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メッセージの中にあったもの

 長女が不登校になったのが15年前。
学校ともいじめ加害者Aの保護者とも連絡し合い、対応に右往左往していた。

何が正解かわからない。
どうすべきなのかわからない。
自分が今のこの状況になるまで、いじめを受けていたことに気がつかなかった愚かさ。
娘達がいま、どうしようもなく辛いことでいっぱいになったからだで、助けてと叫んでいること。
毎日学校に行き、今日はなにがあった、お友達とどんなことをしていたとか、今日のごはんは何~?とか、明日は○○をするんだ、とか。過去が今日まで続き、明日や未来の話をする。そうした日々が、学校からの「お迎えに来てください」という電話1本の後から、何が正解かも分からず、目の前で起きていることにどう対応したらいいのかもわからない手探りの連続だった。

 特にきつかったのが、学校や加害者保護者の対応だった。
長女は、相手の暴力で頭に衝撃を受けたあとから、毎日続いている頭痛に苦しんでいて、それが動けなくなるほどだったり、眠れないほどだったり、寝ていたはずなのに痛い痛いと泣くほどで、鎮痛剤が効かないということもあった。
地元の病院から総合病院へ。総合病院から都内の大学病院に転院。
通院の往復は、時間と費用と体力をガンガン削った。
そんな通院の日には、加害者の保護者からは必ず電話がかかってきて、長女の様子や治療状況を聞かれ、次の診察日を聞かれる。次の診察日を伝えてあるから、必ず電話が来る。
それが1週間、1ヶ月、2ヶ月と続くと、いくら相手がお詫びの気持ちで対応しようとしているんだと分かっていても、「これだけ付き添い、検査を重ね、薬の調整をし、出来ることを模索し続けても、一向に良くならない病状を言葉にして出す」という行動が、心理的負担にならないわけがなかった。その心理的苦痛が私に起きていることを、相手方が一切感じてないことも、本当に苦痛に苦痛を重ねていた。

 今の家に転居して3ヶ月で、以前から受けていたいじめ被害を知った。
以前の家のすぐ隣の町とはいえ、知り合いもいない新しい環境。小学校に入学したばかりの次女。今までの快活な長女の変わりように動揺し、どうしたらいいか困惑し、無力感に鬱々とする夫。そのケアまでも、私の目の前に常にあった。
ようやく頭痛がコントロールできるようになった頃には、学校に来ない長女をいじめる別の集団ができていた。次女も、同級生をいじめるクラスの粗暴な子に、自身もいじめられるようになり、学校に行かない選択をした。

数年前まで、私たちは新しい家を持ち、穏やかに過ごしていたのに。

 町会の役員の番が回って来ると知ったのは、心因性の不調で救急搬送された12月の病室でのことだった。町会もPTAも子ども会も、学校に行っていないからといってお役目が免除されることはない、というか、そういうことが想定されていないのだと思う。
翌4月から、この町会の副会長になった。座ってればいいと言われたけれど、そうはいかない。副会長の仕事というものがあり、その内の一つにこの地域ボランティア団体に参加するということだった。(実は参加しない副会長もいたらしいけど)
事務局側には、正直に「うちはこういう状況です」と伝えた。
役目が引き受けできないということではなく、私にとっては家族が優先なので、できない時もあるかもしれない。それでも私がそれを引き受けていいのか、という話で。
団体は60代、70代のメンバー。
転居して2年が経っていたけれど、こういう状況でご近所付き合いもままならず、何年もともにこの地域で暮らす人と違って、知られてない新参者。ご近所故に、変に噂が立つとか、不登校への偏見から攻撃されるような状況を予測しなかったわけではない。
けれど、ある種の「踏み絵」という気持ちだった。

信用していい相手か。
信用しない相手か。

 出来る範囲でいいんですよ、と言われて引き受けたものの、右往左往する範囲が増えたのは否めない。
事情を伝えたとき、若手が欲しかったのか、全く気にしなかったのかはわからないけれど、そんなスタートだった。
 事務局の半分は、町内会の人だったり、近隣の町会の人だったりするので、一気に顔見知りが増えた。町会の役員会の人たちも、団体の人たちも皆、娘たちを可愛がってくれた。道で会えば率先して挨拶し、他の子供たちの中の一人にしてくれて、学校に行ってるとか行ってないとかっていう【区別】を感じさせなかった。

特別な対応だとか、配慮とか、そういうことなんかじゃない。

会えば挨拶して、元気してる?今日はいいお天気だね。お祭りに参加してくれてありがとう。そんな当たり前の言葉。だけど、遠巻きにしている人たちがしない「普通」をしてくれた。娘達が外に出かけていけたのは、特別扱いしてもらえたからじゃなくて、区別されなかったからだと思う。
長女は、いつもニコニコ挨拶してきてくれる事務局トップのおじいちゃまの大ファンになった。

 その後は、PTAの広報委員長、次女の転校後は転校先のPTAの広報委員長(なぜ二回・・・)、そして子供会会長。そうしたお役目の順番が連続したけれど、子どもたちを連れて、いろんなところに旅行もしたし、それにはお金もかかるから仕事もした。さすがに、きつかったにはきつかった。でも、長女が「自分のせいでお母さんがやっていたことができない」と泣いたあの時に、「何一つ諦めてるわけじゃなくて、私の優先順位があるだけなのになあ」と思いつつも、なぜか「じゃあ、どんな状況でもやってやろうじゃないか」という自分がいた。馬鹿なのだと思う。

 町会の副会長の間は、団体の委員を兼任しなくてはならない(副会長の仕事でもある)という決め事があって、関わるようになった団体だけれど、副会長を退いたあとも、PTAや子ども会が終わったあとも、なんだかんだの13年目。残念ながら、コロナ禍の間に、最後の挨拶もできずにお別れした方もいて、トップのおじいちゃまも、もういない。事務局の人間もだいぶ入れ替わったけれど、残念ながら今も私が最若手のまま。親子ほどの年の差もそのままなので、この年齢になっても子ども扱いなのだけれど、去年事務長になった方が、その当時の話を覚えていてくださったようで、娘さんたちは元気ですか?とメッセージが届いた。
当時の必死な私。右往左往していたなあと感じていたけど、【右往左往=混乱してして秩序ない】という感じではなく、途中からは、全力疾走の右へ左へ(物理)だった姿が浮かんだ。
コロナ禍で祭りがなくなり、娘たちも大きくなったので地元の外に出ている日もあるし、何よりもよく行っていたご近所のカフェが閉店してしまったことで、皆さんが娘たちを見かけることも激減していた。
今の状況を端的に伝えると、ご自身は昨年夫を亡くしたこと、お孫さんが社会人になり、すっかりお婆ちゃんになったこと。そして

「よかったです。あなたはまだ若いです。楽しいことをたくさんして、悔いのない人生を送ってください」

というメッセージが届いた。

 何があったのかなんて一言も書かれていない。
けれど、このメッセージの中には、きっと、いろいろなことがあったであろうこの方の「苦楽」が詰まっているのだと思う。


TOP画像は以下のクリエイターさんのイラストです
https://note.com/shizuku_compass/


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