マイケル・トマセロ著『行為主体性の進化』から空想する「創造力の一基本要素としてのアニミズム」仮説と、「不確実性の時代」への対処による地球規模の社会集団への移行可能性
本記事について
なぜわたしたち人間だけが科学や芸術、(広義の)遊戯などの創造的行為をなせるのか?
また、地球市民という言葉が現れて久しいが、この「不確実性の時代」に私たちが何らかの形で地球規模の社会集団を築き、真の意味で地球市民となる現実的な可能性はあるのか?
この記事では、『行為主体性の進化:生物はいかに「意思」を獲得したのか』(マイケル・トマセロ著, 白揚社)(以下、『行為主体性の進化』あるいは本書)という本から得た知見を頼りにして、身の程知らずにも、これらの難題について空想してみたい。
また、本書はたいへん示唆に富んでおり、歴史家ホイジンガが提唱した「ホモ・ルーデンス=遊ぶ人」を代表とする遊戯論や、京都学派の哲学者・西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」、近年注目されている生命システムモデル「オートポイエーシス」や行動経済学者ダニエル・カーネマンの「ファスト&フロー」、人間の社会性を進化生物学的・人類学的に説明する「自己家畜化仮説」(これについては本書中で人類学者ブライアン・ヘアの名とともに一度だけ簡単に触れられている)などを考慮した学際的な視点で読むことが可能であると、私は考える。
が、この記事では必要に応じて言及するに留める。
想像する権利はすべての者に与えられている(=本記事への自己弁護。書いてしまったから残すが、読まなくていい。)
本記事を作成するにあたり、
一般人の私なんかが「なぜ人間だけが科学や芸術などの創造的行為をなせるのか?」「わたしたち人類は地球市民たりうるか?」という難題について考えてもいいのか?
と気後れしてしまった。
そんな私の背中を押したのは、以下に引用する2つの言葉だ。
自由とは、プレイする許可を自分に与えることだ。創造性を発揮するには、リテラシーだけでなく、失敗する自由やひどいアイデアを持つ自由、見当違いのことをし、自分がどこへ向かっているかも何をしているかもわからない自由が求められる。
私がかなたを見渡せたのだとしたら、それは巨人の肩の上に立っていたからです。
アイザック・ニュートンは、万有引力の提唱──落下するリンゴの逸話が有名だ──をはじめとし、自然科学分野において数多くの偉大な貢献をはたした17~18世紀の人物である。
引用した彼のことばの通り、新たな考えやモノが創造されるのは、いつだって「巨人の肩の上」に立っている時なのかもしれない。そして、その肩から思い切って飛び立ち、先人たちの積み重ねてきた成果を紡ぎ造った想像の翼によって世界を羽ばたいている時なのかもしれない。
そしてジマーマンの述べる通り、想像の翼で飛ぶことは科学者や芸術家だけの特権ではなく、己に飛ぶ権利を与えたすべての者に許される行為だ。
ゆえに私は私に羽ばたく自由を与える。見苦しく羽ばたく自由を。
この記事は、認知科学者マイケル・トマセロの著作『行為主体性の進化』を読んだ私が、想像の翼で羽ばたいてみた結果の簡易でおそらく見苦しい報告である。しかし、創造力を発揮しようともがいた自由な飛行日誌である。
「行為主体」仮説 - 人間と他の生物を分かつもの
科学や芸術という創造的行為は、人間(ネアンデルタール人などの旧人類を含む)の特権である。なぜわたしたちだけが可能なのか?
また、わたしたちは戦争や看過すべからざる程度の不平等などを解消し、あらゆる違いを許容できる地球規模の社会集団を築くことが可能か?
