手塚治虫がスランプの底で描いた「魔性の女」最も危険な大人向け漫画
今回は手塚治虫屈指のエロティックサスペンス「人間昆虫記」
をお届けいたします。
手塚漫画史上、最も危険で美しいダークヒロインの物語
「手塚治虫はもう古い」と囁かれていた冬のスランプ期に、巨匠はなぜ、
これほどまでに生々しくエロティックな「悪女」を描いたのか?
他人の才能を肉体ごと吸い尽くす魔性のヒロイン・十村十枝子。
彼女の「模倣(コピー)」という生き方は、
実は高度経済成長に沸く「当時の日本」そのものの風刺でありました。
単行本化の際に目次に追加された「不気味な虫の名前」に隠された秘密、
そしてバブル崩壊や失われた30年をも見抜いていたかのような手塚治虫の「恐るべき予言」を徹底解説します。
ぜひ最後までお付き合いください
これまでにない異色の主人公
主人公は若くして芥川賞受賞作家となった才色兼備の女性「十村十枝子」
しかし、彼女の本当の姿は、
他人の才能を次々と奪って、自らに吸収する『模倣の天才』でした。

世間では「才女」としてもてはやされている裏では
群がる男たちと次々と肉体関係を結び虜にして
才能を喰い散らかしては捨てる「魔性の女」。
彼女の目的は特になく
自身が生きていくためには手段を選ばない冷酷な悪女。
誰とでも躊躇なく寝ます。

地位も名声も手に入れた才女ですが
本当の中身はいつも空虚
満たされないな心だけが残ります。
さぁ一体彼女はこの先どこに向かうのでしょうか。
といったストーリー
手塚治虫が本作を描いた背景
執筆されたのは
1970年から71年にかけて雑誌『プレイコミック』に連載された作品で
「手塚治虫は古い」「過去の人」と囁かれていた冬の時代
スランプとされる時に描かれた作品です。
なぜ、手塚先生はこの時期に
これほどエロティックでドロドロした大人向けの作品を描いたのか?
背景には2つの大きな要因があります。
ひとつは「ハレンチ漫画の台頭」。
ご存じ永井豪先生の「ハレンチ学園」の登場により
世間は一気に堰を切ったかのように
セクシー描写が手塚先生の意図しないスピードで拡大していきました。
これまでエッチな描写が描きたくても描けなかった思いがあっただけに
この時代の変化に手塚先生はひどく頭を悩ませます。
その対抗として
手塚先生は性教育マンガの「アポロの歌」を発表するんですが
なんとこれが有害図書指定になってしまうんですね。

真摯な性教育マンガにも関わらず、有害図書になってしまう一方で
「ハレンチ学園」のようなお下劣なマンガがまかり通ってしまうという
当時の性描写への線引きが如何にあいまいであったかが
伺える事例と言えます。
そして「人間昆虫記」は、これらとほぼ同じ時期に連載された作品で
性教育マンガを描いていたその裏では
性に奔放な「魔性の女」を描いているという
この辺が負けず嫌いの手塚治虫たる所以ですね。
ちなみにこの間に性教育マンガをあと2本描いています(笑)
女性描写の劇的な変化
そしてもう一つは「青年誌の登場」
実は手塚先生、大人向けのマンガ自体は1955年の『第三帝国の崩壊』や
57年の『ひょうたん駒子』など、かなり早くから描いていました。
ただ、その頃のタッチは、普段の子供向けのものとは全く違う、まるで別人が描いたような絵でありました。

これは大人マンガの大先輩である松下井知夫先生の影響を受けておりまして
後の「人間ども集まれ」や「上を下へのジレッタ」などの
タッチの原型にもなりました。
ちなみに松下井知夫先生は手塚先生の結婚披露宴の媒酌人をされた方です。
しかし、『ビッグコミック』や『プレイコミック』といった青年誌が創刊されると、「子供タッチ」と「大人タッチ」の間に位置する、
新しい劇画的表現が生まれます。
これにより、手塚作品の女性描写、
ヒロイン像は劇的な変化を遂げることになりました。
それまでの手塚作品のヒロインといえば、
男とも女ともとれる、両性具有的なキャラクターが多かったのですが、
この時期からは明確に、生々しいほどの「女性らしさ」
――あえて言うなら、
より「メス」としての本能的な美しさと怖さが描かれるようになります。
『地球を呑む』から『I・L』、
そして本作『人間昆虫記』を経て、
『奇子』『ばるぼら』へと続く、
男を破滅させる妖艶な悪女の系譜が、ここで一気に花開いたわけです。
このヒロインの変貌は単なる手塚先生の趣味の変化ではありません。
おそらく当時巻き起こっていた「ウーマンリブ運動」、
女性の社会的地位向上といった大きな社会のうねりが影響していると思われます。
それまでの男性中心だった社会構造が徐々に変わり始め、
強い女性が台頭してきたことによって手塚先生は
その時代のエネルギーと変革を敏感に感じ取り、
作品の中で「男を翻弄する悪女」として昇華させていったのではないかと。
昆虫のような日本人の姿
それでは、手塚先生はこの『人間昆虫記』を通じて、
本当は何を描きたかったのか?
その答えが、先生自身が残したあとがきに、ハッキリと書かれています。
「日本はまっしぐらにGNP世界第一位を目ざしてつっ走っていた時代です。
その陰と陽の不条理な時代に、マキャベリアンとして
たくましく生きていく一人の女をえがいてみたいと思ったのです」
ここで出てくるマキャベリアンとは
目的の為なら他人を躊躇なく利用する人という意味で
これは本作が発表された1970年当時の「日本という国そのもの」
をモデルに描かれた、痛烈な社会風刺でもありました。
当時の日本は高度経済成長の末期。
欧米の優れた技術や文化を、圧倒的なスピードで「模倣」し、
アレンジして自分のものにすることで、爆発的に巨大化していきました。
オリジナルを作るのではなく、
優れたものを「パクる」ことで生存し、のし上がっていった時代
その日本の姿こそが、
他人の才能をコピーして輝く「十村十枝子」そのものだったわけです。

