【手塚治虫の原点】命の尊厳を訴え続けた巨匠が実体験した「もう一つの戦争」
今回は手塚治虫が描く戦争マンガ
「すきっぱらのブルース」をご紹介いたします。
1945年 8月15日終戦
人類史上最も凄惨な戦いの終わりを告げた日ですが
そこに生きる人々にとってはまだ過酷な戦いが続いていました。
――それが「空腹との闘い」
「戦争」と聞くと、激しい戦闘やその惨状にばかり目が向きがちですが
一般人の生活もまた悲惨な状況に置かれ、苦しんでいました。
今回ご紹介する「すきっぱらのブルース」は
戦時下特有の深刻な食糧不足に焦点を当て描かれた
戦争体験者である手塚先生による貴重な実録マンガです。
手塚先生が作品に込めた「戦争はもうごめんだ」という切実な想いを、
ぜひ本作から感じ取ってみてください。
まずは冒頭
芋を畑から盗むところから始まります。
お腹が減りすぎて盗んだ芋を食べていたそうですが
これは手塚作品に限らず多くの子供たちが最もつらかったのは「空腹」だったことは数々の資料からも伺えうことができます。
親から「どんなに腹が減っても盗みはするな」と言われていても
空腹に耐えきれず畑を荒らしたなんてエピソードは山のように出てきます。

これが戦時下でのリアルな現実だったのでしょう。
会話もなく、
ただひたすらに貪り喰うシーンに1ページ以上も使って描かれています。
ページ数の制限のある中で、これほど大胆にコマ数を割いて描いたのは手塚先生がそれだけのコマ数を使ってでも、この時の惨状を伝えたかったことが伺えます。
お腹いっぱいに食べられない苦しさがどれほどのものであったのか…。

当時の日本は
戦争が終わったとはいえ人々は貧しい暮らしを強いられていました。
食料といえば僅かな配給しかなく
常に腹を空かせていることが当たりまえ…。
街を練り歩く米兵に甘いものを
恵んでもらうという光景も決して珍しくありません。
その中において手塚少年は
米国兵の似顔絵を描き、缶入りの携帯食糧をもらっていたそうです。
もらった携帯食糧の事を事細かく描いているところを見ますと
当時は相当貴重なものだったようです。
生きていくためには食料とお金を持っている
米国兵のいいなりになる者も少なかったようで
後に手塚先生は米国兵に不条理に殴られた経験を記しています。
「占領軍に反抗すれば、射殺されても文句が言えない時代。
腹立たしいやら口惜しいやら」

とにかく生きるためには、何があっても米国兵に逆らわず耐え忍び
食べるものを調達していたようです。
戦後まもなくの頃は、食べ物がなく栄養失調で飢え死にする人が日常的にいて道端で行き倒れになっていた人も珍しくなかったそうです。
道端に転がっている死体は誰にも処理されず
ぐちゃぐちゃになって放ったらかし、
誰もが自分が生きていくことに精一杯で
とても他人の生き死にまで構っていられなかった惨状が描かれています。
後年になり戦闘以外の要素で亡くなった方の調査が進み、おおむね半数以上が餓死者だったと歴史研究からも明らかにされてきました。

ちなみに手塚先生の初期の大傑作「新宝島」発表当時の模様を記した
「酒井七馬と手塚治虫」という小説の中で
「ふと視線を横に向けると、やせ細った男がごろんと横になっていた。
一見して、死んでいると分かる。もはや見慣れた光景である。」
という文章があります。
これは終戦直後の日本、大阪の闇市での描写で「新宝島」発表前ですから
1947年頃です。戦後2年経ってもこの状況ですから
とかく凄まじい環境であった事は間違いありません。
そんな凄惨な環境の中にあって
本作にはひとつのロマンスが描かれています。

偶然出会った新聞社に勤める美人なお姉さん・和子さん。
気がつけば完全に一目惚れ
頭から彼女の姿が離れず、
漫画の執筆どころか溶けるような恋にどっぷりと浸かってしまい
胸のトキメキが抑えきれず、夜もおちおち眠れなってしまいます。

漫画を描いていることを彼女から褒められても、
「ボクは食うことにしか興味がないんだ」
……と、柄にもない強がりを言ってみせたり
街のおじさんから彼女の美貌を褒められた時も、
「気の強い女は嫌いだね」
「ボクは漫画家になれさえすればそれでいいんだ」
と、興味がないフリをみせたり
とにかく素直になれない「照れ隠し」が描かれており
心の中は和子さんのことで一杯の手塚少年でありました。
だが、そんな強がりも限界を迎えます。
抑えきれなくなった想いが溢れ出し、ついに――
「今すぐ、会いたい」
ストレートにそう告げます…
会えた2人に沈黙が続く中
彼女からの思いがけない応答がありました
彼女のほうから濃厚なキスを重ねてきたんです

