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拙文失礼いたします

コメダの豆菓子が美味すぎることについては今さら長文で語るまでもないが、そのコメダの豆菓子一袋を一口で一気に流し込む女性がどれほど魅力的であるかについては、何文字与えられても語りつくせる気がしない。もちろん決して行儀が良いとは言えない行為ではある。けれどあまりにも勇ましいその姿は、大胆かつ繊細で、妙な色気が溢れているのにどこか間抜けにも見える。それがどうにも愛おしい。

これはコメダでしか見ることができない光景だ。それは豆菓子があるかないかということではない。自分がどうあろうとしているか、という意思表明の話である。

皆さんには、周囲の目を気にする"ため"の場所はないだろうか。もちろん私はある。例えば書店併設型のカフェ、例えば街中にある小綺麗なコワーキングスペース。自意識過剰の鬼こと私には、カップの持ち方、席の角度、パソコンの開き具合、キーボードを叩く指先に至るまで、全身に神経を研ぎ澄ませる場所がある。単に疲れて休憩に入るときすら、大事な人を失ったかのような儚く消え入りそうな表情をしてコーヒーをすすっている男を見たことはないだろうか?それは私である。

飲み物を飲んだり仕事をしたりするよりも自分がどう見えるかを考える場所。そういう場所では、行動一つ一つに慎重になる。何より「ちゃんとしている自分」であろうとする。豆菓子を一口で流し込むなどという選択肢は、最初から存在しない。

ところが彼女は違った。コメダの豆菓子とともにやってくる白い小皿はいわば「正しい食べ方」の象徴だ。一粒ずつ、こぼさず音を立てずに食べなさい、という無言の指示がそこにある。しかし彼女は、見事にその小皿を完全に無視していた。いや、無視するというより、最初から視界に入っていなかったのかもしれない。「コメダにおける主語は自分ではない、胃袋だ」とでも言うように、一連の動作に一切のためらいがなかった。行儀という概念も他者からの視線も、途中で一度たりとも気にするそぶりはなかった。

そんな彼女を、色気が溢れていた、と私は書いた。

肌の露出があったわけではない。誘うような仕草があったわけでもない。にもかかわらず、あれほど目を奪われたのはなぜか。

「見られる前提」で生きていなかったからだろうか。誰かにどう思われるかよりも、今どうしたいかを優先していたからだろうか。「自意識」という鬼を外へ追い出し、他者を気にしなくなったまさにその瞬間に勝手にあふれ出るものを、もしかして色気と呼ぶのだろうか。

豆菓子とともにやってくる白い小皿になど見向きもせず、むんずと袋を掴み口を開けたあと、天を仰ぎながらサラサラとすべての豆を流し込む。一粒ずつ味わうようなことはしない。周りにどう見られているかなども気にしない。食べたい食べ方で、食べたいものを食べる、ということに勝る幸せなど存在しないことを、彼女は教えてくれた。もちろん、その間彼女は無言であった。思えば南南東を見つめていた気がする。

そんな彼女の姿を見て私は福を感じた。豆は投げずとも、食うだけでよかったのか。そのことを教えてくれた彼女のもとにも福が来ることを願いながら、私は一粒ずつ豆を食べた。

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