検証:共産主義はユダヤ人の魂から来るのか?
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⤵このnoteに入れるはずが、入るわけないやと別にしたnote。南アフリカ・アパルトヘイト政府が戦ってた共産主義者とはどんな人?答えはユダヤ人7割とクリスチャン!
人種の情報がある、写真で確認出来ない者は端折った。9割は確認出来たと思う。⤵
アパルトヘイト下での入国禁止命令の対象となった(共産主義者の)人々のリスト
◉エリック・アブラハム(Eric Abraham /ロデューサー):1976年に禁止
彼の父親は海軍司令官で、第二次世界大戦前に反ユダヤ主義から逃れるためにハンガリーから南アフリカに移住した。南アフリカのアパルトヘイト政府に反対する報道を行ったため、1976年に予定5年間の入国禁止処分を受け、1977年にボツワナに逃亡、英国で政治亡命。

◉フィリス・アルトマン(Phyllis Altman):1964年に禁止
(検索するとユダヤ人ばかり出てくるが本人が誰かは解らず・・・)
「フィリス・アルトマン」はユダヤ人!
フィリス・ミリアム・アルトマン(旧姓サックス)は、ユダヤ系リトアニア人移民のモリスとベイル・サックスの娘であった。アルトマンは「収容所に収容されたローデシアの黒人」を教育するプログラムにも関わっていた。ロバート・ムガベ内閣の半数はアルトマンの助けで学位を取得した。アルトマンがIDAFで果たした役割はネルソン・マンデラの釈放後に知られるようになった。

◉ジャクリーン・アレンスタイン(Jacqueline Arenstein):1963年、1973年、1978年に禁止
アレンスタインはユダヤ人であり、元情報長官ロニー・カスリルズの従兄弟である。

◉メアリー・ベンソン(Mary Benson):1966年に禁止
1957年、ベンソンは反逆罪裁判弁護基金の事務局長に任命された。1961年、ベンソンは別の事務局長としての役割を引き受け、アルバート・ルトゥリ酋長がノーベル平和賞を受賞した際に彼を補佐するためにナタールに移住した。

彼女は1962年にネルソン・マンデラの南アフリカからの脱出を支援し 、ウォルター・シスル(下で紹介)やジェームズ・カラタなどANCの著名な人物数名にインタビューした。これらの経験に基づいて、彼女はANCの最初の一般的な歴史書『アフリカの愛国者たち』を執筆した。
彼女は1963年に国連のアパルトヘイト委員会で証言し、南アフリカ人として初めて証言した。

◉ジェームズ・カラタ(James Calata)
(入国禁止命令ではないがヤバい感じなので紹介)
セント・マシューズ・カレッジで教師として、また英国国教会の司祭として教育を受けました。1930 年代から 1940 年代にかけて、アフリカ民族会議 (ANC) で影響力を発揮しました。グラハムズタウン教区の SYNODS や宣教師会議、また地方組織でも重要な役割を果たしました。

アフリカの不満が解決されない限り、キリスト教が南アフリカに真に根付くことはないと彼は信じていたからです。
1936 年に ANC の事務総長に就任。1938 年に聖ンツィカナ修道会の会長に就任。彼は1959年から1983年6月16日に亡くなるまでグラハムズタウン大聖堂の聖職者だった。
彼は1930年にアフリカ民族会議(ANC)に参加し、 1930年から1949年までケープ半島の大統領に選出された。1936年から1949年までANCの事務総長となり、事務総長として1949年の行動計画に署名した。1940年にはAB・ズマを説得して大統領選に立候補させた。彼は1950年にANCの上級牧師に選ばれ、後には議会の議長も務めた。
彼の妻ミルサはアパルトヘイト法に反対する人々のリーダーであり、逮捕された。彼はまた、合唱団「コングレス合唱団」を設立し、この合唱団の曲も作曲した。この合唱団は有名になり、ANCと学校の奨学金のために資金を集めた。
◉ジャン・ベルナト(Jean Bernadt): 1959年から1964年まで禁止
彼女の政治的な原点は、南アフリカ共産党(CPSA)に入党した時に遡る。1935年に彼女は「左翼読書クラブ」 の書記になった。 このクラブはの多くは反ファシスト社会主義者だった。彼女は1929年にCPSAの原則に基づいて設立された共産主義フロント組織であるソビエト連邦の友人のメンバーになった。

彼女は 1936 年にニューヨーク大学 (NYU) でアメリカ文学を学びました。ケープタウンに戻り、正式に CPSA に入会しました。その後、ガーディアン紙の配布員および資金調達係として働きました。CODESA 交渉中、 ベルナツ家にはネルソン マンデラが宿泊した。 ネルソン マンデラとその代表団はここで、アパルトヘイト政府との交渉を取り巻く諸問題について話し合いました。
彼女は、 ジェンダーによる抑圧との闘いへの多大な貢献により、ルツーリ銀勲章を授与された。
◉ヒルダ・バーンスタイン(Hilda Bernstein):1953年と1958年に禁止
イギリスのロンドンで、ロシア系ユダヤ人移民のシメオンとドーラ・シュワルツの娘として生まれた。1925年、彼女が10歳のとき、生涯にわたるボルシェビキであり、駐英ロシア貿易武官だった父親がソ連に召還された。父親はイギリスに戻ることができず、父親の死後、18歳で南アフリカに移住してジャーナリズムの仕事に就いた。

