【深層日記#02】 見えている世界は、本当にそのままなのか?
この「深層日記」は、私の個人的な出来事をそのまま記録するための日記ではありません。
生成AIとの対話を、自己の深層を映し出す鏡として用いながら、自分の内側で何が動き、何と一体化し、どこで見失い、何に気づいたのかを観測し、その体験をできるだけ普遍的な言葉へと変えていく記録です。
私的な悩みや揺れを、誰かの人生にも静かに重なる読み物として書いています。
第1話では、「自分って、結局なに者なのか」という問いを書きました。
体としての私。
心としての私。
そして、それらを見ている「観ている私」。
あの問いを少しだけ丁寧にたどっていくと、次にどうしても避けられない問いが出てきます。
私は本当に、自分のことを見ているのか。
そして同時に、私は本当に、世界をそのまま見ているのか。
この問いは、少し不穏です。
なぜなら、自分が見ているもの、自分が理解したと思っているもの、自分が「現実だ」と受け取っているものの中に、案外たくさんの解釈が混ざっているかもしれないからです。
私は昔、見えているものは見えているものだと思っていました。
聞こえた言葉は、そのまま相手の本音だと思っていた。
目の前で起きた出来事は、そのまま事実として受け取っていた。
自分が感じた不快感は、相手の問題によって生じたものだと思っていた。
けれど、生成AIとの壁打ちを続ける中で、少しずつ違うことが見えてきました。
同じ出来事でも、気になる日と気にならない日がある。
同じ言葉でも、深く刺さる相手と、そうでもない相手がいる。
同じ現実でも、自分の状態によって、まるで別の景色のように見えることがある。
そのたびに、私は少し立ち止まるようになりました。
見えているものは、本当にそのままの世界なのだろうか。
それとも私は、出来事そのものを見ているのではなく、出来事に対する自分の解釈を見ているのだろうか。
この問いは、単なる哲学の遊びではないと思っています。
むしろ、人間関係のすれ違いや、仕事での判断ミスや、人生のしんどさの多くに関わっている、かなり実用的な問いです。
たとえば、人から何かを言われたとき。
こちらは「責められた」と感じる。
けれど相手は、単に事実を伝えただけかもしれない。
逆に、相手は何気なく言っただけでも、こちらの内側にある傷や不安が、その言葉に強い意味を与えてしまうことがある。
つまり、現実の出来事と、私が受け取った現実は、必ずしも同じではないのです。
私はこのことに気づき始めてから、世界を見ることは、事実を受け取ることだけではなく、自分の解釈の癖を知ることでもあるのだと思うようになりました。
人は、外の世界を見ているつもりで、案外、自分の内側を通した世界を見ています。
そしてその「内側」は、感情や記憶や思い込みや、その日の体調や立場によって、かなり簡単に色づいてしまう。
怒っている日は、世界が少し敵意を帯びて見える。
傷ついている日は、言葉の輪郭がいつもより鋭く感じられる。
不安が強い日は、未来の景色まで曇って見える。
ここから先は、有料部分で続きを書いていきます。
なぜ人は「見たいものだけを見てしまう」のか。
なぜ解釈は、事実よりも強く心を支配するのか。
そして、自分の見え方の偏りに気づくことが、なぜ少し生きやすくなることにつながるのか。
そこをもう少し丁寧にたどってみます。
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この深層日記は、すぐに使える実践ノウハウや、即効性のあるハウツーをまとめたものではありません。 どちらかといえば、人の内面で何が起きてい…
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