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忘れもの食堂/一口だけ、思い出す

創作大賞2026 ファンタジー小説部門 応募作品

【あらすじ】

祖母の食堂跡に、夜だけ現れる「忘れもの食堂」。

そこでは、客が出された料理を一口食べると、忘れていた誰かの記憶が少しだけ戻る。けれど戻るのは、美しい思い出ばかりではない。

恥ずかしいと拒んだ卵焼き、渡せなかった唐揚げ弁当、連絡しなかった息子との半額コロッケ、出されないまま残った鯖の味噌煮。それは奇跡ではなく、忘れなければ暮らせなかった痛みだった。

惣菜チェーンで働く深町澪は、誰か一人のために料理を作ることを避けていた。だが彼女の前にも、かつて母に拒まれ、自ら流しに捨てた肉じゃがが出される。

食べてもらえなかった料理だけが、誰かの愛を覚えている。届かなかった想いを一口ずつ拾い直す現代ファンタジー。





第1章 忘れもの食堂


肉じゃがは、冷めると少しだけ正直になる。

できたての湯気に隠れていた甘さも、しょうゆの角も、じゃがいもの火の入り方も、冷めた頃にはごまかしがきかなくなる。煮崩れすぎたものは箸を入れる前に分かるし、味が染みていないものは、見た目だけでどこかよそよそしい。

深町澪は、銀色の大鍋の前で、プラスチックの小皿に肉じゃがをひと口分だけ取った。工場の照明は白く、湯気まで均一に見えた。目の前では、いくつもの鍋が同じ温度で煮えている。

じゃがいも、にんじん、玉ねぎ、牛肉。ひとつの鍋に家庭の量では考えられないほどの材料が沈み、機械のようにかき混ぜられていた。

惣菜チェーン「まいにちキッチン」のセントラルキッチン。澪はそこで、商品開発補助と味の最終調整を担当している。大げさな肩書きではない。決められたレシピ通りに作られた惣菜を、決められた味に戻す仕事だ。

濃ければ薄める。薄ければ足す。甘ければ締める。足りなければ整える。それだけだった。

澪は小皿の肉じゃがを口に入れた。甘さが少し強い。玉ねぎの溶けた甘みとは別に、砂糖の丸さが舌の手前に残る。

甘さを抑えた肉じゃがの方が、澪は苦手だった。正確には、味が苦手なのではない。その味を作った夜のことを、身体のどこかがまだ覚えている気がするからだった。

売り場に並ぶ頃にはちょうどよくなるのかもしれない。冷蔵ケースに入って、レンジで温められて、誰かの夕飯の端に置かれる頃には。

「深町さん、どう?」

隣で上司の河野が聞いた。澪は小皿を作業台に置いた。

「しょうゆ、0.3パーセント足した方がいいと思います。あと、煮込み時間はこのままで」

「さすが。深町さんの調整、いつも正確だね」

「レシピ通りです」

澪はそう答えた。河野は笑った。

「それが難しいんだよ」

澪は笑い返さなかった。代わりに、次の鍋へ向かった。

レシピ通り。その言葉は、澪にとって褒め言葉だった。誰かのために作った味ではない。誰かの好みを思い出して作った味でもない。

決められた量、決められた時間、決められた手順。そこに個人的な感情が入り込む余地はなかった。だから安全だった。

誰か一人のために味を決めることを、澪はもう信用していなかった。

好みに寄せた味ほど、拒まれた時に逃げ場がない。誰に食べられるのか分からない料理は、誰に拒まれたのかも分からない。

鍋の湯気が、澪の前髪を少し湿らせた。作業台の端で、スマートフォンが震えた。画面には、母の名前が表示されていた。

深町千佳。

澪は一度だけ画面を見て、すぐに着信を切った。着信が消えたあと、澪はなぜか、流しに落ちたじゃがいもの重さを思い出しそうになった。

鈍い音。

水で薄まっていく煮汁の匂い。

あの匂いだけは、どれだけ水を出しても、すぐには消えなかった。

そこまで浮かびかけて、澪は手袋を替えた。河野が何か言いかけたが、澪は先に言った。

「次、コロッケの方を見ます」

「あ、うん。お願い」

スマートフォンは黙った。澪は次のラインへ向かった。

その日の勤務が終わる頃には、外は雨上がりだった。五月の夜は、まだ少し肌寒い。工場を出ると、アスファルトが黒く濡れていて、街灯の光を薄く伸ばしていた。

澪は駅へ向かう道を歩きながら、コンビニの前を通り過ぎた。揚げ物の油の匂いがした。誰かが買ったフライドチキンの袋から、白い湯気が漏れていた。

澪は夕飯を食べていなかった。けれど、腹が減っているとは思わなかった。

駅へ向かう角を曲がるはずだった。けれど、足は別の道を選んだ。商店街の方だった。

理由はなかった。少なくとも、言葉にできるような理由は。

商店街は、澪が子どもの頃よりもずっと暗くなっていた。シャッターの降りた店が増え、昔は魚屋だった場所が整体院になり、その隣の文房具屋は空き店舗になっていた。古い軒先から雨水がぽたりぽたりと落ちている。

アーケードの端に、小さな食堂の跡があった。

ふかまち食堂。

正確には、もうその看板はない。看板を外した跡だけが、壁に日焼けの形として残っている。

シャッターには、祖母が亡くなったあとに母が貼った紙が、まだ残っていた。

長らくありがとうございました。

文字は少し滲んでいた。澪は、その紙を見るたびに、祖母の字ではないと思う。母の字でもない。葬儀のあと、印刷したものをただ貼っただけの、誰の手の温度も残っていない言葉だった。

ここは、澪の祖母、深町ハルの店だった。子どもの頃の澪は、学校帰りによくこの店に寄った。ランドセルをカウンターの端に置き、祖母が客に出す味噌汁の湯気を眺めていた。

祖母はいつも、忙しそうで、でも急いでいるようには見えなかった。

お腹空いてへん人ほど、なんか食べた方がええ時があるんよ。

祖母はよくそう言っていた。澪はその意味が分からなかった。今も、分かったとは言えない。

シャッターは降りているはずだった。だが、その夜、店の奥に灯りが見えた。

澪は足を止めた。最初は、向かいの街灯が反射しているのだと思った。けれど違う。

シャッターは少しだけ上がっていて、その下から橙色の光が漏れていた。換気扇の低い音もする。そして、暖簾が出ていた。

古い紺色の暖簾。見覚えのないものだった。白い文字で、こう書いてあった。

忘れもの食堂

澪はしばらく、その文字を見つめた。

ふかまち食堂ではない。だが、場所は祖母の店だった。

「・・・何、これ」

声に出しても、答える人はいなかった。澪はシャッターの隙間をくぐり、戸に手をかけた。古い引き戸は、記憶よりも軽く開いた。

中は、祖母の店に似ていた。カウンターの傷。壁の丸い時計。湯呑みを伏せた棚。奥の厨房へ続く小さな暖簾。どれも澪の記憶の中にあるものだった。

けれど、完全には同じではなかった。カウンターの椅子は一脚多い。壁にかかったメニュー札には、祖母の店にはなかった料理名が混ざっている。照明は昔よりも暗く、店の奥の戸は、知らない場所につながっているように黒かった。

厨房に、ひとりの女が立っていた。四十代くらいに見えた。けれど、もっと若くも、もっと年上にも見えた。髪を後ろでひとつにまとめ、白い割烹着を着ている。

顔立ちは穏やかだが、目だけが妙に静かだった。女は澪を見ると、驚いた様子もなく言った。

「いらっしゃい」

澪は戸口に立ったまま、聞いた。

「ここ、何なんですか」

女はすぐには答えなかった。代わりに、カウンターの端に湯呑みを置き、水を注いだ。

「濡れたでしょう」

「答えてください」

「水、飲める?」

「いりません」

灯子は、湯呑みに添えた指を離した。澪は店内を見回した。

換気扇の音。ガス台の火。出汁の匂い。どれも本物だった。

夢にしては、匂いがはっきりしすぎている。

「ここ、祖母の店だったんです」

「知ってる」

澪は息を止めた。

「知ってるって、どういう意味ですか」

「ハルさんの店でしょう」

祖母の名前が出た瞬間、澪の指先が冷えた。

「あなた、誰ですか」

女はまな板の上に布巾を置いた。

「雨宮灯子」

「祖母の知り合いですか」

「そうとも言えるし、そうじゃないとも言える」

「ふざけないでください」

澪の声が、自分で思ったより硬くなった。灯子は怒らなかった。ただ、水の入った湯呑みを少しだけ澪の方へ押した。

「忘れものを取りに来る人が、たまに迷うの」

「忘れもの?」

「そう」

「私は何も忘れてません」

灯子は澪を見た。その目が、ほんの少しだけ細くなった。

「そう言える人ほど、よく来る」

澪が言い返そうとした時、戸が開いた。

ひとりの男が立っていた。五十代くらいだろうか。スーツの肩が雨で濡れている。髪には白いものが混じり、顔には疲れが浮いていた。けれど、酔っているわけではなさそうだった。

