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55.『謎の京都の伝統!大火災』年表

6505文字

これは資料です。
京都は民に恨まれていたりするのかが、テーマです
(^ω^)
神の怒が落ちそうな地だ。
侍達の神社仏閣の焼き討ちの動機と関係ありそうだ。

⭕️中世の京都の火災の年表作ってみた。⭕️

自身で調べるネタに使ってください。こういうのは斜め読みで良い。ワシは後でそういえば・・というのが浮かぶ事が良く有るんだ。コレがヒットに繋がる。そして炎上した物は、総て天皇・朝廷の民への奴隷化への本境地で、燃えた家は藤原氏ばかり。ここまで天皇と藤原は癒着していたのかって・・藤原氏は唐原氏。中国の唐から天皇の律令政治のブレインになるために来た者だ。

藤原氏は秦の始皇帝の商鞅と同じ仕事を組織だってやる家系だ。王様には良くも悪くも頭のとても良いブレインが多く仕えるんだ。支配するための帝王学を学ぶ家系だろう〜。非常に高度だから生まれたときから学ぶ。我々ゴイムの学校教育と違い本当の事実を学ぶんだ。民をこのように騙しているから、君たちはこのように騙せばいいのよ。民は愚かだから、このようにして反応させれば良いなど。

最初はここから取った。

◉686年2月15日(天武天皇15年1月14日) - 難波宮火災。
◉1177年6月3日(安元3年4月28日) - 安元の大火(太郎焼亡)、京都。
◉1178年4月13日(治承2年3月24日) - 治承の大火(次郎焼亡)、京都。

◉応仁の乱  1467年(応仁元年)〜1477年(文明9年)までの約11年間。

◉1730年8月3日(享保15年6月20日) - 享保の大火(西陣焼)、京都。
◉1788年3月7日(天明8年1月30日) - 天明の大火、京都。


◉686年2月15日(天武天皇15年1月14日) - 難波宮火災。(大阪だけど)

リンク

前期難波宮

乙巳の変大化元年645年)ののち、孝徳天皇は難波(難波長柄豊崎宮)に遷都し、宮殿は白雉3年(652年)に完成した。元号の始まりである大化の改新とよばれる革新政治はこの宮でおこなわれた。

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乙巳の変大化元年645年

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日本の高利貸しでの奴隷支配の父たち(^ω^)

後期難波宮

奈良時代の神亀3年(726年)に聖武天皇が藤原宇合を知造難波宮事に任命して難波京の造営に着手させ、平城京の副都とした。中国の技法である礎石建、瓦葺屋根の宮殿が造られた。

これ・・・副都を作っるって、もしかしたら燃えたから?(;´Д`)
難波宮火災は前期・後期難波宮の間の時期。

大阪には首都機能を有した皇宮が2度もつくられていました。
最初は飛鳥時代、次に奈良時代。そんな「幻の宮」と呼ばれた難波宮の秘密に迫ります。

大阪城公園の南側にあり、NHKの大阪放送局がある法円坂(ほうえんざか)一帯は、かつて 「難波宮(なにわのみや)」と呼ばれる日本の首都でした。

最初に、この地に都がつくられたのは652年。蘇我(そが)宗家が中大兄皇子(なかのおおえのみこ)一派に滅ぼされた645年の乙巳(いっし)の変のあと、難波への遷都が決まりました。これが解体されたのが奈良時代末の784年とされているので、難波の地は150年以上も、形式上は首都だったことになります。


◉1177年6月3日(安元3年4月28日) - 安元の大火(太郎焼亡)、京都。

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安元の大火(あんげんのたいか)は、安元3年4月28日(ユリウス暦1177年5月27日)に平安京内で起こった大火災。太郎焼亡(たろうしょうぼう)とも呼ばれる。

経過
安元3年(1177年)4月28日亥の刻(午後10時頃)、樋口富小路付近で発生した火は南東からの強風にあおられて北西方向へ燃え広がり、西は朱雀大路(幅約84メートル)を越えて右京にあった藤原俊盛邸が焼失し、北は大内裏にまで達した。皇居(里内裏)だった閑院(二条南、西洞院西)にも火が迫ったため、高倉天皇中宮・平徳子は正親町東洞院にある藤原邦綱邸に避難した。火は翌日辰の刻(午前8時頃)になっても鎮火しなかったという(『玉葉』29日条)。焼失範囲は東が富小路、南が六条、西が朱雀以西、北が大内裏で、京の三分の一が灰燼に帰した。大内裏の大極殿の焼亡は貞観18年(876年)、天喜6年(1058年)に次いで三度目であったが、内裏で天皇が政務を執り行う朝堂院としての機能はもはや形骸化しており以後は再建されることはなかった。

