いつから手塚治虫は『火の鳥』をライフワーク」と語ったのか…驚愕の真実が明らかに…!
これまで続けて参りました「火の鳥」創作の裏側シリーズ①~⑦
完結したんちゃうんかいと、
まだ続くんかいと思われたと思いますが
もう一回だけ追加させてください。
これを語らずには「火の鳥」を締めることができないので
これが本当の最後とさせてください…。。。
最後に取り上げるテーマは「火の鳥とライフワーク」について
なぜ手塚先生は「火の鳥」をライフワーク」と語ったのか。
いつから「ライフワーク」と呼び始めたのか
そしてなぜ「火の鳥」が特別な作品であったのか。
これらを最後のテーマとしてシリーズの締めくくりと致しますので
もうちょっとだけお付き合い頂ければと思います。
ライフワークの原点
そもそも「ライフワーク」とは一体なにか?
辞書で調べてみますと、こう書かれています。
「人が生涯の仕事として人生を捧げたテーマ
または、生涯にわたって続けられる・続けたいと感じる取り組み」
まさしく手塚先生が生涯に渡って描いた「火の鳥」の思想と合致します。
「生きる」「生命とは」というクソデカイテーマでもって
様々なエピソードが描かれた「火の鳥」は
文字通り「ライフワーク」と呼ぶにふさわしい名作となりました。
ではなぜ手塚先生は「生命とは」といった哲学者をも悩ます人類永遠の悩みともいえる題材のマンガを描こうと思ったのでしょうか。
その原点は、若き日の原体験にまで遡ります。
それは1945年手塚少年16歳のときに経験した大阪大空襲。
真横で同級生が焼夷弾の直撃を喰らい木っ端みじんになるなど
死と隣り合わせの凄まじい状況に直面します。
戦争という理不尽な死と、かろうじて繋がった自分の命への強い思い
九死に一生を得るという並外れた体験から
生きることそのものへの執着が深く心に刻まれたことを
先生の多くの著書からも伺うことができます。

また19歳の医学生だった頃には、日々患者の生と死に向き合うことで、
「命の神秘」に強い興味を抱くようになったと、これも数々の著書に見ることができます。
このことから分かるように
戦争の不条理と医療現場での生命の神秘
この2つが漫画家になる以前から形づくられた
「生命」という大きなテーマの根幹になっているのは間違いありません。
「火の鳥」に限らず多くの手塚作品に見受けられる
「生命」をテーマとした作品群もこれらの経験がバックボーンとして
形成されているのは言うまでもありません。
いつから「ライフワーク」と明言したのか?
そして1954年7月、記念すべき「火の鳥」の第一話が連載開始
この時、手塚治虫26歳
しかしこの時点ではまだ「ライフワーク」とは明言していません。
…というより後の壮大なスペクタクルの片鱗すら見えていないときです。
では、いつから
「ライフワーク」という言葉が使われるようになったのでしょうか?
それは…意外にも、ずっと後のことでした。
1968年、「火の鳥」が初めて単行本化された際に書き下ろされたエッセイ
『火の鳥と私』の中で、語られている一文があります。
「三度目の正直といいますが、こんどこそ最後まで完結させて、
ぼくのライフワークのひとつとして、残したいと思っています」
実はこれが、「ライフワーク」という言葉が初めて使われた瞬間と言われています。これは公式サイトにも記載されているので、一次情報と考えて問題ないでしょう。
1968年と言えば「未来編」と「ヤマト編」を執筆していたときです。
意外にもこの辺りから
「ライフワーク」として自覚するようになっていた事が分かります。
そしてこの後に
興味深い記事があります。
それは
2年後の1970年、雑誌「COM」4月号
「アンケート特集60人のまんが家」というコーナーの
「あなた自身を叱ることばをひとこと」という欄に、手塚先生は
「ライフワークを出せ!」
と書いているんですね。

…ということは1970年時点でもまだ「ライフワーク」としては不完全
納得のいく出来には到達していなかったんじゃないかと。
アンケート当時は、あの大傑作『鳳凰編』の連載、真っただ中。
後の大傑作となる作品の執筆中でさえ
「ライフワーク」と呼ぶにふさわしいレベルに到達していないと
手塚先生の中では思っていたということなんです。
「鳳凰編」のご紹介の際にも触れましたが
「鳳凰編」連載中の、1970年は手塚先生にとってスランプのド真ん中。
マンガの面白さとは裏腹に周囲を取り巻く環境は最低最悪。
そんな中で自身の「ライフワーク」を描き続けるとはどういう心境なのか。
ちなみにこの時期の雑誌「COM」の状況は混乱の極みで
1970年にはなんと、月刊誌でありながら年間11冊しか発刊されていない大失態をやらかしています。
月刊誌で休刊するってそんな事あります?