男は店内を見て、困ったように笑った。

「すみません」

灯子は、男を見た。

「いらっしゃい」

「いや、その・・・腹が減ってるわけじゃないんですけど」

澪は男を見た。食堂に来て、腹が減っていない。おかしな客だった。

男は自分でも戸惑っているようだった。

「帰ろうと思ったんです。でも、なんか、ここに入らないといけない気がして」

「お席へどうぞ」

灯子は自然に言った。男はカウンターの真ん中あたりに座った。澪はまだ戸口に立っていたが、灯子が振り返って言った。

「卵、二つ取って」

「は?」

「そこ。冷蔵庫の上段」

「なんで私が」

「手が空いてるから」

言い方が、祖母に似ていた。澪は思わず厨房へ入っていた。自分でも、なぜ従ったのか分からなかった。

冷蔵庫を開けると、確かに卵があった。白い卵が並んでいる。澪は二つ取って、灯子に渡した。

灯子は卵を割り、小さなボウルに落とした。箸で溶き、砂糖を入れる。澪は眉をひそめた。

「入れすぎです」

「この人には、このくらい」

「まだ注文も聞いてないでしょう」

「聞かなくていいの」

灯子は卵液を四角い玉子焼き器に流した。油の匂いが立つ。卵がふくらみ、端が少し焦げた。

「焦げてます」

「焦げてるから、いいの」

澪は黙った。

料理は、焦げない方がいい。少なくとも、売り物ならそうだ。焦げは失敗だ。規格から外れた味だ。

けれど、灯子は焦げた端をそのまま巻き込んだ。

弁当箱は、古いアルミ製だった。澪の記憶の底にあるような、角の丸い弁当箱。灯子はそこに冷めた白ごはんを詰め、焦げた卵焼きを入れ、たくあんを二切れ添えた。

小さな梅干しと、煮豆も少し。

男が困った顔をした。

「すみません。これ、頼んでません」

灯子は弁当箱を男の前に置いた。

「そうですね」

「そうですねって」

「でも、出ました」

男は笑うべきか迷っているようだった。

「変な店ですね」

「よく言われます」

澪はカウンターの内側から、その弁当を見ていた。美味しそう、というより、古かった。どこかの台所から、そのまま時間ごと持ってきたような弁当だった。

男はしばらく箸を持たなかった。けれど、灯子は何も言わない。澪も、なぜか何も言えなかった。

やがて男は、焦げた卵焼きをひとつつまんだ。口へ運ぶ。

その瞬間、店の中の音が消えたように感じた。

換気扇の低い音も、外の雨だれも、鍋の小さな泡も、全部遠くなった。

男の箸が止まった。口元が、わずかに震えた。男は、誰かを探すように店内を見回した。

けれど、ここにいるのは澪と灯子だけだった。

それから、男は小さな声で言った。

「・・・由紀」

その名前は、湯気よりも薄く、けれど確かに店の中へ落ちた。

男は自分の口を押さえた。

「え・・・」

涙が出ていた。男自身が、一番驚いているようだった。

「誰だ……誰だっけ。由紀って、誰だ」

灯子は黙って水を置いた。男は水に手を伸ばさなかった。

「なんで、俺、泣いてるんだ」

澪は動けなかった。男は焦げた卵焼きを見つめた。

「弁当・・・」

その声は、もう澪たちに向けられていなかった。

「母親が入院してて。朝、誰もいなくて。姉ちゃんが、作ってくれて……」

男は眉間に皺を寄せた。

「姉ちゃん?」

その言葉を、自分で確かめるように繰り返す。

「由紀。姉ちゃん、由紀だ」

ぽたり、と涙が弁当箱の縁に落ちた。

男は、困ったように笑おうとした。

「でも、俺、なんて言ったんだっけ」

灯子は何も言わない。男は焦げた卵焼きを見つめ続けた。

「もう作らなくていいって、言ったんだ」

澪の手が止まった。弁当箱の蓋を持っていた指に、力が入る。

「こんなの恥ずかしいって。友達にからかわれて。俺、言ったんだ。もう、作らなくていいって」

澪の耳の奥で、別の声がした。

そんなもの、作らなくてよかったのに。

同時に、どこかで鈍い音がした気がした。

流しの底に、何か柔らかいものが落ちる音。

澪はそれが何だったのかを考える前に、弁当箱の蓋を握り直した。誰の声かは、考えたくなかった。

男は声を詰まらせた。

「それから、作ってくれなくなった。いや、違う。俺が、持っていかなかったんだ。姉ちゃん、たぶん、次の日も作ってた。でも俺……」

言葉はそこで崩れた。

澪は、男を見ていられなくなった。

灯子が静かに言った。

「二口目からは、ただのお弁当です」

男は顔を上げた。

「え?」

思い出すのは、一口だけ

「一口だけ?」

「はい」

男は弁当箱を見た。もう一度、卵焼きに箸を伸ばす。二口目を食べる。今度は、何も起きなかった。

男は少し笑った。

「本当だ。普通だ」

それから、弁当を食べ続けた。泣きながら、時々笑いながら、最後まで食べた。白ごはんも、たくあんも、梅干しも、煮豆も。

食べ終える頃には、涙は止まっていたが、顔は疲れていた。

「由紀……佐伯由紀」

男はスマートフォンを取り出し、連絡先を開いた。何度も画面を滑らせる。けれど、その名前は見つからないようだった。

「結婚して、名字変わったのかな」

誰に言うでもなく、そうつぶやく。

灯子は言った。

「思い出したものを、持って帰れるとは限りません」

男は顔を上げた。

「どういう意味ですか」

「店を出たあと、何もしなければ、また薄くなることがあります」

「また、忘れるってことですか」

「はい」

男はスマートフォンを握ったまま黙った。しばらくして、小さくうなずいた。

「探してみます」

その声に、強い決意があったわけではない。ただ、今はそう言うしかない、という声だった。

澪は、その声を聞いて、なぜか少しだけ分かった。この人は、たぶん本当に探すかもしれない。けれど、探さないまま明日の朝を迎えるかもしれない。

思い出したことと、動けることは、同じではないのだと思った。

男は弁当箱に向かって頭を下げた。

「ごちそうさまでした」

代金を払おうとしたが、灯子は首を振った。

「今日は、もうもらっています」

「え?」

「忘れていた分を」

男は意味が分からないという顔をした。けれど、それ以上は聞かなかった。戸口で一度振り返り、暖簾をくぐって出ていった。

戸が閉まると、店は急に静かになった。

澪は弁当箱を下げた。洗い場へ持っていく前に、弁当箱の隅に残った卵焼きの小さな欠片が目に入った。作業の癖で、澪はそれを箸の先で取り、舌に乗せた。

甘い。

少し焦げている。

形は崩れている。

けれど、端の焼き方が、祖母のものに似ていた。完全に同じではない。でも、卵を巻く時の迷いのなさ、焦げを隠さないところ、白ごはんに少しだけ甘さを移すところ。

澪は、喉が詰まった。

「どうして」

自分でも、声が低くなったのが分かった。

「どうして、おばあちゃんの味を知ってるんですか」

灯子は布巾でカウンターを拭いていた。

「似てた?」

「答えてください」

「ハルさんは、よく焦がしてた」

「祖母の知り合いなんですか」

「さっきも聞かれた」

「ちゃんと答えてません」

灯子は布巾をたたんだ。

「知ってるよ。少なくとも、あなたよりは少しだけ」

澪の胸の中で、何かがざらついた。

「私より?」

灯子は、たたんだ布巾を棚の前に置いた。その沈黙が、肯定よりもはっきりしていた。

「ふざけないで」

澪は弁当箱を流しに置いた。

「あの人、何を思い出したんですか」

「自分で忘れていた人」

「料理で、記憶が戻るってことですか」

「一口だけ」

「そんなの、ありえない」

「ありえない方がよかった?」

澪は答えられなかった。

灯子は澪の前に、さっきの湯呑みをもう一度置いた。水面は揺れていない。

忘れていたんじゃないよ。忘れないと、暮らせなかっただけ

澪はその言葉を聞きたくなかった。

「私は、食べません」

口から出た声は、思ったよりはっきりしていた。

「何を出されても、食べません。私には、思い出したいものなんてないので」

灯子は澪を見た。怒りも、驚きもなかった。ただ、少しだけ寂しそうに見えた。

灯子は湯呑みを置いたまま、指先だけを離した。

「だから、まだ出せない」

まだ、という言葉だけが、冷めないまま澪の前に置かれていた。



第2章 出てこない料理


翌日の昼、ふかまち食堂の跡は閉まっていた。

澪は、シャッターの前に立っていた。昨夜と同じ場所。同じ貼り紙。同じ看板の跡。

暖簾はない。橙色の灯りもない。換気扇の音もしない。

ただの、閉店した食堂だった。

長らくありがとうございました。

貼り紙の端が、風で少しめくれていた。澪は息を吐いた。

夢だったのかもしれない。そう思えたら、どれだけ楽だっただろう。けれど、夢にしては、卵焼きの味が残っていた。

舌の奥に、焦げた甘さがまだいる。

男が呼んだ「由紀」という名前も、灯子の「まだ出せない」という声も、夢のようには薄れていない。

澪はスマートフォンを取り出した。昨夜、帰宅後に検索した履歴が残っている。

忘れもの食堂。

佐伯由紀。

記憶が戻る料理。

深町ハル 雨宮灯子。

どれも、まともな答えにはたどり着かなかった。澪はスマートフォンをしまった。

セントラルキッチンの午後勤務まで、まだ少し時間があった。なぜここへ来たのか、自分でも分からなかった。ただ確かめたかった。

あの店が本当にあったのか。あの女が本当にいたのか。自分が、祖母の店で何を見たのか。

何もない。

なら、それでいい。

澪は背を向けた。その時、スマートフォンが震えた。

画面に母の名前が表示された。

深町千佳。

澪は親指を画面の上に置いた。切るのは簡単だった。昨日もそうした。その前も、その前も。

だが、なぜか指が動かなかった。呼び出し音は鳴り続けている。商店街の昼の光の中で、母の名前だけがやけに濃く見えた。

澪は結局、出なかった。切りもしなかった。着信が途切れるまで、ただ画面を見ていた。

その日の仕事は、いつもより少し遅く終わった。工場では、季節限定の枝豆コロッケの試作が続いていた。澪は味を見て、塩を少し足すように言った。

レシピの表に数字を書き込み、確認印を押した。帰る頃には、また夜になっていた。

澪は駅とは反対方向へ歩いた。

行かない理由はいくつもあった。あの店はおかしい。あの女は怪しい。祖母の店に勝手に入り込んでいるなら、警察に相談すべきだ。昨日見たことは、疲れによる錯覚かもしれない。自分には関係ない。

けれど、足は商店街へ向かった。

ふかまち食堂の跡には、灯りがついていた。暖簾も出ていた。

忘れもの食堂

澪は、その文字を見て小さく舌打ちした。

戸を開けると、灯子がカウンターの内側で大根を切っていた。

「いらっしゃい」

「昨日のことを聞きに来ただけです」

灯子は包丁を止めず、少しだけ視線を上げた。

「営業してるんですか」

「してる時は」

「してない時は?」

「してない」

澪は眉をひそめた。

「答える気ないですよね」

「答えが欲しい人には、料理が出ることが多いよ」

「私は料理を食べに来たんじゃありません」

灯子は切った大根を重ね、まな板の端へ寄せた。包丁の音は静かだった。祖母よりも少し遅い。だが、迷いはなかった。

澪はカウンターの端に座った。

「昨日の男の人、どうなったんですか」

「さあ」

「さあ?」

「ここを出た後のことは、本人のものだから」

「無責任ですね」

灯子は手を止めなかった。

「そうだね」

澪は言葉に詰まった。否定しないのか、と思った。

灯子は切った大根を小鍋に入れた。

「手伝う?」

「手伝いません」

「じゃあ、そこにいて」

「帰れとは言わないんですね」

「帰りたい人は帰るから」

澪は立ち上がりかけた。

その時、戸が開いた。

若い男が入ってきた。高校生くらいだろうか。制服の上にパーカーを着て、髪が濡れている。部活帰りのようだった。

「すみません、ここ……」

男の子は店内を見回した。

「コンビニ、こっちでしたっけ」

澪は思わず言った。

「違います」

灯子は言った。

「座って」

「え、いや、俺、別に」

「麦茶でいい?」

「え?」

灯子は冷蔵庫から麦茶を出し、小さな皿に塩むすびをひとつ乗せた。澪は見ていた。

「また注文を聞かないんですか」

「聞いたよ。麦茶でいいかって」

「料理の話です」

「これが出たから」

灯子は、塩むすびと麦茶を少年の前に置いた。

少年は戸惑っていたが、喉が渇いていたのだろう。麦茶を一口飲んだ。

その瞬間、少年の背筋が少し伸びた。

「あ」

少年は麦茶のグラスを見た。

「これ……」

灯子は何も言わない。少年は塩むすびを見つめ、そっと手に取った。

ひと口かじる。

目が大きく開く。

「先輩」

少年はそう言った。澪は眉を寄せた。

「先輩?」

少年は自分でも驚いたように笑った。

「中学の時の、陸上部の。夏、めっちゃ暑くて。俺、倒れそうになって。先輩が、塩むすびくれて」

少年の目に、涙はなかった。ただ、忘れていた引き出しが開いたような顔をしていた。

「名前、なんだっけ。あの人。えっと……」

少年は額を押さえた。

「だめだ。思い出せそうで、そこまでは出てこない」

灯子は言った。

「一口だけだから」

「え?」

「全部は戻らない」

少年は塩むすびをもう一口食べた。今度は、何も起きなかったようだった。

「普通にうまい」

少年は少し照れたように笑い、そのまま塩むすびを食べ切った。麦茶も飲み干した。

「なんか、変な店ですね」

「よく言われます」

少年は店を出る前に、スマートフォンを取り出した。

「中学の陸上部のグループ、まだ残ってるかな」

そうつぶやきながら、暖簾をくぐって出ていった。

澪はその背中を見た。

「今のも、記憶が戻ったんですか」

「一口だけ」

「一口だけって、どういう仕組みなんですか」

「仕組みを知ったら、食べられる?」

「私は食べません」

灯子は空になったグラスを下げた。

その後も、客は何人か来た。

焼きおにぎりを一口食べて、亡くなった夫の顔ではなく、濡れた合羽の匂いだけを思い出した年配の女性。

クリームパンを半分かじって、転校していった友達の名前ではなく、その子の指に貼ってあったパンダ柄の絆創膏だけを思い出した大学生。

誰も、全部を思い出すわけではなかった。

泣く人もいた。笑う人もいた。何も言わずに食べ終える人もいた。けれど、一口目のあと、みんな少しだけ顔を変えた。

まるで、今まで持っていなかった荷物を、急に手渡されたみたいに。

その荷物を、嬉しそうに抱える人ばかりではなかった。皿を空にしても、かえって背中が重くなったように見える人もいた。

澪はカウンターの内側で、それを見ていた。いつの間にか、皿を下げ、水を出し、箸を並べていた。手伝うつもりなどなかったのに、体が勝手に動いた。

祖母の店で覚えた動きだった。

客が途切れた頃、澪は灯子に言った。

「料理は、勝手に決まるんですか」

「だいたいは」

「だいたい?」

「たまに、出ない」

灯子は洗った湯呑みを伏せた。

「どういう時ですか」

本人が、まだ見ないって決めてる時

澪は黙った。灯子は棚から小さな白い皿を一枚出した。

何も盛られていない皿だった。

それを、澪の前に置く。

「何ですか、これ」

「小皿」

「見れば分かります」

「なら、分かってるね」

「料理は?」

灯子は皿から手を離した。

「出ない」

何も出されないことに、安心するはずだった。思い出したいものなんてない。食べたいものなんてない。そう言い続けてきたのだから、空っぽの皿は、むしろ望んだ結果のはずだった。