私は認知科学者マイケル・トマセロが彼の著作『行為主体性の進化』において提唱する概念「行為主体」をヒントにして、これら疑問について考えたい。
そのためにまずは「行為主体」についての概説を、私の空想のために最低限必要だと判断したの概説をする。
「行為主体」についての記述を、本書からいくつか引用する。
行為主体とは
「agency」「agent」の訳で、本書のもっとも重要なキーワードである。自分で主体的、能動的に行動する能力(行為主体性)、またその能力を備えた実体(行為主体)をいう
個体レベルの行為主体であることは、その個体が完全にバイオロジー〔生物学的機制〕から自由でいられることを意味するわけではなく、つねにその生物は進化を通じて獲得した能力の範囲内で行動している。
個体レベルの行為主体は、バイオロジーの制限上で自由に行動できる。参加者の総意によって定められた規則のなかで進行する遊び(例:鬼ごっこ)を遊ぶ子どものように。
そして、行為主体に制限つきの自由を与えているのは、「フィードバック制御組織」である。
行為主体的存在は行為主体的な物質や実態ではなく、特殊なタイプの行動組織によって区別されると言えるだろう。その行動組織とは、フィードバック制御組織のことであり、個体はこの組織のもとで、情報に基づく意思決定や、自己の行動の監視によって、行動プロセスをコントロールし、さらには自己調節することで、特定の目標に向けて自己の行動──その多くは生物学的に進化したものだ──を導いていく。
⚫︎フィードバック制御組織とは?
まず、エアコン(いまや生活必需品である)を例に、フィードバック制御の仕組みを説明しよう。

いま、冷房で「室温を28℃に保つこと」を目標とする。
①スイッチで設定温度(目標値:28℃)を送信すると、
エアコンは以下の②〜④を繰り返す(②→③→④→②→…)循環的な制御によって目標を達成しようとする。
②温度センサーで室温を感知し、制御器(比較器)に伝える。
③目標値と室温を比較。室温が目標値より高ければ室温を下げるために送風量を増やす。逆に、室温が目標値より低ければ送風量を減らす。
④送風する。
上記のように、フィードバック制御とは、循環的に組織された能動的な制御メカニズムである。
トマセロは、行為主体としての生物は、行動の基本単位がフィードバック制御メカニズムによって構成されている、と述べる。ゆえに、行為主体のモデルは、パブロフの犬で有名な行動主義的モデルである「線形で受動的な刺激と反応の組み合わせ」とは異なる。
行為主体と自然選択
トマセロは、行為主体の主たる根拠を、環境における未知の状況下での、「個体の柔軟性」に見出す。
行為の柔軟性とは、その生物個体が、未知の状況がもたらす課題に対処するために、その場で新たな解決手段を見つけ出せることをいう。
自然選択による進化説において、生存し子孫を残すのは、当面の状況を柔軟に評価し、最善の行動指針を立て、行動実行を逐次監視し自己調節することで、不確実な状況にうまく対処できるできる個体である。
4つのタイプの行為主体と、4つのタイプの行動組織(=フィードバック制御組織)とその入れ子式構造
トマセロは、「前向きエンジニアリング」と自身が名付けた手続きを用いて、人類に至る連続的な進化系統において、4つの主要なタイプの環境的社会的不確実性に対処するために、異なる行為主体的組織をもつ4つのタイプの行為主体が生み出されたと考える。それらは以下のとおりである。
行為主体のタイプ
〜対処すべき不確実性
(1) 目標指向的行為主体 - 太古の脊椎動物(トカゲ)
〜約5億年前のカンブリア爆発によって生じた複雑で予測しにくい一連の生態的問題
(2)意図的行為主体 - 太古の哺乳類(リス)
〜捕食者との間の複雑性&食物や他の資源をめぐる集団の仲間との競争
(3)合理的行為主体 - 太古の類人猿(チンパンジー)
〜食物をめぐる競争がとりわけ激しい、離合集散を繰り返す社会
(4)社会規範的行為主体 - 初期人類→現生人類
〜狩猟採集をはじめとする対面コミュニケーションを通じた協働・共同→文化集団の出現