しかも「火の鳥」なんてただでさえ小難しいマンガを月一で読んでいるのにも関わらずそれをさらに一か月待たせるって正直萎えますよね。
これはお粗末すぎてあり得ません。
しかもこの失態を翌1971年と2年連続でV2達成しています
熱心なファンから見てもこの失態は痛恨の極みです。
この背景にはご存じ虫プロと虫プロ商事のごたごたが過熱
激化する労働争議問題が、もはやニッチモサッチモ手に負えない状況となり
「望郷編」の連載途中で雑誌「COM」が休刊、事実上の終了となり
雑誌「COM」諸共、虫プロ商事、それに続いて虫プロダクションも倒産し
ついに手塚治虫の撃沈となるわけですが…
はい、ちょっと横道逸れましたが
そんなぐっちゃぐちゃの状況になるちょっと前くらいの時期から
「ライフワーク」という言葉を使うようになっていたというワケ。
これは案外、意外だったんではないでしょうか。
おそらく思っていたイメージと全然違うと思います
もっと早い段階から「ライフワーク」として執筆していたと
多くの方が思っていたのではないでしょうか。
けれど、実際には
「鳳凰編」と「復活編」を経てようやく、
「ライフワーク」としての手応えを得ていたと思われます。
度重なる試練に耐え…
実際に「鳳凰編」と「復活編」はシリーズでも屈指の完成度で
まさに最高到達点にあったといっても異論はない立ち位置です。
ところが作品の完成度とは裏腹に、「復活編」以降、事態は混迷を極め
ようやく「ライフワーク」として描きまくっていくんだと
期待をかけていた矢先に雑誌「COM」が休刊
新作の「望郷編」はたった1話掲載された直後の強制中断
再び掲載誌の休刊で「火の鳥」の連載が中断せざるを得なくなります。
この後も、「火の鳥」は掲載誌を変え継続していくのですが
もう本当にとんでもないことになっていきます。
ついでなんで説明しておきますと
雑誌「COM」休刊から約1年後、
「COMコミックス」として雑誌名を変えてリニューアル再出発が決定。
1972年1月号「COMコミックス」の第一発目には
もちろん「望郷編」の第二話が掲載されていて
中断されていた前回からの続きが描かれています
待ち望んだ
第二話では「羽衣編」からの連続性も明らかになって
ついにここから本格始動かと思われた次号の2月号には
なんと「火の鳥」の掲載がありませんでした。
「え?また掲載誌のトラブルなの?」
と誰もがそう思いました。
でも実際は雑誌の事情で掲載されなかったのではなく
手塚先生自らの意思で掲載中断しています。
「「火の鳥」の性格と「COMコミックス」という雑誌の性格が
合わなくなったので描くのをやめた
またいづれ元の「COM」が復刊したら「望郷編」を再開する」
とコメント残しておられますが…
え? どゆこと?
止めたの? なんで?
ですよね。
これ端的に申し上げて、
掲載見送りではなく、いきなりの「終了宣言」です
突然作者の意向で最終回を迎えるという暴挙が炸裂しました(笑)
ええっっっっ????
勝手にやめるってそんな事ありなんすか?
しかもたった2話で…。
なんかあったんすか手塚先生と。
また掲載誌と揉めて
イザコザがあったんじゃないですかと勘繰ってしまうんですが
そうではありません。
というのも「望郷編」が中断された後の「COMコミックス」には
「ガラスの城の記録」という新しい連載を始めています。
だから喧嘩別れとかではなく
完全ガチの作者の我儘で「火の鳥」の連載を止めちゃったんですよ。
マジかと。
なんでそんな事するんすか? 手塚先生ですよね。
たった1話だけ描いて、描くの止めるってバイオレンスすぎるやん。

でもこれね「ガラスの城の記録」を読んだ方なら分かると思いますが
近未来を舞台にした欲望にまみれ散らかした狂った一族の
超ド級のアダルトマンガになっていて
とても「火の鳥」と同系統のマンガと呼べる代物ではなく
手塚作品の中でも超異質のド変態レベルのサイコマンガなんですね。
手塚先生のコメントにもあるように
劇画寄りの青年誌向けのアダルト雑誌になった誌面では
「火の鳥」を連載したくなかった。
そこまでして自分の「ライフワーク」を
安売りするつもりはなかったと思われます。
後日、先生は「COMコミックス」のことを
「おかしなポルノ雑誌まがいの青年誌」と評していましたからね(笑)
相当に我慢ならない状況だったであろうことと思われます。
ボクはもう、てっきり極度のスランプ期で
手塚先生がご乱心されたのかと思ったんですけど
実際に「ガラスの城の記録」読むとまぁまぁなるほどね…と
手塚先生の心境も分かるような気もします。
どこか中断した「望郷編」とリンクする部分もあって当時の手塚先生の心境が垣間見れるエグイ作品になっておりますので興味がありましたら
ご覧になってみてください。
併せて
この時に中断されてお蔵入りとなった幻の「望郷編」第一話と第二話
こちらは角川の「火の鳥」別巻14巻で読むことができますのでどうぞ
まさに大混乱!
