではなく、行動を見る。
形式ではなく、本質を見る。

それが、本当の意味での「お手本」なのではないか。

スマートフォンの画面を閉じながら、僕はそんなことを考えていた。
そして、少しだけ笑った。
きっと、この違和感は、これからも何度も出会う。
でも、そのたびに立ち止まって、考え続けたいと思う。

なぜなら、「社会人とは何か」という問いは、誰かに与えられるものではなく、自分で考え続けるものだからだ。

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