前編:悪をウヤムヤにするフランク・ブックマン道徳再武装(MRA)の邪悪な教え!
15429文字:上の写真が道徳再武装(MRA)の創設者フランク・ブックマン。
このノートの続きです。反共産主義キリスト教である統一教会を理解するためには、道徳再武装(MRA)の理解が重要です。また、世界連邦運動を理解する上でも必要でしょう。長文のnoteだけど、キリスト教の秘密を知っている人には面白く一気に読めると思うよ。
神に導かれたエリート。ブックマンはMRAを「道徳的・精神的な覚醒によって戦争を阻止する、神に導かれた運動」と位置付けていた。MRAが赤軍(共産主義)と戦うための手法は、依然として「神の導きを受けた」エリート層による世界変革である。(1961年8月18日)
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『道徳再武装運動』の創設者はフランク・ブックマン。このキリスト教はこのように改名しているが中身は同じ。
1921年:ファースト・センチュリー・クリスチャン・フェローシップ
1928年:オックスフォード・グループに改名
1938年:道徳再武装(MRA)に改名
2001年:イニシアティブ・オブ・チェンジにまた改名
wikiがフランク・ブックマンマン、オックスフォード・グループ、道徳再武装(MRA)と内容が重複し、どれも重要で不完全でなので一つにまとめる。
ハリウッドでの道徳再武装会議(1939年)
N:アメリカでは道徳的な再軍備が必要です。この目的のために 30か国を代表する3万人の男女が会議に出席しました。
テニススターのバリー・オースティンが演説します。
テニススター:道徳的な領域は戦争をなくし、平和を永続させることが出来ます。私たちも、今度は十分な犠牲を払い、個人的な出世や栄光、成功の欲望を犠牲にしさえすれば、新しい文明の時代に生きることが出来ます。
恐れや恐怖や憎しみや貪欲さを捨て、男女が強く団結し、平和な新しい世界を創造するために、私たちのエネルギーと才能を結集することが出来るのです。
ーーー拍手、歓声ーーーーワッーーー!!
N:今、戦争から来た若い女性のスピーチを聞いてください。
若い女性:中国人です、私の国は今戦争の渦中にあります。私は国を愛し、国民の苦しみや痛みを憎んでいます。しかし、自分自身と国に対するMRAの挑戦に直面して以来、私は自分自身と国に抱いてきた苦々しさ、憎しみ、独善性に対して、燃えるような恥ずかしさを感じています。
ーーー拍手、歓声ーーー!
N:国家の敵意は善意によって克服することが出来ます。会議は中国人と日本人の友好的な握手で終了しました。

1894年、ブックマンは16歳の時に両親と共にアレンタウンに引っ越し、高校に入学した。その後、ミューレンバーグ大学に進学し、その後、フィラデルフィアに移り住んでマウント・エアリー・ルーテル神学校に入学した。そして、1902年6月にルーテル派の牧師として叙任された。

右:ルーテル神学校のヘンリー・メルヒオール・ミューレンベルグの(1711-1787)記念碑
道徳再武装運動はMRA表記も多いので、覚えておいて

1922年、フランク・ブックマンはハートフォード神学校財団の教職を辞し、個人の精神的変容と世界的な伝道に重点を置いた奉仕活動に従事した。その恐怖と利己主義のない生活の実現するためには、「神の計画に自らの人生を委ねる」ことが重要であると考えた。彼の信条は「四つの絶対」、すなわち誠実、純粋、無私、愛という四つの基本的な道徳を追求し、人生の変化を他者と交流し共有することでイエス・キリストに身を委ねることにあった。
1938年、スウェーデンのヴィスビー島で数千人の聴衆を前にした演説で、ブックマンは「道徳的再武装」の重要性を訴え、この表現がオックスフォード・グループ運動の新たな名称となった。彼は「この危機は本質的に道徳的なものである」と述べた。「各国は道徳的に再武装しなければならない。道徳的回復は本質的に経済回復の前兆である。道徳的回復は危機ではなく、人生のあらゆる段階で自信と団結を生み出すのだ。」
「もし私たちがただ新たな復興を始めるだけなら、私は興味がありませんし、それで十分だとも思いません。どんな思慮深い政治家に話を聞いても、すべての国は道徳的・精神的な目覚めを必要としていると言うでしょう。」
このフレーズは当時の雰囲気を反映し、イギリスの多くの著名人が賛同する言葉や文章を生み出した。(プロパガンダ)
ブックマンは1961年に引退するまで23年間、道徳的再武装の活動を率いた。この運動は2001年に「イニシアティブス・オブ・チェンジ」と改名された。

