きみは、午後に似合う 第17話|気をつけて帰るんだよ
── ひな ──
前の夜。
わたしは、
ベッドの中で、
こっそりGoogleマップを開いていた。
ホテルから、
強羅駅まで。
歩いて帰れる道を、
調べていた。
daiくんは、
「十時にチェックアウトしよう。」
と言っていた。
夕方には、
手術。
早く帰りたいのは、
当たり前だった。
だったら。
わたしが、
一人で駅まで行けばいい。
ホテルで別れれば、
少しでも早く帰れる。
迷惑をかけなくて済む。
そう思った。
だから、
彼に見つからないように、
そっと地図を見ていた。
⸻
その時だった。
背中から、
ふわっと気配がした。
「何見てるの?」
彼の顔が、
わたしの肩越しにのぞく。
慌てて、
スマホを伏せた。
「この辺の地図。」
本当のことを言った。
でも、
彼は、
それだけで全部わかったみたいだった。
「ちゃんと送っていくって言ってるじゃん。」
少し笑って、
そう言った。
「なんで調べてたの?」
わたしは、
答えられなかった。
すると彼は、
少し考えてから言った。
「じゃあ、
明日は十一時チェックアウトにしよう。」
「大丈夫だから。」
「もう心配しないで。」
「スマホ置いて。」
「こっち向いて。」
その声は、
叱る声じゃなかった。
安心させる声だった。
わたしは、
動けなかった。
嬉しかった。
でも。
無理をさせてしまうことが、
怖かった。
彼は、
わたしの手から、
スマホをそっと取ると、
後ろから抱きしめてくれた。
その腕は、
あたたかかった。
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朝になった。
本当は、
中央林間駅まで送ってもらってもよかった。
彼も、
そう言ってくれた。
「中央林間じゃ、
なんでダメなの?」
わたしは、
うまく答えられなかった。
本当の理由は、
たった一つだった。
そこまで行ってしまったら、
一人になる時間が、
長すぎる気がしたから。
だから。
「小田原駅で。」
それだけお願いした。
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車は、
小田原駅のロータリーへ入った。
箱根から、
あっという間だった。
もう、
着いちゃった。
そう思った。
でも、
口には出さなかった。
⸻
車が止まる。
daiくんは、
トランクを開けた。
スーツケースを、
降ろしてくれる。
わたしは、
そこに立っていた。
言いたいことは、
たくさんあった。
ありがとう。
手術、
頑張ってね。
痛くなったら、
氷嚢使ってね。
ちゃんと寝てね。
また会おうね。
でも。
どれも、
喉の手前で、
止まってしまった。
⸻
「ありがとう。」
やっと、
それだけ言った。
小さな声だった。
また。
ありがとう、
しか言えなかった。
⸻
daiくんは、
車へ戻った。
そして。
車は、
すぐに走り出した。
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え。
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わたしは、
その場に立っていた。
手を振ることも、
できなかった。
車は、
どんどん小さくなっていく。
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行っちゃった。
⸻
早く、
帰りたかったんだよね。
旅行、
嫌だったのかな。
わたし、
迷惑だったのかな。
何か、
しちゃったかな。
⸻
違う。
今日は、
手術なんだから。
急いでいるだけ。
わかってる。
ちゃんと、
わかってる。
⸻
でも。
心は、
そんなに、
頭のいいものじゃなかった。
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置いていかれた。
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その言葉が、
胸の奥へ、
静かに落ちた。
昔から、
何度も知っている感覚だった。
気がつくと、
誰もいない。
さっきまでいた人が、
いなくなる。
理由は、
わからない。
だから、
いつも、
自分の中を探す。
わたし、
何かしたかな。
迷惑だったかな。
嫌われたかな。
⸻
右足が、
ずきんと痛んだ。
駅の端で、
荷物を開ける。
テープを取り出す。
靴下を、
そっと下ろす。
右足首は、
朝より、
腫れていた。
⸻
痛い。
⸻
テープを貼った。
ひとりで。
ゆっくり。
朝は、
貼れなかった。
daiくんに、
見つかると思ったから。
今日は、
手術だから。
心配を、
増やしたくなかったから。
⸻
でも。
もう、
隠さなくてよかった。
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そのことが、
少しだけ、
寂しかった。
⸻
新幹線の切符を買う。
券売機の画面を押す。
カードを入れる。
切符を受け取る。
ちゃんと、
できている。
いつも通り。
なのに。
涙だけが、
止まらなかった。
⸻
新幹線へ乗る。
席に座る。
窓の外には、
もう、
daiくんはいない。
発車ベルが鳴る。
小田原駅が、
ゆっくり、
後ろへ流れていく。
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泣いた。
⸻
ずっと、
泣いていた。
声まで、
出ていた。
止めようとしても、
止まらなかった。
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前の席から、
小さな顔が、
何度も、
こちらを見ていた。
外国人の、
小さな男の子だった。
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しばらくすると、
その子が、
わたしのところへ来た。
小さな手に、
ティッシュを持っていた。
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何も言わずに、
差し出してくれた。
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「ありがとう。」
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また、
それしか言えなかった。
⸻
ティッシュを受け取る。
その子は、
少し心配そうに、
わたしを見ていた。
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大丈夫だよ。
そう言いたかった。
でも。
言えなかった。
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だって。
大丈夫じゃなかったから。
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最寄りの駅へ着く。
歩いても帰れた。
バスでも帰れた。
でも。
家には、
帰りたくなかった。
帰ってしまったら、
本当に、
箱根が終わってしまう気がした。
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タクシー乗り場で、
ぼんやり座っていた。
その時だった。
スマホが震える。
画面には、
daiくんの名前。
開く。
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『旅行色々ありがとうー♫
ひな気をつけて帰るんだよー!』