上記の(1)〜(4)から推測できる通り、種の進化とそれに伴う環境的社会的不確実性の大きな変化が、 ある行為主体性から高次の行為主体性への移行〈(1)→(2)→(3)→(4)〉を引き起こした、とトマセロは主張している。より高次の行為主体は、進化に伴って更に複雑になった世界で生き延びるために、より柔軟でより自由な行動を獲得した。トマセロが現時点で最高次の行為主体性をもつと定義した現生人類においてさえ、その自由は制限つきであるが。
以下の図2〜図5は、4つのタイプの行為主体それぞれに実装されている行動組織(=フィードバック制御組織)である。概説を必要最低限に留めるために、それぞれの行動組織についての簡易な説明さえもこの記事では省略させていただく。
以下の図で注目していただきたい点は、ある高次のフィードバック制御組織は、それより一つ低次のフィードバック制御組織を包含する入れ子式構造になっていることである。
さらなる説明のために、トマセロの記述を引用する。
これらさまざまなタイプの行為主体性は、(私が着目する生物種が〔人類に至る〕連続的で直線的な進化系統であることを考えると)目標指向的→意図的→合理的→社会規範的と、おのおのが先行する行為主体性を基盤としつつ、順を追って進化の過程で出現してきた。(中略)ここでもう一度、タマネギのたとえを思い出そう。前段階の行為主体から派生した行為主体のおのおのは、いくつかの形態の先行する行為主体を内部の層として含み、そこに新たなコンポーネントが追加され統合されていく(その過程で何かが変化するかもしれない)。人類を例に取ると、人間の単純な感覚運動的行動の一部は、現在でも目標指向的行為主体によって組織化されているが、より複雑な行動のなかには、さまざまなレベルで作動する複数の層が同時に関与しているものもある。
トマセロが言うには、最も高次の行為主体である現生人類が行動するとき、四つの層が相互循環的に作動しているようである。
また()内にある通り、高次の組織においてそれより低次のメカニズムは、高次の目標のために応用されたり修正されうる。本書内では、この低次のメカニズムの変化を「階層モジュール性」と「トリクルダウン選択」の両方の関与によって説明している。
図2〜図5のための事前説明が少々長くなってしまったが、以上とする。
先述した通り、以下の図で、玉ねぎのような、マトリョーシカのような入れ子式構造に注目していただければ、本記事の意図としては十分である(ただし、社会規範的行為主体の行動組織の入れ子式構造を図5のみから把握するのは難しいかもしれない。ご了承いただきたい)。




「大型類人猿(合理的行為主体)による物理的な因果関係のアニミズム的理解」というトマセロによる仮説。アニミズムが人類(社会規範的行為主体)の創造力の一基本要素である可能性。
先のとおり、トマセロの仮説によれば、人類は、大型類人猿をはじめとする系統樹に連なるそれ以前の生物種のメカニズムを包含している。
チンパンジーが人間の未就学児に同じくらいの知能を持っていることは有名である。トマセロ自身が行った実験では、チンパンジーの目標追求・注意持続に関するスキルは、人間の3歳児に匹敵することが判明した(本書, p136)。
チンパンジーなどの大型類人猿が持つ能力はそれだけではない。
本書によると、大型類人猿は、外界の物理的事象(物体が自然に落下する、物体の動きが止まるなど)を理解する際に、自己の行動の因果性をその事象に投影するプロセスを用いている可能性がきわめて高い(後で詳述する)。
このプロセスは、人間のみならず動植物や無生物などすべてのものが「霊魂(霊、魂、精神的活動の根源)」を宿しているとするアミニズム的なものである。
以上より私は「大型類人猿から受け継いだアニミズム的プロセスは、科学や芸術などに不可欠な『創造力』の一基本要素に変容したのかもしれない」と考えた。
私はこの考えを「創造力の一基本要素としてのアニミズム」仮説とした。
自ら名付けておきながら、以下に述べるのは「仮説」というよりもはや「空想」であると思う。なぜなら、それはトマセロの「行為主体モデル」仮説から導いた仮説(仮説から生まれた仮説)であり、サイエンス・フィクションの域にある考えであろうからだ。
