「自由」という檻を見つめる──ラース・フォン・トリアー『マンダレイ』について
ラース・フォン・トリアーの映画を観ると、いつも少しだけ胸がざらつく。
『ドッグヴィル』もそうだったが、続編の『マンダレイ』は、さらにその“ざらつき”を洗練された苦味にまで引き上げている気がする。
物語は、大恐慌時代のアメリカ南部。
解放の理想を掲げるグレースが「マンダレイ」と呼ばれる農園にたどり着き、
自由を与えようとする。
だが、そこから立ち上がるのは、自由が必ずしも人を幸福にしない、という不穏な現実だ。
解放という名の支配
『マンダレイ』を観て思い出したのは、鷲田清一の「所有論」でも、柄谷行人の「交換様式」でもない。
むしろ、自分が持っている小さな生活感覚だった。
「良かれと思って、誰かを助けることが、本当にその人を自由にするのか?」
グレースは確かに善意だった。
しかし善意であっても、それが権力になる瞬間がある。
僕は自分の中にも、小さな「グレース」がいることを否定できない。
誰かの役に立とうとする。
何かを与えようとする。
それが結局、自分の手柄のようになってしまう。
『マンダレイ』を観終わると、静かに自分の内側を覗き込むような疲れが残る。
理想を語るとき、人は孤独になる
グレースは「自由」を掲げる。
トリアーは、その「正しさ」がどれほど残酷に働くかを、
たった一つの農園を舞台に残酷なほどに見せつける。
誰もが自由を望んでいるわけではない。
誰もが自立を選ぶわけでもない。
現実は「理想の下で結ばれた共同体」などではなく、
怠惰、恐怖、恨み、諦め、思惑、甘え、ずるさが、
複雑に絡まっているだけだ。
理想は、思っている以上に人を孤独にする。
そして、孤独の果てで「自分の正しさ」に取り憑かれた人間が、
どれだけの他者を傷つけるかを、
トリアーは淡々と、しかし執念深く追い詰める。
外山悠三として思う
僕は映画を観ていても、途中で止めてしまうことが多い。
でも『マンダレイ』は一度止めると再び再生するまでに時間がかかる。
言葉で処理できない重さがあるからだ。
僕自身、他人を自由にしたいと考えたことがあったかもしれない。
でも実際には、自由というのは与えられるものではなく、
引き受ける勇気を持った人間だけが“勝手に”得ていくものなのだと思う。
「誰かの手を引いて自由にする」という考え方自体が、
すでに支配の匂いを孕んでいる。
それでも人は救われたい
『マンダレイ』には救いがないと言われる。
でも僕は、救いがないように見えて、
最後に小さな“後味”が残されていると思っている。
それは、人は結局、自分で選ぶしかないという当たり前の事実だ。
他者はその背中を見送るしかない。
見送ったあとに残るのは、自己嫌悪と疲れと、
少しの「それでも生きていくしかない」という諦めだ。
そしてその諦めこそが、僕には人間的な優しさに見える。
おわりに
ラース・フォン・トリアーの映画を語るとき、
大声で理想を叫ぶ人とは話が合わないと思う。
彼の映画は、どこまでも“理想の終わり”を描いているから。
そして、静かな暮らしの中で、
理想に裏切られたときにだけ滲む優しさが、
この映画にはある。
だからまた、僕はきっと『マンダレイ』を観返すのだろう。
疲れるとわかっていても。