⭕️大極殿の焼亡は貞観18年(876年)、天喜6年(1058年)に次いで三度目であった!(;´Д`)

燃えた省庁のリンク先を確認した

気になるのを抜粋メモ

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大極殿】(三度燃やされた殿)
大極殿(だいごくでん)は、古代の日本における朝廷の正殿。
即位の大礼や国家的儀式が行われた。中国の道教では天皇大帝の居所をいう。大極殿の名は、万物の根源、天空の中心を意味する「太極」に由来する。ゆえに中国においては太極殿といい都城内の建物に起源をもち,三国時代の魏の明帝青竜3年(235)、「北魏洛陽城」において太極殿が初めてであるとされるため、大極殿を「だいぎょくでん」とも読む。すなわち、帝王が世界を支配する中心こそ「大極殿」の意である。

日本最初の大極殿が置かれた宮殿については、飛鳥浄御原宮説と藤原宮説に分かれている。

【飛鳥浄御原宮】「エビノコ大殿」
『日本書紀』には、681年(天武10年)2月、天武天皇と皇后(のちの持統天皇)は諸臣を「大極殿」に召し、飛鳥浄御原令の制定を指示したという記事がある。

飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)は、日本の飛鳥時代後期に制定された体系的な法典。令22巻。律令のうち令のみが制定・施行されたものである。日本史上、最初の体系的な律令法と考えられているが、(いつものいいわけ通り現存していないことにし、詳細は不明にした。)

飛鳥浄御原令に先行する律令法には、天智天皇が668年に制定したとされる近江令がある。近江令の存在については、非存在説も含めて見解が分かれ(させ)ているが、近江令とは、律令制を指向する単行法令を総称したもの。

神祇官(じんぎかん、かみづかさ、かんづかさ)

古代の日本の律令制で設けられた、朝廷の祭祀を司る官庁名。唐名は大常寺(たいじょうじ)。長官は神祇伯。
明治時代初期の復古における朝廷の祭祀・民戸・宣教・諸国の官社を司る最高国家機関を表す。神祇院#神祇官 (明治時代)を参照。
「神祇」とは、「神」は天津神である「天神」を、「祇」は国津神である「地祇」を表し、その名の通り祭祀を司る。

民部省(みんぶしょう)は、
律令制下の八省の一つ
明治時代の省庁の一つ

律令制下の八省の一つ。和名は「たみつかさ」。財政・租税一般を管轄し諸国の戸口、田畑、山川、道路、租税のことを司る。財政官庁として他に大蔵省があったが租税や租税関係の戸籍はこちらが取り扱ったため大蔵省よりも重視された。ちなみに戸籍のうち姓氏などは治部省の管轄である。

【民部省符】
民部省が管轄下の官司や諸国の国司に対して発給した符を民部省符という。

民部省は平安時代中期以降の荘園制度の発展とともに、民部省はそれから必然的に生ずる地券関係の諸問題を扱う官司として荘園の認定に関与することになり、太政官が発給する官符及び民部省が発給する省符による許可を得た荘園を官省符荘と称される事となる。

【職員】
長官である民部卿は正四位下相当であるが、以上のように地券関係や租税関係を扱う重職であることから中納言以上の公卿が兼帯することが多かった。

中納言唐名を黄門という。秦の時代に置かれた黄門侍郎に由来しており、権中納言を極官とする水戸家の徳川光圀が水戸黄門と呼ばれた。リンク
※廃止されたのか出来たのか情報がまちまちだ。

主計寮(しゅけいりょう)は、律令制において民部省に属した機関。訓はかずえのつかさなど。唐名は金部、比部、度支(たくし)。
主計寮は税収(特に調)を把握・監査することが職掌である。具体的には租税の量を計算し、それが規定の量に達しているか監査する。枢要の職として律令制崩壊後も存続した。

主税寮】 主税寮(しゅぜいりょう)は律令制において民部省に属した機関。和訓は「ちからのつかさ」。唐名は倉部。養老律令によれば、主な職務は「倉廩(倉庫)の出納、諸国の田租、舂米(律令財政運用の基本単位である白米)、碾磑(水車で動かす臼)の事」

