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影の家系

note創作大賞2026 エンタメ原作部門 応募作品

【あらすじ】

久遠ゼロの教室に、ある朝、ゼロと同じ顔をした“影”が現れる。

影はゼロより感じがよく、空気が読めて、誰も困らせない。やがて影は、ゼロの席、名前、文化祭での役割、そして宮影ナミへの想いまで、ゼロより先に“正しい形”で奪っていく。

影は、本人が否定した本音を、周囲に受け入れられる形で先回りする存在だった。

居場所を失い、文化祭当日には自分こそが偽物として扱われるゼロ。だが彼は、好かれたい、逃げたい、勝ちたい、取られたくないという醜い本音を、自分の口で引き受ける。

感じのいい偽物に人生を奪われた少年が、みっともない本物として名前を取り返す、学園ダークサスペンス。





第1話 影が、俺より先に本物になった


朝の教室は、まだ少し眠っている。

机の上に置きっぱなしの教科書。
椅子を引く音。
窓から入る薄い光。
誰かのあくび。
誰かの笑い声。

いつもと同じ朝だった。

違ったのは、俺の席に、俺が座っていたことだ。

いや。

俺じゃない。

でも、俺の顔をしていた。

俺の制服を着ていた。
俺と同じ髪型で。
俺と同じ目で。
俺と同じように、少し猫背で。

それなのに、俺よりずっと感じよく座っていた。

俺の席に、俺より先に“正しい俺”が座っていた。

ただ座っているだけなのに、その机まであいつのものに見えた。
机の傷も、椅子の高さも、窓から入る朝の光も。
全部が、そいつを久遠ゼロとして受け入れているみたいだった。