けれど、澪は息がしにくくなった。

皿の上には、何もない。

匂いも、湯気も、温度もない。

それなのに、目を離せなかった。

客たちには、たとえ欠片でも戻ってくるものがあった。名前の一部、匂い、絆創膏の柄、誰かの手。

澪の前には、何もなかった。

自分には思い出すものすら残っていない、と言われているようだった。

何も戻らない方がましだと思いたかった。戻ってくるものがなければ、捨てたものを見なくて済む。

違う、と澪は思った。

残っていないのではない。

残さないようにしてきただけだ。

そう思いかけて、すぐに打ち消した。

澪は白い皿を見た。つるりとした、何の模様もない皿だった。祖母の店にはなかった皿だ。

真ん中には何もない。

空っぽだった。

「私に出す料理はないってことですか」

「まだ、ない」

「また、まだですか」

灯子は、返事の代わりに濡れた手を布巾で拭いた。

「私は忘れものなんてしてません」

客たちは一口で、忘れていた誰かの方へ少しだけ顔を向ける。そのたびに、澪だけが空の皿の前に残されていく気がした。

灯子は、澪の前の空の小皿を見た。

「忘れている人ほど、そう言う」

澪は拳を握った。

「そうやって、何でも分かったように言うの、やめてください」

「分かってないよ」

灯子は静かに言った。

「分かってたら、ここにはいない」

その声には、ほんの少しだけ、硬いものが混ざっていた。澪は灯子を見た。灯子はもう、いつもの穏やかな顔に戻っていた。

厨房の奥で、冷蔵庫の低い音がした。

澪はふと、流しの横に置かれた発泡スチロールの箱に気づいた。魚屋の名前が印字されている。

「魚、仕入れてるんですか」

灯子は箱の方を見ずに、濡れた布巾をしぼった。

「何の魚ですか」

「鯖」

灯子の手が、ほんの少しだけ止まった。布巾から落ちる水の音が、一拍遅れた。

ただ、鯖という一音だけが、厨房の中で少し重くなった。

澪は箱を見た。

「出すんですか」

灯子はすぐには答えなかった。

しばらくして、短く言った。

「まだ」

また、まだ。

澪は嫌な感じがした。

店の中には、出される料理と、出されない料理がある。思い出す人と、思い出さない人がいる。そして澪の前には、空の小皿だけが置かれている。

澪は立ち上がった。

「帰ります」

灯子は皿を下げなかった。

「もう来ません」

灯子は、ただ小皿の縁に指を添えていた。

「止めないんですね」

「帰りたい人は帰るから」

澪は暖簾をくぐった。

外の商店街は、昨日と同じように暗かった。雨は降っていなかったが、空気は湿っていた。

澪は数歩歩いてから、振り返った。暖簾の奥に、灯子の姿は見えなかった。

ただ、店の灯りだけがあった。

スマートフォンが震えた。母からではなかった。職場の連絡アプリだった。

明日の仕込み予定。

肉じゃがの出荷数変更。

澪は画面を見て、ため息をついた。

明日もまた、誰の顔も見えない肉じゃがを作る。

それでいい。

そう思おうとした。

けれど、さっき見た白い小皿が、頭から離れなかった。

何も盛られていない皿。

自分の前にだけ置かれた、空っぽの皿。

澪はスマートフォンをしまい、駅へ向かって歩き出した。

背中の方で、換気扇の音が小さく鳴っていた。



第3章 母の卵焼き


翌朝、澪は肉じゃがの匂いで目を覚ました。

正確には、匂いではなかった。夢の中で、鍋が鳴っていた。小さく、ことことと。

祖母の台所の音だった。火にかけた鍋の蓋が、蒸気に押されてかすかに揺れる音。じゃがいもの角が丸くなっていく音。玉ねぎが透明になって、牛肉の脂が煮汁に溶けていく音。

夢の中で、誰かが言った。

そんなもの、作らなくてよかったのに。

澪は目を開けた。部屋は薄暗かった。カーテンの隙間から、朝の光が細く入っている。スマートフォンの画面には、午前六時二十二分と表示されていた。

着信履歴が一件。

母からだった。

昨夜、帰宅してから一度、母から電話が来ていたらしい。澪は気づかなかった。あるいは、気づかないふりをしたのかもしれない。

澪は画面を消した。布団から出ると、台所へ向かった。一人暮らしの部屋の台所は狭い。コンロは一口しかなく、流しの横には昨日洗ったコップが伏せてある。

冷蔵庫を開けたが、食べたいものはなかった。

卵が二つあった。

澪はしばらくそれを見た。昨日の忘れもの食堂で、灯子が卵を割った時の手元を思い出した。

砂糖を入れすぎた卵液。

少し焦げた端。

古いアルミ弁当箱。

男の口から落ちた「由紀」という名前。

もう作らなくていいって、言ったんだ。

澪は冷蔵庫を閉めた。

朝食は抜いた。

その日の仕事は、淡々と進んだ。セントラルキッチンでは、いつも通り大量の惣菜が流れていく。金属の台、白い照明、透明な手袋、アルコールの匂い。

誰かの台所とは違う。

ここには個人的な記憶が入り込む隙間がない。それが、澪にはありがたかった。

「深町さん、今日、少し顔色悪くない?」

河野が言った。

「大丈夫です」

「朝ごはん食べた?」

「食べました」

嘘だった。

河野は「ならいいけど」と言って、在庫表をめくった。

澪は卵焼きの試作ラインに入った。弁当用の卵焼き。甘さ控えめ。形は均一。焼き色は薄く、焦げは不可。

機械で焼かれた卵焼きは、きれいだった。どれも同じ厚さで、同じ色で、同じように切り分けられていく。

焦げはない。端のほつれもない。

誰かにからかわれることもないような卵焼き。

澪は一切れを味見した。甘さは正しい。塩気も正しい。食感も悪くない。

でも、何も思い出さなかった。

そのことに、少しだけ安心した。

夜、澪はまた商店街へ向かった。行かないと決めていた。もう来ないと、昨夜言ったばかりだった。

それなのに、駅へ向かう道を曲がれなかった。

ふかまち食堂の跡には、また灯りがついていた。暖簾が出ている。

忘れもの食堂。

澪は戸の前で立ち止まった。

帰ればいい。このまま、駅へ行けばいい。明日も仕事がある。母からの着信も、店も、空の小皿も、全部見なかったことにすればいい。

そう思っているのに、手は戸にかかっていた。

中に入ると、灯子はカウンターの中で卵を割っていた。

「いらっしゃい」

「確認しに来ただけです」

「今日は何を?」

「昨日のことです。あの空の皿」

「まだ気になるんだ」

「気になりますよ。あんなものを置かれたら」

灯子は卵を溶きながら、少しだけ笑った。

「食べるものがない皿ほど、目につくからね」

「そういう言い方、やめてください」

「じゃあ、座る?」

「座りません」

澪がそう言った時、戸が開いた。

入ってきたのは、明るい色のコートを着た女性だった。三十代半ばくらい。髪はきれいに巻かれていて、化粧も整っている。けれど、目の下に薄い疲れがあった。

女は店内を見回し、首をかしげた。

「あれ、ここ、こんなお店でしたっけ」

灯子は答えた。

「いらっしゃい」

「すみません。私、たぶん道を間違えてますよね。駅ってこっちじゃないですよね」

「座っていきますか」

「え、いや、私、お腹は別に」

澪は昨日から何度も聞いた言葉に、少しだけ眉を動かした。

腹が減っていない客。

灯子は女をカウンターへ案内した。

「宮下早苗さん」

女が驚いた顔をした。

「え、なんで名前」

「ここに来る人は、だいたい名前を置いてくるので」

「怖いこと言いますね」

早苗は笑った。笑い方が慣れている人だった。相手を困らせないように、先に明るくする笑い方。

「本当に大丈夫です。私、こういうちょっと不思議なお店とか、苦手じゃないんですけど、今日はあんまり時間なくて」

「卵焼き、食べられますか」

灯子が聞いた。早苗は一瞬だけ黙った。

「卵焼き?」

「はい」

「・・・いや、あんまり好きじゃないです」

灯子は、すでに卵を溶いていた。早苗は苦笑した。

「聞いた意味あります?」

「あります」

澪はカウンターの内側から灯子を見た。

「嫌いって言ってますけど」

灯子は卵液の表面を箸で切った。

「出すんですか」

「出るから」

灯子は砂糖を入れた。澪は思わず言った。

「また入れすぎです」

灯子は卵液を見た。

「今日は、もっと入れる」

「甘すぎます」

「甘すぎるんだよ」

卵液が玉子焼き器に流される。

じゅっと音がした。

灯子は器用に卵を巻いたが、巻き方はわざと少し乱しているように見えた。端が少し崩れ、表面に淡い焦げ目がついた。

澪は気になった。

「形、崩れてます」

きれいなものだけが、残るわけじゃないから

灯子は卵焼きを皿に置き、豆腐とわかめの薄い味噌汁を添えた。早苗は困ったように笑った。

「本当に出てきた」

「どうぞ」

「これ、私、頼んでないです」

「はい」

「しかも、卵焼き」

早苗は箸を持ったまま、なかなか食べなかった。澪は、その横顔を見ていた。

明るく話しているのに、指先だけが少し固い。卵焼きを嫌いだと言った時よりも、出された卵焼きを前にしている今の方が、ずっと怖がっているように見えた。

「私の母、料理が下手だったんです」

早苗は突然言った。灯子は何も返さない。ただ、卵を巻こうとしていた箸先が、一度だけ止まった。

「いや、本当に下手で。味噌汁は薄いし、卵焼きは甘すぎるし、魚は焦がすし。お弁当も茶色くて。友達のお母さんが作るキャラ弁とか、すごく羨ましかったんですよ」

早苗は笑った。

「だから、卵焼きって言われると、ちょっと身構えちゃうんです」

澪は口を挟まなかった。

早苗は箸で卵焼きを切った。切り口から、湯気がほんの少し出た。

それを口に入れる。

瞬間、早苗の笑顔が消えた。

目だけが、遠くを見るように止まる。

箸が宙で動かなくなった。

「・・・遠足」

早苗は言った。声が急に幼くなったように聞こえた。

「小三の、遠足の日」

灯子が水を置いた。早苗は水を見なかった。

「朝、母が台所で卵焼き作ってて。いつもより早く起きてて。台所に、料理本が開いてあった」

早苗は卵焼きの断面を見つめている。

「私、知らないふりした。だって、うちのお弁当、恥ずかしかったから」

澪は、洗い場の前で動けなくなった。

早苗は続けた。

「友達のお弁当、すごくきれいだったんです。うさぎのりんごとか、花の形のにんじんとか。私のお弁当は、卵焼きが崩れてて、焦げてて、甘くて。みんなに見られるの嫌で」

早苗は笑おうとした。けれど、声が震えた。

「帰ってから、言ったんです」

箸の先が、皿に当たって小さく鳴った。

「お母さんの卵焼き、恥ずかしいって」

澪は、その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がわずかに冷えた。

早苗は片手で口元を押さえた。

「それから、母は遠足の日だけ、買ったパンを持たせるようになって。私、それが楽で。よかったって思ってた」

店の外を、自転車が通り過ぎる音がした。

「でも、料理本……」

早苗は目を伏せた。

「思い出しました。あの日、台所にあった料理本。卵焼きのページに、付箋が貼ってあった。母、練習してたんだ

涙が、ぽろりと落ちた。

それでも早苗は、無理に明るく言った。

「遅いですよね。もう亡くなってるのに」

澪の指先が、無意識に布巾を握った。

早苗は卵焼きをもう一口食べた。二口目には、何も起きない。それでも、早苗は食べた。

「甘すぎる」

早苗は泣きながら笑った。

「ほんとに、甘すぎる」

灯子は言った。

「嫌いでしたか」

「嫌いでした」

早苗ははっきり言った。

それから、少し間を置いて、続けた。

「でも、嫌いだったことまで、忘れたくはなかったです」

澪はその言葉に、顔を上げた。

嫌いだったことまで、忘れたくない。

そんな言い方があるのかと思った。

早苗は味噌汁を飲んだ。

「薄い」

また笑った。

「薄いなあ。ほんと、薄い」

けれど、器を置く時の手つきは、ひどく優しかった。

食べ終えると、早苗はしばらく黙っていた。

「母の仏壇、ずっと実家にあるんです。妹が見てくれてて。私、あんまり行ってなくて」

灯子はうなずいた。

「行きますか」

「・・・卵、買って帰ります」

早苗はそう言って、涙を拭いた。言ってから、早苗は少しだけ困った顔をした。

その卵を割れるのか、火をつけられるのか、皿に置けるのか。

自分でも、まだ分かっていないようだった。

「同じ味は、たぶん作れないけど」

「同じじゃなくても」

灯子は言った。

「置くことはできます」

早苗は小さくうなずいた。

店を出る時、彼女は澪を見た。

「すみません、なんか、変なところ見せちゃって」

澪は首を振った。

「いえ」

それ以上は言えなかった。

早苗が出ていったあと、店の中には甘い卵焼きの匂いが残った。

卵を買って帰る、と言えた早苗のことが、澪は少しだけ腹立たしかった。思い出した人が、すぐに何かを始められるとは限らない。それなのに、始められる人もいる。

澪は皿を下げた。皿には、卵焼きの端が少しだけ残っていた。

崩れた切れ端。

澪は捨てようとして、手を止めた。

「食べる?」

灯子が聞いた。

「食べません」

灯子は皿の端を見て、それ以上は何も言わなかった。

「・・・あの人は、拒んだ側ですよね」

「そうだね」

澪は流しに皿を置いた。

「拒まれた方は、その日をずっと覚えてるんです」

灯子は澪を見た。

「拒んだ方も、覚えてることがあるよ」

「あとから?」

「うん」

「あとから泣けばいいんですか」

澪の声は、自分でも嫌になるほど硬かった。灯子は、すぐに答えなかった。

「あとからしか、泣けない人もいる」

澪は何も言えなかった。

母の顔が、一瞬浮かんだ。

葬儀の黒い服。

乾いた目。

何も食べない横顔。