唐名(とうめい、とうみょう、からな)は、日本の律令制下の官職名・部署名を、同様の職掌を持つ中国の官称にあてはめたものである。しみじみ唐なのねぇ〜!(;´Д`)

式部省(しきぶしょう)は、日本の律令制における八省のひとつ。和名は「のりのつかさ」。唐名は吏部省又は李部。諸親王の中でも血筋・経歴・学識にもっとも秀でた者が就任する官職と考えられていた。政治的な見識の高い実務に通じた親王が補されることが多かった。だが、次第に見識よりも天皇との血筋関係が任官において重要視されるようになると、(以下略)


燃えた公卿の邸宅

藤原氏でない者の家系を確認した。藤原氏のみの抽出なので他の氏名はある。結局すべて、中身は藤原氏&混ざった家系だった。総て藤原。多くの天皇研究家の人が思うように、藤原氏が日本の闇の核だろう。

関白・松殿基房…錦小路南、大宮東(氏族 藤原北家御堂流、松殿家)
内大臣・平重盛…五条坊門、万里小路西(父:平清盛、 正室:藤原経子 側室:藤原親盛娘。
大納言・徳大寺実定…三条南、西洞院西(母:藤原豪子(藤原俊忠の娘)妻 藤原顕長の娘、藤原師長の娘)
大納言・滋野井実国…三条南、油小路西(別名 實國、藤原実国、三条大納言。兄弟 藤原俊憲室。妻 藤原家成の娘。子 公時、藤原公清。養子:藤原公佐
大納言・藤原隆季邸…四条北、大宮東
二位・藤原兼房邸…四条北、大宮西
大納言・藤原邦綱邸…綾小路南、西洞院西
大納言・三条実房邸…三条、油小路(父:三条公教 母:藤原清隆の娘 室:藤原経宗の娘
大納言・源定房邸…右京(兄弟 藤原俊盛室 子 定忠、雅行、藤原経宗室、藤原定輔室、藤原定経室)
中納言・日野資長(藤原資長)邸…綾小路北、西洞院(氏族 藤原北家真夏流(日野家)※藤原資長の別名が日野資長)
父母 父:藤原実光)
中納言・中山忠親邸…三条北、堀川西(氏族 藤原北家花山院家庶流中山家
父母 父:藤原忠宗、母:藤原家保の娘 兄弟 藤原忠光、藤原忠雅、忠親、覚成、覚深、 妻 藤原光房の娘)
中納言・源雅頼邸三条南、猪熊東(兄弟 藤原俊盛室、妻 藤原家成の娘)
中納言・藤原実綱邸…五条南、大宮西
参議・藤原頼定邸…綾小路、堀川
三位・藤原俊経邸…六角南、大宮西
三位・藤原俊盛邸…四条南、朱雀西(右京)


◉1177年6月3日(安元3年4月28日) - 安元の大火(太郎焼亡)、京都

安元の大火(あんげんのたいか)は、安元3年4月28日(ユリウス暦1177年5月27日)に平安京内で起こった大火災。太郎焼亡(たろうしょうぼう)とも呼ばれる。

経過
安元3年(1177年)4月28日亥の刻(午後10時頃)、樋口富小路付近で発生した火は南東からの強風にあおられて北西方向へ燃え広がり、西は朱雀大路(幅約84メートル)を越えて右京にあった藤原俊盛邸が焼失し、北は大内裏にまで達した。皇居(里内裏)だった閑院(二条南、西洞院西)にも火が迫ったため、高倉天皇と中宮・平徳子は正親町東洞院にある藤原邦綱邸に避難した。火は翌日辰の刻(午前8時頃)になっても鎮火しなかったという(『玉葉』29日条)。

焼失範囲は東が富小路、南が六条、西が朱雀以西、北が大内裏で、京の三分の一が灰燼に帰した。大内裏の大極殿の焼亡は貞観18年(876年)、天喜6年(1058年)に次いで三度目であったが、内裏で天皇が政務を執り行う朝堂院としての機能はもはや形骸化しており以後は再建されることはなかった。

被害にあった省庁上に同じ。

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その他の施設(上と同じだ)
大学寮律令制のもとで作られた式部省(現在の人事院に相当する)直轄下の官僚育成機関である。