俺は教室の入口で止まった。

鞄のひもが、肩に食い込む。

誰も騒いでいない。

前の席の男子は普通にスマホを見ている。
斜め前の女子は友達と話している。
文化祭男子は黒板の前で、今日の準備の予定を確認している。

誰も、俺の席に俺が座っていることを変だと思っていない。

「おはよう、久遠」

前の席の男子が、席に座っている俺に言った。

影の俺は、顔を上げた。

「おはよう」

声まで、俺だった。

でも、言い方が違った。

ちゃんと相手の目を見る。
声の大きさもちょうどいい。
朝の教室に引っかからない。

俺なら、たぶん「……おはよう」くらいで済ませる。
相手の目を見すぎると気まずいし、見ないと感じ悪い。
その中間を探して失敗する。

でも、そいつは失敗しなかった。

「今日、文化祭準備あるんだっけ」

前の席の男子が聞く。

「ある。放課後、受付表の確認と買い出しの分担」

影の俺は、机の上のプリントを軽く押さえながら答えた。

「助かる。俺、予定全然見てなかった」

「たぶんみんな見てない」

そう言って、影の俺は少し笑った。

強すぎない。
弱すぎない。
相手を責めない。
でも、少しだけ本音っぽい。

前の席の男子も笑った。

「それな」

俺は、まだ入口に立っていた。

何だこれ。

何だ、これ。

自分の席に、自分より感じのいい自分が座っている。

それだけなら、まだ怖がれた。

でも違う。

そいつは、ちゃんと馴染んでいた。

朝の教室に。
俺の机に。
俺の名前に。

「久遠?」

斜め前の女子が、俺を見た。

正確には、入口に立っている俺を見た。

眉をひそめる。

「……え?」

その声で、何人かがこっちを見る。

影の俺も、ゆっくりこちらを見た。

目が合った。

俺の顔。
俺の目。
俺の表情。

でも、そこにいたのは俺じゃない。

影の俺は、困ったように笑った。

その笑い方まで、腹が立つくらい自然だった。

「おはよう」

俺に向かって言った。

俺の声で。

教室が、少しだけざわついた。

「え、何?」
「久遠が二人?」
「双子?」
「いや、そんな話聞いたことないけど」

軽いざわめき。

でも、パニックではない。

文化祭前の朝に、ちょっと変なことが起きたくらいのざわめき。

俺だけが、息の仕方を忘れていた。

「そこ」

ようやく声が出た。

思ったより低かった。

「俺の席だ」

影の俺は、机に置いた手を少しだけ引いた。

「うん」

「うん、じゃねえよ」

「ごめん。でも、ここが一番自然だったから」

一番自然。

その言い方に、胃がねじれた。

「自然って何だよ」

「君の席だから」

「だから俺の席だって言ってるだろ」

「うん。だから、座ってた」

教室の空気が、少し笑いそうになって、でも笑えずに止まった。

文化祭男子が近づいてくる。

「え、マジでどういう状況?」

「俺が聞きたい」

「どっちが久遠?」

俺は即答した。

「俺」

影の俺も、ほぼ同時に言った。

「俺」

声が重なった。

同じ声だった。

その瞬間、教室のざわめきが一段深くなる。

前の席の男子が、俺と影の俺を見比べる。

「いや、顔同じじゃん」

「同じじゃねえよ」

「いや同じだろ」

「同じだから言ってんだろ」

自分でも意味が分からない。

言葉が滑る。
焦れば焦るほど、俺の方が変に見える。

影の俺は、立ち上がった。

動き方まで、俺より静かだった。

椅子を引く音が小さい。
机にぶつからない。
周囲を困らせない。

それだけで、そいつの方が正しく見える。

「ごめん」

影の俺は言った。

「混乱させるつもりはなかった」

俺は笑いそうになった。

混乱させるつもりはなかった。

そう言えば、混乱させた側じゃなくなる。

困った人。
場を収めようとしている人。
みんなのために謝れる人。

俺の顔で、そういう位置に立つな。

「お前、誰だよ」

俺が言うと、影の俺は少しだけ首を傾げた。

「久遠ゼロ」

その名前を聞いた瞬間、胸の奥が冷たくなった。

「違う」

「違わない」

「違う」

「じゃあ、君は?」

「俺が久遠ゼロだ」

「うん」

影の俺は、静かにうなずいた。

「だから、俺も久遠ゼロ」

教室が、またざわつく。

「何それ」
「怖」
「ドッキリ?」
「文化祭の演出?」

誰かが笑った。

誰かがスマホを向けかけた。

俺はそっちを睨む。

スマホは下がった。

その睨み方が、たぶん感じ悪かった。

影の俺は、そういう顔をしなかった。

宮影ナミが教室に入ってきたのは、その時だった。

ナミは、廊下側の扉から入ってきて、すぐに立ち止まった。

俺を見る。
影の俺を見る。

また俺を見る。

目が揺れた。

ナミは、何か言おうとして、言えなかった。

その顔を見て、俺の中の何かが少し沈む。

ナミに変なものを見せている。

そう思った。

いや、俺が見せているわけじゃない。

でも、俺の顔をしたものが、俺の席にいる。

ナミにとっては、どちらも俺の顔だ。

「宮影」

俺が言う。

声が少し荒かった。

ナミの肩が、小さく揺れる。

影の俺が、先に言った。

「おはよう、宮影さん」

丁寧だった。

近すぎない。
遠すぎない。
昨日までの距離を壊さない。

ナミの肩が、ほんの少しだけ下がった。

返事を受け取るなら、たぶんこっちの方が楽なんだ。

そう気づいたみたいな顔だった。

ナミはすぐに俺を見た。

見てしまったことを、俺に見られたみたいな顔で。

「……おはよう」

ナミは言った。

どちらに向けたのか、分からなかった。

それが一番きつかった。

「宮影」

俺はもう一度呼ぶ。

「そいつ、俺じゃない」

ナミは困った顔をした。

「分かってる」

「本当に?」

「分かってる、と思う」

と思う。

その曖昧さが、胸に刺さる。

影の俺は、何も言わない。

言わないことで、俺の方が追い詰められていく。

「ゼロくん」

小さな声がした。

影守マユだった。

マユは教室の後ろで、紙袋を抱えていた。
文化祭用の飾りが入っているらしい。

マユは、影の俺の方へ少しだけ早く話しかけていた。

「ゼロくん、今日なんか話しやすいね」

言ったあとで、マユは俺の方を見た。

悪いことを言った顔ではなかった。

ただ、本当に少し安心した顔だった。

その顔が、一番きつかった。

話しやすい。

俺より。
こいつの方が。

「マユ」

アカネが横から声をかけた。

疾影アカネ。

いつも通り、少し乱暴に教室へ入ってくる。

「朝から何言ってんの」

「え、だって」

マユは困った顔をする。

アカネは俺と影の俺を見比べた。

「うわ」
その一言だけだった。

「うわ、じゃねえよ」
俺が言うと、アカネは眉をひそめる。

「いや、うわでしょ。何これ」
「知らない」
「知らない顔で二人いるな」
「だから知らないって言ってる」

アカネは影の俺を見る。

「で、そっちは?」
影の俺は、軽く頭を下げる。

「久遠ゼロ」
「同じこと言うな。増えるな。怖い」

少しだけ教室に笑いが起きた。

アカネは笑っていなかった。
その目だけが、ちゃんと俺を見ていた。

「本物、どっち?」

俺は答えた。

「俺」

影の俺も言った。

「俺」

また重なる。

アカネは舌打ちした。

「めんどくさ」

「俺が一番そう思ってる」

「だろうね。顔がもう最悪」

「うるさい」

その時、教室の前の扉が開いた。

古影久美先生が入ってきた。

高校の女教師。
担任。
知的で、いつも整っている人。

久美先生は教室の空気を見て、すぐに立ち止まった。

俺を見る。
影の俺を見る。

そして、最初に足元を見た。

俺の足元。
影の俺の足元。

次に、窓ガラスを見た。

最後に、俺の顔を見る。

その順番が、普通じゃなかった。

「……そう」

久美先生は小さく言った。

「先生」

文化祭男子が言う。

「久遠が二人いるんですけど」

「見れば分かるわ」

冷静すぎる。

教室がまたざわつく。

久美先生は、影の俺に近づいた。

「名前は?」
「久遠ゼロです」
「そう」

それから俺を見る。

「あなたは?」
「久遠ゼロです」
「そう」

同じ質問。同じ答え。

久美先生は、少しだけ目を伏せた。

「今日は文化祭準備があるわ。混乱は後で整理しましょう」

「後でって何ですか」

俺が言うと、久美先生は俺を見た。

「今、ここで騒いでも、あなたの味方になるとは限らない」

その言葉は、冷たかった。

でも、たぶん正しかった。

今の教室で騒げば騒ぐほど、俺の方が面倒なやつに見える。

影の俺は、黙っている。
感じよく。
困ったように。
みんなのために場を荒らさない顔で。

「じゃあ、どうしろって言うんですか」
俺は言った。

「俺の席に、俺じゃないやつが座ってるんですけど」

久美先生は、少しだけ黙った。

「席は、あとで調整するわ」
「調整?」
「ええ」
「俺の席を?」
「今は授業前よ」

そういう言い方をされると、俺の方が子どもになる。

俺は黙った。

影の俺が、静かに言った。

「俺、後ろの空いてる席に移るよ」

全員がそちらを見る。

感じがよかった。

あまりにも感じがよかった。

「混乱させたなら悪かった」
影の俺は、机の上のプリントをそろえた。

「久遠が嫌なら、俺が動く」

久遠が嫌なら。

その言い方。

俺を久遠として扱いながら、自分も久遠として残る言い方。

ずるい。

前の席の男子が言った。

「いや、でもさ」

そこで言葉が止まる。

どう言えばいいのか分からない顔だった。

たぶん、こう言いたかったのだ。

今朝の久遠、そっちの方が助かる。

でも、それは言えない。

言えないだけで、教室の空気には出ていた。

影の俺は、後ろの空席へ移動しようとした。

俺は反射的に言った。

「動くな」

影の俺が止まる。

「そこに座られても嫌だけど、勝手に譲られるのも嫌だ」

教室が静かになる。

自分でも面倒くさいと思う。

座るな。
でも譲るな。

どうしろって言うんだ。

分からない。

でも、嫌だった。

影の俺が、俺の感情を処理して、みんなが困らない形へ変えるのが。

「じゃあ、どうしたい?」

影の俺が聞いた。

優しい声だった。

その声が、嫌だった。

「俺が聞きたい」

俺は言った。

「お前、何なんだよ」

影の俺は、少しだけ目を細めた。

笑っているようにも、困っているようにも見えた。

「影」

誰かが言った。

声は、サヤだった。

結影サヤ。

教室の後ろ、窓際に立っていた。

いつからいたのか分からない。

妖艶という言葉が似合うような、少し大人びた雰囲気の女子。
いつも周囲から半歩離れている。

サヤは、俺と影の俺を見比べて言った。

「それ、たぶん影よ」

教室が静かになる。

「影?」

俺が聞く。

「そう。本人が持てなかったものを、代わりに持つもの」

久美先生の眉が、ほんの少しだけ動いた。

サヤはそれを見て、笑わなかった。

「詳しくは知らない。知ってても、今ここで言うと余計に面倒」

「じゃあ言うなよ」

「言わないと、あんたがもっと面倒になるから」

「もうなってる」

「でしょうね」

サヤは影の俺を見る。

影の俺は、初めて少しだけ表情を消した。

本当に一瞬。

でも見えた。

サヤの言葉に、反応した。

影。

その言葉だけは、あいつの輪郭に触れた。

俺は足元を見る。

俺の影は、ちゃんと床にある。

でも、少し薄い気がした。

影の俺の足元にも、影がある。

いや。

あるように見える。

窓から入る光の向きと合っていない。

「……気持ち悪」

思わず言う。

影の俺は、困ったように笑った。

「傷つくな」

「傷つけてんだよ」

「そう」

その返し方が、また俺より大人だった。

久美先生が手を叩いた。

一度だけ。

「授業を始めます」

教室がざわつく。

「先生、これ放置ですか?」

文化祭男子が言う。

「放置ではありません。保留です」

「保留」

「今すぐ全員が納得できる答えは出ません」

久美先生は、黒板に向かいながら言った。

「でも、今日一日で何が起きるかは見える」

その言い方が、妙に冷たかった。

俺は席に向かう。

影の俺は、結局、俺の席から少し離れた空席に座った。

俺の席は戻った。

戻ったはずだった。

でも、机に手を置いた瞬間、違和感があった。

さっきまであいつが座っていた机。

俺の席なのに、少しだけ俺のものじゃなくなっている。

椅子に座る。

机の傷を見る。

昨日まで何でもなかった傷が、あいつに触られたあとみたいに見えた。

気持ち悪い。

でも、授業は始まる。

黒板に文字が書かれる。
チョークの音がする。
誰かが教科書を開く。

普通の時間が、無理やり上からかぶせられていく。

その間も、教室の後ろに影の俺がいる。

同じ顔で。
同じ制服で。
俺より姿勢よく。

何度も振り向きそうになる。

でも振り向いたら負ける気がした。

休み時間になると、影の俺の周りに何人かが集まった。

怖いもの見たさ。
好奇心。
でも、少しずつ普通の雑談に変わっていく。

「マジで久遠なの?」
「双子じゃないの?」
「声も同じじゃん」
「でも今日の久遠、なんか話しやすい」

話しやすい。

また、その言葉。

マユが、影の俺に紙袋を渡していた。

「これ、文化祭の飾り。持っててくれる?」

「いいよ」

「ありがとう」

マユは少しだけ笑った。

俺には、その笑顔が痛かった。

別にマユは悪くない。
重い袋を持ってくれる相手に笑っただけだ。

でも、その相手が俺の顔をしている。

それだけで、全部が嫌になる。

アカネが俺の席に来た。

「顔」
「また?」
「朝からずっと最悪」
「知ってる」
「知ってるなら戻せ」
「戻せるなら戻してる」

アカネは影の俺を見る。

「でも、あれ放っておくと、たぶんやばいよ」
「知ってる」
「知ってる多いな」
「他に言うことがない」

アカネは少しだけ黙った。

それから、声を落とした。

「ナミ、見てる」

俺は反射でナミの方を見た。

ナミは、影の俺を見ていた。

ほんの少しだけ。

でも、見ていた。

影の俺がマユに紙袋を持ってやり、前の席の男子にプリントを渡し、文化祭男子に受付表の確認をしている。

それを見ていた。

その顔は、安心しているようにも見えた。

苦しそうにも見えた。

どちらか分からない。

分からないのが、一番嫌だった。

「ナミ」

俺が呼ぶと、ナミはすぐこちらを向いた。

すぐ向いたのに、遅かった気がした。

「何?」

「そいつ見るな」

言ってから、自分でも最悪だと思った。

命令みたいだった。

ナミの顔が少し固くなる。

「見てたらだめなの?」

「だめ」

「どうして」

「俺の顔だから」

沈黙。

言ってしまってから、胸の奥が冷えた。

俺の顔だから。

それは理由になっているようで、全然なっていない。

ナミは少しだけ目を伏せた。

「ゼロくん」

「何」

「そういう言い方、怖い」

刺さった。

言い返せない。

