脳みそを見てほしいあなたへ
写真を撮られることが得意ではありません。うまく笑えないんです。スマホに収められた自分の顔を、自分で見る気がしないんです。
レンズを向けられてからシャッターを押されるまでの数秒間、どんな表情をしていればいいのかわかりません。前髪とポーズを整えるべきあの数秒、私は崩れたピースでじっとしているだけ。現代人なら自分が良く見える角度の一つでも把握しているのかもしれませんが、私にはそれが分かっていません。結果、スマホの画面にはうまく笑えていない二重アゴの生命体が映っているのです。
甲本ヒロトは言いました。「ドブネズミみたいに美しくなりたい。写真には写らない美しさがあるから」と。
星の王子さまも言いました。「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ。」と。
しばしば、そういう文脈に出会うことがあります。目に見えないものこそ、大切。美しい。価値がある。そんな風潮。
言いたいことは分かります。でも、どうにも釈然としないのです。
「見えないものの方が美しい」
そう言われるたびに、私はスマホの画面に映った自分の二重アゴを見ます。それって、このアゴから逃げているだけなんじゃないんでしょうか。見えているものと正直に向き合った方がいいんじゃないでしょうか。写真を撮られるたびに、そんなことを思います。
写真に写らない美しさより、高画質で写ってしまっている二重アゴをなんとかしてほしいです。肝心なことが目に見えないというのなら、この半開きの白目と上がりきっていない口角はさほど重要ではないということでしょうか。
とはいえ、私にも「目に見えないもの」への執着がないわけでありません。しかし、それを美化したいわけでもありません。単に見てほしいんです。「目に見えないもの」とは、すなわち私の脳みそのことです。
「脳みそを見せたい」なんて言うと、さも高尚で価値のあるものが詰まっているように思えます。しかし実際のところは、わかりやすいビジネスノウハウも、役に立つライフハックも、心を揺さぶる感動も、人生観を変えるような衝撃も特にありません。カニ味噌のほうが、よっぽど意味が詰まっています。
写真に映る私の姿は、いつまでたっても自分でコントロールできません。あの数秒間をどう頑張っても、結果そこに二重アゴがあります。白目があります。うまく笑えていない自分がいます。
でも文章だと、少なくとも二重アゴは出ません。たまに読者の方に白目を剥かせてしまう内容もあるかもしれませんが、それだけで私にとっては十分なのです。
写真が苦手な私にとって、自分の姿を見るのが嫌な私にとって、文章というのは唯一「見てほしい」と言えるものなのかもしれません。
だから文章を書く。「私の脳みそ見てください」と思う。ここではうまく笑えなくてもいい。この二重アゴも白目も写らない場所で、脳みそを見せて生きていく。たとえそれが、カニ味噌以下の意味だったとしても。
だから、脳みそを見てもらうためにずっと書いていきましょう。きっとその行為は、ドブネズミみたいに美しいはずだから。