勧学院弘仁12年(821年)、藤原冬嗣によって創建され、貞観14年(872年)以前に大学別曹として公認された。大学別曹は有力氏族の学生のためにつくられた寄宿舎である。
本来は大学寮内に寄宿しなければならないが、大学別曹として公認されると寮内に寄宿する学生と同等の資格で授業・試験に出ることが出来た。のちには任官試験を経ずに地方官に任命される特権(年挙)を朝廷から認められた。

燃えた公卿の邸宅

関白・松殿基房…錦小路南、大宮東(氏族 藤原北家御堂流、松殿家)
内大臣・平重盛…五条坊門、万里小路西(父:平清盛、 正室:藤原経子 側室:藤原親盛娘。
大納言・徳大寺実定…三条南、西洞院西(母:藤原豪子(藤原俊忠の娘)妻 藤原顕長の娘、藤原師長の娘)
大納言・滋野井実国…三条南、油小路西(別名 實國、藤原実国、三条大納言。兄弟 藤原俊憲室。妻 藤原家成の娘。子 公時、藤原公清。養子:藤原公佐
大納言・藤原隆季邸…四条北、大宮東
二位・藤原兼房邸…四条北、大宮西
大納言・藤原邦綱邸…綾小路南、西洞院西
大納言・三条実房…三条、油小路(父:三条公教 母:藤原清隆の娘 室:藤原経宗の娘
大納言・源定房…右京(兄弟 藤原俊盛室 子 定忠、雅行、藤原経宗室、藤原定輔室、藤原定経室)
中納言・日野資長(藤原資長)邸…綾小路北、西洞院(氏族 藤原北家真夏流(日野家)※藤原資長の別名が日野資長   父:藤原実光)
中納言・中山忠親…三条北、堀川西(氏族 藤原北家花山院家庶流中山家
 父:藤原忠宗、母:藤原家保の娘 兄弟 藤原忠光、藤原忠雅、忠親、覚成、覚深、 妻 藤原光房の娘)
中納言・源雅頼邸…三条南、猪熊東(兄弟 藤原俊盛室、妻 藤原家成の娘)
中納言・藤原実綱邸…五条南、大宮西
参議・藤原頼定邸…綾小路、堀川
三位・藤原俊経邸…六角南、大宮西
三位・藤原俊盛邸…四条南、朱雀西(右京)


◉応仁の乱は、室町時代中期の応仁元年(1467年)〜文明9年(1477年)までの約11年間。

リンク リンク
11年に亘る戦乱は、西軍が解体され収束したが、主要な戦場となった京都全域が壊滅的な被害を受けて荒廃した。両軍の大将である山名宗全や細川勝元がこの世を去っても乱はなかなか収まらず、11年にも及ぶ戦いで、京都はすっかり焼け野原になった。

戦いの傷跡
 応仁・文明の乱によって、寺社や公家の邸宅はもちろん、上京の町の大半が焼失しました。『応仁記』に「汝やしる都は野辺の夕雲雀(ゆうひばり)あがるをみても落るなみだは」や「花洛は真に名に負ふ平安城なりしに、量(はか)らざりき応仁の兵乱に依て、今赤土と成りにけり」と乱後の町の荒廃ぶりを記しています。

京都近郊の寺社も深刻な被害を受けましたが、洛中における戦闘の中心は上京であり、まず火が放たれたのは、公家や武家屋敷でした。戦乱中の生活基盤を支える商工業者の居住地区であった下京には、ほとんど火が放たれませんでした。


◉1178年4月13日(治承2年3月24日) - 治承の大火(次郎焼亡)、京都。

治承の大火(じしょうのたいか)は、治承2年3月24日(1178年4月13日)に平安京内で起こった大火災。前年の安元の大火(太郎焼亡)との関連で次郎焼亡(じろうしょうぼう)とも呼ばれる。

これは関係ないかな?ほとんど情報なし。


◉1788年3月7日(天明8年1月30日) - 天明の大火、京都。

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京都で発生した史上最大規模の火災で、御所・二条城・京都所司代などの要所を軒並み焼失したほか、当時の京都市街の8割以上が灰燼に帰した。被害は京都を焼け野原にした応仁の乱の戦火による焼亡をさらに上回るものとなり、その後の京都の経済にも深刻な打撃を与えた。

この火災で、北は上御霊神社・鞍馬口通・今宮御旅所まで、西は智恵光院通・大宮通・千本通まで、南は東本願寺・西本願寺・六条通まで達し、御所・二条城のみならず、仙洞御所・京都所司代屋敷・東西両奉行所・摂関家の邸宅も焼失した。

おわり


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