大型類人猿がアミニズム的プロセスによって物理的現象を理解している可能性がきわめて高いとトマセロは主張する。本書から、彼の主張の根拠をいくつか引用する。
道具の使用には、生物の行動と道具の特性の両方が本質的に関与するので、それをうまく使うためには、言うならば生物と環境の境界をまたぐ必要がある。(中略)自己の行動とは独立して作用する因果的な力として物体を理解するためには(中略)、類人猿は意図的行為主体的なあり方で動くものとして物体を見る必要があっただろう。すなわち行為主体の行動と、外界におけるその結果のあいだに存在する因果関係との類推で物体を見る必要があったのだ。おそらく類人猿は、その種のアニミズム的な属性を物理的な事象に付与しているのかもしれない。そしてそれが、物理的な因果関係に関する類人猿の理解の基盤をなしているのだろう
大型類人猿は、事象Xが事象Yを起こすことを知っていれば、事象Xが起こった時には事象Yも起こることを、また事象Yが起こっていないときには事象Xも起こっていないことを知っている。そのような論理的に構造化された推論の枠組みは、因果的な属性の付与の起源を自己の行動に求める仮説を裏づける証拠になる。なぜなら、そのような枠組みが行為主体が行為主体自身の行動に由来することに、ほぼ間違いはないからだ。かくしてラットを用いたディキンソンの実験で見出されたような、自己の行動に関する因果的な理解によって、次のような推論がもたらされる。「ボクが行動すれば何らかの行動が生じるだろう。行動しなければ結果は生じない。結果が生じていないのなら、ボクは因果的に有効なあり方で行動しなかったのだ」「ある結果を引き起こす方法が二つしかなく、一方の方法が因果的に有効でなかったなら、他方の方法は有効なはずだ」などである。その種の推論は、(ラットにすでに見られるように)自己の行動と、操作レベルに対するその影響をめぐって一次的な実行レベルでなされる。次に大型類人猿は、反省層の働きによって、自己の行動に関するこの内面的な因果的推論を、(物体が自然に落ちる、あるいは物体が動きを止められるなどの)自発的に生じたかのように見える外的な事象に対応させることができる。そしてそれは、一連の因果関係の一部をなすという、道具の性質に関する既存の理解に基づいている。ピアジェの言葉を借りれば、類人猿における自己の行動の原因に関する推論はインプリケーション(含意)であるのに対し、外的な事象を(たとえば予測するために)説明しようとする試みはエクスプリケーション(説明)である。どちらも反省的な理解を必要とし、同一の「行動の論理」が異なった様相で用いられる。
類人猿が持つ独自の形態の反省的(合理的)な意思決定や認知制御にそれらの認知スキルを結びつけたけれ、私にはそれに代わる仮説が思いつかない。
最後の引用における「それらの認知スキル」は「外界における因果的、意図的な関係に対する大型類人猿の理解」であり、「仮説」とは一番目の引用にある「因果的な属性の付与の起源を自己の行動に求める仮説」であり、もちろんアニミズム的プロセスによる物理的現象理解という仮説である。
以上の引用より、大型類人猿は、ラットのような意図的行為主体が一次的な実行レベルで行なっていた推論を反省層の働きによって「外適応」させることで、アニミズム的プロセスによる物理的現象の理解ができるようになった可能性は高。外適応とは、初めは実用的でなかった特徴が環境圧によって実用性を獲得することである。また、外適応がさらに変化していっそう有用になることを「二次的適応」というため、大型類人猿のケースは二次的適応の方が正しいだろう。
では、二次的適応があるなら「三次的適応」があってもおかしくないのではないか?
わたしたち人類は、トマセロが仮説する大型類人猿のように、いや彼ら以上に、アニミズム的あるいは擬人化を駆使した方法で、現象や概念を理解する傾向にあるのではないか?
日本人のアニメ・ゲーム文化、八百万の神という考え方はその最たるものの一つではないだろうか?