漫画のページにして、実に5コマ以上にもわたる長尺のキスシーン。
当時の手塚少年にとって、
どれほどの衝撃と歓喜だったか…。
さらに追い打ちをかけるような幸せが訪れます
「明後日、私の家に来ない?」
初めてのキス体験に胸の高鳴りが抑えきれない手塚少年
さらには彼女に家に招かれ
ワクワクしずぎて、やはり夜も眠れません。
これは誰しも一度は経験があるような、甘酸っぱく眩しい青春の1ページではないでしょうか…。
そして迎えた、運命の当日。
彼女の家へ向かう待ち合わせ時間が、刻一刻と迫ります。
……しかし、ここで最大の悲劇が巻き起こります。
あろうことか、全く同じ時間帯に「中華料理屋のおじさんから、美味い中華をごちそうしてもらう約束」が入っていたんです。
「彼女に会いたい」という胸を焦がすような愛おしさと、
「腹が減った」というどこまでも生々しい本能。
手塚少年突きつけられた、人生を揺るがす究極の二択。

どうする?
どうする?
そして
彼が下した決断は……
可憐な彼女に会いに行くことではなく、
「空腹を満たすこと」を選ぶんです。
そしてあまりにもあっけなく、物語はここで幕を閉じます。
甘い恋を投げ打ってでも、胃袋を満たしたかった
これこそが当時の紛れもない「リアル」だったのでしょう。

「愛よりも食い気を選ぶ」
現代の豊かな日本に生きる私たちには、想像もつかない感覚です。
ですが戦後数年間の日本において、
「好きなこと」や「好きな人」以上に「食べる」という本能が最優先される現実がありました。
当時の戦争体験者たちの声を聞きますと、
誰もが同じように口を揃えて言います。
子どもたちが望んでいたのは、国の勝敗などではなく
ただ一心に「お腹いっぱい食べたい」ということだけだった…。

一番の苦痛は、絶え間ない空腹。
あまりの飢えに、「生きていること自体が嫌になる」
「将来に希望なんて持てない」
お腹が減りすぎて
「厭世主義」にならざるを得なかったような状態だったと
手塚先生も描いています。
「厭世主義」とは
世界は悪と悲惨に満ちたものだという人生観のことで
生きるのがイヤになる、
将来について悲観的になってしまうということです。

このように「空腹」は、人々の生きる気力さえ奪っていきます。
だからこそ、当時の凄惨さを知るおじいちゃんやおばあちゃんたちは
「食べ物を粗末にするな」と強く子供たちに伝えているんですよね。
戦争の真の恐ろしさは、戦場で命を奪うことだけではなく
終わった後もなお、人々の日常に「不自由」と「地獄のような空腹」といった苦しみを残し続ける点にあります。
そんな極限状態の中で、ペンを握り続けた人物がいました。
それが手塚治虫という男です。
当時、「マンガ」の社会的地位は驚くほど低い時代です。
むしろ「マンガ」なんて描いていようものなら非国民とののしられた時代
それでも「マンガ」という媒体が持つ表現方法に無限の可能性を信じ、
強い信念と夢を胸にマンガを描き続けました。
後年、手塚先生は
「マンガ」とは画やアニメの表現能力の素晴らしさ、
特に子どもたちに伝える手段としてはこれほど優れた媒体はない」
と言っています。
やがて手塚先生は、それが自らの使命かのように
「反戦」と「命の尊厳」を作品に込め始めます。
初期SF三部作に見られる異星人の侵略や、地球滅亡の危機を描いたドラマ。
それらはすべて、戦争の愚かさや人類の過ちに対する強いメッセージにも繋がっていきます。
著書『ガラスの地球を救え』の中には、このような文があります。
僕が、アニメーション映画に力を注いできたのも、
一つには、この軍国主義による映画の効用を逆手をとって、
夢や希望に目を輝かせることのできる子どもたちに
育ってもらいたいからなのです。
今でも世界中で愚かな争いが絶えないのはなぜでしょうか
その国には
手塚治虫のような伝承者がいなかったからなのかもしれません。

もしかしたら今の日本の平和は手塚治虫を始め、水木しげる、など
偉大な巨匠たちが作品を通じて戦争の悲惨さと平和への祈りを
叫び続けたからなのかもしれません。
「はだしのゲン」など優れた戦争マンガが日本にはたくさんあります。
私たち日本人は小さい頃から無意識にマンガを通じ
戦争の悲惨さを感じ取れる国民になっていたのかも知れません。
先人たちが描き続けた反戦漫画の記録がなければ
今の日本は、もしかしたら違う方向に向いていたかもしれません。
日本が世界に誇るべき文化にまで発展した「マンガ」
しかし近年急速に若年層の「マンガ離れ」が進んでいると聞きます。
手軽に刺激的なコンテンツが楽しめる時代
それ自体は決して悪いものではありません。
しかし
「じっくり読み、考える」という体験価値が失われつつあるのは残念です。
戦争の悲惨さを風化させないためにも
改めて日本が世界に誇る戦争マンガ
手に取って読んで見ては如何でしょうか。