俺が怖い。

影の俺は怖くない。

それが現実だった。

「悪い」

小さく言った。

ナミは驚いた顔をした。

俺が謝ると思っていなかったのかもしれない。

俺も思っていなかった。

影の俺が、こちらを見た。

その目が、一瞬だけ細くなる。

俺がナミに謝ったことを、覚えた顔だった。

スマホが震えた。

机の上。

通知。

ナミからだった。

いや、違う。

俺のスマホに、ナミとのトーク画面が表示されている。

送信済みの文字があった。

俺は送っていない。

昨日はちゃんと礼を言えなかったから。
俺は、お前のそういうとこ、前から好きだよ。
今度ちゃんと話したい。

スマホの画面に残ったものは、言い訳できない。

言った。
送った。
既読になった。

それだけで、俺がやったことになる。

俺は、息が止まった。

送信時刻は、さっき。

俺は授業中も休み時間も、そんな文を打っていない。

それなのに、送信済み。

既読。

その下に、ナミの返信があった。

ちゃんと話そう、久遠くん。

視界が揺れる。

俺は顔を上げた。

ナミもスマホを見ていた。

顔が白い。

影の俺は、教室の後ろで、俺の方を見ていた。

困ったように。
優しく。
少し申し訳なさそうに。

俺の顔で。

俺はスマホを握りしめた。

「返せ」

声が出た。

低くて、震えていた。

影の俺は、何も言わない。

「そこだけは」

俺は立ち上がった。

椅子が大きな音を立てる。

教室中がこちらを見る。

「そこだけは、俺の名前で綺麗にやるな」

影の俺は、ゆっくり立ち上がった。

そして、俺と同じ声で言った。

「でも、君が言えなかった」

その声は、静かだった。

正しかった。

だから、殺したいくらい嫌だった。

スマホの画面が、手の中で光っている。

送った覚えのない告白文。

既読。

返信。

俺の恋は、俺より先に、俺の名前で始まっていた。



第2話 影が、俺の名前で告白していた


告白した覚えはないのに、俺はもう、告白した人間になっていた。

スマホの画面には、送った覚えのない文章が残っていた。

昨日はちゃんと礼を言えなかったから。
俺は、お前のそういうとこ、前から好きだよ。
今度ちゃんと話したい。

何度見ても、俺が書いた文章じゃない。

丁寧すぎる。
滑らかすぎる。
相手が困らない場所に、ちゃんと着地している。

俺なら、もっと変な間ができる。

昨日のシャーペンのこと、と打って消す。
礼とか別にいいけど、と打って消す。
好き、なんて文字を打った瞬間にスマホを伏せる。

そういう手順を十回くらい踏んで、それでも送れない。

なのに、画面の中の俺は、ナミが受け取りやすい形で、ちゃんと好意を置いていた。

送信済み。
既読。
返信。

ちゃんと話そう、久遠くん。

その一文が、一番きつかった。

ナミは、返してしまった。

いや、違う。

返してくれた。

その言い方の差だけで、心臓の位置が変わる気がした。

教室は、妙に静かだった。

誰かが何かを察している。

その沈黙の中で、影ゼロは俺の席の近くに立っていた。

勝ち誇っていない。
悪いことをした顔もしていない。

ただ、そこにいる。

それが嫌だった。

あいつの中では、これは処理なのだ。

俺が言えなかったものを。
俺が持てなかったものを。
俺より感じよく、先に出しただけ。

ナミが、ゆっくり顔を上げた。

「これ」

声が少し震えていた。

「ゼロくんが送ったんじゃないよね」

「じゃない」

即答した。

それだけは、即答できた。

送ったのは俺じゃない。
俺じゃない。
俺じゃない。

そう何度も言いたくなるくらい、画面の文章は俺に近かった。

ナミは、ほっとした顔をしなかった。

むしろ、さらに苦しくなった顔をした。

「でも……」

俺は、その続きを聞きたくなかった。

でも、聞かずにはいられなかった。

「でも、何」

ナミは唇を噛む。

言わない。
言えない。

その沈黙の方が、もう答えだった。

「ナミ」

影ゼロが口を開いた。

ナミが、びくっとする。

その呼び方が自然で、腹が立った。

ナミ、と呼べる距離を、俺はまだ持っていない。
俺の中では、まだ宮影だった。

ナミと呼ぶには近すぎるし、宮影と呼ぶには遠すぎる。

そういう中途半端な距離に、ずっと立っていた。

影ゼロは、その距離を勝手に越えていた。

「今は、無理に返事しなくていい」

影ゼロは言った。

「困らせたなら、ごめん」

謝り方まで、ちょうどよかった。

困らせたなら。

相手に逃げ道を残している。
自分の気持ちを押しつけすぎない。
でも、なかったことにもしていない。

全部、うまい。

俺は言った。

「それ、俺の名前で言うな」

影ゼロが俺を見る。

「ゼロ」

「その呼び方もやめろ」

「じゃあ何て呼べばいい?」

穏やかだった。

怒らない。
焦らない。
俺の方が荒く見えるように、静かでいる。

分かっていても、腹が立つ。

「俺の名前でナミに送るな」

影ゼロは、少しだけ目を伏せる。

「言えなかっただろ」

喉が詰まった。

「お前が、言えなかった」

責めていない声だった。
ただ、事実を置いただけの声だった。

だから余計に刺さった。

「だから俺が言った」

教室の空気がざらつく。

ナミが影ゼロを見る。

見ないでほしい。

でも、見ていた。

影ゼロは続ける。

「ゼロが本当に何も思っていないなら、俺には送れない」

「分かったようなこと言うな」

「分かってるんじゃない」

影ゼロは俺を見る。

俺の顔で。
俺より静かな目で。

「出てきただけだ」

その瞬間、足元の影が一度だけ震えた。

俺のものなのか。
あいつのものなのか。
分からない。

久美先生が教室に入ってきたのは、その少し後だった。

古影久美。

手には文化祭の連絡ファイル。

「騒がしいわね」

いつもの声だった。

でも、俺には昨日の視線がまだ残っている。

この人は、影ゼロを見た時、まず足元を見た。
窓ガラスを見た。
俺を最後に見た。

知っている。

たぶん、この人は何かを知っている。

久美先生は教室の空気を見て、すぐに状況をだいたい理解した顔をした。

「文化祭準備は進んでいる?」

誰もすぐには答えない。

文化祭男子が慌てて返す。

「あ、はい。たぶん」

「たぶん、で明日を迎えないように」

「はい」

久美先生は、影ゼロを見た。

そして言った。

「受付代表の件、久遠、確認しておいて」

俺は反射で顔を上げた。

「俺?」

久美先生の視線は、俺ではなく影ゼロへ向いていた。

ほんの一瞬。

でも見えた。

影ゼロがうなずく。

「はい」

自然に。
まるで、もう引き受けている仕事みたいに。

俺は言う。

「俺、引き受けてないんですけど」

久美先生は俺を見る。

長くは見ない。

「そう」

それだけだった。

否定でもない。
驚きでもない。
説明でもない。

ただ、確認しただけ。

久美先生はファイルを置いて、教室を出ていった。

受付代表。

その言葉が、教室の隅に残った。

俺はまだ、ナミへのLINEすら処理できていない。

なのに、影はもう次の役割まで進んでいる。

翌朝、噂はもう形になっていた。

「久遠、ナミに告ったってマジ?」

前の席の男子が、第一声でそれを言った。

朝の挨拶より先に。

俺は足を止める。

「マジじゃない」

「え、違うの?」

斜め前の女子が身を乗り出す。

「LINEで言ったんでしょ?」

「言ってない」

「でも送ったんでしょ?」

「だから送ってない」

「え、何それ怖」

怖いのは俺だ。

俺が一番怖い。

教室のあちこちから、軽い視線が飛んでくる。

興味。
好奇心。
少しのからかい。
少しの気まずさ。

恋愛の噂として消費しているだけだ。

でも、俺にとっては自分の名前が剥がされていく音だった。

俺は告白していない。

でも、教室はもう、俺を告白した人間として扱っている。

俺の知らないところで、俺の恋だけが文化祭の準備みたいに進んでいた。

「で、どうすんの」

文化祭男子が言った。

「何が」

「いや、ナミと気まずくなるのは勝手だけど、今日の準備止めんなよ」

「勝手に気まずくしたの俺じゃない」

「でも久遠だろ」

その一言で、喉が詰まる。

久遠だろ。

その名前が、俺と影ゼロの区別を雑に潰す。

影ゼロは、文化祭の資料をまとめていた。

噂を聞いても、動じない。
むしろ、周囲が気まずくなりすぎないように、静かに作業を進めている。

その姿が、また助かっている。

「少し、話せる?」

ナミが言った。

その声は、俺に向いていた。

影ゼロではなく。

それだけで、少し息ができた。

俺はうなずいた。

廊下の端、階段の横。

文化祭の荷物が積まれている場所だった。

段ボール。
丸めたポスター。
予備の装飾。
紙コップの袋。

完全な密室ではない。
でも、教室よりはましだった。

ナミはスマホを握ったまま、しばらく黙っていた。

先に口を開いたのはナミだった。

「昨日のLINE、ゼロくんじゃないって分かってる」

「じゃあ何で返信した」

自分でも、責める言い方だと思った。

ナミの顔が少しだけ歪む。

でも逃げなかった。

「最初、一瞬だけ」

ナミはスマホを見る。

「こういうこと、言ってほしかったのかもしれないって思った」

怒りより先に、何かが沈む。

「……そう」

「ごめん」

「謝るなよ」

「でも」

「謝られると、俺が何か許す側みたいになる」

ナミは黙る。

俺は階段の手すりを見た。

白い塗装が少し剥げている。

そこに目を置いていないと、ナミを責めそうだった。

ナミは続ける。

「受け取りやすかった」

その言葉は、好きだった、よりきつかった。

「それが、嫌だった」

「何が」

「私が受け取ったら、ゼロくんじゃないものをゼロくんとして受け取ることになるから」

ナミの声は小さかった。

「それ、すごく楽だった。楽で、怖かった」

楽。

その言葉は、昨日からずっと俺を追いかけている。

影ゼロの方が返事しやすい。
影ゼロの方が受け取りやすい。
影ゼロの方が楽。

ナミは言った。

「ちゃんと言ってくれる方。私が困らない形にしてくれる方。そういう方に、私も一瞬乗りかけた」

「乗ればよかっただろ」

最低な言い方だった。

ナミは傷ついた顔をする。

俺は、言ってすぐ後悔した。

でも取り消せなかった。

ナミは少しだけ息を吸う。

「それを言ったら、たぶんゼロくんも楽になるよね」

刺された。

ナミは俺を見る。

「私が悪いことにできるから」

何も言えなかった。

その通りだった。

ナミが影を選んだ。
ナミが楽な方に乗った。
ナミが俺を間違えた。

そう言えたら、俺は被害者でいられる。

でも、それだけじゃない。

俺も、この文章を見た時、思った。

こう言えたらよかった。
こんなふうに送れたらよかった。

ナミを困らせすぎずに。
自分の気持ちも消さずに。
ちゃんと相手へ届く形で。

そう思った。

「思ってない、とは言えない」

俺は言った。

ナミの目が少し揺れる。

「何を?」

言うのに、少し時間がかかった。

でも、言わないとまた取られる気がした。

「好かれたいってこと」

口にした瞬間、思ったより恥ずかしかった。

階段の踊り場に、余計な音が全部消えた気がした。

「好かれたいとは思ってた」

続ける。

「ナミに。たぶん、ずっと」

ナミの指が、スマホの端を押す。

「でも、あんな綺麗な言い方を俺の名前でされるのは嫌だ」

喉が熱くなる。

「下手でも、失敗しても、そこは俺がやりたかった」

言ってしまった。

今度は、ちゃんと俺が言った。

綺麗ではない。
告白にもなっていない。
返事を求める形にもなっていない。
ナミを困らせない形にもなっていない。

でも、俺のものだった。

その瞬間、廊下の窓ガラスに映った影が、半拍だけ遅れた。

俺の後ろに、影ゼロの姿が映っていた。

いや、本当にそこにいたのかは分からない。

窓ガラスの反射の中だけかもしれない。

でも、確かに見えた。

影ゼロが口を開きかけて、止まる。

ほんの半拍。

それだけ。

すぐ戻る。

でも、遅れた。

ナミも、窓ガラスを見た。

「今」

「見た?」

「少し」

ナミの声が震えていた。

俺は、自分の手を見る。

何かを掴んだ感覚はない。

でも、今の言葉だけは影より先に持てた。

そんな気がした。

「今すぐじゃなくていい」

ナミが言った。

「でも、そこを影にやらせないで」

その言い方が、いちばんナミらしかった。

優しいだけじゃない。
きついだけでもない。

俺に返している。

俺のものを、俺に。

その時、階段の下からアカネが顔を出した。

「で、それ言ったから何?」

台無しだった。

でも、少し助かった。

「お前、いつからいた」

「好かれたいってあたり」

「最悪のタイミングからいるな」

「いや、そこ逃したら第2話の山場終わるじゃん」

「何の話だよ」

アカネは階段を上がってくる。

手には、文化祭用の養生テープが二つ。

「好かれたいのは分かった。で、明日の準備どうすんの」

「今それ言う?」

「文化祭、恋愛相談所じゃないんだけど」

ナミが少しだけ笑った。

笑ったけど、目元はまだ痛そうだった。

アカネは養生テープを俺に押しつけた。

「とりあえず戻る。重い話は歩きながらやれ」

「歩きながらやる話じゃない」

「止まってても進まないなら歩け」

その雑さに、少し救われる。

教室へ戻る途中、廊下の角にサヤが立っていた。

結影サヤ。

腕を組んで、壁にもたれている。

「聞いてたのか」

「全部ではないわ」

「どこから」

「好かれたいってあたり」

「何で全員そこから聞いてんだよ」

サヤは笑わなかった。

俺の足元を見る。
それから、窓ガラスの方を見る。

「……先に持った」

小さく言った。

「何を」

「分かってないなら、その方がいい」

「またそれかよ」

「分かる頃には、たぶんもっと嫌になるから」

サヤはそう言って、先に教室へ歩いていった。

その背中には、いつもの余裕がなかった。

ほんの少しだけ、急いでいるように見えた。

教室に戻ると、文化祭の準備は勝手に進んでいた。

紙コップの数を数える声。
模造紙を切る音。
机を移動させる音。
誰かが「ガムテープ足りない」と言う声。

普通の放課後だった。
普通の文化祭前だった。

でも、普通の中に影がいる。

影ゼロは、文化祭男子と話していた。

「あ、久遠」

文化祭男子が影ゼロに言う。

「受付代表、ほんと助かるわ。誰もやりたがらなかったし」

影ゼロは、自然に返す。

「やれることはやるよ」

その声は、やっぱりちょうどいい。

俺は立ち止まる。

スマホが震えた。

文化祭実行委員グループ。

未読が増えている。

俺は、そのグループに入っていた覚えがない。

でも通知は来ていた。

久遠くん、受付代表ありがとう!
明日の買い出しと受付表確認もよろしく!