私は、思惟の結果として「アニミズムまたは擬人化がわたしたち人間の創造力にとって重要な考え方・プロセスである」と主張する人たちを知っている。
現代思想家のエマヌエーレ・コッチャはその一人である(また、次の引用において彼が挙げている人類学者 アルフレッド・ジェルもそうである)。
偉大な人類学者、アルフレッド・ジェルは、20年前に死後公刊された本のなかで、驚くべき、直観に反するテーゼを擁護した。西欧において、わたしたちが人間とほとんど類似した実存を事物に認める領域を、わたしたちはアートと呼んでいるというテーゼである。美術館で起きることを考えてみればよい。(中略)美術館は、わたしたちのなかに賞賛や美的な快の感情を喚起する物を取り集める空間ではない。それは、無自覚の、集合的なアニミズムのカルトの寺院である。この寺院のおかげで、わたしたちは事物を愛し、自分と似た魂が、生物学的な生命をもたない一部の素材のなかに生きていることを認めることができる。
ドイツ教育思想史と、フリードリヒ・シラー(ドイツの国民的詩人)の美的人間形成論を専門とする鈴木優は、アリストテレスと、アリストテレスの『詩学』に影響を受けたシラーの両者が見出した芸術特有の「真実」(=「詩的真実」)に言及し、「詩的真実」が表現された芸術こそが、それを受容する人間に、現実からの解放と現実に向き合うための積極的な自由を与える経験(=「美的仮象」との出会い)を可能せしめる、と自身の著書で結論する。
『詩学』において、アリストテレスは詩的模倣が「人間の行為」の模倣であること、それも必然的な仕方でなされる行為を再現することであると述べている。(中略)シラーは詩における模倣(情感詩における模倣)が、「起こりえたこと」という「事柄の内的可能性」を再現すべきものであることを示唆し、それを「詩的真実」と呼んでいる。それは「事実」(歴史的事実)を明らかにすることによって得られるものではなく、「表象された可能性」のうちにすでに存在しうるものである。つまり、ここで重要なのは、アリストテレスもシラーも、より普遍的な事柄を扱うことのできる媒体である詩のうちにある種の理念的な性質を見出し、そこに芸術特有の「真実」を見出している
シラーの独自性は、この「自由の仮象」(「美的仮象」)が、芸術と受容者の間に成立すべきであると考え、それを可能ならしめる対象側の条件を追求した点にある。すなわち芸術は、自己の外にある何ものによっても規定されていないことを示し、「自己規定」を表現しなければならない。
「美的仮象」とは 「現実」の背後に潜む世界の真の姿や、出来事の本質との関わりを示唆する概念である。(中略)「美的仮象」が「真実」を保存し、現実に生きる人間の諸力を目覚めさせ、真の世界との出会いが可能となるよう準備させる
また、神話や科学という「客観的な」営みも、大型類人猿による物理的現象理解のプロセスが応用されている可能性がある。
現生人類は大型類人猿の一種として、物理的世界や社会的世界を、その基盤となる因果的な力や意図的な力という観点から知覚し、理解していた。また初期人類の子孫として、多様な視点から、さらには個人を協働のパートナーに結びつける、責任などの新たな社会規範の視点から現実を知覚し、理解していた。しかし十全に文化的な存在に進化すると、現生人類は事物に対する個人的な視点のみならず、いかなる個人の視点からも独立した客観的状況に照らして世界を知覚し、理解するようになった。そしてさらに、互いに対する責任という視点だけからではなく、集団の全メンバーによって同意された集合的な基準を遵守する義務という視点から、集団の仲間を理解するようになったのだ。こうして現生人類は、客観的かつ規範的な世界に住まうようになったのである。
わたしたちが創造的に思考するとき、意識的ではないかもしれないが常にアニミズム的プロセスが進行しているのかもしれない。
4つのタイプの行為主体と進化の基本的パターンから、社会規範的行為主体(人間社会)の4分類を試考する。「不確実性の時代」への対処による地球規模の社会集団への移行可能性。
トマセロは本書において人間の行為主体を、社会規範的行為主体という一括りによって説明するに終えている。ただし、これは
本書の目標は、人間の心理的行為主体性が進化した道筋を再構築することにある
ことからの当然の帰結である。トマセロは進化生物学者であり人類学者ではない。
だが、図5の社会規範的行為主体のフィードバック制御システムモデルだけで、すべての人間社会の制御システムを説明することはおそらくできないだろう。人間社会は、人類史の始まりとされるおよそ30年万年から現代に至る過程でさまざまな形をとりながら複雑さと規模を増していった。狩猟採集社会と現代のグローバル社会が同じシステムで動いているとは考えられない。
しかし、どのようにして分類すればいいのか?