そんな「COMコミックス」も、1973年3月号を持って廃刊
またしても「火の鳥」の連載が中断されます。
しかし同年8月に突然、雑誌「COM」「復刊号」なるものが出て
再び「火の鳥」が復活します。
なんなんすかこの怒涛の展開
なんと雑誌「COM」が突然の復活宣言したんです。
そんな奇跡あります?
手塚先生も
「いずれ「COM」を復刊させる、
その時が来たら「火の鳥」の連載を再開する。
「火の鳥」はライフワークなのでこのままやめてしまうことはない」
と言っておられたので
かなり早い段階での復活が実現することになるんですね。
ただ、ここで前代未聞のことが起こります。
復活したものの
なんと中断されていた「望郷編」の続きではなく、
全く別のエピソード「乱世編」が始まったんです。
え?どゆこと?
ですよね。
この時の手塚先生のコメントが残されています。
「望郷編の意欲も薄れたんでおもいきって一つ飛ばして
「乱世編」を描き始めました」
おい!! なにこれ?
飛ばすな!
飛ばすなよ!
シレ~っと凄んごいこと言ってないかい?
こんなのね、令和の時代にやったら完全に炎上しますよ。マジで。
第2話まで書いておいて意欲薄れたからって次の作品描きます?
「ハンターハンター」の中断明けに別の連載始まるようなもんですよ?
続き描けや!ってなりますよね(笑)
これが昭和であり手塚治虫なんですけど
さすがの神様手塚治虫もこの展開はいただけません。
読者の反感はもとより、このしっちゃかめっちゃかの状況が示すように
「乱世編」もこの第1回目を掲載しただけで、
虫プロ商事の倒産によって雑誌は1号で廃刊
強制終了となりました。
もはや…何がなんだか分かりません(笑)
なんなんコレ…?
ここまで時系列辿って解説してきたけどさぁ…。
半分以上の人はついて来れていないんじゃないですかね。
解説していてもこの複雑さですから
当時の読者の混乱ぶりは尋常なものじゃありません。
これらの度重なる方向転換を見れば如何にこの時期、手塚治虫含め虫プロが混乱、正常に機能していないことが分かるかと思います。
「火の鳥」の歴史の中でも特に「望郷編」辺りのカオスっぷりは猛烈の極みで凄まじいという言葉すら生ぬるく聞こえるほどの凄まじさです。
それでもこの後
1973年には「ブラック・ジャック」で手塚治虫完全復活を遂げ
中断されたままの「望郷編」も1976年9月に『マンガ少年』の創刊によって
奇跡の再開を遂げまたしても「火の鳥」は蘇ってきます。
1977年には漫画の文庫本ブームが起き、
手塚作品が続々と出版されると同時に「火の鳥」も再び脚光を浴びます。
加えて講談社から『手塚治虫漫画全集』が刊行
これらも追い風となり、またしても「火の鳥」が不死鳥の如く復活。

日本の漫画史の中でも
ここまで浮き沈みの激しい作品も類をみないのではないでしょうか。
幾度も幾度も掲載中断の憂き目に遭いながらも
何度も再評価され続け復活する。
かなりのレアケースだと思いますし
それだけ多くの読者を魅了し続けた証でもあります。
最後には手塚先生が亡くなる直前まで描かれ
未完ではありますが
まさに「ライフワーク」と呼ぶにふさわしい作品として
後世に語り継がれる傑作に位置する作品となりました。
手塚先生の葬儀の際にも遺影とともに掲げられたキャラクターパネルが
「鉄腕アトム」と「火の鳥」であったことからも分かるように
手塚治虫の代表作、そして多くの方が「ライフワーク」として位置づける作品となったのではないでしょうか。
日本漫画史の最も巨大で最も影響力のある手塚治虫
その代表作にしてライフーワーク「火の鳥」
全日本人必読の一冊になっておりますので
この機会に是非お手に取って読んでみて下さい。
ではでは。