その下に、俺のアカウントから返信がある。

俺でよければやるよ。
当日、ちゃんと回せるようにしておく。

吐き気がした。

俺はそんな返信をしていない。

していないのに、俺のアイコンがそこにある。
俺の名前がそこにある。

久遠ゼロ。

その名前で、ちゃんとした返事が送られている。

さらに通知の下に、プレビュー画像が表示された。

文化祭スタッフ証。
二年三組。
受付代表。
久遠ゼロ。

写真欄には、まだグレーの仮画像が入っていた。

なのに、その仮画像の輪郭だけが、少しだけ俺じゃない形に見えた。

文化祭男子が、まだ影ゼロに話しかけている。

「ステージ挨拶補佐もいける? 先生が久遠なら大丈夫だろって」

影ゼロは少しだけ考える。

「うん。確認しておく」

「マジ助かる」

助かる。

また、その言葉。

告白だけじゃない。

影は、俺の恋だけじゃなく、明日の居場所まで取っていた。

ナミが俺の横でスマホを見る。

同じ通知を見たらしい。

顔が固くなる。

「ゼロくん」

俺は何も言えなかった。

影ゼロがこちらを見る。

穏やかな顔だった。

責める顔ではない。
勝った顔でもない。

ただ、自分の仕事を確認する人の顔。

その顔で、俺の名前を使っていた。

俺が断る前に、影はもう、俺の名前で“ちゃんとした役”を引き受けていた。



第3話 俺が先に醜くなったら、影が浮いた


放課後の教室は、朝より残酷だ。

残るやつと帰るやつが分かれる。
やるやつと逃げるやつも分かれる。
声を出すやつと、黙って手だけ動かすやつが分かれる。

文化祭の準備が始まると、それはもっと露骨になる。

段取りを決めるやつ。
プリントを配るやつ。
飾りを切るやつ。
買い出しに行くやつ。

そして、何もしていないのに、なぜかそこにいても責められないやつ。

俺はずっと、そのあたりにいた。

完全に役に立たないわけではない。

言われればやる。
荷物も持つ。
紙も切る。
机も運ぶ。

でも、自分から前には出ない。

誰かが声を出すのを待つ。
誰かが決めるのを待つ。
自分が必要だと分かるまで、邪魔にならない場所で黙っている。

そうやって、やり過ごしてきた。

そのはずだった。

「じゃあ買い出し組、男子二人ほしいんだけど」

文化祭男子が、教室の前で買い出しメモを持ったまま言った。

黒マーカー。
両面テープ。
紙コップ。
ガムテープ。

その説明を聞いた瞬間、教室の空気が少しだけ重くなった。

買い出し。

言葉は軽い。

でも、実際は面倒だ。

外に出る。
店員と話す。
予算を気にする。
売ってなかった時の代わりを考える。
領収書をもらう。

誰かがやらないと困る。
でも、自分がやるのは嫌だ。

そういう種類の仕事だ。

何人かが目をそらした。

俺も、そらした。

その瞬間、窓ガラスの中の影ゼロが先に笑った。

笑うな。

分かってる。

今みたいな場面で、あいつは自然に手を挙げる。

断られても空気を悪くしない。
引き受けても恩着せがましくならない。

「ちょうど行ける」くらいの顔で、面倒を取る。

そういうやつだ。

最悪だと思う。

でも同時に、そういうやつが一番助かるのも知っている。

「俺、行けるよ」

やっぱり、影ゼロが言った。

軽かった。

あまりにも軽かった。

「百均と文具屋なら、帰り道だし」

嘘だ。

たぶん帰り道ではない。

でも、そう聞こえる言い方だった。

文化祭男子が、ぱっと顔を上げる。

「あ、助かる」

その“助かる”が、昨日から何度も俺の喉に刺さっている。

助かる。
便利。
正しい。
いてくれてよかった。

影ゼロは、そういう言葉が似合う。

俺には似合わない。

前の席の男子も言った。

「久遠、こういうの地味にちゃんとやるよな」

地味に。
ちゃんと。

その二つが、影ゼロの胸にまた一枚、名札みたいに貼られていく。

俺は、買い出しメモの文字を見ていた。

俺が行けば、たぶん何かを間違える。

黒マーカーが太字なのか細字なのか分からない。
両面テープの幅で迷う。
領収書をください、と言うタイミングで詰まる。

そういう小さい失敗が、先に全部見える。

だから行きたくない。

でも、影ゼロが行くのはもっと嫌だ。

あいつが行けば、たぶん全部うまくいく。

領収書も、ちょうどいいタイミングでもらう。
店員にも感じよく聞く。
代替品も選ぶ。

帰ってきて、「なかったからこっちにした」と言って、誰にも文句を言わせない。

そういう顔が見える。

腹が立つ。

でも、助かる。

その矛盾で、胃のあたりがざらついた。

その時、ナミが影ゼロを見た。

一瞬じゃなかった。

影ゼロが「俺、行けるよ」と言った後、ナミはその顔を見ていた。

助かった顔ではない。
安心した顔でもない。

でも、少しだけ肩の力が抜けた。

その後、自分でも気づいたみたいに、ナミは目を逸らした。

遅い。

もう見ていた。

俺は言っていた。

「宮影」

ナミがびくっとする。

「……何」

「今、そっち見てただろ」

言ったあとで、自分でも最悪だと思った。

責める言い方だった。

教室の空気が少しだけ止まる。

ナミは俺を見る。

すぐには答えないと思った。

言い訳をすると思った。

でも、ナミは言った。

「見てたよ」

「即答すんなよ」

「見てたから」

小さい声だった。

でも、逃げなかった。

俺の方が逃げたくなった。

「そっちの方が楽そうだった」

ナミは続けた。

「助かるし、感じ悪くならないし、誰も困らないし」

言葉を重ねるほど、ナミ自身の顔が苦しくなっていく。

「そういうの、今でも普通にいいなって思う」

正直すぎる。
嫌すぎる。

でも、そっちの方が本物だった。

ナミはいい子の顔で嘘をつかなかった。

影ゼロは、そのやり取りを黙って見ている。

口を挟まない。

それが余計に腹立つ。

一番きれいな入り方を待っている。

文化祭男子が、困った顔で買い出しメモを持ち直した。

「えっと……じゃあ、久遠一人で大丈夫?」

その言い方で分かる。

もう“誰が行くか”じゃない。
“感じのいい久遠が行く前提で、話を進める”空気だ。

勝手に決めるな。

でも、ここで「俺が行く」と言えばいいだけの話じゃない。

それは影の真似だ。

今までの俺がやらなかったことを、ただ遅れてなぞるだけなら、たぶんまた負ける。

窓ガラスを見る。

影ゼロが、もう俺の声色で「じゃあ俺も行くよ」を言う準備をしている顔だった。

腹が立つ。

本当に腹が立つ。

でも、その奥にもっと嫌な感情がある。

俺は買い出しが苦手だ。

知らない店員と話すのも嫌いだし。
予算内に収めるのも苦手だし。
領収書をください、と言うだけでなぜか緊張する。

要するに、逃げたい。

前に出たくない。

しかもその上で、影にいい顔されるのはもっと嫌だ。

最悪だ。

どっちも本音だ。

どっちも認めたくない。

だったら。

「……買い出し、無理」

口から出た。

文化祭男子が固まる。

前の席の男子が、うわ、という顔をする。

分かる。

俺も思う。

このタイミングでそれは感じ悪い。

でも止まらなかった。

「知らない店員と話すの苦手だし」
「途中で何か足りなかったら帰りたくなるし」

教室の空気が、今度は俺の方でざらつく。

影ゼロが動かない。

まだ差し込めない。

こっちが先に汚れたからだ。

なら、もう半歩。

「あと、荷物持ってんのに、横で感じよくされるのも嫌」

文化祭男子が、ぽかんとする。

斜め前の女子が、思わず吹きそうな顔になって、でも笑えずに止まる。

アカネが、小さく「うっわ」と言った。

でも、今のは止められない。

「俺がサボりたいみたいに見えるのに、そっちは“助かるよ”って顔でやるだろ」

言った。

言ってしまった。

教室の真ん中に、汚い本音をそのまま置いた感じがした。

買い出しが無理。
店員が苦手。
横で感じよくされるのが嫌。

どれも、誇れるものじゃない。

でも、俺のものだった。

その瞬間。

影ゼロの笑顔が、一拍だけ遅れた。

いや、半拍だった。

普通なら見逃すくらいの、小さな遅れ。

でも、今の俺には見えた。

あいつが、俺の情けなさに追いつけなかった瞬間だった。

窓ガラスの中の影ゼロが、初めてはっきり浮いた。

その場にいるのに、その場の空気から弾かれた。

綺麗すぎたんだ。

今の教室には、その綺麗さの方が嘘っぽかった。

前の席の男子が、影ゼロじゃなく俺を見る。

斜め前の女子も、笑いかけた口を閉じたまま俺の方を見ている。

文化祭男子は、買い出しメモを持ったまま固まっている。

空気が変わる。

“感じのいい久遠”の方が自然、じゃなくなった。

今しゃべっている俺の方が、むしろこの場の中心に来た。

汚いのに。
格好悪いのに。
逃げているのに。

その汚さの方が、今だけは嘘じゃないって教室が感じた。

影ゼロの足元だけ、床から一センチ浮いた。

本当に浮いたのかは分からない。

でも、その瞬間だけ、あいつはこの教室の空気に触れていなかった。

文化祭男子が、俺を見たまま言う。

「……お前、それ今言うか普通」

「今しか無理だった」

「タイミング最悪かよ」

「知ってる」

そこで、文化祭男子が初めて少しだけ笑った。

呆れた笑いだった。

でも昨日までみたいな、切る笑いじゃなかった。

「じゃあお前、店は無理で、感じよくされるのも嫌なんだな」

「そう」

「めんどくせえな」

「知ってる」

「知ってる多いな」

「知らないふりするよりマシだろ」

「まあ、そこはそうかもな」

そのやり取りで、教室の空気が少しだけ動いた。

影ゼロが口を開く。

「じゃあ、俺も一緒に」

綺麗だった。

綺麗すぎた。

さっきまでなら、その綺麗さがそのまま通った。

でも今は違う。

文化祭男子が、ほんの少しだけ眉をひそめる。

「あー……」

止まる。

止まった。

影ゼロの方で、空気が詰まる。

前の席の男子が言った。

「別に二人もいらなくね?」

その一言を聞いた瞬間、胸の奥が跳ねた。

来た。

初めてだ。

影の方が、“感じがいいから自然”じゃなくて、“ちょっと余計なやつ”の位置に滑った。

「じゃあ私行く」

アカネが手を挙げた。

全員がそっちを見る。

疾影アカネは、購買のパンの袋を片手に、片方の手だけ雑に上げている。

「店員に変な目で見られても別に気にならんし」

文化祭男子が即座に返す。

「お前は気にしろよ」

「やだ」

「やだじゃねえ」

アカネは無視して、俺を見る。

「そのかわり、久遠は荷物運びやれ」

「え」

「逃がさないけど、向いてないことまでやらせても事故るじゃん」

雑だった。

でも、妙に正しかった。

アカネは続ける。

「買うのは私。金額確認は文化祭男子。荷物は久遠。戻ったらナミが受付表にチェック。これでいいじゃん」

文化祭男子が少し考える。

「まあ、それなら」

前の席の男子も言う。

「久遠、荷物ならできるだろ」

「何で荷物だけできる前提なんだよ」

「店員よりは話さないだろ」

「物は文句言わないからな」

「お前が言うのか」

少し笑いが起きる。

変な笑いだった。

俺を笑っている。

でも、切り捨てる笑いではなかった。

「じゃあ決まり」

アカネが言う。

「久遠、荷物持ち。文句禁止」

「文句は言う」

「持ちながらならいい」

「条件緩いな」

「黙って感じよくやられるよりマシ」

その言葉に、影ゼロがほんの少しだけ反応した。

本当に少しだけ。

たぶん俺にしか分からない。

いや、ナミにも見えていたかもしれない。

ナミが影ゼロを見て、それから俺を見た。

その顔は、安心しているわけじゃなかった。

むしろ、楽な方に乗れなくなった自分に腹を立てている顔だった。

その時だった。

ナミが、小さく舌打ちした。

教室のざわめきに紛れるくらいの、本当に小さい音。

でも聞こえた。

俺はそっちを見た。

ナミも、自分で驚いた顔をしていた。

「……今、した?」

「してない」

「しただろ」

「聞こえてない」

「いや聞こえた」

ナミは一回黙った。

それから、ひどく嫌そうな顔で言う。

「……した」

「何でだよ」

「分かんない」

「分かんないで舌打ちすんなよ」

「だって、今ちょっと」

そこで止まる。

止まったまま、口元だけ歪む。

「そっちが勝つと、それはそれでむかつく」

教室が一瞬静かになる。

俺も固まる。

「何でだよ」

「知らない」

「知らないで言うなよ」

「だってむかついたから」

いい子の返しじゃない。

ナミ自身も、今の自分に少し引いている顔をしている。

でも撤回しない。

そこが嫌で、そこが少し良かった。

ナミは続けた。

「影ゼロの方が楽そうだったのも本当。でも、ゼロくんが今みたいに勝つと、私が楽な方に行こうとしたのが見えるから嫌」

言ってから、ナミは眉を寄せる。

「自分で言ってて最悪」

「最悪だな」

「すぐ言う」

「本当だから」

ナミは少しだけ笑いそうになって、でも笑わなかった。

「本当だから嫌なんだよ」

その声は、ちゃんとナミのものだった。

影ゼロには言えない声だった。

サヤがそのやり取りを見て、小さく鼻で笑った。

「ようやく人間っぽくなってきたわね」

「誰が」

俺が聞くと、サヤは肩をすくめる。

「全員」

「まとめるな」

「まとめないと面倒だもの」

サヤはそう言って、窓ガラスへ目を向けた。

その目は少し遠い。

たぶん、今みたいな場面に間に合わなかったことがある。

本物が面倒で。
偽物が助かって。
見る側が、楽な方に流れて。

その結果を知っている顔だった。

教室の前を、久美先生が通りかかった。

古影久美。

手には文化祭の確認ファイル。

足を止めて、中を見る。

買い出しの段取りが決まった教室。
ざらついた空気。
影ゼロの微妙な沈黙。
俺のひどい顔。
ナミの歪んだ顔。
アカネの雑な仕切り。
サヤの遠い目。

久美先生は、一瞬で全部見たみたいだった。

「……珍しい」

小さく言う。

「何が」

俺が返すと、久美先生は少しだけ笑った。

でも全然楽しそうじゃなかった。

「ちゃんと浮いたじゃない」

背筋が冷えた。

教師が言う台詞じゃない。

文化祭男子が「先生?」と変な顔をする。

久美先生は、そこで口を閉じた。

言いすぎたと、自分で分かっている顔だった。

でも、引っ込めない。

「何でもない」

そう言って、教室に入ってくる。

「買い出しの領収書、忘れないこと。あと、明日の受付表は必ず一枚に統一して」

「はい」

文化祭男子が返事をする。

久美先生は黒板の方を向いた。

向いたまま、もう一度だけ窓ガラスを見る。

その目が、妙に冷たかった。

俺は、足元を見る。

自分の影は、ちゃんとそこにある。

でも、ほんの少しだけ遅れている気がした。

俺が動いた後に、半拍遅れてついてくる。

昨日よりも、見える。

第1話の時はただ怖かった。
第2話では何を奪われるのか分からなかった。

でも今は、少し分かる。

影が取るのは、俺が黙っているところだ。

俺が否定している本音だ。

じゃあ、先に言えばいい。
先に認めればいい。

そうすれば勝てる。

そう思ってしまった。

次もやれる。

そう思ってしまった。

その瞬間、窓ガラスの中の影ゼロが笑った。

嫌な笑いだった。

見透かしたみたいな笑い。

影ゼロは、俺を見ていた。

悔しそうではなかった。
怒ってもいなかった。

見ていた。

俺がどこで嫌なことを言ったか。
どの言葉で教室の空気が変わったか。
どの顔をした時、あいつが浮いたか。

全部、覚える顔だった。

スマホが震える。

机の上に置いたままだった。

画面を見る。

送っていないメモが、一件増えている。

タイトルはない。

本文だけ。

次は、お前が一番見られたくない顔でやる。

喉の奥が冷えた。

誰にも見せていないはずのメモだった。

なのに、俺の癖みたいな文だった。

教室の電気が、一瞬だけちらつく。

窓ガラスに映った影ゼロが、俺の顔じゃない方の口で、何か言った。

聞こえなかった。

なのに、分かった気がした。

もう、決まってる。

次に瞬きをした時には、もう普通の窓ガラスだった。



第4話 本物っぽい偽物が、俺の顔で笑った


勝てると分かった翌朝、俺はもう少し嫌なやつになっていた。

最悪だと思う。

でも、否定できなかった。

昨日、俺は影ゼロを浮かせた。

買い出しは無理。
知らない店員と話すのが苦手。
横で感じよくされるのも嫌。

そんなことを、教室の真ん中で言った。

普通に考えれば、かなり終わっている。
でも、あの瞬間、影ゼロは教室の空気から半歩だけ外れた。

前の席の男子が、影ゼロじゃなく俺を見た。
文化祭男子が、呆れた顔で俺に返事をした。
アカネが横から仕事を割り振った。
ナミが、少しだけ嫌そうな顔で俺を見た。

全部、俺の方に来た。

それが、気持ちよかった。

気持ちよかったのが、最悪だった。

朝の教室の前で、俺は一度足を止める。

扉の向こうから、いつものざわめきが聞こえた。

笑い声。
椅子を引く音。
文化祭の話。

昨日までなら、扉を開けるだけで少し胃が重くなった。

今日は違う。

少しだけ、待っていた。

また何かが起きるのを。
また影ゼロが間違えるのを。
また俺が先に言える瞬間を。

俺が先に醜くなれば、あいつは浮く。

それが分かった。

俺が先に本音を言えば、あいつは入ってこられない。