澪はその記憶をすぐに閉じた。

スマートフォンが震えた。カウンターの端に置いていた画面に、母の名前が表示されている。

深町千佳。

澪は動かなかった。切ろうと思った。いつものように、指先ひとつで終わらせればいい。

けれど、早苗の「甘すぎる」という声が、まだ店の中に残っていた。

着信音が鳴り続ける。灯子は何も言わない。

澪は画面を見つめた。

母の名前が消えるまで、ただ見ていた。

着信が途切れたあとも、澪はしばらくスマートフォンから目を離せなかった。

「出ないんだね」

灯子が言った。

「出る理由がありません」

灯子は、洗った箸を布巾で拭いた。

「今さら、何を話せばいいんですか」

灯子は、箸先に残った水気を丁寧に拭き取った。

「それは、出てから困ってもいいんじゃない」

澪は小さく息を吐いた。

「簡単に言いますね」

「簡単じゃないよ」

灯子はそう言った。

「だから、みんな忘れる」

澪は、空になった卵焼きの皿を見た。

甘すぎる卵焼き。

薄い味噌汁。

恥ずかしいと言われた弁当。

料理本の付箋。

自分には関係ない。そう思いたかった。

けれど、店を出たあとも、澪の舌の奥には、食べてもいない甘い卵焼きの味が残っているようだった。



第4章 渡せなかった弁当


忘れもの食堂に通っているわけではない。

澪は自分にそう言い聞かせていた。ただ、確かめているだけだ。

あの店がいつ現れるのか。灯子という女が何者なのか。客たちは本当に記憶を取り戻しているのか。

調査。確認。観察。

そういう言葉を使えば、少しは自分を納得させられた。

けれど、三日目の夜、澪が商店街の角を曲がる頃には、店の灯りを探している自分に気づいていた。

暖簾は出ていた。

忘れもの食堂。

店に入ると、灯子はいなり寿司の油揚げを煮ていた。甘辛い匂いが店内に広がっている。

「今日はそれが出るんですか」

澪が聞くと、灯子は首を横に振った。

「たぶん、違う」

「たぶん?」

「出るまで分からない時もある」

「適当ですね」

「適当な方が、覚えてることもあるから」

澪はもう反論しなかった。

カウンターの端に、あの白い小皿が置かれていた。何も盛られていない。澪の席の前にだけ、いつも通り。

「これ、片づけてください」

「邪魔?」

「目障りです」

「じゃあ、置いておく」

澪は灯子を睨んだ。灯子は気にせず、油揚げを裏返している。

その時、戸が開いた。

背の高い男が入ってきた。作業着に近いジャンパーを着ている。二十代の終わりくらい。日焼けした手に、細かい傷がいくつもあった。

配送業か、現場仕事か。体は大きいのに、店に入る時の動きは妙に遠慮がちだった。

「すみません」

男は戸口で止まった。

「ここ、まだやってますか」

「やってます」

灯子が答えた。

「いや、なんか、表の通りから見えて。飯屋かなと思って」

「お腹は?」

「減ってるような、そうでもないような」

灯子はうなずいた。

「座ってください」

男はカウンターの端に座った。澪の白い小皿から少し離れた席だった。

「名前、聞いてもいいですか」

灯子が言った。

「野々村です。野々村拓海」

「拓海さん」

「はい」

「唐揚げ、食べられますか」

拓海は少し驚いた顔をした。

「食べられますけど」

「よかった」

灯子は冷蔵庫から鶏肉を取り出した。澪は思わず言った。

「今から揚げるんですか」

「うん」

「時間かかりますよ」

「待つ人だから」

拓海が苦笑した。

「俺、待つ人なんですか」

「たぶん」

灯子は鶏肉に下味をつけ始めた。しょうゆ、酒、しょうが、少しのにんにく。

澪は手つきを見ていた。祖母の唐揚げとは違う。祖母はもう少し酒を多くした。味が丸くなるからと言っていた。

油が温まるまで、拓海は店内をぼんやり見ていた。

「変な店ですね」

「よく言われます」

「前、ここって食堂でしたよね。ふかまち食堂」

澪は拓海を見た。

「知ってるんですか」

「子どもの頃、何回か。部活帰りに先輩に連れてこられて。定食が安くて」

「そうですか」

澪の声は、少しだけ硬くなった。

自分の知らない祖母の店を、誰かが知っている。

そのことに、まだ慣れない。

唐揚げが油に入る音がした。

じゅわっと、店の空気が変わる。

衣が色づき、しょうがの匂いが立つ。

灯子は揚げた唐揚げを油切りに置き、少しだけ冷ました。

「揚げたてじゃないんですか」

澪が聞いた。

「今日は、冷める方がいい」

「わざわざ?」

「わざわざ」

灯子は唐揚げを弁当箱に詰めた。白ごはん。しんなりしたレタス。ミニトマト。少し端に寄った唐揚げ。

蓋の裏に水滴がつきそうな、詰め方だった。

澪は、思わずレタスの向きを直しかけた。弁当なら、もう少し水気を切った方がいい。唐揚げは端に寄せず、隙間を埋めるように詰めた方が見栄えがする。ミニトマトも、そこではない。

手が動きかけて、止まった。

きれいに詰め直したら、これはもう、この人の弁当ではなくなる気がした。

冷めて、しんなりして、少し端に寄っているからこそ、残っているものがある。

澪は、手を引っ込めた。

澪はその弁当を見て、胸の奥が少しざわついた。出来立ての料理を、わざわざ冷めたものとして出す。それは、どこか失敗の形をしていた。

灯子は弁当箱を拓海の前に置いた。拓海は困ったように笑った。

「弁当?」

「はい」

「店で弁当食うんですか」

「今日は」

「面白いですね」

拓海は箸を取った。唐揚げをひとつ、口に入れる。

その瞬間、拓海の表情が止まった。

目を閉じる。

眉間に皺が寄る。

けれど、泣くわけではない。

彼は、しばらく唐揚げを噛んでいた。飲み込んでから、小さく言った。

「体育館の裏」

澪は手を止めた。拓海は弁当箱を見つめたまま続けた。

「高校の時。バスケ部で。マネージャーが怪我して、しばらく松葉杖で。昼、購買まで行けないって言ってて」

灯子は水を置いた。拓海はそれに気づかない。

「俺、料理なんかしたことなかったのに。朝、唐揚げ作ったんです。母親が仕事行ったあとに。油、怖くて。焦がして。レタスもしなしなで」

彼は少し笑った。

「それを、持っていった」

澪は拓海の横顔を見ていた。

「渡したんですか」

拓海は首を横に振った。

「渡せませんでした」

その声は、思ったより軽かった。軽く言うことで、重さを逃がしているような声だった。

「体育館の裏で渡そうと思ってたら、彼女、別の男子から差し入れもらって笑ってて。俺、そのまま帰りました」

「帰った?」

「はい」

「弁当は?」

「夜中に食べました。一人で」

拓海は弁当箱の唐揚げを見ている。

「冷めてた。油っぽくて。あんまりうまくなかった」

澪は言った。

「渡してないなら、傷ついてないじゃないですか」

言ってから、自分でもきついと思った。

拓海が顔を上げた。怒るかと思った。でも彼は少しだけ笑った。

「そう見えますよね」

澪は黙った。

「俺もそう思ってました。渡してないんだから、ふられてもない。失敗してない。なかったことにできるって」

拓海は、二口目の唐揚げを食べた。今度は何も起きない。ただの冷めた唐揚げ。

でも、渡さなかったことも、けっこう残るんですよ

その言葉は、澪の中にゆっくり沈んだ。

拓海は続けた。

「作ってる時だけは、届くと思ってたんです。あの人、食べてくれるかなって。うまいって言うかなって。そういう時間があったことだけ、ずっと恥ずかしくて」

「恥ずかしい?」

「はい。勝手に期待して、勝手にやめて、勝手に食べたんで」

澪は返す言葉を失った。

拓海は弁当を食べ続けた。冷めた唐揚げ。固くなりかけた白ごはん。しんなりしたレタス。

食べながら、彼はぽつりと言った。

「でも、作ってる時、楽しかったんですよね」

澪は、その言葉が少し嫌だった。

届かなかったものにも、作っている時間だけは残る。

そう認めてしまうと、自分の中にも、捨てきれない時間があるような気がした。

店の中が、少し静かになった。

「そのことまで、なかったことにしてました」

灯子は何も言わなかった。拓海は弁当を食べ終えると、深く息を吐いた。

「俺、今もコンビニ弁当ばっかなんです」

「そうですか」

「自分のために作るのって、なんか、馬鹿みたいで」

「馬鹿みたい?」

「誰も喜ばないじゃないですか」

澪は、白い小皿を見た。

何も盛られていない皿。

誰も喜ばない皿。

灯子は拓海に言った。

「誰かが喜ばないと、作っちゃだめですか」

拓海は答えなかった。

店を出る時、彼は灯子に礼を言った。澪にも小さく頭を下げた。

「ごちそうさまでした」

戸が閉まったあと、澪はすぐに言った。

「今の人は、救われたんですか」

「さあ」

「またそれですか」

「ここを出た後のことは、本人のものだから」

「便利な言い方ですね」

灯子は、拓海の使った弁当箱をしばらく見ていた。

澪は皿を片づけた。弁当箱には、唐揚げの衣の欠片が少し残っていた。油が冷えて、紙ナプキンに染みている。

「渡さなかった料理なんて、まだいいじゃないですか」

澪は、ぽつりと言った。

灯子は振り返った。

「いい?」

「出してないんだから、拒まれてない。相手を困らせてもない。傷つけてもない」

「そうだね」

「だったら、まだいいです」

「澪さんは、出した方がつらいと思う?」

名前を呼ばれて、澪は少し驚いた。

「・・・普通、そうでしょう」

灯子は黙っていた。

「作って、出して、いらないって言われたら、どうしようもないじゃないですか」

自分の声が震えた気がして、澪は口を閉じた。灯子は、何も聞かなかった。

それが、余計に腹立たしかった。

「聞かないんですか」

「聞いてほしい?」

「そういうことじゃありません」

「じゃあ、聞かない」

澪は布巾を乱暴にたたんだ。

「あなた、本当に変な人ですね」

「よく言われます」

その時、灯子は厨房の奥へ行き、冷蔵庫から発泡スチロールの箱を取り出した。昨日見たものだった。

魚屋の名前が印字された箱。

蓋を開けると、銀色の鯖が並んでいた。

澪は顔をしかめた。

「また鯖ですか」

灯子は鯖を一尾取り出し、水で洗った。手つきは丁寧だった。魚を扱う人の手だ。

「出すんですか」

灯子は魚の腹を押さえたまま、動かなかった。

「まだ」

澪はその言葉に苛立った。

「まだ、まだって。何なんですか」

灯子は鯖をまな板に置いた。

出せない料理もあるから

「出せない?」

「うん」

「この店は、必要な料理が出るんじゃないんですか」

「出る料理もある。出せない料理もある」

「矛盾してます」

「そうだね」

灯子は、包丁を持ったまま、少しだけ目を伏せた。

「矛盾してるから、残るんだと思う」

澪は意味が分からなかった。

灯子は鯖を切らなかった。そのまま、また箱に戻した。

なぜか、それがひどく寂しい動作に見えた。

「その鯖、誰の料理なんですか」

澪が聞くと、灯子は蓋を閉めた。

「まだ、出す相手が来てない」

その言い方に、澪はどこかで聞き覚えがあった。

まだ、出す相手が来てへんから。

祖母の声。

澪は息を止めた。

「今、何て言いました」

「まだ、出す相手が来てない」

「誰が、そんなこと」

澪の声はかすれていた。灯子は澪を見た。

「ハルさんも、そう言ってた?」

澪は答えられなかった。

子どもの頃、閉店後の食堂で、祖母が誰にも出さない魚を煮ていた記憶が一瞬だけ浮かんだ。

湯気。

味噌の匂い。

祖母の背中。

なんで出さへんの。

まだ、出す相手が来てへんから。

澪はその記憶を、すぐに押し込めた。

「帰ります」

灯子は止めなかった。

「うん」

澪はコートを取って、戸へ向かった。

外に出る直前、灯子が言った。

「明日、たぶん来るよ」

「誰が」

「思い出したのに、何もしない人」

澪は振り返った。

「何ですか、それ」

灯子は発泡スチロールの箱に手を置いたまま言った。

思い出すことと、戻ることは違うから

澪は何も返さず、店を出た。

商店街の夜風は冷たかった。駅まで歩く途中、スマートフォンが震えた。母からではなかった。

ニュースアプリの通知だった。

澪は画面を消した。なのに、なぜか母の名前を見た気がした。

深町千佳。

澪は足を止めた。

電話をかける理由はない。何を話すのかも分からない。今さら、何も変わらない。

そう思いながら、澪は連絡先を開いた。母の名前を表示する。通話ボタンの上に、親指を置く。

押さない。

しばらくそのまま立っていた。

やがて、画面が暗くなった。

澪はスマートフォンをしまった。

その夜、部屋に帰ってから、澪は冷蔵庫を開けた。卵が二つ。豆腐。使いかけのねぎ。冷凍ごはん。

料理をする気はなかった。

けれど、しばらく冷蔵庫の前から動けなかった。

作っても、誰も食べない。

作らなくても、誰も困らない。

それでも、野々村拓海は言っていた。

作ってる時、楽しかったんですよね。

澪は冷蔵庫を閉めた。台所の小さな窓に、自分の顔が映っていた。疲れた顔だった。

腹が減っているのかどうかも、よく分からない顔だった。

澪はその夜も、何も作らなかった。



第5章 思い出しただけでは、戻らない


翌日、澪は母に電話をかけなかった。

かけようとはした。朝、出勤前に一度。昼休みに一度。仕事が終わって、ロッカールームで着替えたあとに一度。

スマートフォンの連絡先を開き、母の名前を表示するところまではできた。けれど、通話ボタンの上に置いた親指は、いつもそこで止まった。

押せば、母が出るかもしれない。出なければ、少しほっとするかもしれない。もし出たら、何を言えばいいのだろう。

元気?

最近どう?