過去30億年の地球上の生命の歴史のなかで、生命組織に関して何回かの大きな移行───染色体の出現、多細胞生物の誕生、有性生殖の登場など──が生じている。いずれの移行も、同じ基本的なパターンが生じている。つまりそれまでは独立して存在していたいくつかの実体が集まって、一個の統合体として活動するようになるというパターンだ。人類の誕生、ならびに人類による他の哺乳類の支配も、この一般的なパターンに合致する。つまり、個人が集まって、社会的に共有された行為主体──社会的に構成されたフィードバック制御システム──が形成され、個人が独力では達成し得ない共通目標を集団で追求するようになったのである。
また私は、宇宙論研究者のマックス・テグマークの次のことばに"素直に"従おうと思う。
私がニュートンとフリードマンから教わった教訓は、「適用範囲を広げよ!」ということ、すなわち、ある範囲に適用できることが分かっている物理法則があったなら、それを新しい未知の状況にも適用し、観測可能な興味深い何かが予言されていないか考えてみよ、ということだ。
私はこれから、人間社会を一つのシステムつまり生物個体のように扱い、トマセロが生物個体の行為主体性の分類に用いたものと同様の手続きによって、人間社会の行為主体性(以下では、トマセロの用語と区別するために、人間社会が主体的、能動的に行動する能力を「社会的行為主体性」、またその能力を備えた実体を「社会的行為主体」と呼ぶことにする)を分類してみたい。
つまり、現代に至るまでの人類史において、4つの主要なタイプの環境的社会的不確実性に対処するために、異なる行為主体的組織をもつ4つのタイプの社会的行為主体が生み出されたと考えてみる。
社会を生物個体のような、外部と境界を持った自律的な一つのシステム(=オートポイエーシスシステム)とみなす考えは、社会学者のニクラス・ルーマンが既に提唱している。(興味がある方は以下URL等を参照されたい:http://tanemura.la.coocan.jp/re3_index/1A/o_autopoiesis.html)
また、理論物理学者のジョフリー・ウェストは「スケーリング則」というひとつの原理によって生命・都市・経済の成長・限界を説明できるとした。
したがって、社会と生物個体は、程度は不確かではあるが類似性を持っている。わたしのこの空想を進めるには、その程度の根拠で十分である。
ただ私は、人類史上の4つの主要なタイプの環境的社会的不確実性をすべて適切に示す自信が無い。ゆえにこの問題の解決は、未来の私あるいは、こんな試考に興味を抱いてくれる奇矯で寛大な誰かに任せることにする。
この試考が欠陥だらけであるのは百も承知だが、初めに述べたとおり私はこの記事が見苦しいものになることを覚悟して書き始めた。恥の上塗りをしたところで関係ない、もはや気にする時期は逃してしまっている。
ゆえに記述をつづける。
トマセロによる生物個体の行為主体の分類と比較できるように、次のように4つの社会的行為主体を挙げることにする。それらの名称にはこだわらない。
(n)行為主体のタイプ
〜行為主体が対処すべき不確実性
社会的行為主体のタイプ - 時代区分
〜社会的行為主体が対処すべき不確実性
時代区分には、文化人類学者デヴィッド・グレーバーが著書『負債論 貨幣と暴力の5000年』で用いたものをほぼそのままに転用する。時代区分に対応する具体的な政治体制の記述について今回は了承いただきたい。正しく記述する自信がないし、調べる手間よりも書き進めること(書き終えること)を優先する。
(1) 目標指向的行為主体 - 太古の脊椎動物(トカゲ)
〜約5億年前のカンブリア爆発によって生じた複雑で予測しにくい一連の生態的問題