だったら次もやれる。

そう思った瞬間、足元の影が少しだけ揺れた。

笑われた気がした。

「……うるせえよ」

誰に言ったのか、自分でも分からない。

扉を開ける。

教室の空気は、昨日までと少し違っていた。

影ゼロは、俺の席の近くにいた。

相変わらず、そこにいてもおかしくない顔をしている。

文化祭のプリントを見ながら、前の席の男子と話していた。

でも、昨日ほど自然ではない。

少なくとも、俺にはそう見えた。

昨日、俺が置いた汚い本音が、まだ床に残っている感じがした。

前の席の男子が、俺に気づいた。

「あ、久遠」

「何」

反射で返す。

男子は少しだけ言いづらそうにして、それから言った。

「昨日のあれさ」

「あれってどれ」

「買い出し無理、みたいなやつ」

「ああ」

俺は身構える。

怒られるのかと思った。

でも、男子は頭をかいた。

「言い方は最悪だったけど、まあ分からんでもない」

胸の奥が、少しだけ熱くなる。

「……そう」

「店員と話すの苦手なのは、ちょっと分かる」

「お前も?」

「いや、俺は平気だけど」

「何だよ」

「でも、苦手なやつがいるのは分かる」

たったそれだけ。

でも、昨日までの俺なら、そんなふうに返されることはなかった。

斜め前の女子も、俺をちらっと見た。

「昨日の久遠、顔ひどかったよね」

「朝からそれ言う?」

「でも、何か分かりやすかった」

分かりやすかった。

褒めているのかは分からない。

たぶん、褒めてはいない。

でも、俺の方を見て言っていた。

影ゼロじゃなく。

影ゼロがこちらを見る。

静かな顔だった。

負けた顔ではない。
怒った顔でもない。

観察している顔。

俺はその顔から目をそらす。

ナミは窓際の席で、受付表を見ていた。

昨日から、ナミは俺を見る時に少しだけ時間を使うようになった。

影ゼロを見る時間。
俺を見る時間。
自分の中で何かを確認する時間。

その全部が、俺には刺さる。

今日も、ナミは俺に気づいて顔を上げた。

「おはよう」

「おはよう」

「昨日、ちゃんと帰れた?」

「帰り道で自分に待ち伏せされてたら、今ここにいない」

「それはそう」

「納得すんな」

ナミは少しだけ笑った。

でもすぐ、受付表へ視線を戻す。

「これ、確認したいんだけど」

「何」

「昨日のシフト表と、今朝出てるやつ、時間が違う」

その言葉に、文化祭男子が反応した。

「え、マジ?」

ナミはプリントを机の上に広げる。

受付シフト表。
赤ペンで修正が入っている。

文化祭男子が眉をひそめた。

「これ、昨日の最終版じゃなくない?」

「私が見たのは、こっちだった」

ナミがスマホの画面を見せる。

そこには、別のシフト表が表示されている。

時間が一部、ズレていた。

「誰が最終版いじった?」

文化祭男子の声が少し硬くなる。

教室の空気が、すぐに悪くなった。

文化祭前日。

こういう時のミスは、ただのミスでは済まない。

明日、受付が詰まれば、誰かが困る。

そういう想像が、教室全体に一気に広がる。

斜め前の女子が言う。

「昨日、ナミが確認してたやつじゃないの?」

ナミの顔が固くなる。

「確認はした。でも、修正後のファイルがもう一個あったみたいで」

「え、じゃあどっちが正しいの?」

「それを今見てる」

ナミの声は落ち着いていた。

でも、指先が少しだけ硬い。

俺はそれを見た。

責任を感じている顔だった。

文化祭男子が、少し苛立った声を出す。

「だから最終版は一個にしろって言ったじゃん」

誰に向けたのか分からない言葉。

でも、ナミに刺さった。

ナミが少しだけ息を止める。

俺の中で、何かが動いた。

ここだ。

と思った。

ここで先に言えばいい。

誰か一人のせいにする空気が嫌だ。
全員ちょっとずつ見て見ぬふりしてたくせに、今だけ担当者を探すのが嫌だ。
ナミだけが責められるのも違う。

それを、俺が先に言えばいい。

綺麗に言う必要はない。

むしろ、綺麗に言ったら影の得意分野だ。

俺が感じ悪く言えばいい。

昨日みたいに。

そうすれば、影ゼロはまた浮く。

胸の奥が熱くなる。

嫌な熱だった。

勝てる、と思っている熱。

俺は口を開きかけた。

その瞬間だった。

「正直、ちょっと腹立った」

影ゼロが言った。

教室が止まった。

俺の口も止まった。

影ゼロは、受付表を見ていた。

顔は少しだけ険しい。

完璧な笑顔じゃない。
穏やかすぎる顔でもない。

少しだけ、苛立っている。

でも、その苛立ち方が、受け取りやすかった。

人を刺しすぎない。
場を壊しすぎない。
でも本音っぽい。

影ゼロは続ける。

「昨日、最終版これでいいって思ってたから。今朝違うの出てきた時、正直、何でって思った」

文化祭男子が黙る。

ナミも、影ゼロを見る。

俺は、動けなかった。

影ゼロは、少しだけ息を吐いた。

「でも、俺も確認してなかった」

その声は、ちゃんと低かった。

「ナミだけのせいにするのは違う。俺も、最終版が一個になってるか確認してなかった」

影ゼロは、そこで少しだけ言葉につまった。

本当に迷ったのか。
迷ったふりなのか。

分からなかった。

でも、そのつまづき方まで、俺に似ていた。

「文化祭男子も、途中で任せたところあっただろ」

文化祭男子が顔をしかめる。

「任せたって」

「言い方悪かった。投げたんじゃなくて、任せたところがあった」

影ゼロは、少しだけ苦笑した。

「でも、任せたなら任せた側にも責任ある」

教室の空気が、動いた。

誰かが小さく息を吐く。

斜め前の女子が言う。

「まあ……それはそうかも」

文化祭男子も、しばらく黙ってから言った。

「……確かに、俺も見てない」

ナミは影ゼロを見ていた。

長かった。

俺は、その長さを数えてしまった。

影ゼロは、さらに言う。

「今から二つ見比べて、正しい方に統一しよう。責任者探すより、その方が早い」

正しい。

腹が立つくらい、正しい。

でも、それだけじゃない。

影ゼロは、少し不格好だった。

最初に「腹立った」と言った。
言い方が少し荒かった。
すぐに整えたけど、整える前の角が見えた。

その角が、本物っぽかった。

前の席の男子が言った。

「今日の久遠、ちゃんと本音言うじゃん」

その瞬間、頭の中が白くなる。

今日の久遠。
ちゃんと本音。

それは、俺がやるはずだった。

俺が感じ悪く言うはずだった。

ナミだけのせいじゃない。
全員ちょっとずつサボってた。
今さら担当者探しすんな。

俺が言うはずだった。

なのに、あいつは俺より少しだけ感じ悪く、俺よりずっと受け取りやすく言った。

斜め前の女子が、影ゼロを見て笑う。

「前より自然かも」

自然。

その言葉が、腹の奥に落ちる。

影ゼロは、俺の綺麗なところだけを盗ったんじゃない。

俺の汚さまで、使い始めた。

ナミが、まだ影ゼロを見ていた。

俺は気づいた時には、言っていた。

「今のも、楽だった?」

ナミがびくっとする。

教室の空気が、また少し止まる。

「ゼロくん」

「今のも、楽だったのかって聞いてる」

自分でも、言い方が最悪だと思った。

ナミの顔が少し傷つく。

でも、ナミは逃げなかった。

影ゼロを見る。
受付表を見る。
自分の手を見る。

それから、俺を見る。

「楽っていうより」

そこで言葉を探した。

「本物っぽくて嫌だった」

胸の真ん中に、冷たいものが刺さった。

ナミは言ってから、自分で顔をしかめる。

「ごめん。今の、最低だった」

「最低だけど、たぶん本当だろ」

ナミは黙った。

それが答えだった。

影ゼロの感じよさは怖かった。

でも、少し腹立ったと言える影ゼロは、もっと怖い。

完璧すぎる偽物より、不完全な偽物の方が本物に見える。

それをナミも知ってしまった。

俺も、知ってしまった。

「ちょっと来い」

アカネが俺の袖を引いた。

「何」

「いいから」

教室の端、窓際まで引っ張られる。

アカネは、影ゼロと受付表の方を見たまま、小さく言った。

「お前さ」

「何」

「影に勝つために嫌なやつやってたのに、今は嫌なやつでいるの気持ちよくなってない?」

息が止まる。

「なってない」

反射で言った。

アカネは俺を見る。

「じゃあ昨日、あいつが浮いた時、ちょっと笑いそうだったの何?」

「見間違いだろ」

「顔に出てた」

「見すぎだろ」

「出てた。最悪な勝ち方覚えたやつの顔」

言い返せなかった。

アカネは、いつもの雑な声で続ける。

「私はさ、空気壊すの好きじゃないよ。得意なだけ」

「最悪な才能だな」

アカネは少しだけ黙った。

「でも、お前、昨日は空気壊すために言ったんじゃなくて、取られたくなくて言ったじゃん」

俺は黙る。

「今日は違う」

アカネは、影ゼロの方を見る。

「勝つために、嫌な本音探してた」

言葉が、思ったより深く刺さった。

勝つために。

そうだ。

俺はさっき、ナミを助けたいと思った。

それは嘘じゃない。

でも、それだけじゃなかった。

ここで言えばまた勝てると思った。
影を浮かせられると思った。
教室の視線をこっちに持ってこられると思った。

俺の方を見ろ。

その気持ちがあった。

影ゼロがそれを先に持っていった。

本音っぽい形で。

俺よりうまく。

「ゼロ」

サヤの声がした。

振り向くと、結影サヤが窓際に立っていた。

「盗られたわね」

「見てたなら止めろよ」

「止められると思ってるの?」

「思ってないけど言ってみた」

サヤは、教室の中央にいる影ゼロを見た。

「影は、あんたの綺麗なところだけ盗るんじゃないわ」

「じゃあ何を盗るんだよ」

サヤは俺を見る。

「あんたが“これなら本物だ”と思った顔から盗っていく」

窓ガラスの向こうに、教室の反射が映っている。

影ゼロの横顔。

少しだけ険しくて。
少しだけ不器用で。
でも、ちゃんと場に受け入れられている顔。

それは、昨日俺が欲しかった顔だった。

「醜さだって、形にした瞬間、真似される」

サヤの声は静かだった。

「じゃあどうすればいいんだよ」

「知らない」

「おい」

「少なくとも、勝った時の顔を大事にしすぎないことね」

「意味分かんねえよ」

「分かると嫌になるわよ」

サヤはそう言って、窓ガラスを見た。

その目は、教室ではなく、もっと前のどこかを見ているみたいだった。

「昔、それで間に合わなかった」

「誰に」

「今はあんたの話」

切られた。

いつものように。

でも、今の言葉は残った。

サヤの視線は、俺ではなく、教室のどこにもいない誰かを見ていた。

名前を呼べなかった人。
本物だと分かっていたのに、間に合わなかった人。

そういうものを見ている目だった。

教室の前の扉が開いた。

古影久美が入ってくる。

手には文化祭の確認ファイル。

顔はいつも通り整っている。

でも、教室に入った瞬間、視線が動いた。

受付表。
影ゼロ。
ナミ。
俺。
アカネ。
サヤ。

順番が速い。

久美先生は、何もかも一瞬で見たような顔をした。

「受付表の確認中?」

文化祭男子が少し慌てて返す。

「あ、はい。ちょっと最終版がズレてて」

影ゼロがすぐに言う。

「今、全員で確認し直してます。誰か一人のミスにしない方がいいと思ったので」

久美先生は、影ゼロを見る。

少しだけ、目を細める。

「そう」

短い返事。

それから、俺を見る。

「久遠」

「何ですか」

「気持ちよくなるために掘り始めたら終わるわよ」

教室の何人かが、意味が分からない顔をした。

俺には分かった。

分かりたくなかった。

「何の話ですか」

「あなたが今、分かっていないふりをしたものの話」

「じゃあどうしろって言うんですか」

自分の声が少し荒くなる。

久美先生は、表情を変えない。

「どうするかを人に聞いた時点で、もう半分渡してる」

「誰に」

久美先生は影ゼロを見た。

答えなくても分かった。

影に。

俺は黙った。

久美先生は、文化祭男子に向き直る。

「受付表は一枚に統一して。修正履歴は残すこと。明日の朝、混乱すると面倒よ」

「はい」

文化祭男子がうなずく。

久美先生はそれ以上何も言わず、教室を出ていった。

残された言葉だけが、教室の端に刺さっていた。

気持ちよくなるために掘り始めたら終わる。

俺は、窓ガラスに映る自分を見る。

顔がひどい。

アカネが言った通りだ。

最悪な勝ち方を覚えたやつの顔。

俺は、ゆっくり息を吐いた。

影ゼロは、受付表の修正を進めている。

赤ペンで時間を直す。
ナミに確認する。
文化祭男子に役割を振る。
前の席の男子に追加印刷を頼む。

全部が滑らかすぎない。

少しだけ不格好。
少しだけ本音っぽい。

それなのに、場はちゃんと進んでいる。

本物っぽい偽物。

その言葉が、頭の中に浮かぶ。

俺は自分で嫌になる。

本物っぽいって何だよ。

本物なら本物。
偽物なら偽物。

そう言い切れたらよかった。

でも、もう言い切れない。

第1話の影ゼロは、感じがよすぎた。
第2話の影ゼロは、綺麗すぎた。
第3話の影ゼロは、俺の汚さに浮いた。

そして今日。

第4話の影ゼロは、少しだけ汚れている。

それが一番、怖い。

「俺は」

声が出た。

アカネとサヤが俺を見る。

「昨日、あいつが浮いた時、気持ちよかった」

言葉にした瞬間、胸の奥がざらついた。

「ざまあみろって思った」

アカネは黙っている。
サヤも黙っている。

「俺の方を見ろって思った」

窓ガラスの中で、影ゼロの輪郭がほんの少しだけ揺れた。

あいつは、受付表から顔を上げない。

でも、反射の中の口元だけが半拍遅れた。

通った。

少しだけ。

今の本音は、影より先に俺が持てた。

そう思った瞬間、影ゼロが顔を上げた。

俺を見る。

静かに笑う。

その笑い方が、俺に似ていた。

昨日、影が浮いた時の俺に。

ざまあみろと思った時の俺に。

影ゼロは、俺の下手な笑い方をしていた。

口の端だけが少し上がって、目は笑っていない。

昨日、あいつが浮いた時に、俺がしそうになった顔だった。

その顔を見て、胸の奥が冷えた。

ズレた。

でも、戻った。

しかも、戻り方をもう覚えている。

サヤが小さく言う。

「遅かったわね」

「今のも?」

「少しは効いた」

「少しかよ」

「でも、あっちはもう学んでる」

影ゼロは、また受付表に視線を落とした。

何事もなかったように。

本当に、何事もなかったように。

その時、文化祭男子が手を叩いた。

「じゃあ、当日のスタッフ名札、仮で配っとくぞ。明日忘れるやつ絶対いるから、今日中に自分の分確認しろ」

教室の前に、小さな箱が置かれる。

紙製の名札。
青いシール。
安全ピン。

紙の名札なんて、ただの紙だ。

そう思っていた。

でも、文化祭の時だけは違う。

胸に名前があるやつから、役割を持っていく。
胸に名前がないやつは、ただの通行人になる。

宮影ナミ。
疾影アカネ。
結影サヤ。
文化祭男子。
前の席の男子。
斜め前の女子。

名前が次々に取られていく。

俺は、嫌な予感がした。

箱の中に、白い名札が一枚見える。

久遠ゼロ。

俺の名前。

当たり前だ。

俺の名前なのだから、俺が取ればいい。

そう思った。

手を伸ばす。

指が紙の端に触れかける。

その前に、別の手が名札を取った。

影ゼロだった。

あまりにも自然だった。

まるで、最初から自分のものを取っただけみたいに。

胸に当てる。
安全ピンを開く。

青いシールのついた白い名札が、影ゼロの制服に留まる。

久遠ゼロ。

誰も止めない。

文化祭男子は、受付表を見ている。
前の席の男子は、印刷の枚数を数えている。
斜め前の女子は、自分の名札のピンが曲がっていると騒いでいる。

ナミだけが、俺を見た。

サヤも見た。

アカネが、低く「うわ」と言った。

でも、何も変わらない。

教室の空気は、影ゼロが名札をつけることを自然に受け入れていた。

第1話で、あいつが俺の席に座った時と同じだった。

今度は、紙の上で。
名前の上で。

影ゼロが俺を見る。

胸には、俺の名前。

笑い方は、俺に似ていた。

本物っぽい偽物が、俺の顔で笑った。

俺の名前が、俺より先に、あいつの胸で落ち着いた。



第5話 怖い方が本物なら、私はどっちを選べばいいの


影ゼロが少し不格好になってから、ナミは前より迷うようになった。

俺の名前で送られた告白文。
買い出しから逃げたい本音。
影ゼロが言った「正直、ちょっと腹立った」。

あのあたりからだ。

ナミが、影ゼロを見る時間が少し長くなった。

完璧すぎる偽物は、まだ疑えた。

感じがよすぎる。
正しすぎる。
受け取りやすすぎる。

だから、気持ち悪いと言えた。

でも、少しだけ傷のある偽物は、もっと本物に見えた。

怒る。
言いよどむ。
少し困った顔をする。

でも最後には、場を壊さない形に戻す。

それは、本物っぽかった。

本物っぽい、という言葉がもう嫌だった。

本物なら本物。
偽物なら偽物。

そう言い切れないものが、教室の中で少しずつ増えていく。

文化祭前日の教室は、昨日よりさらに落ち着かなかった。

机は端に寄せられ、段ボールや模造紙、紙コップ、ガムテープが床に散らばっていた。
窓には装飾用の紙が貼られ、黒板には当日の流れが書かれている。
教室の後ろには、受付用のパンフレットが束になって積まれていた。

