◉ダグラス・マッカーサーとフリーメイスンの繋がり
7062文字:情報元はここ。(削っている)
ダグラス・マッカーサーとフリーメイスンの繋がり、フリーメイスンとは何か
『1945日本占領 フリーメイソン機密文書が明かす対日戦略』徳本栄一郎著から抜粋

1947年12月8日に、東京の米国大使館で、ダグラスは第33階位を授与された。この昇進儀式に出席した者には、ポール・ミュラー少将、憲法草案制定会議の責任者として、日本国憲法草案作成を指揮したコートニー・ホイットニーGS局長、マッカーサーの側近グループ「バターン・ボーイズ」ウィリアム・マーカット経済科学局長らがいた。1949年7月29日付のダグラス・マッカーサーの書簡にはこうある。

◉「フリーメイソンは、日本占領の強力な精神的砦の1つとなった。
◉キリスト教、民主主義、フリーメイソンの教訓は、占領政策の基本哲学である。」
これを見ると、ダグラスがフリーメイソンの思想を占領政策に反映させた事が分かる。
ーーー中略ーーー
私は2008年10月に、ダグラス・マッカーサーのフリーメイソン・コネクションを調べるため、マッカーサー記念館を訪ねた。メイソンは、伝統的に男性のみが入会できる組織で、33の階位が存在する。メンバーはロッジと呼ばれる集会場で会合し、そこではメンバーだけに通じるシンボルや儀式が教えられる。
記念館では、記録保管人のジェームズ・ゾベルと会い、メイソンに関する文書を見せてもらった。その中には、ダグラスがメイスンに入会した時の記録があった。
記録を見ると、ダグラスは1936年1月17日に、フィリピンの首都マニラのロッジで入会しており、会員番号は「367781」だ。
マッカーサーは陸軍士官学校を卒業後、米軍工兵大隊に任官してフィリピンに派遣された。マニラ湾の改良やコーンヒドール島の要塞建設に従事し、第一次世界大戦では欧州戦線に従軍した。その後、米軍の参謀総長を務め、1935年からはフィリピンの軍事顧問を務めた(当時フィリピンは米国の植民地である)。
ーーー中略ーーー
フリーメイソンは厳格な階位制になっており、入会者はまず第1階位となり、最初は第3階位を目指す。第3階位(マスター・メイソン)に達なると、ロッジの役職に就くことができる。