目標指向的・社会的行為主体(≒社会規範的行為主体)- 枢軸時代以前(-600年)
〜文化集団の出現と拡大
(2)意図的行為主体 - 太古の哺乳類(リス)
〜捕食者との間の複雑性&食物や他の資源をめぐる集団の仲間との競争
意図的・社会的行為主体 - 中世(600-1450年)
〜宗教の出現と、それに伴う社会規模の拡大
(3)合理的行為主体 - 太古の類人猿(チンパンジー)
〜食物をめぐる競争がとりわけ激しい、離合集散を繰り返す社会
合理的・社会的行為主体 - 大資本主義帝国の時代(1450年から1971年)
〜国家の出現、植民地主義、資本主義、産業革命
(4)社会規範的行為主体 - 初期人類→現生人類
〜狩猟採集をはじめとする対面コミュニケーションを通じた協働・共同→文化集団の出現
社会規範的・社会的行為主体 - いまだ定まらぬなにごとかのはじまり(1971年から今日まで)
〜グローバル化、気候変動とエネルギー枯渇、AIの進化(汎用人工知能)、技術の停滞、核兵器・生物兵器と戦争の危機
社会的行為主体が対処すべき不確実性についての4つの記述が杜撰であることは、十分理解している。だが、修正は未来の私に任せる。
しかし、杜撰な記述であっても、生物の行為主体が対処すべきだった環境的社会的不確実性と、社会的行為主体が対処すべきだった──そして今日対処すべきである──環境的社会的不確実性の間に、わずかかもしれないが類似性が見える。
社会的行為主体も生物的行為主体と同様に、高次のものに移行する際に、前段階のフィードバック制御システム(=社会システム。民族、都市、帝国、国家など)を包含する入れ子式構造の制御システムをもつことは、図示しなくとも察せられると思う。
社会行為的主体は高次になるにつれ、規模が大きく複雑な文明を築く。そうすることで、それまで直面していた環境的社会的な問題に対処可能となったが、同時により解決困難な問題に直面する。
わたしたち人類は現在、合理的・社会的行為主体から社会規範的・社会的行為主体に移行しつつある。ゆえに、このグローバルな社会の制御システムは構築中であり、気候変動とエネルギー枯渇、AIの進化(汎用人工知能)、技術の停滞、核兵器・生物兵器と戦争の危機などの迅速かつ正確な解決のために世界規模の協働が求められる迅速かつ正確な解決が求められる、史上最大の問題への対処に四苦八苦している。
私が杜撰な試考を晒して主張したかったことは、世界中の多くの思想家、活動家、科学者が言っていることの反復である。たいていの人は聞いたことのある、ありきたりな言説である。
つまり、現在私たち直面している諸問題に対処するためには地球規模での共同・協働が必要であること。それに伴い、これまで社会を制御していたシステムのあらゆる点が大小の程度はあれ変容しうること。
トマセロの言い方を借りると、現在の環境的社会的不確実性に対処するために、今とは異なる社会的行為主体的組織をもつ社会規範的・社会的行為主体とが生み出されると考えられる。それは、国家をはじめとする低次の社会的行為主体を内含した、地球大の社会的行為主体である。
不確実性への完全な対処と私たち人類の完全な地球市民化は同時になされる。
この主張に、目新しい点は全く無い。偉大な人々の思想の下手な模倣から作った不細工なパッチワークである。だが反省点だらけでも完成できたことは誇らしい。また書こうと思う。
以下に、現在直面している諸問題への対処法を提案している書籍を3冊だけ共有する。
そして、もしここまでご覧くださった方がいるならば、こんな見苦しい文章に向き合ってくれたことを少し心苦しく思うと同時に心の底からの感謝を申し上げる。ご覧くださり誠にありがとうございました。