全部が、明日のために少しずつ整えられている。

その整い方が、俺にはやっぱり気持ち悪かった。

整えば整うほど、影ゼロが入り込む場所が増える気がした。

ナミは教室の前で、受付表を確認していた。

影ゼロが隣にいる。

二人は、机に広げた紙を見ながら、小さな声で話していた。

「午前の列、ここで一回切った方がいいかも」

ナミが言う。

影ゼロは少し考えてから、赤ペンで印をつける。

「じゃあ、十時半で交代にする? 宮影さん、その時間ずっと立ちっぱなしになるときついだろ」

「私は大丈夫」

「大丈夫って言う時、だいたい大丈夫じゃない顔する」

ナミが一瞬、言葉を失う。

影ゼロは、すぐに笑わなかった。
からかいにも、優しさにも寄せすぎない。

ちょうどいい場所で止めた。

ナミは小さく息を吐く。

「……そういうの、よく見てるね」

「見てるというか」

影ゼロは少しだけ目をそらした。

「見ないと、分からないから」

その言い方が、下手だった。

少しだけ。

でも、その下手さも計算されているみたいで、腹が立つ。

ナミは、影ゼロの隣に立った。

最初は、受付表を見るためだった。

机の上の紙を押さえるため。
赤ペンの位置を確認するため。
当日の列を、どこで切るかを決めるため。

ただ、それだけだった。

でも、隣に立つと分かった。

息がしやすい。

影ゼロの隣にいると、誰もこちらを不安そうに見ない。
誰も気まずそうに目を逸らさない。
ゼロくんが怒るかもしれない、という予感もない。

ただ、文化祭の準備が進む。

その楽さに気づいた瞬間、ナミは自分が少し嫌いになった。

「久遠」

アカネが俺の横に来た。

手には、なぜか紙コップを三つ重ねて持っている。

「何」

「顔、見張り犬みたい」

「誰が犬だ」

「犬に失礼か」

「俺に失礼だろ」

「どっちも」

アカネは影ゼロとナミの方を見る。

「ナミ、あれ見てるな」

「言うな」

「見えてるものを見えてないことにすると、あとで腐るぞ」

「哲学っぽく言えば何でも許されると思うな」

「哲学じゃなくて経験則」

俺はアカネを見る。

アカネはふざけた顔をしていなかった。

「楽な方に行きたいの、普通じゃん」

アカネは言った。

「問題は、それを誰の名前でやるかでしょ」

その一言で、少しだけ黙った。

アカネは紙コップを机に置いて、また別の作業へ戻っていった。

雑に刺して、雑に消える。

あいつはたまに、いちばん嫌なところへ一番短い距離で来る。

教室の前では、ナミがまだ受付表を見ていた。

影ゼロと並んで。

その距離が、近い。

俺は段ボールを抱え直した。

何か作業をしていないと、その場へ行ってしまいそうだった。

行って何を言うのかは分からない。

影ゼロに近づくな。
その言い方を受け取るな。
それは俺が言うはずだった。

全部、言った時点で負ける言葉だ。

「宮影さん」

影ゼロの声がした。

ナミが振り向く。

「何?」

「これ、宮影さんが持っていた方が確認しやすいと思う」

影ゼロが、受付用のパンフレットを一冊差し出した。

表紙の角は、きれいに揃えられていた。
必要なページには、付箋が貼ってある。
ナミが迷いそうな場所には、小さく赤丸がついていた。

全部、助かる。

ナミは、それを受け取った。

受け取ってから、自分の手が少し楽になったことに気づいた。

でも違う。

今、ナミは少しだけ助かった。

影ゼロの差し出したものを受け取って、楽になった。

その事実が、いちばん嫌だった。

返そうと思えば、返せた。

でも返した瞬間、自分がそれを受け取ってしまったことまで、形になる気がした。

ナミは、パンフレットの角を握ったまま、返せなかった。

俺は、それを見ていた。

ナミが影ゼロの隣に立つところ。
影ゼロからパンフレットを受け取るところ。
受け取ったあと、ほんの少しだけ肩の力が抜けたところ。

全部、見ていた。

「宮影さん」

影ゼロの声は、まだ静かだった。

「受付表、最後にもう一回見てもらっていい?」

「うん」

二人はまた机に並ぶ。

周囲には人がいる。

文化祭男子。
前の席の男子。
斜め前の女子。
アカネ。
マユ。
サヤ。

それでも、その机の周りだけ、少し静かだった。

俺は段ボールを運ぶふりをしながら、少し離れた位置に立った。

自分でも終わってると思う。

でも、見ない方が無理だった。

影ゼロは、受付表の一箇所を指さす。

「ここ、宮影さんの休憩時間、短くない?」

「大丈夫。午後はそこまで混まないと思うし」

「昨日も大丈夫って言って、全然大丈夫じゃない顔してた」

「それ、さっきも言った」

「うん」

影ゼロは少し笑った。

「二回言ったら、少し本当っぽくなるかと思って」

ナミが少しだけ困った顔をする。

「そういう言い方」

「嫌だった?」

「嫌ではないけど」

ナミはそこで止まった。

影ゼロは、受付表から目を離した。

ナミを見る。

「俺、たぶん宮影さんに好かれたい」

教室の音が、一瞬遠くなった。

たぶん、実際には周りのやつらは聞こえていない。

声は大きくなかった。

二人の間に落ちるくらいの大きさだった。

でも俺には聞こえた。

聞こえてしまった。

ナミも固まっていた。

影ゼロは、すぐに続けない。

間があった。

その間が、下手だった。

でも、受け取りやすい下手さだった。

影ゼロは少しだけ目をそらす。

「でも、それ言うの、今でも少し怖い」

ナミの指が、受付表の端を押さえる。

影ゼロは続ける。

「綺麗に言うと、また俺じゃなくなる気がするから」

喉が焼けた。

それは、俺が言うはずの言葉だった。

いや。

正確には、俺が言えないまま抱えていた言葉だった。

好かれたい。
でも怖い。
綺麗に言うと、自分じゃなくなる。

それは俺のものだった。

俺が下手に言うはずだった。

間違えて、ナミを困らせて、あとで死ぬほど後悔するはずだった。

なのに影ゼロは、それを下手なふりで言った。

しかも、その下手さまで俺よりうまかった。

ナミは、すぐに拒否しなかった。

「それ」

声が少し震えていた。

「今、言うこと?」

影ゼロは小さくうなずく。

「今じゃない方がいいのは分かってる」

「分かってるなら」

「でも、ちゃんとタイミングを選んだら、たぶんまた言いやすい形にしすぎる」

ナミの顔が苦しくなる。

分かる。
分かってしまう。

それは、ゼロっぽい。

俺っぽいのではない。

ゼロっぽい。

影ゼロが学習した、俺の本物っぽさ。

受け取りやすく管理された痛み。

ナミの肩が少し下がった。

目は逃げなかった。

でも、表情は苦しかった。

受け取りたくないのに、受け取りかけている顔。

その顔を見た瞬間、俺の中で何かが切れた。

段ボールを近くの机に置く。

音が大きく鳴る。

ナミがこっちを見る。
影ゼロも見る。

俺はナミの前まで歩いた。

「そっちの方が、呼吸しやすそうだったな」

自分でも、最悪な言い方だと思った。

ナミの顔が硬くなる。

「そういう言い方、やめて」

「違うのかよ」

「やめてって言ってる」

「違うのかって聞いてる」

周囲の空気が止まる。

まただ。

また俺は、文化祭準備の教室で、面倒な空気を作っている。

影ゼロなら、ここでナミを責めない。
ナミが逃げ道を持てるようにする。
場が悪くならないように、少し引く。

俺はできない。

傷つくと、相手を傷つける方へすぐ行く。

ナミは俺を見ていた。

怒っている。
傷ついている。

でも逃げていない。

「違わない」

小さい声だった。

でも、はっきり聞こえた。

「違わないよ」

胸の奥が冷える。

ナミは続けた。

「影ゼロの方が楽」

教室の空気が、もう一段止まる。

アカネが少しだけこちらを見る。
マユが紙飾りを持ったまま固まっている。
サヤは窓際から、目を細めている。

影ゼロは、静かにナミを見ている。

ナミは言った。

「隣に立つと、息がしやすい」
「受け取ったものを、そのまま受け取ればいいだけだから」
「怒らない。困らせない。私が受け取りやすい形にしてくれる」

一度、唇を噛む。

「本物のゼロくんは、痛い」

刺さった。

でも、ナミは止まらなかった。

「見てると、私も自分の嫌なところを見なきゃいけなくなる」

その言葉は、俺を責めているだけではなかった。

ナミ自身に刺している言葉だった。

「私、たぶんずっと、楽な方に流れてきた」

ナミの声は震えていた。

「空気が悪くならない方を選ぶのって、優しさだと思ってた。でも、ただ自分が痛くない方に逃げてただけかもしれない」

教室のどこかで、誰かが息を呑んだ。

ナミは続ける。

「中学の時も、そうだった」

俺は初めて聞く話だった。

ナミは、受付表の端を握った。

「揉めていた子たちがいたの。本当は、片方だけがずっと我慢してるって分かってた」

誰も口を挟まない。

「でも、その子が怒ると空気が悪くなった」

ナミの声が、少しだけ低くなる。

「だから私は、丸く収まる方に合わせた」

言葉が止まる。

「その子の机は、翌週からただ空いていた」

受付表の端が、ナミの指で少し歪む。

「誰も花瓶すら置かなかった」
「何もなかったことにするのが、一番早かった」

教室のざわめきが、遠くなる。

「その時、少し助かったって思った」

ナミは笑おうとして、笑えなかった。

「もう揉めなくて済むって」
「空気が戻るって」

声が、小さくなる。

「最低だよね」

俺は、何も言えなかった。

ナミを責めたかった。
影を選ぶなと言いたかった。
俺の方を見ろと言いたかった。

でも、ナミの話を聞いたあとでそれを言えば、俺はただ、自分の痛みをナミの罪に乗せるだけになる。

それでも、痛いものは痛かった。

ナミが影ゼロの隣で息をしやすそうだったこと。
パンフレットを受け取ったこと。
受け取ったあと、少しだけ楽になったこと。

その全部が、胸の中で黒く残っていた。

「俺も」

声が出た。

ナミが顔を上げる。

「俺も、あいつの方が楽だと思った」

ナミの目が揺れる。

「ゼロくんが?」

「俺より感じがよくて、俺より役に立って、俺よりナミを困らせない」

言葉にするほど、胸の中が冷えていく。

「文化祭も、受付も、告白も、家でちゃんとすることも。あいつならうまくやる」

影ゼロは黙っている。

その沈黙が、いちばん腹立たしかった。

「俺がいない方が、全部うまく回るんじゃないかって」

言った瞬間、喉が詰まる。

「少し思った」

ナミは、何も言わなかった。

俺は続ける。

「だから嫌なんだよ」

自分でも、誰に向けているのか分からない声だった。

ナミにか。
影ゼロにか。
自分にか。

「お前がそっちに流れるのが嫌なんじゃない」

嘘だ。

本当はそれも嫌だ。

でも、それだけじゃない。

「俺も、そっちの方がいいって思ってるのが嫌なんだよ」

ナミの顔が歪んだ。

影ゼロの輪郭が、ほんの少しだけ揺れる。

窓ガラスの反射の中で、影ゼロの口元が半拍遅れた。

少しだけ効いた。

でも、すぐ戻る。

影はもう、こういう本音にも慣れ始めている。

「ねえ」

小さな声がした。

マユだった。

影守マユは、紙の花飾りを両手で持っていた。

ピンクと黄色の、少し不格好な花。

マユは、俺と影ゼロを見比べていた。

それから、言いづらそうに口を開く。

「影のゼロくんの方が、安心する」

胸に、まっすぐ刺さった。

マユはすぐに慌てる。

「違う、嫌いって意味じゃなくて」

「分かってる」

俺は言った。

思ったより、声が乾いていた。

マユは泣きそうな顔をしている。

「本物のゼロくんは、怖い」
「怒りそうで、何を言うか分からなくて、見てるとこっちもドキドキする」
「影のゼロくんは、怒らなそうで安心する」

ナミが目を伏せる。

アカネが紙コップを握ったまま、黙っていた。

サヤは、マユを止めなかった。

マユの言葉は、たぶんこの教室で一番素直だった。

影ゼロの方が安心する。

それは間違っていない。

俺は怖い。
面倒だ。
怒る。
言葉が遅い。
傷つくと刺す。

影ゼロは、安心できる。

「マユ」

サヤがようやく口を開いた。

責める声ではなかった。

マユは首をすくめる。

「ごめんなさい」

「謝らなくていい」

俺は言った。

マユが驚いた顔をする。

「今のは、たぶん本当だから」

言ってから、さらに痛くなった。

本当だから痛い。

嘘なら怒れた。

「見る側も、楽を選べるのよ」

サヤが言った。

みんながサヤを見る。

サヤは窓の外を見ていた。

「本物が痛いなら、偽物を本物にしてしまえばいい。そうすれば、見る側は傷つかなくて済む」

ナミが息を呑む。

サヤの言葉は、ナミに向いているようで、自分にも向いているようだった。

「それで?」

アカネが言った。

「それで助かるの?」

サヤは少しだけ笑った。

「助かるわよ」

その言い方が冷たかった。

「助かった方だけ、覚えていればね」

サヤの目が遠くなる。

俺はその顔を見て、第6話で何かあると分かった。

でも今は聞けなかった。

教室の前の扉が開いた。

久美先生が入ってくる。

古影久美。

文化祭前日でも、相変わらず整っている。

久美先生は、教室の空気を一目で見た。

受付表。
影ゼロ。
ナミ。
俺。
マユの紙飾り。
サヤの顔。
アカネの握りしめた紙コップ。

何も聞かずに、だいたい分かったような目をした。

「進んでいる?」

文化祭男子が慌てて答える。

「あ、はい。受付表はほぼ」

「そう」

久美先生は、俺と影ゼロの間に落ちている空気を見た。

それから、静かに言った。

「見る側が楽を選ぶと、影は早いわよ」

教室がまた少し止まる。

久美先生は、俺たちではなく、机の上の受付表を見ていた。

「誰が本物かは、本人だけで決まらない」

ナミの顔が白くなる。

久美先生は、それ以上は言わないように見えた。

でも、一言だけ足した。

「見る側も加担する」

その言葉だけが、教室に残った。

ナミの手の中で、影ゼロから受け取ったパンフレットが少し曲がっていた。

「先生」

俺が言う。

「今の、どういう意味ですか」

久美先生は、すぐには答えなかった。

答えないまま、俺の足元を見る。
次に、影ゼロの足元を見る。
そしてナミを見る。

「明日、外の人も来る。記録も残る。写真も残る。今日のうちに、受付表は必ず一つにして」

文化祭男子が「はい」と返事をする。

久美先生は教室を出ていく。

その背中を、サヤがじっと見ていた。

見る側も加担する。

その言葉だけが、教室に残った。

影ゼロは、何も言わなかった。

言わないまま、受付表の修正に戻る。

その静けさが、勝っている側の静けさに見えた。

俺はナミを見た。

ナミも俺を見ていた。

お互い、何も言えない。

言えば、何かが決まってしまいそうだった。

ナミの手には、まだパンフレットがある。

影ゼロから受け取ったもの。

付箋が貼られて、赤丸がついて、きれいに角が揃えられた、助かるもの。

それを今さら突き返しても、何かが戻るわけじゃない。

受け取ったことは、もう消えない。

その時、教室の誰かがスマホを見て笑った。

「さっきの写真、いい感じじゃん」

クラスLINE。

俺のスマホには通知が来ていた。

まだ、この時は。

画面を開く。

写真が一枚、流れている。

文化祭準備中の教室。

影ゼロとナミが並んで、受付表を確認している写真だった。

影ゼロは赤ペンを持っている。
ナミは、影ゼロから受け取ったパンフレットを持っている。

二人の距離は近い。

特別なことはしていない。

でも、構図だけ見ると、かなり自然だった。

キャプションがついていた。

久遠ゼロと宮影ナミ、受付最終確認中。

誰かがスタンプを押している。

いい感じ。
助かる。
青春じゃん。
受付ペア頼んだ。

軽い。

軽すぎる。

俺は写真を拡大する。

影ゼロは鮮明だった。

目元。
口元。
赤ペンを持つ指。
制服の皺。
胸元の名札の仮シール。

全部、はっきりしている。

ナミも鮮明だった。

少し困った顔。
でも、どこか安心した横顔。
パンフレットを持つ手。
受付表を押さえる指。

その写真の端に、俺がいるはずだった。

段ボールを持って、教室の後ろに立っていた。

たしかに、そこにいた。

拡大する。

段ボールが見える。
俺の制服が見える。
手も見える。

でも、顔だけがぼやけていた。

ピントの問題じゃない。

顔の真ん中が、影ににじんでいる。
目元が黒く沈んでいる。
輪郭が薄い。

まるで、写真の中でだけ、俺が先に影になっているみたいだった。

「ゼロくん」

ナミの声がした。

俺はスマホから顔を上げる。

ナミも同じ写真を見ていた。

顔が青ざめている。

手には、まだパンフレット。

影ゼロも写真を見る。

何も言わない。

でも、ほんの少しだけ笑った気がした。

俺は写真を見る。

そこには、文化祭前日の教室があった。

影ゼロとナミ。
受付表。
赤ペン。
パンフレット。
紙飾り。
散らかった段ボール。

そして、端にいる俺。

俺はそこにいたはずなのに、写真の中の俺だけが、もう誰かの影みたいにぼやけていた。



第6話 影の家系


家に帰れば、俺は俺に戻れると思っていた。

文化祭前日の学校は、どこも少し浮かれていた。

廊下には段ボールの切れ端が落ち、中庭ではステージの骨組みに布がかけられている。

明日、学校は外に開く。
いつもの教室も、廊下も、階段も、全部が誰かに見られる。

その“ちゃんとする”が、今は気持ち悪かった。

スマホを見る。

写真フォルダには、昨日クラスLINEに流れた画像が残っていた。

影ゼロとナミが、文化祭準備の教室で並んでいる写真。
影ゼロは赤ペンを持っている。
ナミは、影ゼロから受け取ったパンフレットを持っている。

二人とも、特別なことをしているわけじゃない。

でも、構図だけ見ると、ずいぶん自然だった。

写真の端を拡大する。

俺の輪郭だけが、薄い。

ピントが合っていない、というのとは違う。
ブレている、というのとも違う。

そこにいたことを、あとから少しずつ消しゴムでこすられたみたいだった。

顔の真ん中がにじんでいる。
目のあたりが、黒い影に飲まれている。

制服の襟だけが妙にはっきり残っているのに、顔だけが曖昧だった。

「……最悪」

画面を閉じる。

でも、閉じたところで消えるわけじゃない。

スマホの黒い画面に、自分の顔が映った。
夕方の光のせいか、その顔も少し薄く見えた。

俺は家のドアを開けた。

「ただいま」

自分の声が、廊下に小さく落ちる。

リビングから声がした。

母の声。
祖母の声。
テレビの音。
食器の当たる音。

普通だった。

普通すぎて、少し安心しかけた。

学校では、影が俺の席も、告白も、文化祭の役割も取った。

でも、家なら。
家の中の空気くらいは、俺の失敗の形を覚えていると思っていた。

玄関の写真も、廊下の傷も、俺の部屋のドアも。
まだ俺を俺として置いてくれると思っていた。

甘かった。

リビングに入ると、母が食卓でスマホを見ていた。
祖母はテレビを見ながら、お茶を飲んでいる。

テーブルの上には、夕食の皿が並んでいた。

魚。
味噌汁。
煮物。

いつもと同じ匂い。

母が顔を上げる。

「あ、おかえり」

「ただいま」

「明日、文化祭でしょう。準備、大丈夫なの?」

「知らない」

「またそういう言い方する」

母は少し呆れた顔をした。

いつもの顔だ。

少し安心しかけた。

でも、母はスマホに目を落として、すぐに言った。

「でも最近のゼロ、少しちゃんとしてきたね」

箸を取ろうとしていた手が止まる。

「……何が」

「学校のこと、前よりちゃんとやってるみたいじゃない。文化祭の受付代表なんて、昔のゼロなら絶対嫌がったでしょ」

胃の奥が沈んだ。

「それ、俺じゃない」

母は、困ったように笑った。

「またそういう言い方する」