その模倣は他者を攻撃する目的ではなく
自身が生き残るための生存戦略でありましたが
それが無自覚に他者を不幸にしてしまう矛盾もはらんでいました…
ある種の防衛本能的に社会も大きくなっていった時代の中で
手塚先生は空虚感を感じ
その惨状を現代人特有の孤独感として描いたのではと思われます。
タイトルに付けられた意味…
ここで「人間昆虫記」なる不思議なタイトルの秘密を探ってみますと
非常に面白いものが見えてきます。
それは
単行本化の際に連載時にはなかった「昆虫の名前」が
目次に付け加えられました
それが
春蟬(ハルゼミ)の章
浮塵子(ウンカ)の章
天牛(カミキリ)の章
螽蟖(キリギリス)の章
手塚先生はこれらの虫たちに、どんな意味を込めたのでしょうか?
それぞれの昆虫の意味を紐解くと、
ゾッとするようなメッセージが見えてきます。
春蟬(ハルゼミ)は
春のセミという意味でただただうるさい。
うるさく鳴き立てるだけの存在。
浮塵子(ウンカ)は
イネの害虫で米の収穫に大打撃を与えるどうしようもない害虫。
天牛(カミキリ)は
カミキリムシのことで何でも食い散らかす害虫、人間の敵です。
そして
螽蟖(キリギリス)とは
イソップ童話でもお馴染み、鳴き声がうるさく臆病であり
将来の備えもせず遊び呆ける享楽的な道楽者。
以上のような解釈が
なぜこのようなタイトルがそれぞれに付けられたのか?
明確な答えは提示されておりませんが意図もなく闇雲に改編されたとは考えにくいのでシンプルにこれら昆虫の意味が当時の日本社会へのメッセージと受け取っても差し支えないんじゃないでしょうか。
その他にも、もう一つ決定的なコメントが残されております
「人間昆虫記」は
カレル・チャペックの「虫の生活」を思い浮かべていました
と言う一文があります。
カレル・チャペックと言えば手塚先生のお気に入りの作家で、有名なのは初めてロボットを描いた超代表作「R.U.R.」で、初期手塚SF作にも多大なる影響を与えたことでも知ら得ている傑作です。
そしてチャペックの「虫の生活」は
昆虫の生態を人間に重ねて社会を風刺した名作でもあり
これに影響を受けていると公言されています。
つまり『人間昆虫記』は、人間の皮を被った「虫のような生き方」をする
現代人の孤独と空虚を描き出した作品だったと言えますね。
ひたすら自己の欲求のために他者を吸い尽くす。
けれど、どれだけ吸い尽くしても、心は満たされない――。
手塚先生が描いた「底知れない欲求に憑りつかれた悪女の姿」は、
奇しくも先生が亡くなった1989年に、「バブル崩壊」として現実化します。
実態がなく虚構にまみれた日本経済。
手塚先生の死後に訪れた未曽有の経済破綻
その後の「失われた30年」すら予見していたかのような描写は鮮烈です。
「似せることで身を守る」という昆虫の生態になぞらえて
生き残るための生存戦略として「模倣」を繰り返した結果、
「本当の自分は何者にもなれない」という、現代人特有の孤独。
何者にもなれない
なれなかったという空虚さがたまらなく怖いですよね…。
本作の刹那的欲求のためにひたすら生きているような
人としての感情を置き去りにした孤独感は
何とも言えない寂しさを感じさせてくれます。
この虚無感こそが、本作の一番の恐怖であり、
一番の魅力ではないでしょうか…。
また、本作は手塚治虫の「芸術論」としても深掘りできます。
3年後に描かれる、芸術のミューズを追い求める物語『ばるぼら』が
「才能を追いかける作品」であるならば、
この『人間昆虫記』は
「他人の才能を喰い散らかす作品」として、見事な対をなしています。
同じくスランプ期に描かれたエロティックサスペンスの傑作。
次回は「ばるぼら」をご紹介いたしますので
是非次回もご覧になって観てください。
ではでは。
