⓶天皇・朝廷:仏教の闇の歴史!!聖徳太子とイエスキリストが似ている話はどうなった?(^_^;)
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そういや、聖徳太子とイエスキリストが似ている話はどうなった?(^_^;)
『藤原兼輔』(877―933)の創作童話『聖徳太子伝暦』で太子を聖人化し、これを元にして始まった太子信仰プロパガンダで根暗の仏教が日本に広まった。
聖徳太子の名は太子を神格化し仏教を広める為の芸名。キリスト教を広めたイエスに当たるスターの広告塔の名が、日本では聖徳太子!_| ̄|○
この記事の続きです。
⬇️ 入り乱れ、ややっこしいので頑張って読んでください。(^_^;)
ーーー本編ーーー
上宮聖徳法王帝説
『上宮聖徳法王帝説』は、厩戸皇子(聖徳太子)の伝記の1つ。現存する聖徳太子伝記としては最古のもの。作者、成立年代ともに不詳。全一巻で、家永三郎の分類によれば五部構成となっている。仏教的事績を主な記録とするが、一部に日本書紀とは異なる記録が見える。
これまでほとんど世に知られていなかったが、近代史学の発展に伴い、官製(朝廷の役人)の『古事記』や『日本書紀』などの文献批判が行われており、本書の内容が記紀以前の古い史料が基礎になっていると思量され、記紀を補完する信用度の高い古典として脚光を浴びてきた。
概説
原本は残存しない。写本は江戸時代末期まで法隆寺秘蔵物で天下の“孤本”といわれた。後に浄土宗の法然の知恩院に移されて現在は国宝である。
その第四部がワシ気になる
断片的な歴史の記録が箇条書き的に記録されており、十七条憲法や蘇我入鹿事件の年代あるいは、「志癸島天皇(欽明天皇ことらしい)御世 戊午年十月十二日」に百済の聖王からの仏教公伝、山代大兄(山背大兄王/聖徳太子の子)事件などが記されている。
見たいが見つからん!
「キリストの降誕」を元にしたと言われている
『聖徳太子伝暦』の著者:藤原兼輔(877―933)
>藤原兼輔は醍醐(だいご)天皇に近侍し・・・中納言
(近侍=天皇のそば近くに仕える者のこと)

『聖徳太子平氏伝』ともいわれ、詳細な聖徳太子の伝記。2巻。編者は平安時代前期の歌人の藤原兼輔 (877~933) 。延喜 17 (917) 年成立。鎌倉時代以後に現れた多くの太子伝は、主としてこの書によった。欽明 31 (570) 年太子の父用明天皇が穴穂部間人皇女を妃としたときから太子の出生、在世中、没後の大化1 (645) 年まで年代を追って記している。その内容はぶっ飛んでいるが、後世の太子信仰に及ぼした影響はきわめて大きい。
聖徳太子の生母
橘豊日尊皇子(後の用明天皇)の妃であった時に、諸司巡行中、厩の戸口で厩戸王(聖徳太子)を難なく出産したという『日本書紀』の逸話は有名で「キリストの降誕」を元にしたとの説がある。これが史実かどうか疑われているが・・・・嘘に決まってるだろ!ヽ(`Д´)ノプンプン
読んでみようか〜〜〜w(#・∀・)
聖徳太子平氏伝(聖徳太子伝略)の原文はココ
既にいくつか翻訳してあるんだ、「キリストの降誕」と言われる馬小屋の話はコレな!(#^ω^)
聖德太子傳略:敏達天皇の章