昨日、変な食堂に行って、母の卵焼きを思い出した人がいて。

作ったのに渡せなかった弁当の話を聞いて。

それで、なんとなく電話しました。

そんなことを言えるわけがなかった。

結局、澪はスマートフォンをポケットに戻した。

セントラルキッチンでは、今日も大量の惣菜が作られていた。弁当用の唐揚げ。焼き魚。ひじきの煮物。厚焼き玉子。肉じゃが。

澪は肉じゃがのラインに立った。昨日より、しょうゆが少し強い。

工場の肉じゃがは、母のための味ではない。祖母の味でもない。誰か一人の好みを覚えている味ではない。

それなのに、鍋を覗き込むたびに、澪の胸の奥が少しざらついた。

野々村拓海の言葉が、耳に残っている。

作ってる時、楽しかったんですよね。

澪はレシピ表を確認し、調味料の配合を戻した。

楽しいとか、楽しくないとか。そんなものは、料理に入れなくていい。

味が正しければ、それでいい。

夜、澪はまた忘れもの食堂の前に立っていた。暖簾は出ていた。もう驚かなかった。

驚かない自分に、少し腹が立った。

戸を開けると、店内にはまだ客がいなかった。灯子はカウンターの中で、小さなじゃがいもの皮をむいていた。澪が入っても顔を上げず、ただ「いらっしゃい」と言った。

「昨日言っていた人、来るんですか」

澪は上着を脱ぎながら聞いた。

「たぶん」

「思い出したのに、何もしない人」

灯子は、むいた皮を小さなボウルへ落とした。

「そんなこと、来る前から分かるんですか」

「分かる時もある」

「便利ですね」

「便利じゃないよ」

灯子はむいたじゃがいもを水に落とした。

「分かっていても、できることはあまりないから」

澪はカウンターの内側に入った。もう手伝わないとは言わなかった。言ってもどうせ、手が動く。そう分かってきていた。

カウンターの端には、いつもの白い小皿が置かれている。

空っぽの皿。

澪はそれを見ないようにした。

しばらくして、戸が開いた。

入ってきた男は、四十代半ばくらいだった。スーツの上着を片手に持ち、ネクタイをゆるめている。疲れているが、疲れていることに慣れている顔だった。

「まだ、やってますか」

「いらっしゃい」

灯子が答えた。

男は店内を眺め、少し笑った。

「こういう店、久しぶりだな。最近、どこもチェーンばっかで」

澪はその言葉に、少しだけ反応した。

「お名前は」

「大崎です。大崎修一」

男はカウンターに座った。

「ビールとかあります?」

「あります」

「じゃあ、それと、何かつまみで」

灯子はうなずき、冷蔵庫から缶ビールを取り出した。

瓶ではなく、缶だった。しかも、コンビニやスーパーでよく見る銘柄。少し冷えすぎて、表面に細かい水滴がついている。

澪は首をかしげた。

「缶のまま出すんですか」

「今日は」

灯子は、さらに紙袋を取り出した。中には、スーパーの惣菜コーナーで売っているようなコロッケが二つ入っていた。

透明なパックに、半額シールが貼られている。

澪は思わず言った。

「それ、料理じゃないですよね」

「料理だよ」

「買ってきただけじゃないですか」

買ってきただけのごはんを覚えてる人もいる

灯子はコロッケを皿に移さなかった。透明なパックのまま、缶ビールと一緒に大崎の前に置いた。

大崎は声を出して笑った。

「いいですね。こういうの。気取ってなくて」

「どうぞ」

「いただきます」

大崎は缶ビールを開けた。ぷしゅっと音がして、泡が少しだけ口元に上がる。彼は缶に直接口をつけ、ひと口飲んだ。

何も起きなかった。

それから、箸でコロッケをつまみ、ひと口食べた。

その瞬間、大崎の顔から、軽い笑いが消えた。

噛むのをやめたわけではない。けれど、目だけが急にどこか別の場所を見た。

缶ビールを持つ手が止まる。

「……これ」

大崎は、コロッケを見た。

「何だっけな」

灯子は何も言わない。

「そうだ。スーパー、駅前の」

大崎は眉間に皺を寄せた。

「まだ小さかったから、あいつ。五歳? 六歳? いや、幼稚園だったか」

澪はカウンターの内側で、大崎を見ていた。

「誰の話ですか」

思わず聞いていた。大崎は澪の方を見たが、すぐに皿へ視線を戻した。

「息子」

短い言葉だった。

「離婚する前です。妻が実家に帰ってて、俺と息子だけの夜があった。俺、料理なんかできないから、スーパーでコロッケ買って帰って」

彼は少し笑った。今度の笑いは、さっきより小さかった。

「悪いなって思ったんです。こんなの夕飯で。野菜もないし、味噌汁もインスタントで」

大崎はもう一口、コロッケを食べた。二口目には、もう魔法はないはずだった。けれど彼は、さっきの記憶の続きにいるようだった。

「でも、息子が言ったんです」

声が少しだけ柔らかくなる。

お父さんのごはんだって

息子は、コロッケにソースをかけすぎていた。皿の端まで黒くなるくらいかけて、少し慌てた顔で大崎を見た。怒られると思ったのかもしれない。

大崎が笑うと、息子も笑った。

それから、缶ビールを飲む大崎の真似をして、麦茶のコップを両手で持った。

澪は、言葉を失った。

大崎はコロッケを見つめていた。

「ただの半額コロッケですよ。パックのまま出して、ビール飲みながら適当に相手して。なのに、あいつ、嬉しそうで」

缶ビールの水滴が、大崎の指を濡らしていた。

「そのあと、何回も約束破ったな」

大崎はぽつりと言った。

「運動会も、誕生日も、夏休みのキャンプも。仕事が忙しくて。いや、忙しいって言えば許されると思ってたんだな」

灯子は水を出した。大崎はビールの代わりに水を飲んだ。

「もう何年会ってないかな」

「連絡は取れるんですか」

澪が聞いた。

大崎は笑った。

「取ろうと思えば。たぶん」

「なら、連絡すればいいじゃないですか」

自分でも少し早すぎると思った。けれど、言葉は止められなかった。

「思い出したんでしょう。だったら」

大崎はスマートフォンを出した。画面を見つめる。連絡先を開く。指が何度か動く。

息子の名前らしきものが表示された。

澪の位置からは、漢字までは見えない。

大崎はしばらく、その画面を見つめていた。

「今さらでしょう」

彼は言った。

「今さら連絡されても、あいつも困る」

「向こうだって、今さら父親面されたくないでしょう」

「それは、相手が決めることじゃないですか」

澪の声は強くなった。

「あなたが勝手に決めることじゃない」

言い終えた瞬間、自分の声が嫌になった。まるで、電話をかけられる人間の声だった。

連絡先が残っているくせに。

そう思った。

そう思った自分のポケットにも、母の名前が入ったままだった。

大崎は少し驚いたように澪を見た。灯子も、澪を見た。澪は、自分がなぜそんなに腹を立てているのか分からなかった。

大崎はスマートフォンを伏せた。

「そうですね」

言葉だけなら、澪に同意しているようだった。でも、彼の手はもう画面から離れていた。

「そうなんですけどね」

大崎は残りのコロッケを食べた。パックの底に落ちた衣の欠片まで、箸で集めるようにして食べた。缶ビールにはほとんど手をつけなかった。

食べ終えたあと、彼は財布を出した。

「いくらですか」

灯子は首を振った。

「今日は、もう」

「もらってます、ですか」

大崎は苦笑した。

「変な店だ」

そして、少し考えてから言った。

「ごちそうさまでした」

店を出る直前、大崎はもう一度スマートフォンを見た。

画面を開く。

何かを打ちかける。

でも、送信しなかった。

澪はそれを見ていた。

大崎は暖簾をくぐり、夜の商店街へ消えた。

戸が閉まった瞬間、澪は言った。

「どうして止めないんですか」

灯子はコロッケのパックを片づけていた。

「何を?」

「送らなかったでしょう、今。連絡しようとして、やめた」

灯子はパックの蓋を閉じた。

「だったら、言えばいいじゃないですか。今送らないと忘れるって。せっかく思い出したのに」

灯子は手を洗った。水の音が、やけに静かに響いた。

ここは、救う場所じゃないよ

澪は息を止めた。

その言葉は、冷たかった。

けれど、突き放す冷たさではなかった。何度も触れてきたせいで、すっかり冷えた金属のような声だった。

「じゃあ、何のためにあるんですか」

澪は言った。灯子はすぐには答えなかった。

「だいたいのことは、見てることしかできない」

澪は、言い返せなかった。

灯子はパックをゴミ箱へ入れた。

思い出すのは、一口だけ。そこから先は、その人のもの

「そんなの、無責任です」

「無責任だよ」

灯子は澪を見た。

「誰かの記憶を一口だけ戻して、そのあとを背負えない。だから、無責任」

「だったら」

「それでも、戻った方がいいこともある」

澪は唇を噛んだ。

店の外では、誰かの自転車のベルが鳴った。

日常の音だった。

さっきまでここで誰かが息子のことを思い出していたなんて、外の世界は少しも知らない。

「思い出したのに、何もしなかったら」

澪は聞いた。

「あの人は、また忘れるんですか」

「たぶん」

「たぶん?」

「全部は分からない。ただ、何もしない記憶は、薄くなりやすい」

「どうして」

「置き場のない記憶は、戻る場所をなくすから」

灯子はそう言ってから、ほんの一瞬だけ厨房の奥へ目を逃がした。そこにはまだ、誰にも出されていない料理があるみたいだった。

澪は、白い小皿を見た。

何も置かれていない皿。

自分の前にだけある空白。

「思い出したら、行動しなきゃいけないんですか」

「しなきゃいけないわけじゃない」

「じゃあ」

「でも、行動しなかった記憶は、また遠くなる」

灯子は、静かに言った。

「忘れていた方へ戻っていく」

澪はその言葉を聞いて、なぜか母の電話番号を思い出した。

スマートフォンを見なくても、番号の並びが浮かぶ。昔、家の固定電話から何度もかけた番号。自分の携帯に登録してからは、逆に一度も覚え直さなくなった番号。

忘れていた方へ戻っていく。

その夜、澪は帰り道で母に電話をかけた。商店街を抜けた先の小さな公園で、足を止めた。ブランコが二つ並んでいて、雨水が座面に溜まっていた。

澪は街灯の下でスマートフォンを取り出した。連絡先を開く。

深町千佳。

通話ボタンを押す。

呼び出し音が鳴った。

一回。

二回。

三回。

澪は息を詰めた。母が出たら、何を言うのか。分からない。

今さら何の用、と言われるかもしれない。忙しい、と切られるかもしれない。あるいは、普通に「どうしたの」と言われるかもしれない。

それが一番怖かった。

五回目の呼び出し音が鳴る前に、澪は通話を切った。

画面が暗くなる。

澪はしばらく、その場から動けなかった。

言えばいいじゃないですか。

さっき、自分は大崎にそう言った。

送ればいい。連絡すればいい。相手がどう受け取るかは、相手が決めることじゃないか。

正しいことなら、いくらでも言えた。

自分の番になると、指ひとつ動かない。

澪はスマートフォンをポケットにしまった。

その時、ふいに味噌の匂いがした。

公園に味噌の匂いなどするはずがない。

澪は振り返った。商店街の方から、かすかに漂ってくる。

鯖の味噌煮の匂いだった。

祖母の食堂の閉店後に、時々していた匂い。

澪は足を止めた。

子どもの頃の記憶が、ほんの少しだけ浮かびかける。

閉店後の厨房。

祖母の背中。

鍋の中で煮えていた魚。

誰にも出されなかった皿。

なんで出さへんの。

まだ、出す相手が来てへんから。

澪は目を閉じた。

思い出したいわけではない。

そう思っているのに、匂いは胸の奥のどこかを開けようとしていた。

大崎修一をもう一度見かけたのは、三日後だった。

澪は仕事帰りにスーパーへ寄っていた。駅前の、惣菜コーナーが広い店だ。閉店間際で、揚げ物には赤い割引シールが貼られている。

大崎は惣菜売り場の前で、半額シールだけを見ていた。コロッケのパックを一つ取り、少し迷って、もう一つ戻した。

スマートフォンはポケットに入ったままだった。

缶ビールを三本、かごに入れる。

大崎は一度、ポケットの上からスマートフォンに触れた。けれど取り出さなかった。その手はすぐに、缶ビールの方へ戻った。

その手つきは、慣れていた。

あの日、息子の名前を思い出した人の手ではなく、いつもの夕飯を選ぶ人の手だった。

澪は声をかけようとした。

けれど、大崎の顔を見て、言葉が止まった。

息子と食べた夜を思い出した時の、柔らかくて、少し痛そうな顔。

完全に忘れたわけではないのかもしれない。

けれど、戻りかけていた。

元の顔に。

大崎は澪に気づかなかった。レジへ向かい、機械的に会計を済ませ、店を出ていった。

澪は半額コロッケの棚の前に残された。

パックの中のコロッケは、どれも同じ色をしていた。

買って帰ればいいと思った。食べれば、何か分かるかもしれない。

けれど、澪は手を伸ばさなかった。

その代わり、スマートフォンを取り出した。母の名前を開く。

通話ボタンを見つめる。

押さなかった。

澪は画面を消した。

忘れていた方へ戻っていく。

灯子の声が、スーパーの白い照明の下で、やけにはっきり聞こえた。



第6章 祖母が救えなかった人


その夜、忘れもの食堂の暖簾は出ていなかった。