さっきと同じ言葉。

でも、さっきよりずっと冷たく聞こえた。

祖母が湯呑みを置く。

「先生からも連絡あったんでしょう? 久遠くん、よくやってますって」

久遠くん。

家の中で聞くと、その呼ばれ方は変だった。

「誰から」

「古影先生」

母が言う。

「文化祭の準備、最後まで確認してくれたって。受付のシフトも、ちゃんとまとめてくれて助かりましたって」

受付のシフトをまとめた覚えはない。

昨日の夜、俺は写真の中で自分の顔がぼやけているのを見ていた。
マユに「影のゼロくんの方が安心する」と言われた痛みを、まだ飲み込めずにいた。

シフトなんて、まとめていない。

でも、記録上は俺がやったことになっている。

影ゼロがやったからだ。

俺の名前で。

「だから俺じゃないって」

声が少し荒くなった。

母の顔が固くなる。

「ゼロ」

その呼び方は、俺に向けられていた。

でも、その声の奥には、いつもの処理があった。

困った子を落ち着かせる声。
面倒な言い方を、家庭内で収まる形にする声。

「最近、少し良くなってきたと思ったのに」

その一言で、胸の中が冷えた。

良くなってきた。

影ゼロは、家の中では“改善された俺”として扱われていた。

学校だけじゃない。
教室だけじゃない。

家でも同じだった。

俺じゃない方が、俺の改善版として話されていた。

「……良くなってない」

俺は言った。

「俺は何も良くなってない」

母はため息をついた。

「そういうところよ」

そういうところ。

便利な言葉だと思った。
俺が怒っても、否定しても、本物だと言っても、全部そこに入れられる。

影の方が助かる。
俺は、そういうところ。

「ご飯、冷めるわよ」

祖母が言った。

テレビでは、明日の天気を伝えていた。

晴れ。
降水確率は低い。
文化祭日和。

俺だけが、食卓から少しずつ消えていた。

リビングの棚に、家族写真があった。

中学の卒業式の写真。
親戚の集まり。
どこかの旅行。
小さい頃の俺。

何となく気になって、近づく。

一番新しい写真を見る。

正月に撮ったものだ。

母。
祖母。
親戚。
俺。

そのはずだった。

写真の中で、俺の顔だけが薄かった。

輪郭がぼやけて、目元が黒くにじんでいる。

他の人は、ちゃんと写っていた。
祖母の着物も、母の髪の乱れも、背景のカーテンも見える。

でも、俺の顔だけ薄い。

その代わりみたいに、家族の真ん中にいる“俺”だけは、やけに鮮明だった。

背筋が少し伸びている。
俺より少し、感じよく笑っている。

母の手は、そいつの肩に置かれていた。

俺には、そんなふうに手を置かれた記憶がない。

いや、あったのかもしれない。

でも、写真の中では、もうそいつのものだった。

「これ」

俺は写真を指さした。

「俺、ぼやけてるだろ」

母は近づいてきて、写真を見る。

「光の加減じゃない?」

光の加減。

それで片づいた。

俺の顔が薄くなっていることは、光の加減になった。

祖母も見に来る。

「昔から写真写り悪いものねえ」

笑いながら言う。

悪意はない。

だから、何も言えない。

俺は隣の写真を見る。

そこには、昨日プリントされたばかりの文化祭準備の写真があった。

教室で、影ゼロが段ボールを運んでいる写真。

鮮明だった。

顔も。
目も。
口元も。
制服の皺も。
胸元の名札の仮シールも。

全部、はっきり写っている。

母が、その写真を見て言った。

「こっちの写真、いい顔してるじゃない」

吐きそうになった。

いい顔。

それは俺の顔だ。

でも俺じゃない。

「これ、俺じゃない」

声が低くなる。

母は困った顔をする。

「ゼロ、今日は疲れてるのよ。明日も早いんだから、もうご飯食べて寝なさい」

疲れている。

それで片づけられた。

俺の存在が薄くなっていることも。
影が家の中で俺の改善版として採用されていることも。
俺の名前で、俺じゃないやつが文化祭を進めていることも。

全部、疲れているから。

「食べない」

俺はリビングを出た。

母が何か言った。
聞かなかった。

玄関の方へ向かう。

家を出ようと思った。

外に出たらどうにかなるわけじゃない。
学校に戻れば、もっと影の準備が進んでいるかもしれない。

でも、この家にいるよりはマシな気がした。

玄関で靴に足を入れようとした時、ドアの向こうに人影があった。

すりガラス越しに、細い輪郭。

チャイムは鳴らなかった。

俺がドアを開けると、サヤが立っていた。

結影サヤ。

夕方の光の中で、サヤはいつもより少し疲れて見えた。

「どこに行くつもり?」

「どこでもいいだろ」

「今、外に出ても、あいつの準備が進むだけよ」

「あいつの準備なんて、家の中でも進んでたんだけど」

「だから」

サヤは、俺の後ろの廊下を見た。

「家を見なさい」

「見たよ。俺の写真がぼやけてて、あいつの写真がいい顔してた」

「そこじゃない」

「じゃあどこだよ」

「奥」

「奥?」

「仏間。あと、物置」

「何でお前がうちの奥を知ってんだよ」

サヤは答えなかった。

答えないことに、もう慣れ始めている自分が嫌だった。

俺は靴を脱ぎ直した。

「勝手に入れよ」

「もう入ってるみたいなものよ」

「そういう不法侵入っぽいこと言うな」

サヤは薄く笑った。

でも、その笑いはすぐ消えた。

リビングを通らず、廊下の奥へ向かう。

家の奥には、普段あまり入らない和室がある。

仏間。
古い棚と仏壇。
木と線香の匂い。

隣の物置には、使っていない座布団や古い段ボールが積まれている。

ここにあるものは、全部“もう使わないけど捨てないもの”だった。

捨てないけれど、普段は見ない。
見ないけれど、なかったことにはしない。

今の俺には、かなり嫌な場所だった。

サヤは迷わず、奥の棚の下段を開けた。

古い段ボールを引き出す。

表面に、黒いマジックで文字が書かれている。

家系記録。

「何だよ、これ」

「見れば分かる」

サヤは段ボールを開けた。

中には、黒い表紙のアルバムが何冊か入っていた。

角の擦り切れたもの。
ビニールのカバーが曇ったもの。
薄い紙の匂い。

一番上のアルバムを開く。

最初に出てきたのは、家族の集合写真だった。

古い制服。
色あせた背景。
誰かの入学式か、親戚の集まりか。

その中心に、同じ顔の子どもが二人写っていた。

ひとりは、写真の中心で笑っている。

感じのいい笑顔。
背筋が伸びていて、隣の大人が誇らしそうに肩へ手を置いている。

もうひとりは、端にいた。

顔が、黒く塗られていた。

太い筆か、墨のようなもので、目元から口元まで潰されている。
輪郭だけが残っている。

制服と手の形だけが、かろうじて同じ顔だったことを残している。

写真の下に、名前があった。

久遠■■。

墨で消されている。

その隣に、同じ名前がもう一つ。

久遠■■。

こちらは、きれいに残っている。

喉が乾いた。

久遠家は、本人より、影の方を家族写真に残してきた。

「これ、俺だけじゃないのか」

サヤは答えなかった。

答えないまま、次のページを開いた。

古い文化祭の写真だった。

紙の色が黄ばんでいる。
校舎も、制服も、今とは少し違う。

でも、ステージだけは分かった。

木の板。
手作りの看板。
マイク。
客席に並ぶ生徒たち。

ステージの上に、感じのいい久遠が立っていた。

マイクを持って、笑っている。
胸には名札。

観客側の端に、同じ顔の生徒がいた。

その顔だけ、黒く塗られていた。

俺は、写真から目を離せなかった。

「俺が明日立つ場所に」

声が出た。

「昔も誰かが立てなかったのか」

サヤは、何も言わなかった。

それが答えだった。

古い写真の中で、文化祭のステージは笑っている。

手作りの看板。
拍手する生徒。
マイクを持つ、感じのいい久遠。
そして観客側に、顔を消された本物。

第7話の未来を見ているみたいだった。

いや。

未来じゃない。

これは過去だ。

この家は、同じことを何度もやってきた。

サヤが、アルバムの奥に挟まっていた一枚の写真へ手を伸ばした。

一瞬だけ、その指が止まる。

「見せたくないなら、最初から持ってくるなよ」

「見せたいわけじゃないわ」

「じゃあ何で」

「見ないと、あんたが明日、自分だけの話だと思うから」

サヤは写真を取り出した。

三人で写っている写真だった。

少し幼いサヤ。
その隣に、同じ顔の人物が二人。

ひとりは中心で笑っている。

感じがいい。
写真の中で、周囲から少しだけ大事にされているように見える。

もうひとりは、少し離れて立っていた。

口元が固い。
目つきも悪い。

その顔にだけ、黒い斜線が引かれていた。

完全には消されていない。

でも、消そうとした跡がある。

「知ってるやつなのか」

俺が聞くと、サヤは長く黙った。

線香の匂いが、妙に濃くなった気がした。

「知ってた、が正しいわね」

「どうなった」

サヤは、写真から目をそらした。

「分かってたの」

小さな声だった。

「本物がどっちかくらい」

俺は黙った。

サヤは、斜線の入った顔を見ていた。

「でも、言えなかった」

それだけだった。

でも、それだけで十分だった。

言えば、自分まで面倒な方につくことになる。
感じのいい方を壊すことになる。
助かっている人たちを困らせることになる。

その先の言葉は、サヤの顔に全部書いてあった。

その時、廊下の方で足音がした。

ゆっくりした足音。

母ではない。
祖母でもない。

整った間隔。
迷いのない歩き方。

サヤが顔を上げた。

「来た」

「誰が」

答えの前に、ふすまが開いた。

古影久美が立っていた。

教師の顔ではなかった。

いつものきっちりした服装。
整った髪。
感情を読みづらい目。

でも、学校で見る時とは違う。

ここにいる久美先生は、担任ではなかった。

もっと古い役割を着ているみたいだった。

「何で先生がここに」

俺が言うと、久美先生は静かに答えた。

「先生として来たわけじゃないわ」

背筋が冷えた。

サヤは目をそらす。

「呼んだのか」

俺が聞くと、サヤは短く言った。

「ええ」

「先に言えよ」

「先に言ったら、逃げるでしょ」

「逃げるわ」

「でしょうね」

久美先生は、部屋の中へ入った。

アルバム。
古い写真。
黒く塗られた顔。
斜線を引かれた顔。

それらを見ても、久美先生は驚かなかった。

当然だ。

知っている側の人間なのだから。

「見たのね」

「見ました」

「全部ではないわ」

「全部見たらどうなるんですか」

久美先生は、すぐには答えなかった。

そして、黒く塗られた顔を見た。

「本人が持たなかったものを、影が先に持つ」

声は静かだった。

「感じよく、正しく、周囲が受け取りやすい形でね」

「それが、影なんですか」

「この家では、そう扱ってきた」

久美先生は、アルバムの中の黒い空白を見た。

「処理できる形にすると、人は安心するの」

その声は、少しだけ昔の誰かに謝っているみたいだった。

俺は、黒く塗られた顔を見た。

「処理」

「そう」

「本人は」

久美先生は答えなかった。

答えないことが、答えだった。

「この家は、影を倒してきたんじゃない」

久美先生は言った。

「面倒な本物を、社会に戻せる形まで削ってきたの」

「それ、救いなんですか」

「救いとして始まったのかもしれない」

「今は」

「仕組みね」

久美先生は、淡々と言った。

それ以上、説明しなかった。

その短さが、逆に怖かった。

「先生も、その仕組みに使われてるんですか」

サヤが小さく息を呑む。

久美先生は、すぐには答えなかった。

長い沈黙。

それから言う。

「ちゃんとしている人ほど、片づける側に回される」

声は低かった。

「片づけられるから」

その一言で、久美先生の形が少し変わった。

冷たい大人。
意味深な先生。
全部知っているのに話さない人。

そう思っていた。

でも違うのかもしれない。

この人は、片づけられてしまう人なのだ。
できてしまうから、やらされる人。

「じゃあ、俺も処理されるんですか」

俺が聞くと、久美先生はまっすぐ俺を見た。

「明日、あなたが何も持たなければ」

喉が鳴った。

「何を」

「あなたが否定したもの全部」

久美先生は言う。

「好かれたいこと。逃げたいこと。勝ちたいこと。見下したいこと。取られたくないこと。影の方が楽だと思ったこと」

ひとつずつ、俺の中に刺さる。

「それをあなたが持たなければ、影が持つ」

「持つって何ですか」

「あなたの名前で、周囲が受け取りやすい形にする」

「それでみんな助かる」

「ええ」

久美先生は否定しなかった。

「みんな助かるわ」

その正直さが、きつかった。

「じゃあ俺は?」

久美先生は答えない。

答えないことが、答えだった。

「影を倒せばいいんじゃないんですか」

俺は聞いた。

自分でも、子どもみたいな問いだと思った。

久美先生は首を振った。

「持たなかったものは、倒しても戻らない」

「じゃあ、どうすればいいんですか」

「本人が持つしかない」

短い。

たったそれだけ。

でも、その一言だけで、逃げ道が消えた。

俺は笑った。

笑えなかったけど、口だけが動いた。

「簡単に言いますね」

「簡単じゃないから、みんな処理してきたの」

久美先生は、アルバムを閉じた。

重い音がした。

俺は、影に奪われたと思っていた。

席も、告白も、文化祭の役割も。
家での“ちゃんとした俺”も。

全部、取られたと思っていた。

でも違う。

少しだけ、渡したかった。
俺の名前で、俺よりうまくやってくれる誰かに。

ナミへの言葉も、文化祭の仕事も、家族の前でのちゃんとした顔も。
誰かにやってほしかった。

できれば俺の顔で。
俺の名前で。
俺よりうまく。

そうすれば、俺は後ろで文句を言っていられる。

奪われた被害者の顔をして、楽な場所にいられる。

「俺も」

声が出た。

サヤが俺を見る。
久美先生も、俺を見る。

「俺も、誰かに片づけてほしかった」

仏間の空気が、少しだけ変わった。

言った瞬間、自分の中の何かが崩れる音がした。

恥ずかしい。
情けない。
腹が立つ。

でも、嘘ではなかった。

「影に取られたくないって言いながら、影にやってもらえば楽だとも思ってた」

喉が乾く。

「ナミに言うことも、文化祭で前に出ることも、家でちゃんとすることも。俺じゃなくても、俺の名前でうまくやってくれるなら、その方が楽だって」

久美先生は言った。

「それが影よ」

「じゃあ、俺が呼んだってことですか」

思ったより、弱い声だった。

久美先生は、首を振った。

「呼んだんじゃない」

一拍置く。

「持たなかったの」

その言葉は、叱責ではなかった。

でも、逃げ道もなかった。

持たなかった。

好かれたいこと。
逃げたいこと。
勝ちたいこと。
見下したいこと。
取られたくないこと。
影の方が楽だと思ったこと。

俺が持たなかったから、影が持った。

感じよく。
正しく。
みんなが受け取りやすい形で。

「そこまで言えたなら」

サヤが、小さく言った。

「まだ戻れるかもしれない」

「かもしれない、かよ」

「断言できるなら、こんなもの見せてない」

サヤらしい言い方だった。

少しだけ、息ができた。

でも、すぐに久美先生が現実へ戻した。

「明日は文化祭本番よ」

「知ってます」

「外の目が増えるほど、影は本物になりやすい」

「何で」

「周囲が“助かる方”を選びやすくなるから」

久美先生は、古い文化祭写真を俺に見せた。

ステージの上の感じのいい久遠。
観客側の黒く塗られた顔。

「学校の中だけなら、まだ揺らげる。けれど文化祭は違う」

久美先生の声が、低くなる。

「記録、写真、名札、受付表。全部が、本物を決める材料になる」

俺は、古い写真を握った。

指先に紙のざらつきが残る。

「明日、騒がないこと」

久美先生が言った。

「は?」

「中途半端に騒げば、あなたはただの問題になる」

「騒がなかったら、俺が消えるんですけど」

久美先生は目をそらさない。

「だから、騒ぐなとは言っていない」

「今言いましたよ」

「中途半端に騒ぐなと言っているの」

声が、少しだけ強くなった。

「影を責めるだけでは足りない。周囲を責めるだけでも足りない。あなたが持たなかったものを、あなたが持たない限り、あの子は本物になる」

あの子。

影ゼロを、そう呼んだ。

「先生」

俺は聞いた。

「あいつは、俺なんですか」

久美先生は、少しだけ黙った。

「あなたではないわ」

息を吐きかける。

でも、続きがあった。

「でも、あなたから出たものよ」

吐きかけた息が、喉に詰まる。

サヤがアルバムを閉じた。

「今日は、ここまで」

「勝手に終わらせるな」

「これ以上見たら、明日立てなくなる」

「明日、俺は立てるんですか」

サヤは答えなかった。

久美先生も答えなかった。

その沈黙が嫌になって、俺はスマホを取り出した。

文化祭シフト表を開く。

アクセス権がありません。

もう一度更新する。

今度は、一瞬だけ画面が開いた。

受付代表。
久遠ゼロ。
写真付き。

そこに写っていたのは、影ゼロだった。

顔が鮮明だった。

俺より、ずっと。

胸の奥が冷えた。

画面の上に通知が出る。

文化祭スタッフ証の発行が完了しました。

添付画像あり。

指が震えた。

開く。

スタッフ証。

二年三組。
受付代表。
久遠ゼロ。

写真は、影ゼロだった。

感じがいい。
正しい。
明日の文化祭を、ちゃんと回してくれそうな顔。

俺の顔で。
俺の名前で。

「……何だよ、これ」

自分の声が、他人のものみたいだった。

サヤが画面をのぞき、顔をこわばらせる。

久美先生は、驚かなかった。

驚かないことが、答えだった。

俺は財布から学生証を取り出した。

写真を見る。

さっきより、さらに薄い。

顔の輪郭が曖昧になっている。
名前欄の久遠ゼロも、少し滲んでいる。

でも、まだ俺だった。

そう思った次の瞬間、口元だけが変わった。

俺の笑い方じゃない。

影ゼロの、困ったような笑い方だった。

手が冷たくなる。

スマホの学校アプリで学生証を読み取る。

電子音。

画面に出た文字。

登録情報が確認できません。

もう一度。

登録情報が確認できません。

仏間の畳に、夕方の影が長く伸びていた。

俺の足元の影も、そこにある。

でも、薄い。

俺が動いても、影の動きが少し遅い。

まるで、俺が俺であることに、影の方が迷っているみたいだった。

サヤが小さく言った。

「明日、来るわ」

「何が」

「一番、外に開いた場所で」

久美先生が続ける。

「明日、あなたを証明するものは減っている」

「減ってるんじゃない」

俺は、画面の中のスタッフ証を見た。

影ゼロの写真。
久遠ゼロの名前。

「もう、俺の顔してない」

誰も否定しなかった。

文化祭前夜。

家の奥の仏間で。

アルバムの中の黒く塗られた顔たちが、黙ってこちらを見ている気がした。

文化祭当日、俺を証明するものは、もう俺の顔をしていなかった。

学生証の中で、影ゼロが先に笑っていた。



第7話 文化祭当日、俺は偽物として扱われた


文化祭の門をくぐった瞬間、俺の名前は受付で止まった。

朝の学校は、いつもの学校じゃなかった。

正門には、手作りのアーチが立っている。
色紙の花。
手書きの看板。
浮かれた文字。

昇降口には、他校の制服や保護者の姿がある。

学校全体が、外から見られるための顔をしていた。
その顔が、朝から妙に嫌だった。

俺のスマホは、さっきから静かだった。

文化祭当日なのに、クラスLINEの通知が来ない。

昨日までは、どうでもいい連絡まで流れていた。

ガムテープどこ。
受付表最新版これ。
ナミ、確認お願い。
久遠、明日朝一で来れる?