その先は、各地の団体に加入するが、これらは独立した存在で、ホーリー・ロイヤル・アーチ、テンプル騎士団、ヨーク・ライト、スコティッシュ・ライトなどが有名である。
スコティッシュ・ライトは第4階位から第33階位までの体系で、その名称からスコットランド発祥と誤解されやすいものの、起源はフランスにある。現在ではワシントンD.C.の評議会が母体(マザー)となっている。
ダグラス・マッカーサーが加入したのはこのスコティッシュ・ライトで、1936年1月の入会式で特別扱いを受け、一気に第3階位へ昇級した。しかも入会式には歴代のグランド・マスターら600名以上が参集する豪華なものだった。
さらに優遇は続き、入会から2か月の1936年3月13日に第14階位まで昇級し、翌14日に第18階位、同月28日には第30階位、さらに同夜に第32階位へと昇進し、入会から約2か月半で第32階位に達した。(つまり、入会から2ヵ月半で第32階位まで行った)
この特別扱いの理由は、ダグラスの父であるアーサー・マッカーサーが有力なメイスンだったからだ。彼がメイスンに入会したのは、1879年11月26日で、場所はアーカンソー州リトルロックだった。アーサーは南北戦争で戦功をあげると、戦後はネイティブ・アメリカンとの戦争に従事した。
この特別扱いの背景には、ダグラスの父であるアーサー・マッカーサーが有力なメイスンであったことがある。アーサーは1879年11月26日にアーカンソー州リトルロックでメイスンに入会した。南北戦争で戦功をあげると、ネイティブ・アメリカンとの戦いに従事し、1898年の米西戦争ではフィリピンでのマニラ占領作戦を指揮した。
米西戦争後、フィリピンは米国の統治下となり、エミリオ・アギナルドを中心とする独立運動が起きたが、アーサーはそれを鎮圧した。
⭕️まで清書
ダグラス・マッカーサーは、先祖をたどるとスコットランド人であると、彼は著書『マッカーサー回想記』で述べている。
「マッカーサー家はスコットランドの出で、アーガイル家とどちらが古い家かを長く論争した、キャンベル家の流れをくんでいる」7世紀前にキャンベル家は2つの家系に分裂したが、その1つがマッカーサー家である。
マッカーサー家は名門だったが、1427年に王(ジェームズ1世)に反抗した家長ジョン・マッカーサーが処刑され、領地を没収されてグラスゴー近郊に移住した。
そして1828年にアーサー・マッカーサー1世が、グラスゴーからアメリカに渡った。アーサーは弁護士になり、ウィスコンシン州・副知事や最高裁判事となった。これがダグラスの祖父である。
スコットランドは、フリーメイスンの発祥地という説がある。テンプル騎士団がフランス国王のフィリップ4世によって弾圧されると、団員たちは迫害を逃れて移住したが、スコットランドに渡りロバート・ブルースの許に身を寄せて、イングランドと戦ったという。
そして18世紀になって、フリーメイスンとなって再び表に現れたという。メイスンには、「ナイツ・テンプラー(テンプル騎士団)」という団体がある。
ダグラス・マッカーサーがフィリピンに居た当時、最も重要なフィリピンのフリーメイスンは、マニュエル・ケソン大統領だった。マニュエルは、マニラ・ロッジのグランド・マスターだった。マニュエル・ケソンは、弁護士から政界入りし、1935年に大統領となった。
日米戦争が始まり、日本が1942年にフィリピンを占領すると、彼はアメリカに渡り亡命政権をつくったが、44年8月にニューヨークで病死した。
ダグラス・マッカーサーは、日本軍がフィリピンに攻めてくるとオーストラリアに逃げたが、その後にフィリピンのゲリラを支援した。
そのゲリラの中核にも、メイスンが含まれていた。
私は2009年5月にワシントンDCを訪れて、スコティッシュ・ライトのハウス・オブ・テンプルに行った。ここは図書館で、フリーメイスンの資料が多くある。私はここで、GHQの占領下時代の日本の資料を調べた。
1945年の夏、日本が降伏して米軍が占領を始めてから2週間後に、横浜の空き家でフリーメイスンの書類が見つかった。そこは元は英国系のロッジで、日米の開戦後に活動停止になっていた。
米軍・第8軍の対応は早く、急いで書類を回収しつつ、英国ロッジに問い合わせた。
米軍・第8軍?もしや?
駐韓米軍第8軍➡CIC➡統一教会入信➡︎KCIA
上記の横浜ロッジで活動したマイケル・アプカーは、1941年の真珠湾攻撃の朝、私服警官に逮捕され、拷問を受けた。警察はアプカーをスパイだと疑っていて、フリーメイスンを諜報機関だと睨んでいたのだ。東京、横浜、兵庫、大阪にロッジがあり、全員が外国人で、開戦前に帰国した者が多かった。
GHQは、日本で活動していたロッジの資産目録を入手し、一刻も早い返還を日本政府に求めた。そして1946年4月に、ロッジの活動が再開した。
日本に初めてフリーメイスンのロッジが出来たのは、1864年である。
横浜に来たイギリス兵が駐留先につくった軍隊ロッジで、「スフィンク・ロッジ」と名乗った。
その後、在日の外国人たちは「横浜ロッジ」や「東方の星」を設立し、活動記録はロンドンのロッジに送られた。
日本が1894年に、イギリスとの不平等条約の改正を行うと、在日フリーメイスンは不安を募らせた。今までは外国人の居留地は治外法権だったが、その特権が無くなり、さらに日本政府は保安条例で秘密結社の活動を禁じたからだ。
在日のメイスンは、ワシントンのスコティッシュ・ライト南方評議会に助けを求めた。
同評議会のトマス・キャスウェルは、グラヴァー・クリーブランド大統領に書簡を送り、フリーメイスンは秘密結社ではなく慈善団体だと訴えた(笑)。
このロビー活動もあって、フリーメイスンと日本政府の間に『メイスンは日本人を会員にしない。その代わりに日本政府はメイスンを禁止しない』との協定が成立した。
流れが変わったのは1930年代で、「フリーメイスンは世界支配を目指す秘密結社である」との説が、欧州から流れてきた。ドイツでは、ユダヤ教徒とフリーメイスンの繋がりが語られ、ナチスがメイスンの弾圧を始めた。
弾圧に拍車をかけたのが、『シオンの長老の議定書』だった。この議定書では、「民族や宗教の対立を煽り、それを利用してユダヤ教徒が超国家政府を樹立する。フリーメイスンはそのための秘密結社だ。」と語っている。
この書は、フランス作家モーリス・ジョリーの『マキャベリとモンテスキューの地獄における対話』を、ユダヤに置き換えた偽書の可能性が高い。
ワシ、これは有名な嘘説。
日本の軍国主義者たちは、この書を信じて、日米戦争が始まると在日のメイスンを投獄しロッジの活動は停止した。
戦後になると、ダグラス・マッカーサーらは、日本でフリーメイスンを復興させようとした。スコティッシュ・ライトの資料「HOO(鳳凰)」を見ると、GHQに多くのフリーメイスンがいたと分かる。
主な者を挙げると、次のとおりだ。
ダグラス・マッカーサー GHQのトップ
ロバート・アイケルバーガー 米軍・第8軍の司令官
ウォルトン・ウォーカー アイケルバーガーの後任の第8軍・司令官
エドワード・アーモンド(第32階位) GHQの参謀総長
チャールズ・ウィロビー(第32階位) GHQのG2のトップ
ウィリアム・マーカット GHQの経済科学局長
コートニ・ホイットニー GHQの民政局長
シドニー・ハフ(第32階位) マッカーサー専属の副官