澪はシャッターの前で立ち止まった。昼間と同じ、閉店した食堂の跡だった。

灯りもない。換気扇の音もない。橙色の光もない。

なのに、味噌の匂いだけがした。

シャッターの隙間からではない。店の奥からでもない。もっと古い場所から漂ってくるような匂いだった。

澪は、貼り紙を見た。

長らくありがとうございました。

その文字の向こうに、祖母の背中が重なった。

子どもの頃、閉店後の食堂で、祖母が一人で鯖の味噌煮を作っていたことがある。客はもういない。椅子は机の上に上げられている。暖簾も片づけられている。

それなのに、厨房の火だけがついていた。

味噌の甘い匂い。

しょうがの匂い。

魚の脂が煮汁に溶ける匂い。

幼い澪は、カウンターの椅子に座って足をぶらぶらさせていた。

「おばあちゃん、それ誰に出すん」

祖母は鍋を見たまま答えた。

「まだ、出す相手が来てへんからな」

「じゃあ、なんで作るん」

祖母は少し笑った。

「来た時に、すぐ出せるように」

「来るん?」

「さあ」

「来えへんかったら?」

祖母は答えなかった。

その夜、祖母は鯖の味噌煮をすぐには片づけなかった。火を止めてからも、何度も鍋の蓋を開けた。湯気の向こうを見て、また閉めた。

味を見るわけでも、盛りつけるわけでもなかった。

ときどき祖母は、誰もいない客席の方へ顔を向けた。暖簾はもうしまってある。椅子も机の上に上げてある。

来る人なんていないはずなのに、祖母は、誰かが戸を開ける音を待っているみたいだった。

澪はその時、祖母が何を待っているのか分からなかった。祖母はただ、鍋の火を少し弱めた。澪はつまらなくなって、カウンターに顔を伏せた。

祖母の答えが分からなかった。

分からないまま、忘れた。

今になって、匂いだけが戻ってきている。

澪がシャッターに手を伸ばしかけた時、背後で声がした。

「今日は、表からは入れない」

振り返ると、灯子が立っていた。白い割烹着ではなく、黒っぽいカーディガンを羽織っている。手には、魚屋の発泡スチロール箱を抱えていた。

「どうして」

澪は聞いた。

「どうしてって?」

「今日は店がないんですか」

「あるよ」

「暖簾も出てません」

「今日は、奥から」

灯子は商店街の脇の細い路地へ入っていった。澪は迷ったが、ついて行った。

路地は狭く、雨水を含んだコンクリートの匂いがした。古い室外機が並び、どこかの店の空き瓶ケースが積まれている。祖母の食堂の裏口へ続く道だった。

裏口は、澪の記憶よりも小さかった。灯子が鍵を差し込む。

かちゃり、と音がした。

「鍵、持ってるんですか」

「預かった」

「誰に」

灯子は答えなかった。

裏口から入ると、そこは祖母の食堂の厨房だった。表から入った時の忘れもの食堂とは違う。もっと現実に近い。

壁の汚れも、床の傷も、古い冷蔵庫も、そのままだった。

けれど、長く閉じられていたはずの厨房に、埃の匂いはなかった。まるで、今朝まで誰かが使っていたように、空気が生きている。

灯子は発泡スチロール箱を流しの横に置いた。蓋を開ける。

鯖が入っていた。

澪は黙って見ていた。

灯子は水を出し、鯖を洗い始めた。指先の動きは丁寧で、どこか儀式めいていた。

「出すんですか」

澪が聞いた。

灯子は首を横に振った。

「まだ」

「また」

「うん」

「出さないなら、どうして作るんですか」

灯子は鯖をまな板に置いた。

「ハルさんも、そう聞かれたんじゃない?」

澪は言葉を失った。

灯子は包丁を置いたまま、鯖を見つめた。

「雨宮静江って人を、覚えてる?」

「・・・誰ですか」

「ふかまち食堂の常連だった人。雨の日によく来てた」

澪は記憶を探った。

雨の日。

カウンターの端。

暗い色の傘。

ごはん少なめ。

味噌汁を最後まで飲む女の人。

輪郭だけが、ぼんやり浮かぶ。

「少しだけ」

「いつも端に座ってた」

「はい」

「ごはん、少なめって言って」

「・・・覚えてます」

「鯖の味噌煮がある日は、店に入ってこなかった」

澪は灯子を見た。

「どうして」

灯子は鯖の水気を拭いた。

「食べられなかったから」

「嫌いだったんですか」

「好きだったんだと思う」

灯子は味噌を溶こうとして、手を止めた。箸の先についた味噌が、鍋に落ちないまま少し震えていた。

「……好きだったんだと思う」

そう言ってから、灯子はようやく味噌を煮汁に落とした。

味噌はすぐには溶けなかった。茶色いかたまりのまま煮汁の中に沈み、箸の動きに遅れて、少しずつほどけていく。

灯子はそれを急がせなかった。

急いで溶かしてしまうと、何かまでなかったことになりそうだった。

矛盾した言い方だった。

灯子は鍋を出した。

祖母が使っていた黒い鍋だった。

澪はそれを見て、胸が詰まった。

「その鍋」

「ハルさんの」

「勝手に使わないでください」

声が鋭くなった。灯子は鍋を持つ手を止めた。

「ごめん」

素直に謝られて、澪は余計に何も言えなくなった。

灯子は、鍋をゆっくり火にかけた。水、酒、砂糖、味噌、しょうが。手順は、祖母のものと少し似ていた。

だが、完全には同じではない。

「静江さんには、娘がいた」

灯子は言った。澪は、黙っていた。

「その娘は、母親の鯖の味噌煮が嫌いだった。というより、嫌いだと思ってた」

灯子は味噌を溶かした。

「家の中が、いつも同じ匂いになるのが嫌だった。母親が台所に立っている背中も、黙って皿を出してくるところも、全部、鬱陶しかった」

澪は、灯子の横顔を見た。

語っている声が、あまりにも近かった。

「ある日、その娘は言った」

灯子は、鯖を鍋に入れた。

「こんなの、もういらないって」

鍋の中で、煮汁が小さく跳ねた。

澪は、何も言えなかった。

灯子は続けた。

「それから、静江さんは鯖の味噌煮を作らなくなった」

「その娘って」

澪の声は、かすれていた。灯子は答えなかった。ただ、落とし蓋をした。

「静江さんは、雨の日だけ、ふかまち食堂に来た。ハルさんは、気づいていたと思う。静江さんが、鯖の味噌煮を見ないようにしていたこと」

「おばあちゃんが?」

「うん」

「どうして、出さなかったんですか」

灯子は少しだけ笑った。

出せなかったんだと思う

その言葉は、澪の胸に沈んだ。

出せなかった。

「ある雨の日、静江さんが来た」

灯子は鍋の火を弱めた。

「台風の前の日。客はほとんどいなかった。静江さんは、いつもの席に座って、メニューを見ないで言った」

灯子の声が、少し低くなる。

「今日は、魚、ありますか」

澪は、その場面を見ているような気がした。

雨で濡れた傘。

カウンターの端。

祖母の背中。

厨房の火。

「ハルさんは、すぐには動かなかった。

鯖の味噌煮はもう皿に盛ってあって、白髪ねぎも、大根の浅漬けも添えてあった。

あとは運ぶだけだった。

でも、ハルさんは一拍だけ迷ったんだと思う。

出せば、静江さんの中の何かを開けてしまう。

開けたあと、自分では閉じてあげられない。

それが分かっていたから。

それでも、出そうとした」

鍋の中で、味噌が静かに煮えていた。

「それで?」

「電話が鳴った」

灯子は言った。

「出前の注文だった。近所の人からの、ただの電話。ハルさんは出た。短い電話のはずだった」

澪は、喉が乾いた。

「その間に、静江さんは帰った」

厨房の奥で、冷蔵庫が低く鳴った。

「カウンターには、水の跡だけが残っていた。鯖の味噌煮は、出されないまま厨房に残った」

澪は目を伏せた。

祖母の背中が、また浮かんだ。

まだ、出す相手が来てへんから。

「翌日、静江さんは亡くなった」

灯子の声は淡々としていた。

「急だった。心筋梗塞だったって聞いた」

澪は、鍋を見た。煮汁の中で、鯖が静かに沈んでいる。

「おばあちゃんは」

「ずっと悔やんでたと思う」

「思う?」

「本人がそう言ったわけじゃない。でも、何度も鯖の味噌煮を作ってた。誰にも出さずに」

澪は、子どもの頃の記憶を今度こそはっきり思い出した。

閉店後の食堂。

祖母の背中。

鍋の中の鯖。

甘い味噌の匂い。

なんで出さへんの。

まだ、出す相手が来てへんから。

あれは、そういう意味だったのか。

出す相手は、もう来ない人だったのか。

澪の中で、祖母の輪郭が少し変わった。

祖母は、料理で人の顔を少し変えられる人だった。店に来た人に味噌汁を出し、余った煮物を持たせ、泣いている客には黙ってお茶を置いた。

澪は、祖母をそういう人だと思っていた。

正しい人。

温かい人。

ちゃんと届く料理を作れる人。

でも違った。

祖母にも、出せなかった皿があった。

間に合わなかった人がいた。

食べてもらえなかった料理があった。

「どうして」

澪は言った。

「どうして、おばあちゃんはそれでも作ってたんですか」

灯子は鍋を見つめた。

「食べてもらえなかったものまで、なかったことにしたくなかったんじゃないかな」

澪は、何も言えなかった。

灯子は、棚から古い写真立てを取り出した。埃はかぶっていなかった。

写真には、三人の女性が写っていた。

祖母ハル。

カウンターの端に座る、雨宮静江らしき女性。

そして、その隣に、若い灯子が立っていた。

澪は写真を見つめた。

「あなた」

灯子は静かに言った。

私も、食べなかった側なの

澪は灯子を見た。

「あなたが、静江さんの」

「娘」

灯子はうなずいた。

「母の鯖の味噌煮を、いらないって言った娘」

鍋の中で、煮汁が小さく泡立った。

澪は何も言えなかった。

灯子は写真をカウンターに置いた。

「母が亡くなったあと、ここに来た。母が最後に来ていた店だって聞いて。ハルさんに聞いたの。母は、ここで何か食べたんですかって」

「おばあちゃんは」

「答えなかった」

灯子は少し笑った。

「答えられなかったんだと思う。出せなかったから」

澪は、祖母がその時どんな顔をしたのか想像した。想像したくなかった。

「私は、ハルさんを責めた」

灯子は言った。

「母に何も出してくれなかったんですかって。母はここに来たのに、何も食べずに帰ったんですかって」

ハルは、すぐには謝らなかった。言い訳もしなかった。ただ、厨房の奥に置いた鍋を見ていた。

その沈黙が、灯子にはいちばん許せなかった。

「でも、本当に責めたかったのは、自分だった」

灯子の声が、ほんの少しだけ揺れた。

「母の料理をいらないって言ったのは、私だったから」

澪の胸の奥で、何かが痛んだ。

今さら、そんなもの出さないで。

そんなもの、作らなくてよかったのに。

母の声がよぎる。でも、今はその声の奥に、別の誰かの痛みがあるように思えてしまった。

澪はそれを拒みたかった。

母には母の痛みがあったのかもしれない。

そんなふうに考えたくなかった。

拒まれた側の痛みだけで、十分だった。

「食べますか」

灯子が言った。

澪は顔を上げた。灯子は、鯖の味噌煮を皿に盛っていた。

白髪ねぎをのせ、大根の浅漬けを小皿に添える。ごはんは少なめ。ほうじ茶も置いた。

それは、雨宮静江に出されるはずだった一膳だった。

灯子は箸を一膳、皿の横にそろえた。それから、自分の指が箸先に触れていることに気づいたように、そっと手を引いた。

鯖の身は、まだ湯気を立てていた。

「私が?」

「違う」

灯子は皿を見つめた。

「これは、まだ」

澪は、皿を見た。湯気が立っている。今なら食べられる。誰かが箸を伸ばせば、まだ温かいうちに食べられる。

でも、その相手はもういない。

「灯子さんは」

澪は聞いた。

「食べないんですか」

灯子は答えなかった。ただ、皿の横に箸を置いた。

「食べられないんですか」

灯子は、少しだけ笑った。

「出す側に長くいるとね」

その声は、今までで一番静かだった。

「食べ方を忘れるの」

澪は、それ以上聞けなかった。

灯子は皿をカウンターの奥へ置いた。誰も座っていない席の前に。

まるで、そこに誰かが来るのを待っているように。

店の中には、鯖の味噌煮の匂いが満ちていた。

祖母の匂い。

灯子の母の匂い。

出されなかった料理の匂い。

澪の中で、何かが崩れていた。

祖母は完璧ではなかった。

料理は、必ず届くわけではなかった。

優しさは、時々間に合わない。

気づいていても、出せないことがある。

作っても、食べてもらえないことがある。

思い出しても、戻らないことがある。

それでも祖母は、作っていた。

何度も。

誰にも出せない鯖の味噌煮を。

「ハルさんは」

灯子は、皿を見つめたまま言った。

「それでも作ってたよ」

澪は小さく聞いた。

「どうして」

「さっきも言ったけど」

灯子は澪を見た。

「食べてもらえなかったものまで、なかったことにしたくなかったんじゃないかな」

澪の喉が詰まった。

自分の中に、ずっとなかったことにしてきた皿がある。

その皿の匂いが、急に近くなった。

肉じゃが。

祖母の葬儀の夜。

母の乾いた横顔。

煮崩れる手前のじゃがいも。

甘さを控えた煮汁。

差し出した皿。

そこから先は、まだ見たくなかった。

澪は立ち上がった。

「帰ります」

灯子は止めなかった。

「うん」

