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周の王朝の一対をなす王朝の創始者『文王と武王』

2154文字

はじめに

殷(商)王朝➡周王朝の儒教の神様の王たちの補足のnote

【まとめ】

周の文王が天帝より中国支配の天命を受け、近隣の諸国の殷に恨みをもつ諸侯たちを徳によって手懐け、殷に対抗できるだけの力を持つに至った。しかし、老齢の文王は殷との対決を目前にして亡くなってしまう。次男の昌が後を継いで周の太子として『牧野の戦い』で殷軍に打ち勝ち、殷王朝を倒し周王朝を設立、天下の支配を確立した。この次男の昌が武王。


【文王】

①殷の紂王 ②天命を受け殷王朝打倒の基礎を作った文王 ③周を建て天に報告した武王 
④摂政の周公旦 ⑤周の二代目の成王

中国古代、紀元前一二世紀頃、殷末の周の王。姓は姫、名は昌。武王の父。周王朝の基礎をつくった。後世、儒家から理想の君主とみなされる。生没年未詳。

周族は文王の時代、なお殷王朝の支配下にあった。周族の勢力の伸びは殷の紂王の警戒心を呼びおこし、文王は羑里にとらわれることになる。この捕囚の間に文王は《易》の六十四卦を整備したという。釈放のあとも文王は徳治によって近隣の諸国を懐(なつ)け、また都を豊(西安市西部)に移した。その子の武王はこうした基礎の上に殷王朝打倒の兵を挙げ、西周王朝を開くことになる。

【文王】

周の王朝の基礎を作った。子の武王のとき、周王朝が始まる。
西周時期の金文資料でもすでに文王と武王とは一対をなす王朝の創始者とされており、文王が天帝より中国の支配の天命を受け、武王は実際の軍事行動によって天下の支配を確立した。

【文王】

季歴の子として生れ、周の天下統一の基礎をつくった君主。子の武王によって殷は滅びるが、その基礎を文王が築いた。
周王朝の創始者武王の父。
徳によって民衆を教化し、
後世の儒家から理想的な天子と説かれた。子の武王のとき、周王朝が始まる。

【文王】

周の武王の父。武王の周王朝開始の基礎を築いた。殷末の周の興隆はすべて文王伝説に語られている。後世の儒家から理想的な聖天子と称され,その徳は『詩経』の詩に歌われている。

文王は死後,天帝のもとで神になったとされるが、そうした文王の宗教的な様相は《詩経》大雅の諸篇に詳しい。後世にも、周文化の基礎を定めた聖人・聖王として〈文武〉と併称される。

【文王】

易の三聖の一人で、紀元前十二世紀の周王朝の開祖。六十四卦の卦辞を作ったといわれている。伝説として「伏羲が八卦を作り、周の文王が六十四卦の卦辞を作り、周公が爻辞を作り、孔子が十翼を作った」とされている。


【武王】

②天命を受け周の王朝の基礎を作った文王    ③殷を滅ぼし天に報告し周王朝を建てた武王

【武王】

周王朝の創始者。姓は姫。名は発。文王の子。父の没後、紂王を討って殷を滅ぼし天下を統一、鎬京を都として即位。封建制度を創始。

【武王】

中国、西周王朝第1代の君主。父の文王天命を受け、徳によって諸侯たちを手懐けたという基礎のうえに、太公望、召公奭ら賢臣の補佐をうけ、武王は周族の勢力をさらに伸ばした。盟津に会した際には八百の諸侯が武王のもとにはせ参じたが、なお隠忍自重し、殷王朝の命運が尽きたことを見きわめて、初めて紂王討伐の兵を挙げた。

牧野の戦で殷軍を破り殷の都に攻めこむと紂王は自殺した。殷を滅ぼしたことを天に報告したあと、武王は周王朝を開き、重臣たちを各地に封建して斉、魯、燕などの国を建てた。さらに中原地帯の支配を確実にするために成周雒邑(洛陽)への遷都も意図したが、そうした計画を十分に実行に移す期間もないうちに武王は死亡し、西周国家整備の仕事はその子の成王とそれを補佐する周公(旦)の仕事として残された。

④摂政の周公旦             ⑤周二代目の成王

【周】より

…《史記》によると、尭帝の農官であった后稷が始祖とされる。后稷の15世後の子孫の武王が、前1050年ころ殷王紂王を牧野で破り、殷を倒して、王朝を創設した。この王朝は前771年に一度滅び、前770年東の成周洛邑(河南省洛陽市)に再興され,前256年第37代の赧王の時、秦によって完全に滅ぼされた。…

周(姫氏)

天帝

【天帝】

古代中国の思想で、天地・万物を支配する神。造物主。
キリスト教で、ヤーウェ。
仏教で、帝釈天。

【天帝】

上帝。
旧約聖書の神エホバをさす。天主。上帝。

天帝

中国における天上の最高神。殷代の甲骨文資料に、あるいは上帝の語が見え、雨や農作物の収穫を支配し、都邑の建設に許可を与えたりしている。しかしすでに「隠れた神」であったらしく、帝の力は「帝の使(者)」「帝の臣」を介して発現される。上帝を直接に祭ることはなかったとされる。

周は帝の代りにの語を用いた。周王朝の存在を理由づけるため、天命天子革命などの観念を天帝と関連づけて発展させ、それに倫理観念を注入し強調したことが、後代の中国思想の重要な基盤となった。天帝を祭ることが天子の権利であり義務だとする考えが、封建王朝時代を通じて強固に保持されていたことは、北京の天壇にも見られるごとくである。

天帝は元来は唯一神であったであろうが、その力を代行する職能神が実際的な力をふるったことや、春秋戦国時代には各国がそれぞれに天帝を祭ろうとしたことから、帝は必ずしも唯一のものではなくなる。(分かってねぇ、略)

おわり

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