「対立する世界(文化、国籍、宗教等)をつなぎ信頼を築く」ことを目的として活動する国際的な組織。
❤️フランク・ブッフマンのスピリチュアルな体験❤️
ブックマンは、1908年にイギリスのケズウィックで開催されたケズィック・コンベンションのジェシー・ペン・ルイスのキリストの十字架について説教によって霊的な体験をした。

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ブッフマンは、市内の重要な教会に招かれることを望んでいたが、最終的には、フィラデルフィアの発展途上の地区であるオーバーブルックへの招きを受け入れた。そこにはルーテル派の教会がなかった。叙階された日には給料は支払われなかった。彼は礼拝場所として古い店舗を借り、2階に居を構え、善き羊飼いの教会を開いた。仕事にすべてを捧げた1年後、彼は非常に疲れ果て、医師は長い休暇を処方した。彼はヨーロッパへ船で出発し、イタリア、スイス、ドイツを訪れた。
帰国後、彼は、ドイツのビーレフェルトにあるフリードリヒ・フォン・ボーデルシュヴィングの精神病患者のためのコロニーに倣い、またイースト・ロンドンの慈善施設トインビー・ホールに触発されて、オーバーブルックに精神障害者のためのホステルを設立することを決意した。
しかし、ホスピスの理事会との対立が深まった。この対立は理事会がホスピスに十分な資金を提供することを「望んでいなかった」ことに起因するものだった。予算を監督していたペンシルベニア州ルーテル教会の財務委員会には、継続的な赤字を補填する資金がなく、ホスピスの自立を望んでいた。ブッフマンは辞任した。
疲れ果て、意気消沈していたブックマンは、海外で長期休暇を取るよう医師から勧められ、まだ辞任の動揺がまだ残るブックマンは、彼なら助けてくれるかもしれないと考え、1908年に「神に導かれる手段としての静寂の時間」の主な提唱者の一人であったF・B・マイヤー牧師に会うことを願い、ケズィック・コンベンションに出席しました。
しかしFBマイヤーは出席していなかったため、フランク・ブックマンは代わりに小さな礼拝堂の半分空っぽの場所で、ジェシー・ペン・ルイスの説教を聞いた。これは彼にとって「人生を変える経験」となった。
ジェシー・ペン・ルイス

イギリスのカンブリア州ケズウィックで毎年開催される 保守的な福音派キリスト教徒の集会。
ジェシー・ペン・ルイスの母は禁酒運動の活動家であり、祖父はカルヴァン派メソジストの牧師でした。家族はカルヴァン派メソジストの伝統に深く根ざしていた。ジェシーは幼少期に「頭が活発すぎる」と言われ、12歳になるまで学校に通えなかった。その後、ジェシー若い頃に禁酒運動のジュニアロッジのリーダーを務めました。
ジェシー・ペン・ルイスの講演
1892年、ペン・ルイスはローマ人への手紙第6章を研究している際に啓示を受けた。それまで彼女は、聖霊による洗礼がキリスト教徒の生活における最も重要な目標だと考えていたが、今ではそれをキリスト教徒の道の出発点に過ぎないと気づいた。彼女の見解によれば、キリスト教徒は「カルバリの十字架」との深い交わりを求めるべきである。彼女の新たな目標は、彼女自身の言葉によれば「十字架の死を通して、父の懐にいる昇天した主と一体となること」であった。(ワシ:クリスチャンとしては正しい。)

(讃美歌がここまで邪悪とは・・他も見てみ。キリスト教のテーマが良くわかる)

ブックマンの説教
「フィラデルフィアにいた6人の男たちが、私を不当に扱っているように思えたのです。彼らはおそらく過ちを犯していたのでしょうが、私はその過ちに巻き込まれてしまい、7人目の過ちを犯してしまったのです…. 私は、神に見られている自分を見るようになりましたが、それは私が持っていた自分のイメージとは全く違うものでした。

ただ言えることは、私はそこに座って、いかに自分の罪、プライド、利己主義、悪意が、キリストにある神から私を消し去っていたかを悟ったということです…. 私は自分の人生の中心だった。その大きな「私」を消し去らなければならなかったのです。
私の心の中には、あの人たちへの恨みが墓石のように立ちはだかっていました。私は神に私を変えてくれるように頼み、神は私に彼らとの関係を正すように言われました。それは私に、突然強い生命の流れが私に注がれたような活気に満ちた感覚をもたらし、その後、精神的に大きく揺さぶられたような気がして気が遠くなった」。

ブックマンは精神障害者のためのホステルに資金を出さなかった6人の理事に謝罪の手紙を書き、彼らに対する悪意を抱いていたことへの許しを求めた。ブッフマンはこの出来事を創立当初の経験として捉え、後年、信奉者たちに頻繁に語りかけた。
フレデリック・マイヤーとケズウィック・コンベンション
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