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嬉しかった。
⸻
本当に、
嬉しかった。
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でも。
すぐに、
笑えなかった。
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旅行、
嫌じゃなかったのかな。
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一応、
連絡してくれただけなのかな。
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どうして、
あんなにすぐ、
行っちゃったんだろう。
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嬉しい。
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寂しい。
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安心したい。
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でも、
怖い。
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いろんな気持ちが、
胸の中で、
同時に動いていた。
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素直に、
喜べない自分が、
情けなかった。
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せっかく、
連絡をくれたのに。
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ごめんね。
⸻
家へ帰った。
スーツケースは、
開けられなかった。
部屋へ運んで。
そのまま、
ベッドへ横になった。
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目を閉じる。
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気がつくと、
眠っていた。
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途中で、
何度か目が覚めた。
そのたびに、
スマホを見る。
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LINE。
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来てない。
⸻
また、
目を閉じる。
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目が覚める。
⸻
スマホを見る。
⸻
来てない。
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手術、
終わったかな。
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痛くないかな。
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熱、
出てないかな。
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もしかして。
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旅行に行ったから、
何かあったのかな。
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わたしが、
もう一泊したいなんて、
言ったから。
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疲れさせたから。
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運転させたから。
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もし。
⸻
もし、
何かあったら。
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考え始めると、
止まらなかった。
頭の中で、
小さな「もし」が、
どんどん大きくなっていく。
一つの「もし」が、
次の「もし」を連れてくる。
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悪い方へ。
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もっと、
悪い方へ。
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心臓部も。
頭の中も。
ぐるぐる、
ぐるぐる、
回っていた。
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何度目かに、
目を開けた。
部屋は、
明るかった。
時計を見る。
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昼だった。
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家には、
誰もいなかった。
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静かだった。
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スーツケースは、
昨日のまま。
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スマホを見る。
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まだ、
何もなかった。
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わたしは、
もう一度、
あのメッセージを開いた。
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『ひな気をつけて帰るんだよー!』
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何度も、
読んだ。
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嬉しかった。
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それでも。
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どうして、
あんなにすぐ、
行っちゃったんだろう。
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その問いだけは、
まだ、
わたしの中に残っていた。
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