澪は裏口へ向かった。扉に手をかけたところで、灯子が言った。

「澪さん」

澪は振り返らなかった。

「次は、たぶん出るよ」

「何が」

自分でも分かっていた。

聞かなくても分かっていた。

灯子は言った。

あなたの料理

澪は扉を開けた。

外の路地は暗く、雨は降っていないのに、湿った匂いがした。澪は路地を抜け、商店街へ出た。

ふかまち食堂の表には、相変わらず暖簾は出ていなかった。シャッターは閉まっている。貼り紙もそのままだ。

長らくありがとうございました。

澪はその前に立ち止まった。

胸の奥で、肉じゃがの匂いがした。

今度は、逃げられないほどはっきりと。

スマートフォンが震えた。

母からの着信だった。

深町千佳。

澪は画面を見た。指が震えていた。

出なかった。

切りもしなかった。

ただ、着信が鳴り終わるまで、ずっと見ていた。

音が止んだあと、澪は画面に映る母の名前を消せなかった。しばらくして、留守番電話の通知が表示された。

澪は再生しなかった。

スマートフォンを胸に押し当てるように持ったまま、商店街の暗がりに立っていた。

店の奥から、もう聞こえるはずのない鍋の音がした気がした。

ことこと、と。

肉じゃがが煮える音だった。



第7章 一口だけ、思い出す


留守番電話を再生したのは、翌朝だった。

澪は出勤前の部屋で、靴下を片方だけ履いたまま、スマートフォンを手にしていた。窓の外は曇っている。五月の終わりの空は、まだ雨をためているような色をしていた。

画面には、母からの留守番電話が一件。再生ボタンに指を置いて、何度もやめた。

聞かなければ、昨日までと同じでいられる。聞いてしまえば、何かが始まってしまうかもしれない。

けれど、始まるということは、終わらせられないものに名前をつけることでもあった。

澪は息を吸い、再生した。

少しの無音。

それから、母の声がした。

『・・・澪?』

久しぶりに聞く母の声は、記憶より少し低かった。

『何度もごめん。急ぎじゃないの。ただ・・・』

そこで言葉が途切れた。母が何かを飲み込むような気配があった。

『この前、ハルさんの荷物を整理してたら、あんたのものが少し出てきて。子どもの頃の連絡帳とか、写真とか。捨てていいか分からなくて』

遠くで、段ボールを閉じるような音がした。母は小さく咳払いをしてから、続けた。

『それと、ハルさんの字で、あんたの名前が書いてある封筒もあって』

母は、そこで少し黙った。

『・・・私が持ってていいものなのか、分からなくて』

さらに小さく、息を吸う音がした。

『私が勝手に決めると、また間違えそうで』

澪は、動けなかった。

母は祖母のことを、いつも「お母さん」とは呼ばなかった。

ハルさん。

祖母が生きていた頃から、そう呼んでいた。

『時間がある時でいいから、一度取りに来て。別に、無理にとは言わないけど』

また、少し沈黙。

『それだけ』

切れる直前、母が小さく息を吐いた。

たったそれだけの留守番電話だった。

謝罪もない。

昔の話もない。

肉じゃがのこともない。

澪は画面を見つめたまま、しばらく座っていた。

子どもの頃の連絡帳。

写真。

捨てていいか分からないもの。

母は、何を捨てていいか分からないと言った。

それがなぜか、澪にはひどく重く聞こえた。

仕事に行く準備をしなければならなかった。澪はスマートフォンを置き、もう片方の靴下を履いた。

その日のセントラルキッチンでは、朝から肉じゃがのラインにトラブルがあった。じゃがいもの品種が一部変わり、煮崩れの出方がいつもと違っていた。

澪は鍋の前に立ち、煮込み時間を短く調整した。じゃがいもをひとつ、小皿に取る。

箸を入れると、角が少しだけ崩れた。

煮崩れる手前。

澪の手が止まった。

祖母は、肉じゃがのじゃがいもをこのくらいで火から下ろした。

崩れすぎると、千佳が嫌がるからな。

そんな祖母の声が、急に耳の奥で鳴った。

澪は小皿を作業台に置いた。

「深町さん?」

河野が声をかけた。

「大丈夫?」

「大丈夫です」

澪はいつものように答えた。

けれど、その日は大丈夫ではなかった。

味見をするたびに、工場の肉じゃがの向こうに、別の鍋が見えた。

祖母の黒い鍋。

母の乾いた横顔。

葬儀の後の食堂。

誰も座っていないカウンター。

思い出しそうになるたび、澪はレシピ表を見た。

砂糖、しょうゆ、酒、みりん。

数字。

分量。

温度。

時間。

数字は優しかった。

数字は、思い出さない。

仕事を終えた頃には、外は小雨になっていた。澪は傘を持っていなかった。工場の玄関で少し迷ったが、駅へは向かわなかった。

母へ返信することもできた。

荷物のこと、分かりました。

今度行きます。

捨てないでください。

何でもよかった。

けれど、澪は何も送らなかった。

スマートフォンを鞄にしまい、商店街へ向かった。雨は細かく、髪に静かに染みた。

忘れもの食堂の暖簾は出ていた。澪は、戸の前で立ち止まった。

中から、肉じゃがの匂いがした。

それだけで、足が動かなくなった。

この匂いを知っている。

知っているどころではない。

忘れたことにしていた匂いだった。

甘さを控えた煮汁。

しょうゆを少し強くした匂い。

玉ねぎの甘さより、牛肉の脂より先に立つ、あの少しだけ硬い味。

母のための肉じゃが。

澪は戸に手をかけた。

開けると、店の中に客はいなかった。灯子はカウンターの内側に立っていた。いつもの白い割烹着。けれど、今日は何も言わなかった。

澪の席の前には、白い小皿ではなく、深い器が置かれていた。

肉じゃが。

湯気が静かに上がっている。

澪は入口に立ったまま、動けなかった。

「・・・何ですか」

声が、自分のものではないようだった。

灯子は答えた。

「出たよ」

「頼んでません」

「うん」

「いりません」

「うん」

灯子は、いつものように頷くだけだった。それが余計に怖かった。

「下げてください」

「食べるかどうかは、澪さんが決める」

「なら、食べません」

「うん」

「聞いてますか」

灯子は、器の横に箸を置いた。

澪はカウンターに近づいた。肉じゃがは、祖母の器に盛られていた。白地に細い青の線が入った古い器。子どもの頃、澪はこの器を割りそうになって祖母に叱られたことがある。

じゃがいもは、煮崩れる手前。にんじんは少し薄い。牛肉は脂身が少ない。玉ねぎは、形が残るぎりぎりのところで煮えている。

澪は息を止めた。

「どうして、この味を」

「私が作ったんじゃない」

「じゃあ、誰が」

「出たの」

灯子はそれ以上言わなかった。

澪は器を見つめた。この食堂では、客が失くした記憶に結びついた料理が出る。

では、これは何だ。

澪が忘れたもの。

忘れたことにしてきたもの。

見ないようにしてきたもの。

肉じゃが。

母に出した、あの夜の料理。

「私は、食べないって言いました」

「うん」

「何度も」

灯子は、澪を見ていた。

「それなのに、どうして」

灯子は静かに言った。

「食べないと言えるところまで来たからじゃないかな」

澪は灯子を睨んだ。

「意味が分かりません」

「食べないって言える人は、皿を見てる」

澪は、言葉を返せなかった。

確かに、自分は今、皿を見ている。

何もなかったことにはできないほど、はっきりと。

灯子は箸を置いた。

一口だけ、思い出す

澪の胸が、強く鳴った。

「思い出したくありません」

「うん」

「思い出しても、何も戻らないんでしょう」

「戻らない」

「じゃあ、意味ないじゃないですか」

灯子は、少しだけ目を伏せた。

「意味があるかどうかは、思い出す前には決められないよ」

澪は笑いそうになった。笑えなかった。

「ひどいですね」

「うん」

「本当に、ひどい」

灯子は、肉じゃがの湯気を見ていた。

「あなたも、食べてないくせに」

灯子の手が、ほんの少し止まった。

澪は言ってしまってから、後悔した。けれど、取り消さなかった。

灯子は怒らなかった。ただ、厨房の奥へ視線を向けた。

そこには、昨日の鯖の味噌煮の器が置かれていた。

もう湯気はない。

けれど、片づけられてもいない。

「そうだね」

灯子は言った。

「私も、まだ食べてない」

その言葉で、澪の怒りは行き場を失った。

澪はカウンターの椅子に座った。目の前に、肉じゃががある。

箸を取る。

手が震える。

灯子は何も言わない。

店の外では、雨が暖簾を濡らしている。時計の針が、かちりと動いた。

澪はじゃがいもをひとつ、箸で割った。

中まで味が染みている。

食べれば、戻る。

何が戻るのか、澪はもう分かっていた。

それでも、箸を口へ運んだ。

一口。

瞬間、店の音が遠のいた。

雨の音も、時計の音も、換気扇の音も、灯子の息遣いも、すべて薄くなった。

代わりに、別の音が戻ってきた。

葬儀場のざわめき。

黒い靴が床を踏む音。

親戚たちの小さな会話。

誰かが鼻をすする音。

母の声のない横顔。

祖母の葬儀の日。

澪は二十歳だった。喪服の襟が苦しくて、何度も指で直していた。母は受付の近くに立ち、来る人ひとりひとりに頭を下げていた。

泣いていなかった。

祖母の遺影の前でも、出棺の時も、母は一度も泣かなかった。

泣かない母を、澪は少し責めていた。

どうして泣かないの。

おばあちゃんが死んだのに。

あんなに、おばあちゃんのことを避けていたくせに。

最後まで、そんな顔をするの。

親戚たちが帰り、食堂へ戻った時には、夜になっていた。ふかまち食堂は暗かった。椅子は机の上に上げられたまま。棚には湯呑みが並び、厨房には祖母の鍋が残っている。

もう祖母はいないのに、店だけは祖母が少し席を外しているような顔をしていた。

母はカウンターの席に座っていた。喪服のまま。背中を丸めず、ただまっすぐ座っていた。

澪は気づいていた。

母が一日中、何も食べていないことに。

親戚が出した弁当にも手をつけなかった。斎場で出されたお茶も、ほとんど飲まなかった。

何か食べて。

そう言えばよかった。

でも、その一言が言えなかった。

代わりに、澪は厨房へ入った。祖母の黒い鍋を出した。じゃがいもをむいた。にんじんを切った。玉ねぎを薄く切った。牛肉は、冷凍庫に少しだけ残っていた。

肉じゃがを作った。

祖母が、母の誕生日の前日に言っていたことを思い出して。

千佳は甘いの苦手やからな。

砂糖は少なめ。

しょうゆ、ちょっとだけ強め。

牛肉も、脂んとこ残すから、赤いとこ多いやつな。

祖母は笑っていた。

澪はその時、祖母が母のことをちゃんと覚えているのだと思った。母は祖母の食堂を嫌っていた。祖母のことを、最後まで少し距離を置いて「ハルさん」と呼んでいた。

それでも祖母は、母の味を覚えていた。

そのことを、母に渡したかった。

おばあちゃんは、お母さんのことを忘れてなかったよ。

ちゃんと覚えてたよ。

そう言いたかった。

鍋の中で、じゃがいもが煮えていく。澪は火を止めるタイミングを間違えないように、何度も箸を入れた。

煮崩れる手前。

母が嫌がらないように。

祖母が覚えていた味になるように。

器に盛って、母の前に置いた。

湯気が上がった。

母は、しばらく動かなかった。

それから、匂いで気づいた。

祖母の味だと。

母の顔が、歪んだ。

母は器を見た瞬間、怒った顔をしたのではなかった。

逃げ場を探す人の顔をした。

その顔を見た時、澪は初めて、自分が何かを渡したのではなく、何かを突きつけてしまったのかもしれないと思った。

「やめて」

その声は、初めて聞く声だった。

澪は固まった。

「お母さん」

「今さら、そんなもの出さないで」

「これ、おばあちゃんが」

「やめてって言ってるでしょ」

母は箸に触れなかった。

澪は、説明しようとした。

「おばあちゃん、覚えてたんだよ。お母さんの味。甘いの苦手だからって、しょうゆを」

「覚えてたなら」

母の声が震えた。

「どうして、生きてるうちに言わなかったの」

澪は何も言えなかった。

その時の澪には、母が怒っているようにしか見えなかった。けれど今なら、あれは怒りだけではなかったのだと思う。

受け取る場所を失った人の声だった。

母は肉じゃがを見なかった。見たら壊れるものを避けるように、顔をそむけた。

「そんなもの」

母は言った。

「作らなくてよかったのに」

その言葉だけが、店の中に残った。

澪は、母が席を立つのを見ていた。止められなかった。母が奥の部屋へ入っていく。襖が閉まる。

食堂には、澪と肉じゃがだけが残った。

湯気が少しずつ薄れていく。

澪はしばらく、その皿を見ていた。

食べてもらえなかった料理。

祖母の愛を渡すはずだった料理。

母に届くはずだった料理。

自分が作った料理。

それが、ただの余計なものになった。

澪は皿を持って、流しの前に立った。

捨てられなかった。

でも、食べることもできなかった。

鍋にはまだ少し残っている。

母のために、祖母の味で作った肉じゃが。

澪は鍋ごと流しへ持っていった。

泣かなかった。

泣くと、料理を惜しんでいるみたいで嫌だった。

自分の気持ちが傷ついたことを認めるみたいで嫌だった。