三十一代、敏達天皇。諱(いみな)は涬名倉太玉敷の天皇。欽明天皇の太子なり。橘の豊日の尊の兄磐余譯田の宮に治めること十四年。
元年壬辰春正月一日、妃は巡業中にいたり、ここ厩(馬屋)の下、不覚あり出産。入胎は正月一日、誕生も正月一日、総経一十二ヶ月。女孺(召使いの小女)驚き病を抱えて寝殿に入る。姫も安宿の幄の中で無事である。 王子は驚いて、侍従たちに宮廷に入るようにと言いました。 突然、西から赤と黄色の光がやってきて、長い間広間を照らしていた。
敏達天皇、まだ東宮に居る。たちまちこの異変を聞き、命をかけて問えば、殿戸が再び照された。大きな異変、天皇大異は群臣に言いました、これはこの世のものとは異なる。
すぐに有司(官吏)に命じて大湯坐・若湯坐を定め、沐浴させて抱き上げ、天皇は産着をもってこれを受けて皇后に授けられた。皇后父の皇子に授ける。皇子の妃に授ける。妃は胸を開いてて受けるに、体身はとても太だ香ばしい。三日の夕方、天皇は宴会を開き群臣に賜物を授ける。七日目には、皇后が宴会を催し、後宮(ハーレム)に贈り物をした。大臣以下は相次ぎ神前の供え物を養産した。
◉ 大湯坐・若湯坐=古代、貴人の幼児の入浴や養育の任に当たった下位の女性。
も少し紹介する。
四歳
四歳、四年の乙未の春の正月、皇子の第中に幼き王子たち口争いの叫び声があり。皇子はこれ聞いて鞭を持って呼び追いかけ、諸王子らはみな恐れて逃げた。しかるに太子は衣を脱ぎ一人で進む。皇子はこれを問う、兄弟で不和、諸々小さい児童ら常に口合戦。今、鞭で教えるようとしても皆隠れる事を知っている。
しかるに汝、何故一人で進む?太子は合掌し答え皇子あわせて妃に頭を下げて教えいわく、天に立ってはならず、そして上る。地面に穴を掘って、隠れてはならない。ゆえ自ら進み鞭を受ける。皇子ならびに妃は大喜びで言う、汝のしっかりして立派な様は今日だけではない。妃は心を開きそして抱き、その身はあまりにも香しい。とてもいい香り。妃は最も寵愛している。《ある説では、太子を抱くと、数ヶ月の懐の香り。ゆえ後ち宮(ハーレム)は争って抱こうとし、および妃もまた抱擁した。
七歳
七歳。七年目になると、百済から数百巻の経典が天皇のもとに運ばれてきた。 春の二月、太子は香を焚きながら、毎日一巻か二巻の経典をご覧になった。冬に至り一遍(読み)終える。 そして、「月の八日、十四日、十五日、二十三日、二十九日、三十日は、六斎日(特に身を慎み持戒清浄であるべき日とされた6日)である。 この日、梵天(ブラフマー)と帝釈天(インドラ)が降臨し、国の政を見ます。 そのため、殺生が禁じられている。 これが仁(いつくしみ)の基本である。 仁と聖の心は近い。 天皇は喜んで、この日、世間に対して殺生を禁じる勅令を出した。
歯が浮く!これが聖徳太子のお心!(#・∀・)
二曰く、篤く三宝を敬え。それは仏、法、僧である。すなわち総ての生物の終わり帰るところであり、すべての国の頂点の教義である。どういう世であれ、どのような人であれ、この法を尊ばざるを得ない。高くがなく低姿勢が良いとする法。この鮮やかに優れる悪の働き。教えると従うに至る。この三宝で二度と帰ってこない。無駄に真っ直ぐ。


でっ、梵天=ブラフマー・・・コイツだ!(#・∀・)

とても美しい女神サラスヴァティー、ブラフマーは無理やり結婚しようとした。サラスヴァティーは拒絶し逃げるが、ブラフマーは顔を五つに増やしてまで追いかけていき、ついにブラフマーはシヴァによって顔の一つの首を跳ねらた。五つになった理由も、四つになった理由も、どこかカッコ良さには欠ける物語であり、ヒンドゥー教での信者の少なさに直結し「人気のない最高神」という宗教では珍しい立場にある。ヒンドゥー教ではブラフマー派はなく寺院も一つもないが最高神。
実は聖徳太子の聖徳太子伝暦に
本地垂迹および神仏習合が有るのだ(笑)
コトバンクの諸神から=多くのいろいろな神々の説明に聖徳太子が聖徳太子伝暦で言ったとされる邪悪な言葉があった。
⭕️「太子奏曰、諸仏世尊、其道微妙、諸神随之、不敢違仏」翻訳すると、
⭕️「太子いわく、さまざまな仏や仏陀、その道は微妙で、神々は従い、仏に逆らう勇気はない。」神仏習合の本当の意味と意図はこれだよね!!
微妙の意味は善で包んだ悪で、なんか腑に落ちないが、それは微妙で誰もこの屁理屈のトリックはわからない、見た目善であるから逆らう勇気は出ない。
聖徳太子伝暦は、後世の太子信仰に大きな影響を及ぼしている。一般の聖徳太子像は、本書を通じて形成されたものとも言える。
◉本地垂迹と神仏習合について詳しくはココ!(#^ω^)
『日本書紀』巻第二十二(岩崎本)に立太子(太子を立てろ)の記述がみえる。
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