以上は、GHQのメイスンの一部だが、GHQにメイスンのネットワークがあったと分かる。米軍の占領中に日本各地にロッジが創られ、会員の大半は米軍の関係者だった。
ベントン・デッカーは、米海軍人だが、4代にわたるメイスンの信者の家の出で、日本で第32階位に昇級し、「横須賀海軍ロッジ」を開設した。

ベントンはこう語っている。
◉「占領軍の将官の大半はメイスンだった。だから日本で民主主義を学びたい者がメイスンへ目を向けた。メイスンを通じた民主主義教育こそ、私たちが望んだ事であった。」(・・;)
ベントン・デッカーは1949年7月22日付の手紙で、こう書いている。
◉「GHQの占領は、この未開の国をキリスト教文化と民主的政府に向かわせた」
◉「マッカーサー元帥は常に、キリスト教とフリーメイスンの教義に導かれてきた。自分のその方針に忠実に従った」
ベントンは49年の別の手紙では、こう書いている。
◉「民主的な政府は、キリスト教から誕生した。キリスト教の原理原則を理解せずに日本の民主化はあり得ない。この国にキリスト教を広めることが必須で、宣教師が重要な役割を担っている。私たちは横須賀で、その政策を推進している。横須賀は理想的な実験室である。」
1947年の暮れに、フィリピンからフレデリック・スティーブンスが来日した。ダグラス・マッカーサーに、第33階位を授与するためだ。
この昇級の儀式には、ウィリアム・マーカット、コートニー・ホイットニー、シドニー・ハフに加えて、ポール・ミュラー参謀長やハバート・スケンク天然資源局長も出席した。
儀式は12月8日の昼間に行われたが、この日は1941年に真珠湾攻撃のあった日で、わざわざ日時を合わせたのではと思える。
ちなみに東條英機らが処刑されたのは48年12月23日だが、この日は明仁(皇太子)の誕生日だった。偶然なのだろうか?
「HOO(鳳凰)」の1950年1月号には、こうある。
「信頼できる報告によると、アメリカ議会の50%以上はメイスンである。上院議員96名のうち58名、下院議員455名のうち225名がメイスンである。彼ら高位職に就く者は、独立宣言や憲法に込めた理想や信念を共有している。」
「HOO(鳳凰)」の1950年4月号には、こうある。
「フリーメイスンが世界に大きな影響を及ぼす機会が過去にあったが、今の日本は目前にある。メイスンは(日本に)大きな影響を及ぼす優位な立場にある。これは永続的で幅広い成果を生むであろう。」
なお、「HOO(鳳凰)」にはペリー提督の紹介もあるが、実はマシュー・ペリーはアメリカの名門ロッジのメイスンだった。
ワシ:ペリー提督は分からないんだ。黒船開国はフリーメーソンではとはなはだ疑っているのだが、ペリー提督を日本に送り込んだアメリカ大統領は反フリーメーソンの党の者・・・どうなっているんだろう?
マシュー・ペリーのメイスン入会は1819年で、ニューヨークの「ホランド・ロッジ」だった。このロッジは、オランダ系アメリカ人が設立したもので、ジョージ・ワシントンも会員だった。
ジョージ・ワシントンは味方。
私はイギリスのロンドンに行き、そこにあるフリーメイスンの「グランド・ロッジ」を訪れた。グランド・ロッジは、開設は1717年で、最古のロッジの1つである。
現在のグランド・マスターはケント公爵で、彼は陸軍元帥でエリザベス女王の従弟に当たる。