澪は黙って、肉じゃがを捨てた。

じゃがいもは、思ったより重い音を立てて流しに落ちた。

にんじんが排水口の縁で止まった。

玉ねぎが水にほどけて、牛肉のかけらが銀色の底に貼りついた。

煮汁は水に薄まりながら、それでもまだ肉じゃがの匂いをしていた。

澪は蛇口を強くひねった。

水音が大きくなる。

それでも、匂いはすぐには消えなかった。

甘さを控えたしょうゆの匂い。

祖母が母のために覚えていた匂い。

自分が、いらないものにしてしまった匂い。

澪は水を出し続けた。

消えてほしかった。

流れてしまえば、最初から作らなかったことにできる気がした。

でも、流しの底でじゃがいもが崩れる音だけは、いつまでも耳に残った。

忘れたことにしていただけだった。

視界が戻った時、澪は忘れもの食堂のカウンターに座っていた。箸を持つ手が震えている。目の前の肉じゃがは、一口分だけ減っていた。

灯子は何も言わなかった。

澪は息を吸った。喉が痛い。涙は出ていなかった。それが余計に苦しかった。

「・・・捨てた」

澪は言った。

自分の声が、遠く聞こえた。

「全部、捨てたんです」

灯子は静かに頷いた。

「食べられなかったから」

「うん」

「お母さんが食べなかったからじゃない」

澪は器を見つめた。

私が、食べられなかった

その言葉を口にした瞬間、胸の奥に長く詰まっていたものが、少しだけ崩れた。

あの夜、母の箸だけではなかった。

澪の箸も、一度も皿へ伸びなかった。

食べてもらえなかった料理を、澪自身も食べなかった。

祖母が母を覚えていた味を。

自分が母に渡そうとした時間を。

あの皿に込めたものを。

自分で、流しに捨てた。

食べてもらえなかったから。

なかったことにしたかったから。

そう思った瞬間、舌の奥に、あの時の水道水の冷たさが戻った。

肉じゃがの味ではなく、流そうとした水の味だった。

澪は箸を置こうとした。

もう十分だった。

一口だけ、思い出した。

痛いところは戻った。

これ以上、何を食べる必要があるのか。

けれど、器の中の肉じゃがはまだ温かかった。

二口目からは、ただの料理。

昨日まで、何度も見てきた。

一口目だけが、記憶を戻す。

二口目は普通の味になる。

澪は、箸をもう一度取った。

灯子が、ほんの少しだけ顔を上げた。

澪は、じゃがいもをひとつ取った。

二口目。

何も起きなかった。

母の声も、祖母の声も、流しの音も戻らない。

ただ、肉じゃがの味がした。

しょうゆが少し強い。

甘さは控えめ。

じゃがいもは柔らかいが、崩れすぎていない。

牛肉は脂が少なく、少しぱさついている。

母のための味。

祖母が覚えていた味。

澪が捨てた味。

澪は三口目を食べた。今度は、にんじん。薄く切られている。

母が、にんじんを厚く切ると残していたから。

祖母がそう言っていたのを、澪は覚えている。

四口目。

玉ねぎ。

甘い。

五口目。

牛肉。

少し硬い。

澪は食べ続けた。

涙は、なかなか出なかった。

それでも、食べた。

食べても、過去は変わらない。母があの夜の肉じゃがを食べたことにはならない。祖母が生き返るわけでもない。澪が捨てた鍋の中身が戻るわけでもない。

それでも、食べた。

器の底が見え始めた頃、ようやく涙が落ちた。

一滴だけ。

煮汁の残った器の縁に落ちた。

澪は、箸を置かなかった。

最後のじゃがいもまで食べた。

最後に、煮汁を少しだけ飲んだ。

器の中が空になった。

澪は、しばらくそれを見つめていた。

空の器。

白い小皿ではない。

何かが確かに盛られて、確かに食べ終わった器。

澪は小さく言った。

けれど、言葉はすぐには出てこなかった。

喉の奥で何度も引っかかり、そのたびに、あの夜の流しの音が戻ってきた。

じゃがいもが落ちる音。

水で薄まる煮汁の匂い。

捨てたくせに、消えてくれなかったもの。

澪は、ようやく声にした。

「食べてもらえなかったからって」

声が震えた。

「作った気持ちまで、消えるわけじゃない」

言ってから、澪はその言葉を自分が本当に信じているのか分からなかった。分からないまま、空になった器を見ていた。

それでも、さっきまで器の中にあったものを、もうなかったことにはできなかった。

灯子は何も言わなかった。頷きもしなかった。ただ、澪の前に水を置いた。

その沈黙が、澪にはありがたかった。

言葉にされると、壊れてしまいそうだった。

しばらくして、澪は顔を上げた。厨房の奥で、灯子が何かを取り出していた。

鯖だった。

銀色の皮が、店の明かりを少しだけ返している。

澪は水を飲んだ。

「作るんですか」

灯子は、鯖をまな板に置いた。

「うん」

「食べるんですか」

灯子は答えなかった。包丁を取る。

澪は、もう一度聞こうとした。

やめた。

食べるかどうかは、灯子が決めることだ。

澪は、自分の空の器を持って立ち上がった。

「洗います」

「置いておいていいよ」

「洗います」

澪は流しへ行き、器を洗った。

煮汁が水に流れていく。

あの夜とは違う。

これは、捨てているのではない。

食べ終えた皿を洗っている。

それだけのことが、こんなに違う。

器を洗い終えると、澪はスマートフォンを取り出した。母の名前を開く。

深町千佳。

通話ボタンではなく、メッセージ画面を開いた。

しばらく考えて、文字を打つ。

明日、少しだけ寄ります。

送信。

画面に表示された短い一文を見て、澪は息を吐いた。返信はすぐには来なかった。

それでよかった。

灯子は、鯖に塩を振っていた。手元は少しだけ震えていた。

澪は何も言わなかった。

外では、雨がやんでいた。



エピローグ もう一度、作る


翌朝、澪は米を研いだ。

久しぶりだった。一人暮らしを始めてから、米を炊く回数はずいぶん減っていた。パックごはんで済ませることも多かったし、仕事で惣菜を見すぎた日は、食べること自体が面倒になった。

けれど、その朝は米を研いだ。

水を替えるたびに、白く濁った水が少しずつ澄んでいく。祖母は、米は研ぎすぎたらあかんと言っていた。力を入れすぎると割れるから、手のひらで軽く回すだけでいい。

澪は、その通りにした。

炊飯器のスイッチを押す。

それから、じゃがいもの皮をむいた。

祖母の黒い鍋は使わなかった。使おうと思えば、実家にあるかもしれない。母が捨てていなければ。

でも今日は、自分の部屋にある小さな片手鍋を使うことにした。

母のために作る肉じゃが。

でも、祖母の鍋ではない。

それが、澪には少しだけ大事なことのように思えた。

じゃがいもを切る。にんじんは薄めに。玉ねぎは形が残るくらい。牛肉は、脂身の少ないものを選んだ。

砂糖は少なめ。

しょうゆは少し強め。

鍋の中で、煮汁が小さく揺れた。

ことこと、と音がする。

澪は、その音を聞きながら、母からの返信を待たなかった。昨夜送ったメッセージには、まだ返事がなかった。既読になっているかどうかも見ていない。

見ると、そこに自分の期待が全部集まってしまいそうだった。

食べるかどうかは、母が決める。返事をするかどうかも、母が決める。会うかどうかも、母が決める。

でも、作るかどうかは、澪が決められる。

肉じゃがが煮える間、澪は台所に立っていた。何度も箸を入れたくなった。煮崩れる手前で止めなければと思った。

けれど、今日は少しだけ崩れてもいい気がした。

完璧に祖母の味でなくてもいい。

母が覚えている味と違ってもいい。

澪が作る肉じゃがなのだから。

火を止める。少し冷ます。味が落ち着くのを待つ。

保存容器に詰める時、澪は一口だけ味見をした。

普通の肉じゃがだった。

魔法はなかった。

記憶も戻らなかった。

それでも、悪くなかった。

白いごはんも、小さな容器に詰めた。迷った末に、卵焼きも少し焼いた。甘さは控えめにした。

少しだけ焦げた。

澪は焦げた端を切り落とそうとして、やめた。

そのまま詰めた。

紙袋に容器を入れ、短いメモを書いた。

甘さ、控えめにしました。

それだけ。

澪は何度か読み返した。ごめんね、とは書かなかった。食べてね、とも書かなかった。おばあちゃんの味です、とも書かなかった。

甘さ、控えめにしました。

今の澪に書けるのは、それだけだった。

母の住むマンションは、駅から少し離れた場所にあった。澪が子どもの頃に住んでいた家ではない。祖母の食堂からも遠い。

母は祖母が亡くなったあと、しばらくしてそこへ引っ越した。澪は数えるほどしか訪ねていない。

エントランスで部屋番号を押す。応答はなかった。澪はもう一度押そうとして、やめた。

管理人室の前を通り、エレベーターに乗る。

母の部屋の前まで来ると、廊下は静かだった。隣の部屋からテレビの音がかすかに聞こえる。ドアの横には、折り畳まれた傘と、読み終えたらしいスーパーのチラシが輪ゴムで留められて置かれていた。

澪はドアの前に立った。

紙袋が、急に重く感じた。

インターホンを押せばいい。母が出てくるかもしれない。出てこないかもしれない。

ドア越しに「そこに置いといて」と言われるかもしれない。

「何これ」と困られるかもしれない。

澪は、深く息を吸った。

インターホンを押した。

音が、部屋の中へ消えていく。

少し待った。

返事はなかった。

もう一度押すこともできた。けれど、澪は押さなかった。

紙袋を、ドアの横に置いた。

食べなくてもいいと思った。
でも、食べてほしいとも思った。

その二つが同じ場所にあることを、澪はもう消さなかった。

邪魔にならないように、少し内側へ寄せる。メモが見えるように、上に置いた。

甘さ、控えめにしました。

澪はその文字を見て、なぜか少し笑った。

それから、ドアに向かって小さく言った。

「置いていくね」

返事はなかった。

澪はエレベーターの方へ歩いた。振り返らないつもりだった。けれど、廊下の角を曲がる前に、一度だけ振り返った。

紙袋は、まだそこにあった。

ドアは閉まったまま。

それでよかった。

澪はエレベーターに乗り、マンションを出た。

外は晴れていた。雨上がりの空気に、どこかの家の洗濯物の匂いが混ざっている。道路脇の植え込みには、小さな水滴が残っていた。

澪は駅へ向かって歩いた。途中で、スマートフォンが震えた。

鞄の中で鳴っただけで、画面は見なかった。

母かもしれない。

職場かもしれない。

ただの通知かもしれない。

澪は、すぐには確認しなかった。

見ないでいられることを、少しだけ誇らしく思った。

そのすぐあとで、見たくてたまらない自分に気づいた。

見たら、食べてほしいと思っている自分まで見えてしまう気がした。

返事はいらない、と言い切れるほど、澪はまだ強くなかった。けれど、返事がないなら失敗だと決めつけるほど、昔のままでもなかった。

紙袋の中身をどうするかは、母のものだった。

それでも、置いてきたことだけは、もう澪のものだった。

駅前のスーパーの横を通ると、惣菜売り場からコロッケの匂いがした。

ふと、大崎修一のことを思い出した。

息子に連絡したのだろうか。していないかもしれない。記憶は、もう薄れてしまったかもしれない。

それでも、半額コロッケの夜が消えたとは言い切れない。

商店街の角を曲がると、ふかまち食堂の跡が見えた。

昼間の店は、やはり閉まっていた。

シャッター。

貼り紙。

看板の跡。

暖簾はない。

澪はしばらく、その前に立った。

昨日の夜、忘れもの食堂で食べた肉じゃがの器を思い出した。

空になった器。

洗い流した煮汁。

鯖に塩を振る灯子の手。

灯子は、あのあと鯖の味噌煮を食べただろうか。

分からない。

ほんの一瞬、鯖の味噌煮の匂いがした気がした。けれど、澪は確かめなかった。

分からないことを、無理に答えにしなくていいのかもしれない。

澪はシャッターに貼られた紙を見た。

長らくありがとうございました。

その紙の端が、風で揺れている。

澪は、紙に触れなかった。

祖母の食堂を継げるかどうかは、まだ分からない。継ぐべきなのかも、分からない。忘れもの食堂が今夜も現れるのかどうかも、分からない。

でも、分からないままでも、今日の夕飯は作れる。

澪は家に帰った。

台所には、肉じゃがを作ったあとの小さな鍋が残っていた。中は空だった。洗おうとして、朝はそのままにして出てきたのだった。

澪はスポンジに洗剤をつけた。鍋の内側を洗う。煮汁の跡が少しこびりついている。

焦げではない。

けれど、こすらないと落ちない薄い跡だった。

澪は丁寧に洗った。水で流し、布巾で拭く。

空になった鍋は、軽かった。

スマートフォンは、まだ鞄の中で黙っている。澪は取り出さなかった。

紙袋は、まだドアの横にあるかもしれない。中を見られないまま、冷めているかもしれない。捨てられているかもしれない。

それを考えると、指先が少し止まった。

それでも、澪は米びつを開けた。

明日の分の米を量った。

一合。

ボウルに入れ、水を注ぐ。

指先で、米をやさしく回す。

一口目の魔法はもうなかった。

それでも、澪は明日の分の米を研ぐ。




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