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一生分のモト冬樹を見た

頭髪が諸行無常の人に対して、関西では「ハゲ散らかす」と評することがある。私はこの言葉が背負う哀愁に心を痛めずにはいられない。

平清盛のような曾祖父の遺影を見て、「まだ大丈夫だろう」という驕り反面、いずれ散らかる側の人間かもしれないという不安もないわけではない、というのも理由の一つかもしれない。

ハゲ散らかす。ハゲているのに散らかっている。これは由々しき事態である。

大前提として、「ハゲ」だけでもそれなりの哀愁がある。それに加えて「散らかっている」のだとすれば、それはもう冬の街路樹である。ただでさえ寒さで人肌恋しくなる時季。木肌を晒した細い木々、足元には枯れ葉が散っている。まさしく盛者必衰の理と言える。

そう考えると、あまりにも秀逸なネーミングが一つ、浮かんでくる。

そう、モト冬樹だ。

そもそも彼は「哀愁」を絵に描いたような、独特で唯一無二の風貌をしている。少し大きめの鼻腔、悲しそうな困り顔。とうに閉じた毛根と寂し気な頭頂にドンピシャで相応しい表情。哀愁の権化である。モンスターハンターのキャラメイク職人でもあそこまで精巧に「哀愁」を造形することは難しいのではないか。

それに加えて「冬樹」である。これはどうやら本名じゃないらしい。つまり、モト冬樹を見て「モト冬樹」と名付けた人物がいるということになる。天才はいつも表側の世界にいるとは限らないのか。

待てよ。もしかして、モト冬樹自身が名付けたのか?それならば余りにも自分のことをマクロ的に見ることが出来すぎている。類まれなる俯瞰力に畏怖の念すら芽生える。

そんなモト冬樹だが、彼の写真を見ていて引っかかることがあった。一切の不快感がないのだ。

「不快であることが前提」みたいな言い回しで大変恐縮だが、モト冬樹はひとえに風の前の塵のような線の細さにも関わらず、とてつもない清潔感を纏っている。「清潔感」と書いて「モト冬樹」と読んでもよいくらい、彼の周りには白と透明のオーラがユラユラと揺らめいている。

実際、何枚か彼の画像をみてもらえるとよくわかる。いずれの彼も、確かにハゲてはいるが散らかってはいない。むしろ整っている。

そう、モト冬樹は「ハゲ整っている」のだ。これこそが彼の清潔感の正体。少しずつ変わっていく自分を、その都度ちゃんと引き受け、地道に整えてきた人の清潔感だ。

ハゲてしまった人には、様々な分岐ルートがある。

自分を欺き偽る「ハゲ誤魔化す」
いったん見なかったことにする「ハゲ見逃す」
何がダメなんだと腹を括る「ハゲ開き直る」

生き方に正解はない。だからハゲ方にも正解はない。その人が自分で選んだルートならどれでもいい。閉じた毛根で、道を開いていけばいい。

つまりハゲとは、単なる現象ではなく態度だと言えないだろうか。

モト冬樹には意思がある。整えようとする意思が。

モト冬樹も、生まれた頃からあの風貌だったわけではない(はず)。少しずつ変わっていく自分自身を、地道に、丁寧に整えてきたのだろう。だから彼は、毛根が閉じても決して散らかさない。モト冬樹の毛頭は、もっと評価されていい。

失ったものを「元」に戻そうとするのがモト冬樹であるならば、彼はもはやモト冬樹ではない。今あるものを整える、イマ冬樹だ。そしてきっとこれからも、ズット冬樹なのだろう。

私はこの記事を書くために、「モト冬樹」で画像検索し、一生分のモト冬樹の画像を見た。いや、もしかしたら来世分も一気に見たかもしれない。若い頃から現在まで、一人の人間の変遷を時系列で追っていた。しかし、どのモト冬樹も、盛者必衰とは無縁のように、少しも姿を変えていなかった。

毛髪を受け止めている風呂の排水口を見ながら、私はひとり呟く。「驕れる人も久しからず」と。

老い、衰え、そしてハゲることから避けようがないのだとしたら、せめて散らかさずにいたい。

私の『閉毛物語』は、すでに始まっているのかもしれない。

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