ちなみに、ウィンストン・チャーチルもフリーメイスン(笑)で、1901年に26歳で「スタッドホルム・ロッジ」に入会した。このロッジは、上流階級のロッジである。
アメリカのシアトル郊外に、ナイル・シュライン・センターという施設がある。ここは「シュライン会」、つまりフリーメイスンの組織「神秘的聖堂の貴族の古代アラビア結社」の拠点であった。
シュライン会は、1872年に設立され、北米各地にテンプル(神殿)を置いた。ダグラス・マッカーサーは、ここの会員でもあった。
シュライン会の代表団が1950年11月に来日し、ダグラスと会って日本の民主化の意見交換をしている。
(2021年9月10~11日に作成)
ブログ主はスピオタク。
[憲法70年・上]最大のナゾ…「9条」発案したのは誰?
古関氏の分析を紹介する前に、9条ができた歴史をたどってみよう。
日本は1945年8月15日の終戦の後、GHQに占領された。日本国憲法の本格的な起草作業は、46年2月3日にマッカーサーが憲法の基本について記した、いわゆる「マッカーサー・ノート」をGHQの事務方に示したことでスタートする。
マッカーサー・ノートには「3原則」、つまり
(1)天皇は国の最高位にある
(2)紛争解決手段としての戦争を放棄する
(3)封建制度は廃止する――の三つが記されていた。
マッカーサー・ノートを踏まえて、GHQはわずか1週間ほどの突貫工事で新憲法の草案を完成させて、同月13日に日本側に提示。続いて3月6日にGHQ草案をベースに作られた日本政府原案が発表され、10月7日に帝国議会を通って11月3日に公布、翌47年5月3日に施行――というのが、日本国憲法制定の流れだ。

この経緯を見ても、憲法の最も「源流」にあったのがマッカーサー3原則であり、2番目の「戦争放棄」が今の9条につながっていったことは明らかだ。問題は、これがどのようにして作られたかだ。
憲法が施行された当初、「9条を発案したのはマッカーサー」と誰もが思っていた。ところが、施行から4年以上たった51年5月5日になって、マッカーサーが米議会で「9条の発案者は実は幣原だった」と証言したことで、「幣原説」が急浮上する。マッカーサーは64年に出版された『マッカーサー回想記』でも、46年1月24日にマッカーサーと会談した幣原が「日本は軍事機構は一切もたないことをきめたい、と提案した」と記している。つまり、3原則の2番目は、幣原の意見を受け入れて作られたものだったというのである。

これと呼応するように、幣原サイドからも「幣原説」が唱えられていく。例えば、幣原の話を友人が聞いて書き残したメモの中で、幣原がマッカーサーに「戦争を世界中がしなくなる様になるには、戦争を放棄するという事以外にない」と訴え、マッカーサーと手を握り合ったという話が紹介される(笑)などしたことで、幣原説はさらに有力となっていった。
マッカーサーと幣原が密室で二人だけで話し合ったとすれば、二人の証言に反証を示すのは不可能だ。
だが、両者の会談で幣原から9条のアイデアが出されたという証言は、憲法制定からかなりの時間をおいて飛び出したものだけに、疑問視する声も従来根強かった。
幣原は戦争放棄について「日本は考えたこともなかった」などと語っていたという。
その上で、古関氏は「幣原説」は、マッカーサーと幣原という両当事者本人、あるいは両当事者からの伝聞以外には、証拠がないことに注意が必要だとしている。
古関氏の著書で興味を引くのは、9条の発案者の部分ばかりではない。例えば9条には「戦争放棄」にとどまらず、「日本国民は……国際平和を誠実に希求し」という「平和思想」が盛り込まれているが、GHQ草案の時点では「戦争放棄」としか書かれていなかった。古関氏はその事実を指摘するとともに、実は終戦の日の1945年8月15日の2か月ほど前、「本土決戦」や「玉砕」が叫ばれていた当時から日本政府内で、皇統を守るために「平和国家」を目指す動きが始まっていたという見方を示している。定説の再考を迫るものといえる。
マッカーサーはフリーメーソンの世界連邦賛同者。日本に来た時は32度で滞在中に33度になっている。


だめだ、復元に限界がある。
おわり
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