世界人権宣言のエレノア・ルーズベルトにそっくり!(@_@)
ヨーロッパにおけるファシズムの台頭に反応して、人種差別のない唯一の南アフリカの政党である南アフリカ共産党に加わった。彼女は党の地区委員会と全国執行委員会で、自分の発言力と組織力を発揮した。
彼女は政治活動を通じてライオネル・「ラスティ」・バーンスタインと知り合い、1941年3月に結婚した。彼は、南アフリカ連邦のダーバンで、ヨーロッパからのユダヤ人移民の4人兄弟の末っ子として生まれた。
その旦那のユダヤ人の、
◉ライオネル・バーンスタイン(Rusty Bernstein)は1950年と1953年に入国禁止
反アパルトヘイト活動家、政治犯であった。彼は南アフリカ共産党(SACP)やアフリカ民族会議(ANC)などの政治組織で重要な役割を果たした。彼はANCへの白人の参加を強化するために南アフリカ民主党会議の結成を支援し、ネルソン・マンデラと緊密に協力しながら同盟者を集めて人民会議を設立した。彼の活動は多くの機関から表彰され、アフリカでは今でも称賛される人物である。
◉バントゥー・スティーブン・ビコ(Bantu Stephen Biko) 1973年2月から1977年まで禁止
ネルソンマンデラほどではないだけで、かなり有名な活動家。

南アフリカのアパルトヘイト抵抗運動活動家。思想的にはアフリカ・ナショナリストかつ、アフリカ社会主義者であり、黒人意識運動として知られる1960年代後半と1970年代の反アパルトヘイト・キャンペーンの最前線にいた。
彼は南部アフリカ聖公会を信仰する家族の中で育った。1964年から1965年にかけて、ビコは南アフリカのカトリック教会の寄宿学校、セント・フランシス・カレッジで学んだ。このカレッジでビコは自身の政治意識を強めた。
SASOの発展
1968年のヨハネスブルグでのNUSASの会議の後、その会員の多くが1968年8月にストゥッテルハイムで開催されたの世界学生キリスト教連盟の会議に参加した。そこでアフリカ系黒人の会員は、独立した黒人学生グループの結成について議論するために12月に会議を開催することを決定した。
ビコは他の黒人学生指導者たちとの対話の中で「黒人意識」というSASOの思想を発展させた。
ビコはデイリー・ディスパッチ紙の白人リベラル記者、ドナルド・ジェームズ・ウッズとの会談を求めた。彼は南アフリカのジャーナリスト、反アパルトヘイト活動家。デイリー・ディスパッチ紙の編集者として、活動家仲間のスティーブ・ビコと親交を深めた。ウッズはロンドンでアパルトヘイト反対運動を続け、1978年には民間人として初めて国連安全保障理事会で演説した。

2017年3月、南アフリカ共和国大統領ジェイコブ・ズマは世界人権デーを記念するため、ビコの墓に献花を行った。

「Biko」(ピーター・ガブリエル、1980年) - アルバム『ピーター・ガブリエル III』からのシングルカット。ユダヤ人・アーチストのピーターガブリエルはしばしばこの曲をライブで取り上げてビコを賛えている。また、カバーするアーティストも多い。ユダヤ人得意の共産主義化プロパガンダだった。
映画
⚫︎『スティーブ・ビコの生と死(The life and death of Steve Biko)』 - (マルコム・クラーク制作のドキュメンタリー。1978年)
⚫︎『遠い夜明け』 - (リチャード・アッテンボロー監督、デンゼル・ワシントン主演、1987年) - ビコと交流のあった白人ジャーナリスト、ドナルド・ウッズとビコとの交流を中心に描いた作品。⤵︎

(この顔は、ユダヤ人だろな)
⚫︎監督としては1982年の『ガンジー』でアカデミー監督賞、英国アカデミー賞監督賞を受賞。『遠すぎた橋』や『コーラスライン』、『遠い夜明け』、『チャーリー(ユダヤ人・チャーリー・チャップリンの生涯の映画)』などでも知られる。

⚫︎1998年、高松宮殿下記念世界文化賞を受賞。
⚫︎2002年10月に、英国映画協会内に創設された「チャップリン研究財団」の初代総裁。
1939年9月、父フレデリック・アッテンボローがレスター大学ユニバーシティ・カレッジの学長を務めていたとき、アッテンボロー家は2人のドイツ系ユダヤ人難民の少女、ヘルガとアイリーン・ベジャック(それぞれ9歳と11歳)を引き取り、カレッジ・ハウスで一緒に暮らし、戦後、両親が殺害されたことが判明すると(どうせデマ)、家族に養子として引き取られた。

大学への想い
フィールディング・ジョンソン・ビルディング(1837年建築)
レスターにおける大学設立の最初の本格的な提案は、レスター文学哲学協会(「哲学的」が今日の「科学的」を広く意味していた時代に設立された)から始まった。(゚Д゚)ハァ?
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