【短編小説】雨の声は届いていますか
打つ。重ねる。消す。また打つ。
田中ユウトの指先が、十六回目のテイクを刻んでいた。モニターには完璧すぎる波形。機械的すぎる波形。彼の音楽が、数値になっていく。
「もう一回」
「でも、さっきので十分」
「もう一回」
エンジニアが溜息をつく。プロデューサーが時計を見る。締切まで、四日。アルバム予約数、十万枚。BPM、120。すべてが数字だった。
空気を求め、外に出る。雨が降り始めていた。
最初は小さな点として、やがて大きな円に広がる水滴が、駅前の広場に模様を描いていく。ユウトは立ち止まり、透明な傘を開いた。
雨音。屋根。傘。足音。足音。足音。改札の電子音。子どもの笑い声。遠くの工事音。
これは何だ?
目を閉じる。豊かなリズム。起伏。ハーモニー。計算されていない音楽。管理されていない音楽。数値化できない音楽。
ポケットからスマートフォンを取り出し、録音を始めた。
三日後、スタジオ。
「これは何だ?」プロデューサーの眉間に皺が寄る。「ノイズばっかりじゃないか」
「新しい方向性です」
「YUTOサウンドじゃない。アルゴリズムが判定不能だぞ。配信プラットフォームのAIが『ジャンル不明』って言ってる」
配信アルゴリズム。再生数予測AI。トレンド分析システム。音楽が数値に変換される。売上に変換される。次の音楽の指針に変換される。
音楽が、商品になっていく。
雨音の録音は、ボツになった。いつもの音を提供し、いつもの様に売れた。
しかし、ユウトの中で何かが動き始めていた。街の音に耳を澄ませる習慣。音楽への、まったく新しいアプローチ。
「すみません、何をされているんですか?」
駅のホームで録音していたユウトに、駅員が声をかけた。そのとき、近くにいた男性が割って入った。
「大丈夫です。音楽の研究です」
駅員は困惑した顔で立ち去った。
「私も、同じ様なことをしていて」男性は微笑み、名詞とともに小さな録音機を見せた。
「学芸員の西野誠と言います。今度の週末、山岸文化センターで『街の音を聴く会』があります。興味ありませんか?」
山岸文化センターのロビー。並べられた椅子。予想以上の人数。子どもからお年寄りまで。様々な年齢の人々。
西野がスピーカーから音を流した。
公園の風。葉のざわめき。市場の声。足音。古い団地のエレベーター。軋み音。夕暮れの河川敷。自転車のベル。
「これらの音に、皆さんは何を感じますか?」
子どもが手を挙げた。「かくれんぼしているみたい!」
年配の男性が言った。「私の若い頃の朝市を思い出します」
分析していない。対話している。音に記憶を重ね、感情を託し、物語を見出している。
これが音楽の原型なのかもしれない。数値化される前の。商品化される前の。純粋な音との出会い。
「来週も来てくださいね。皆で録音したものを持ち寄って、一つの『音の地図』を作りましょう」
西野の言葉に、ユウトは頷いた。
その夜、携帯にメールが届いた。レーベルからの新アルバムの依頼。「YUTOサウンドで頼む」
二つの道が、彼の前にあった。
翌週の文化センターのホール。今度は五十人ほど。古いミキサーに、人々が持参した録音が接続されていく。
街角の雑踏。神社の鳥の声。工事現場のリズム。子どもたちの遊び声。
「今日は実験してみましょう」西野が言った。「これらの音を重ね合わせて、新しい音楽を作ってみませんか?」
ゆっくりと音が混ざり合い始めた。計画されていない音楽。偶然の音楽。しかし、不思議な調和。
太鼓。口笛。ギター。歌声。
ユウトは息を止めて聞いていた。これは彼がスタジオで必死に作ろうとしていた音楽だった。完璧でないからこそ美しい。計算されていないからこそ心に響く。
その瞬間、彼は理解した。
半年後、ユウトの新アルバムがリリースされた。タイトルは『Everything Symphony』。
街の音をサンプリングし、文化センターでの即興演奏を織り込んだ作品。プロデューサーは首を横に振ったが、ユウトは押し切った。
アルバムは商業的には失敗した。チャート圏外。配信回数は前作の三分の一。
しかし、別のことが起こった。
文化センターでの「街の音を聴く会」が他の地域でも始まった。大阪。京都。名古屋。仙台。参加者たちがそれぞれの街で同じような集まりを開催し始めた。
一年後。雨の夜。
ユウトは再び駅前に立っていた。最初に雨音を録音した、あの場所。
雨音。屋根。傘。足音。しかし今度は別の音が混じっている。誰かが口ずさむメロディー。『Everything Symphony』の一節だった。
通りがかりの高校生が、無意識に鼻歌で歌っている。彼の音楽が日常に溶け込んでいる。商品としてではなく、生活の一部として。
西野が現れた。録音機を持って。
「偶然ですね」
「偶然じゃないかもしれません」ユウトが微笑んだ。
「どうですか、今の気持ちは?」
「音楽が、家に帰った気がします」
西野は頷いた。「技術を使って、技術を超える。複製の時代に、複製できないものを作る」
雨は強くなっていた。しかし二人は、傘を差すのを忘れていた。雨音に耳を澄ませていた。
この音楽は、確実に存在している。この瞬間に。この場所に。この二人の間に。
そして世界中の街角で、同じような音楽が生まれ続けている。数値化できない音楽。商品化されない音楽。しかし、人々の心に確実に響く音楽。
二人の間に、言葉はなかった。
ただ、雨音だけがあった。
世界はいつだって、誰かのために歌っている。
