虚構に触れ、ことを思う
VTuberの発条(ぜんまい)ジョウキです。発条の読みだけでも覚えて帰ってくださいね。
普段のように分かりやすく哲学を語るのもいいですが、たまには哲学というものの最前線。あるいは臨界点について話してみましょう。
象牙の塔の天辺で語るようなことなので、幾つかの前提が必要になります。
サラッといきましょう。ここで躓いたなら、一つ一つについて考えてみるのもいいと思います。
人が思う「価値」や「意味」とは例外なく全てが虚構である
しかし人は想い、感じ、生きるものである
まるでそれが揺るぎないものであるかのように虚構を手に取る
哲学を始めましょう
人が思うことは虚構である。愛も、神聖さも、憎しみも、欲望も、その全てが。
愛憎の果てに、誰かを刃物で刺したとしましょう。そこに何か意味があるでしょうか?
結果としては、多少の細胞が破壊され、生命が停止する。もう一度問いましょう。そこに何か意味があるでしょうか?
命の価値を絶対普遍のものとして成立させられますか?
動機となった愛憎に価値はあるのでしょうか?
人間が人間であるが故に、そこに価値を設定しているだけです。
サイコロを振れば何かの目は出るでしょう。しかしそれは、ただそうであったというだけ。確率的に斜めに静止はしづらいので、どこかの面を上にして停止しただけ。
しかし人はそれに意味を与える。喜び、悲しみ、怒る。
全てがこのサイコロと同じです。人が死んだとて、それはエネルギーが分散しただけ。
しかし。しかししかし。
そう考える俺にも嗜好はある。好き嫌いも、憧れもある。
つまり虚構だと理解しながらそこに何かを思ってしまう。
そして考えるんです。コギト・エルゴ・スムではありませんが、
虚構を好むという虚構が「確かにある」のだと。
例えるならば、蜃気楼はそこに実体を持たない。しかし蜃気楼という実在を持つんです。
何も存在しないという存在がそこにある。
これを説明するには「実在」という言葉の定義に踏み込む必要があります。
「実在」という言葉に存在する複数のレイヤーを区別するとこうなります。
物理的実在(ontic reality)
観察者から独立に存在する、物質的・空間的対象。
現象的実在(phenomenal reality)
観察者の意識に現れる、知覚や体験としての存在。
概念的実在(conceptual or semantic reality)
言語・概念体系において意味を持つ対象。
これを厳密に定義すれば蜃気楼の話などは解決します。
しかしここで哲学の、未解決の古典的命題を持ち出すと、また話が変わる。
それは「水槽に浮かぶ脳」です。クトゥルフ神話などでもたまに扱いますね。
知らない方のために簡単に解説すると「わたし(あなた)が体験しているこの現実は、実は水槽の中の培養液に浮かび、電極を繋がれた脳が見ている夢なのではないか」というものです。
この例は懐疑主義という全てを疑う立場からの問いであり、そうであるとも、そうでないとも、証明には成功していません。
しかし今はその問い自体は関係ありません。
俺はこの問いを「虚構を好むという虚構」の説明に利用します。
先ほど実在という単語の中の階層を区別しました。
しかし人間はそれを厳密に理解できるのでしょうか?
「水槽に浮かぶ脳」が見る夢は虚構には違いない。
しかし嘘なのでしょうか?非実在なのでしょうか?
その脳の意識は、確かにその虚構に触れている。
「水槽に浮かぶ脳」が体験する夢は虚構に見えるかもしれませんが、そこに「嘘」という言葉は使えません。誰が主張したわけでもなく、現実との齟齬も判断不能だからです。
つまり「真偽」「実在/非実在」「現実/虚構」といった二項対立を超えるんです。
この水槽に浮かぶ脳には、「虚構であるが、機能する」「非物理であるが、体験される」といった事が起きている。
そして、ここで大切なことを一つ。
我々は皆この「水槽に浮かぶ脳」なんです。
この現実の外を観測してきた人がいないのだから、本質的には何も変わらない。
そう考えた時、虚構は虚構と呼べるのか・・・。虚構には違いない。それは間違いない。
しかし虚構を感じ取ってしまっている。好んでしまっている。虚構に触れたという感触だけは実在してしまっている。
結局のところ、人間はこの不確かで曖昧な感覚だけを頼りに存在しています。
この虚構という、検証できない形式で現れる実在に縋っている。
虚構に「触れたという感触」こそが、我々が世界と接触できる唯一の確かさだと言ってもいいでしょう。
それ自体は構わない。問題は検証不可能なままのものを実在とするのなら、論理というものが機能不全を起こすことです。
極端なことを言えば、今唐突に全人類が猫になるのかもしれない。
今までの現実が全て夢なのかもしれない。今キーボードをタイピングしているはずの腕は実際には存在しないのかもしれない。
・・・そんなわけはない。しかし検証は不可能です。
哲学とは論理的営みです。しかしその究極になると論理では進めなくなる。
これが哲学の最前線であり、同時に臨界点となる場所です。
たまには難しいことを話すのもいいですね。
こんなところまで読み進める方はいないと思いますが、理解できた方はそれ自体が才能なので大切になさってください。
では、また次回。
