幻の「火の鳥:インド編」名作『ブッダ』は「火の鳥」だった…!?手塚治虫の「絶筆」を看取った奇跡の編集者の物語
手塚治虫の代表作のひとつ「ブッダ」
実は元々
「火の鳥」の一部だったかも知れないエピソードはご存じでしょうか。
「ブッダ」誕生の裏には
手塚好き新人編集者が起こした泥臭い奇跡の物語がありました。
今回は「火の鳥創作の裏側」番外編として
「火の鳥」から見る「ブッダ」誕生の裏側をご紹介していきます。
昭和46年秋 潮出版社「希望の友」編集者の竹尾さんが
当時手塚先生のマネージャーの平田さんを訪ねるところから始まります。
「虫プロ商事が発行していたCOM誌が廃刊になりましたね、
つきましては、同誌に連載されていた『火の鳥』を〔希望の友〕に継続して、連載をお願いしたいのですが」
竹尾さんが平田さんにそう告げました。
竹尾さんとは急遽、手塚先生の担当になった入社三年目の若者で
「雲の上の人のような手塚先生の担当を出来るなんて、
まるで夢のようなことだ」と元々大好きだった手塚先生の担当ができることに胸躍らせていた編集者です。
声をかけたものの、その後何の音沙汰もありません。
そこで竹尾さんは、翌日から手塚プロに通いつめることにします。
手塚プロには、原稿待ちの編集者たちの控室があり
竹尾さんは、その部屋のドアを開けるなり驚愕します。
なぜならそこには、煙草と、男のむさくるしい匂いが充満した異様な光景が広がっていたからです。

花札で盛り上がっているグループがいたり。
昼間から冷酒をあおっているベテラン編集者もいる。
かつての豪快な強者ぞろいの手塚番の編集者たちの時代は終わり、
今はは若い編集者たちに世代交代している、
そう教えられてきたのに、
いやいやどうしてかつてのような強者編集たちがたむろしていました。
それでも根気よく通い始めて3カ月目、
ついに手塚先生に会えることになります。
何度も見てきたあの憧れのベレー帽姿の先生が目の前に現れるんです。
…でもこの時は挨拶のみで
慌ただしく先生は仕事部屋に戻って行っちゃいました。
それでも竹尾さんは存在に気付いてくれただけでも嬉しくて
その後も手塚プロ通いを続けます。
この努力が実り始めたのが通い続けて約半年後、昭和47年5月にようやく
手塚先生と打ち合わせができるようになり当時の栗尾(くりお)編集長同席の元、打ち合わせが始まります。
このとき竹尾さんには担当を命じられていたときから温めていたアイデアがありそれが雑誌COMで休載中だった「火の鳥」の新作依頼
舞台を古代インドにした仏教の物語「東洋編」というイメージの提案があったそうです。
その時のいきさつが
講談社「手塚治虫漫画全集ブッダ14巻」のあとがきに記されています。
「虫プロ商事の『COM』が廃刊になったとき、
連載の『火の鳥』を中断してしまうのか、どこか別の雑誌へ移すのかが問題でした。たまたまそれ以前から潮出版社の「希望の友」に読み切りを何回か描いていたご縁で、編集長から「火の鳥」をうちで続けないかと話がありました。私は「希望の友」は少年雑誌だから、連載するには内容の程度を少し下げなければならないだろうと思ったのです。
「火の鳥」のような漫画マニア向けのものは、「希望の友」の他の作品とは全然合わないような気がしました。へたをするとそこで「火の鳥」のカラーが変わってしまうのではないかと心配でした。
それでテーマは同じだが別の作品・大河ドラマを描きたいと頼んだのです」
このように「希望の友」は少年誌なので
青年誌をターゲットにしていた「火の鳥」ではターゲットが違うことにより一度は断ったものの話し合いの中で手塚先生の方から
「お釈迦様の伝記なんかはどうでしょう」
との提案がなされました。
この時、栗尾編集長は少し仏教くさくならないか心配だったそうですが
「そこはなんとか手塚流のお釈迦様にしてみせますよ。
かなりフィクションを入れてもいいでしょう」
…と手塚先生の「釈迦伝」なら面白そうと栗生編集長も納得
タイトルも「釈迦伝」ではなく
カタカナで「ブッダ」とトントン拍子で進んで行くことになりました。
その後もただのお釈迦様の伝記漫画だったら面白くないので
「手塚先生ならではのブッダを描いて欲しい」
それだけを伝えて手塚先生に託したそうです。
そうして始まった第一話
竹尾さんたち編集部はプロローグを初めて読んで感動したそうです。

…というのもこの初回の打ち合わせのみで
その後は一切の打ち合わせもなかったそうです。
ええ?マジか…って感じですよね。
今では到底考えられない契約ですが
それほどまでに手塚先生に全幅の信頼を寄せていたようです。
その後もほぼ手塚先生任せで足掛け12年に及ぶ連載を経て完結。
手塚作品の中でも最長クラスの連載期間と珍しくキッチリ最後まで描き切った超大作となりました。
これにはひとえに潮出版の方々
並びに竹尾さんの並々ならぬ努力があったことは忘れてはなりません。
事実、竹尾さんには「ブッダ」連載後に人生最大の苦労と語る
「地獄の手塚番」が始まっています。
「ブッダ」は月刊誌だったので毎号30ページ連載でした。
しかし締切はどうしても週刊誌が優先されるので24ページになったり20ページになったり減ページのオンパレードが続きます。
その穴埋めを竹尾さんが別の書き手さんと交渉したり
印刷会社にはあまりの原稿の遅さに文句を言われたりするのですが
それでも連載を打ち切らずにギリギリの作業を黙々と続けていくんです。
これは語られていませんが計り知れないほど凄まじい仕事ですよ。
竹尾さんじゃなかったら
「ブッダ」は間違いなく息の根を止められていたでしょうね。
なんせ12年の連載で単行本14巻ですからね。
一方の同時期連載していた横山光輝先生の「三国志」は毎号50ページ連載
そして締切は遅れたことがないというね(笑)
別に手塚先生もサボっていたわけじゃないんですけど
あまりにも無謀な超過密スケジュールすぎるんですよね。
手塚先生は一日平均睡眠時間一時間といった、殺人的スケジュールで仕事をしているため、担当者も寝るわけには行かない。(なんでやねん)
スタンバイ中にうっかり寝てしまうと他社に負けてしまうといった各社の原稿取り戦争なる意味不明の争奪戦が繰り広げられていましたから、そんな中で月刊誌が原稿を取っていくって大変なことだったろうと思います。
雑誌自体の発行部数が赤字だった頃もあったそうなんですけど
コミックスの売り上げが良かったんで何とか存続が許されていたなど
昭和の男たちの思いが『ブッダ』を支えていたんですね。
「火の鳥」そのものの連載には至りませんでしたが、
手塚先生の口からハッキリと
「火の鳥」の少年版といった言葉で『ブッダ』の連載が決まり、
その希望が叶った作品を最後まで見届けた一人の編集者の熱い
それが『ブッダ』誕生に秘められた真実であります。
今回は「手塚番神様の伴走者」を参考にご紹介いたしました。
ちなみに竹尾さんこのあと「ルードヴィヒ・B」も担当され
半蔵門病院での手塚先生の絶筆にも立ち会っています。
ご興味がありましたらご覧になってみてください。
ではでは。