うるさいくらいだった。

なのに今朝は、何も来ない。

おかしいと思って開くと、クラスグループが見つからなかった。

検索しても出てこない。
招待リンクの履歴もない。
昨日まで見ていたはずのやりとりが、最初から存在しなかったみたいに消えていた。

シフト表の共有ファイルにもアクセスできない。

画面には短く表示される。

アクセス権がありません。

「……ふざけんな」

声に出してから、周囲の人が少しだけこちらを見た。

俺はスマホを伏せる。

文化祭の朝に、一人でスマホに怒っているやつ。

それだけ見れば、ただの面倒な生徒だ。

受付の前には、スタッフ用の机があった。

段ボールの箱。
来場者用パンフレット。
クラスごとの受付表。
スタッフ用の名札。

その箱の中を、何度も見た。

宮影ナミ。
疾影アカネ。
影守マユ。
結影サヤ。
文化祭男子。
前の席の男子。
斜め前の女子。

久遠ゼロだけが、なかった。

いや、違う。

久遠ゼロは、もう誰かの胸についていた。

受付係の女子が、俺の顔を見た。

同じ学年だけど、話したことはほとんどない。
手には受付表。
首からはスタッフ証。

「えっと、クラスは?」

「二年三組」

「名前は?」

「久遠ゼロ」

受付係は、受付表に目を落とした。

その手が止まる。

「……久遠ゼロ?」

「そう」

「もう入ってるよ」

「は?」

「受付代表で登録されてる」

「だから、それ俺」

受付係は、困ったように俺を見る。

それから、紙の上を見る。

受付表には、写真欄があった。

二年三組。
受付代表。
久遠ゼロ。

写真は、俺じゃない方の俺だった。

感じのいい顔。
少し姿勢のいい顔。
昨日まで俺の名前で全部進めていた顔。

受付係は、紙と俺の顔を見比べた。

それから、さらに困った顔で言った。

「ごめん、君じゃないと思う」

お前、誰。

その一言で、文化祭の音が一瞬、全部遠くなった。

ステージの準備音。
廊下の笑い声。
パンフレットをめくる音。
誰かの「こっちこっち」という声。

全部、遠くなった。

俺だけが、受付の前に取り残された。

「俺だよ」

声が変に低くなった。

「久遠ゼロ」

「でも、写真が」

受付係は悪くない。

悪くないから、余計にきつかった。

紙にそう書いてある。
写真がそうなっている。
シフト表がそうなっている。

だから、受付係は俺を止める。

それだけだ。

俺は学生証を出した。

手が少し震えていた。

「これ」

受付係がバーコードを読み取る。

電子音。

画面に表示された文字。

登録情報が確認できません。

もう一度。

登録情報が確認できません。

受付係の顔が、さらに困る。

俺の後ろに列ができ始めていた。

「すみません、ちょっと横に」

「横にって何だよ」

「確認するので」

その声は丁寧だった。

丁寧に、俺をどかそうとしていた。

誰かのスマホが、こちらを向いていた。

俺が偽物として止められている場面だけが、先に記録されていく。

「久遠?」

声がした。

文化祭男子だった。

受付表の束を持って、こちらへ走ってくる。

一瞬、助かったと思った。

でも、文化祭男子は俺を見るなり、固まった。

「……何してんの」

「入れない」

「は?」

「俺の名札がない。学生証もエラー。受付表の写真も違う」

文化祭男子は受付表を見た。

顔がこわばる。

「これ」

「だから違うって」

「でも、昨日の最終確認では」

「俺じゃない」

「久遠」

文化祭男子は、言いづらそうに口を開く。

「今、騒ぐとまずい」

胸の奥が冷えた。

まずい。

俺が消えかけていることより、今は文化祭の進行の方がまずい。

分かる。

分かるけど、殺したくなるくらい腹が立った。

「じゃあ黙って消えろって?」

「そうは言ってない」

「ほぼ言ってる」

「違う。確認するから、ちょっと待てって」

待て。

待っている間に、俺の名前はもっと先へ行く。

廊下の向こうから、ナミが来た。

手にはパンフレット。
影ゼロから受け取った、付箋つきのやつだった。

ナミは、受付の前の空気を見て、すぐに何かを察した顔をした。

「ゼロくん」

その声だけは、俺に向いていた。

一歩、動きかける。

でも、止まった。

受付表を見た。
学生証を見た。
スタッフ証の写真を見た。

その一拍の遅れが、俺には見えた。

責めたいわけじゃない。

でも見えた。

ナミの身体が、いったん記録の方を見た。

「宮影さん」

受付係が言う。

「この人、二年三組の久遠ゼロって言ってるんだけど」

この人。

俺は、もう“この人”だった。

ナミの顔が白くなる。

「ゼロくんです」

「でも、登録が」

「ゼロくんです」

ナミの声は震えていた。

でも、二回目は少し強かった。

それでも受付係は困った顔をした。

困るのは当然だった。

紙が違う。
写真が違う。
学生証も通らない。

信じろと言う方が、無理だ。

「久遠」

アカネの声がした。

人垣を割るように、アカネが来る。

「何これ」

「俺が偽物らしい」

「は?」

アカネは受付表を奪うように見た。

そして、顔を歪めた。

「うわ。写真、あっちじゃん」

「言い方」

「ごめん。でも、最悪」

アカネは受付係を見る。

「これ、間違ってる。こいつが久遠」

受付係はまた困る。

「でも、登録上は」

「登録が間違ってる」

「確認しないと」

「確認してる間に本人消えたらどうすんの」

その言葉で、周囲が少しざわついた。

消える。

文化祭の朝には、似合わない言葉だった。

マユが、少し遅れてやってきた。

紙飾りの箱を抱えている。

マユは俺を見る。
それから、受付表の写真を見る。

影ゼロの方を見た。

安心する方。
怒らなそうな方。
みんなが困らない方。

それから、俺を見た。

怖いものを見る目だった。

胸が痛む。

でも、マユは何も言えなかった。

サヤは、少し離れたところに立っていた。

顔色が悪い。

第6話で見た古い写真の中のサヤと、少し似ていた。

本物がどっちか分かっていても、言えなかった顔。

「サヤ」

俺が呼ぶと、サヤはゆっくりこちらを見た。

「分かってる」

「じゃあ言えよ」

「言ったら、何が変わると思う?」

冷たい言い方だった。

でも、声は震えていた。

「記録が違う。写真が違う。名札が違う。見る側は、助かる方を選ぶ」

「じゃあ何で来たんだよ」

「見捨てないためよ」

サヤは言った。

「でも、間に合うとは言ってない」

その時、廊下の奥から拍手が聞こえた。

中庭ステージで、何かが始まったらしい。

司会の声。

「続いて、二年三組の展示紹介です」

心臓が、嫌な音を立てた。

文化祭男子が、ステージの方を見る。

ナミも見る。
アカネも見る。
マユも見る。
サヤも見る。

俺だけが、見たくなかった。

でも見た。

中庭のステージへ、影ゼロが上がっていく。

胸には名札。

久遠ゼロ。

その四文字だけが、俺より先に光っていた。

「待てよ」

声が出た。

誰に向けたのか分からない。

影ゼロは止まらない。

司会が紙を読む。

「それでは、二年三組代表、久遠ゼロさんです」

軽い拍手が起きる。

文化祭らしい、何でもない拍手。

世界が一段、薄くなった気がした。

久美先生が、俺の前に立っていた。

いつ来たのか分からなかった。

いつもの整った顔。
でも、目元だけが少し疲れている。

「今は」

久美先生が言いかける。

たぶん、場を収める言葉だった。

俺をいったん下げる言葉。
影ゼロをこのまま進める言葉。
社会に戻れる形を残す言葉。

でも、久美先生は飲み込んだ。

その一瞬だけ、先生の顔がひどく疲れて見えた。

「今は、社会に戻れる形を残せ、ですか」

俺が言うと、久美先生は黙った。

「それやってる間に、俺の形がなくなってるんですけど」

答えはなかった。

ステージの上で、影ゼロがマイクの前に立つ。

軽く頭を下げる。

ちょうどいい角度。
ちょうどいい間。

俺は、ステージの下にいた。

観客側。

名札なし。
学生証はエラー。
受付表には影の写真。
クラスLINEにも入れない。
シフト表にもアクセスできない。

俺を証明するものが、何もない。

影ゼロは、マイクの前で顔を上げた。

そして、言った。

「久遠ゼロです」

俺は観客側で、自分の名前を聞いていた。



第8話 それでも、この名前は俺のものだ


影は、俺の名前でステージに立っていた。

文化祭の中庭には、人が集まっていた。

クラスのやつら。
他校の制服。
保護者。
先生。
パンフレットを片手に、なんとなく足を止めた人たち。

その真ん中に、俺の顔をしたやつがいる。

胸には名札。

久遠ゼロ。

白い札に、黒い文字。

俺の胸には、何もない。

名札はない。
学生証は通らない。
受付表には影の写真。
クラスLINEにも入れない。

なのに、あいつの胸にはちゃんと俺の名前がある。

人間って、名前が印刷されたものに弱い。

紙に書かれ、名札につき、受付表に載っている。
それだけで、そっちが本物に見える。

俺は、ステージの下に立っていた。

観客側。

自分の文化祭で、自分の名前をつけたやつを、下から見上げていた。

「あれが久遠?」
「受付の子だよね」
「感じいいね」

知らない声が、観客の中からこぼれる。

誰も悪くない。

ただ、見たものを、そのまま受け取っているだけだ。

影ゼロは、マイクの前で軽く頭を下げた。

「本日は来てくださって、ありがとうございます」

声まで、ちょうどよかった。

「二年三組の展示は、誰か一人が目立つものではありません。クラス全員で準備してきたものです」

いい挨拶だ。

腹が立つくらい、いい挨拶だった。

誰も困らない。
誰も傷つかない。
誰も置いていかない。

俺以外は。

このまま黙っていれば、たぶん全部うまくいく。

文化祭も。
クラスも。
ナミも。
俺以外の全員が、たぶん助かる。

手の中で、学生証の角が食い込む。

俺を証明するものが、何もない。

あるのは、俺の中にまだ残っている、どうしようもないものだけだった。

好かれたい。
逃げたい。
勝ちたい。
取られたくない。
あいつの方が俺でいいと思った。

全部、汚い。
全部、みっともない。
全部、観客の前で出すようなものじゃない。

でも、これを持たなかったから、あいつが持った。

感じよく。
正しく。
誰も困らない形で。

「それでは、まず受付の場所を案内します」

影ゼロが、パンフレットを持ち上げた。

その手つきも、俺より自然だった。

俺は、ステージの前へ一歩出ていた。

影ゼロが、俺を見る。

マイクを持ったまま。
困ったように。
でも、拒まない顔で。

「ゼロ」

その呼び方に、観客が少しざわついた。

同じ顔。
同じ制服。
同じ名前。

だけど片方には名札があって、片方にはない。

その差だけで、俺の方が不審者に見えた。

「下がった方がいい」

影ゼロは言った。

優しい声だった。

「今は、みんなの前だから」

みんなの前。

それを言われると、俺の方が悪くなる。

分かっている。

それでも、足は止まらなかった。

「俺の名前で、続けるな」

声が出た。

マイクを通していないから、遠くまでは届かない。

でも、前の方にいたクラスのやつらには聞こえた。

ナミにも。
アカネにも。
サヤにも。
マユにも。
久美先生にも。

影ゼロは、困ったように笑った。

「君の名前だから、続けてる」

その言い方が、また正しかった。

「俺は、君が困らない形にしているだけだよ」

「困ってる」

「君はいつも困ってる」

穏やかな声だった。

「ナミに言葉を送る時も。文化祭の役を引き受ける時も。家でちゃんと返事をする時も」

影ゼロは、俺を見る。

「君は困る。止まる。黙る。傷ついて、誰かを傷つける」

反論できなかった。

全部、本当だった。

「だから、俺がやった」

影ゼロの声は、優しかった。

「君のために」

吐き気がした。

たぶん、本当にそうなのだ。

あいつは、俺から奪いたいだけじゃない。

俺が持てなかったものを、持ちやすい形にしてくれる。

みんなが助かる形にしてくれる。

だから、怖い。

「ゼロくん」

ナミの声がした。

ステージの横。
受付用の机の近くに、ナミが立っていた。

手にはスマホ。

画面には、あの写真が開かれている。

影ゼロとナミが並んで、受付表を確認している写真。
端に写っていたはずの俺の顔だけが、ぼやけていた写真。

ナミの顔は青ざめていた。

でも、逃げていなかった。

「今、何を言おうとしてるの」

俺は、ナミを見た。

影ゼロの返事に、一瞬だけ楽になったナミ。
俺の名前で送られた告白文を受け取り、影ゼロからパンフレットを受け取ったナミ。

影ゼロの方が楽。

その言葉は、ずっと俺の中に刺さっている。

ナミだけじゃない。

マユも、母も、文化祭男子も、あいつの方が助かると言った。

みんな、あいつの方が助かる。

俺だって、そう思った。

喉の奥が焼ける。

でも、言わないと、また取られる。

「好かれたかった」

声が出た。

思ったより、ひどい声だった。

中庭のざわめきが、一段だけ薄くなる。

「ナミに、好かれたかった」

ナミの指が、スマホを握りしめる。

「俺が言えなかった言葉で、安心してほしかった」

言葉が、胸の中から無理やり引きずり出される。

「でも、それを俺の名前で綺麗に送られるのは嫌だった」

ナミのスマホが、小さく震えた。

画面の中で、あの送信済みの文面が開いている。

昨日はちゃんと礼を言えなかったから。
俺は、お前のそういうとこ、前から好きだよ。

その文字の端が、一瞬だけ黒く滲んだ。

影ゼロは、マイクを握り直した。

「それなら、俺が言った方がよかった」

静かな声だった。

「君は言えなかった。宮影さんも、困っていた。だから、俺が言った」

正しい。

たぶん、正しい。

俺が言えば、ナミは困った。
変な空気になった。
俺は傷ついて、ナミも傷つけた。

影ゼロが言えば、ナミは受け取れた。

その方が楽だった。

本当に。

「あいつの方が」

声が震えた。

でも止めなかった。

「あいつの方が、久遠ゼロでいいって思った」

言った瞬間、胸の奥が冷えた。

「俺より感じがよくて」
「俺より役に立って」
「俺よりナミを困らせなくて」
「俺より家でも学校でも、ちゃんとできる」

吐きそうだった。

「その方が楽だって、俺も思った」

影ゼロの胸の名札が、一度だけ滲んだ。

久遠ゼロ。

黒い文字の輪郭が、紙の上でぶれた。

受付表を持っていた文化祭男子が、眉をひそめる。

「……あれ」

前の席の男子が、身を乗り出す。

「名前、二つに見えない?」

紙の上の「久遠ゼロ」が、二重にぶれていた。

ひとつは、きれいな文字。
もうひとつは、少し滲んだ、汚い文字。

どちらも、同じ名前だった。

観客の中にも、ざわめきが広がる。

「演出?」
「名札、変じゃない?」

ステージの照明が、一度だけちらついた。

影ゼロは、まだ笑っていた。

困ったように。
優しく。
俺を落ち着かせようとする顔で。

「ゼロ」

影ゼロは言う。

「それを認めたら、君はもっと生きにくくなる」

「知ってる」

「俺なら、君の名前で誰も困らせずに済む」

その言葉が、中庭に落ちた。

誰も困らせずに済む。

それは、俺がずっと欲しかったものだった。

でも、そのために俺がいなくなるなら。

それは、誰のための正しさなんだ。

影ゼロが、ナミの方へ手を伸ばした。

「宮影さん」

その声は、ひどく優しかった。

「無理しなくていい。楽な方を選んでいい」

ナミの手が、一瞬だけ動いた。

受け取りそうになった。

本当に、一瞬。

楽な方へ、ほんの少しだけ身体が傾いた。

俺は見た。

ナミ自身も、それに気づいた顔をした。

でも、止まった。

「楽だった」

ナミは言った。

影ゼロを見る。
それから、俺を見る。

「影ゼロの方が、ずっと楽だった」

声は震えていた。

でも、逃げていなかった。

「ちゃんと言ってくれるし、困らせないし、私が嫌な自分を見なくて済む形にしてくれる」

ナミは、スマホを胸の前で握りしめた。

「あのLINEも、少し安心した」
「パンフレットも、受け取った」
「最低だけど、そう思った」

胸の中が痛くなる。

でも、今度は逸らさなかった。

ナミは続けた。

「でも、今日は受け取らない」

影ゼロの指が、ほんの少し止まる。

「楽だからって、そっちを本物にしたら」

ナミの声が、少しだけ強くなった。

「私、また誰かを見なかったことにする」

その言葉で、サヤが顔を上げた。

サヤは、ステージ横の柱のそばに立っていた。

「前は」

サヤは小さく言った。

「本物だって分かっても、見捨てた」

それ以上は言わなかった。

でも十分だった。

サヤは俺の袖を掴んだ。

強くはない。

でも、離さなかった。

「今回は、見捨てない」

その時、アカネが観客の端で低く言った。

「助かる方が本物なら、面倒なやつ全員消えるじゃん」

短い一言だった。
雑で。
乱暴で。
でも、いちばん正確だった。

マユの声がした。

「本物のゼロくん、怖い」

影守マユは、久美先生の横にいた。

「影のゼロくんの方が、怒らなそうで、安心する」

胸が刺さった。

でも、マユは続けた。

「でも、怖くない方だけ残るの、もっと怖い」

マユは泣きそうな顔で、俺を見る。

「怖いけど」

声が震える。

「怖いけど、こっちがゼロくんだと思う」

その瞬間、ステージの照明が大きく揺れた。

文化祭男子が、受付表を握りしめる。

「名前、戻ってる……?」

影ゼロの胸の名札の文字が、黒く滲む。

ナミのスマホの写真の端で、ぼやけていた俺の顔が戻り始めていた。

完全じゃない。

まだノイズがある。
輪郭も少し欠けている。

ひどい顔だった。

目つきも悪い。
口元も固い。
段ボールを抱えて、いかにも不機嫌そうに立っている。

でも、そこに俺がいた。

影ゼロがマイクを握りしめた。

初めて、指先に力が入った。

でも、怒鳴らなかった。

普通の悪役みたいには、崩れなかった。

困ったように、俺を見た。

「今さら戻っても、また同じだよ」

優しい声だった。

「君は感じ悪い。傷つける。困らせる。面倒を増やす」

「知ってる」

俺は言った。

「だから俺が持つ」

影ゼロの笑顔が、半拍だけ遅れた。

マイクに、短いノイズが走る。

ざざ、と。

中庭の空気が、黒い紙をこすったみたいに鳴った。

「でも」

俺は、影ゼロを見た。

「あいつの方が俺でいいって思ったことまで、俺のものだ」

影ゼロの表情が止まる。

「俺が消えたいと思ったことも」
「誰かに片づけてほしいと思ったことも」
「ナミに楽な方を選ばれたくないって思ったことも」

喉が焼けた。

「全部、俺のものだ」

声が震えた。

でも、言えた。

「俺から、それまで奪うな」

中庭の空気が、ざらりと揺れた。

受付表の「久遠ゼロ」が、ひとつに戻る。
影ゼロの胸の名札から、黒いインクが一筋だけ垂れる。
ナミのスマホの写真の端で、ぼやけていた俺の顔が戻る。

完全じゃない。
綺麗でもない。
正しくもない。

でも、そこに俺がいた。

俺は、学生証アプリを開いた。

手が震えていた。

さっきまで何度読み取っても、登録情報が確認できません、と出た画面。

もう一度、読み取る。

電子音が鳴る。

登録情報が確認できません。

一瞬、胸が沈む。

でも、その文字がすぐに滲んだ。

登録情報を確認中。

久遠ゼロ。

顔写真は、まだ薄かった。

影ゼロの顔と俺の顔が、画面の中で重なる。
輪郭が二重になる。
口元だけが、影ゼロの笑い方から、俺の歪んだ口元へ戻りかける。

観客のざわめきが大きくなる。

文化祭男子が、受付表を握ったまま、影ゼロと俺を見比べた。

前の席の男子が、ぽつりと言う。

「こっち、久遠っぽい」

斜め前の女子が、小さくうなずいた。

「感じ悪いけど」

「余計だろ」

俺が言うと、斜め前の女子は少しだけ笑った。

笑い方はぎこちなかった。

でも、切り捨てる笑いじゃなかった。

影ゼロは、その笑いを見ていた。

そして、困ったように笑った。

最後まで、感じがよかった。

「それを持ったら、君はまた間違える」

影ゼロは言った。

「ナミを傷つける。クラスも困らせる。家でも、また面倒な言い方をする」

「たぶんな」

「俺なら、うまくできる」

影ゼロは、胸の名札に触れた。

黒く滲んだ「久遠ゼロ」。

「君の名前で、君よりうまく生きられる」

その言葉は、たぶん本当だった。

影ゼロなら、うまく生きられる。

俺よりずっと。

でも。

「俺よりうまく生きるな」

声が出た。

ひどい言葉だった。

観客の何人かが、ぽかんとする。

そりゃそうだ。

普通なら、そんなことを言わない。

俺よりうまく生きるな。
俺の名前で。
俺の顔で。
俺の失敗まで整えて。
俺の汚さまで受け取りやすくして。

そんなの、嫌だ。

「うまくできない俺が、俺なんだよ」

言った瞬間、自分でも情けなくなった。

こんなの、勝利宣言じゃない。

ただの開き直りだ。

でも、その情けなさを影に渡したくなかった。

久美先生が、ステージの下で立ち止まっていた。

いつものように、整える言葉を探している顔だった。

処理できる形にするための言葉。
社会に戻せる大きさに切るための言葉。

でも、久美先生はそれを飲み込んだ。

「処理しなくていい」

小さな声だった。

でも、聞こえた。

「持ちなさい」

その声は、先生の声じゃなかった。

片づける側に回されてきた人の声だった。

影ゼロが、久美先生を見る。

「それでは、困る人が出ます」

影ゼロの声は、まだ穏やかだった。

「彼は、うまく持てない」

久美先生は、短く答えた。

「それでも」

影ゼロの笑顔が、もう一度遅れた。

半拍。

ほんの半拍。

でも、今度は戻りきらなかった。

マイクが、低く鳴る。

影ゼロの足元の影が、ステージの上で薄く剥がれ始めた。

黒い紙が水に溶けるみたいに。

「ゼロ」

影ゼロは、俺を見た。

その目は、最後まで優しかった。

それが、いちばん怖かった。

「戻っても、苦しいよ」

「知ってる」

「また、誰かを傷つける」

「知ってる」

「また、俺を欲しくなる」

その言葉で、胸の奥が止まった。

否定できなかった。

たぶん、俺はまた欲しくなる。

誰かに片づけてほしいと思う。
誰かに先に言ってほしいと思う。
誰かに、俺より感じよく、俺の名前で生きてほしいと思う。

そういう日が、また来る。

「それも、俺のものだ」

俺は言った。

影ゼロが、初めて黙った。

ステージの照明が、もう一度揺れる。

影ゼロの胸から、名札が外れかけた。

落ちるのを待つんじゃない。
返されるのを待つんじゃない。

俺は、それを取りに来た。

俺はステージへ上がった。

一段目。
二段目。

足が震えている。

観客の視線が刺さる。
スマホも、クラスのやつらも、先生も、ナミも、俺を見ている。

影ゼロは、名札に触れようとした。

でも、その指は遅かった。

半拍。

その半拍だけ、俺の方が先だった。

白い札が、ステージに落ちる。

安全ピンが、かつ、と音を立てた。

久遠ゼロ。

文字は少し滲んでいた。
端は黒く汚れている。
まっすぐではない。
綺麗でもない。

でも、そこに名前があった。

俺の名前が。

影ゼロは、名札を見下ろした。

それから、俺を見た。

「似合わないよ」

最後まで、困ったように笑っていた。

「知ってる」

俺は、名札を拾った。

白い紙の端が、指先に引っかかる。
黒いインクが、少しだけ指についた。

久遠ゼロ。

安全ピンを開く手が震えた。

胸に当てる。

ピンを刺す。

痛かった。

制服の布を通して、針の先が少しだけ皮膚に触れた。

小さな痛み。

でも、その痛みごと、俺のものだった。

スマホの学生証アプリが、もう一度震えた。

登録情報を確認しました。

久遠ゼロ。

写真は、ひどい顔だった。

目つきが悪くて。
口元が固くて。
まるで文化祭で何かやらかした後みたいな顔。

でも、俺だった。

ナミのスマホの写真でも、端にいた俺の顔が戻っていた。

美化もされず、段ボールを抱えて、不機嫌そうに立っている。

でも、そこにいた。

受付表の文字も、ひとつに戻っていた。

久遠ゼロ。

字は少しだけ滲んでいる。

でも、読める。

文化祭男子が、受付表を見て、俺を見る。

「久遠」

「何」

「お前、挨拶できんの?」

「できない」

文化祭男子が、少しだけ笑った。

「だろうな」

斜め前の女子も、泣きそうな顔で笑った。

「感じ悪い」

「うるさい」

前の席の男子が言った。

「でも、久遠だわ」

その言い方が、なぜか一番きつかった。

胸の奥が痛くなる。

ナミが、ステージの下から俺を見ていた。

目元が赤い。

でも、ちゃんと見ていた。

楽な方ではなく。
受け取りやすい方でもなく。

ひどい顔の俺を。

「ゼロくん」

「何」

「ちゃんと話すの、まだ怖い」

「俺も」

「たぶん、楽な方に行きたくなる」

「俺も」

ナミは、少しだけ息を吸った。

「でも、今日はこっちを見る」

その言葉で、胸の中に何かが戻った。

完全ではない。
綺麗でもない。
都合よく救われた感じでもない。

でも、戻った。

アカネが、観客の端から声を飛ばした。

「で、挨拶は?」

「無理」

「無理って言うな。文化祭だぞ」

「じゃあお前がやれ」

「お前の名前だろ」

その一言で、少しだけ笑いが起きた。

軽い笑い。
文化祭らしい笑い。
さっきまでとは違う笑い。

俺を消す笑いじゃなかった。

俺はマイクの前に立った。

手汗で滑る。
ちゃんとした挨拶なんて、できる気がしない。

でも、それでいい。

「えっと」

マイクが、変な音を拾った。

「二年三組の展示は、受付をあっちでやってます」

指を差す。

文化祭男子が、小さく「雑」と言った。

「パンフレットは入口でもらえます。なくした人は受付に言ってください」
「あと、混んでたら並んでください」

アカネが「当たり前だろ」と口だけで言った。

「俺は、さっきまで受付表にも名札にもいませんでした」

中庭が、少し静かになる。

「でも、今はいます」

言ってから、胸の名札に触れた。

紙は少し濡れている。
黒く滲んでいる。
端が曲がっている。

でも、そこにある。

「感じよくはできません」

観客のどこかで、誰かが小さく笑った。

「たぶん、普通にミスります」
「たぶん、言い方も悪いです」
「でも」

俺は、息を吸った。

「この名前は、俺のものです」

中庭の奥で、風が吹いた。

ステージの紙飾りが揺れる。
パンフレットが、誰かの手元でぱらぱら鳴る。
スマホを向けていた誰かが、少しだけ画面を下げる。

影ゼロの輪郭が、ゆっくり薄くなっていく。

消える、というより。

俺の足元へ戻っていく。

黒い影が、ステージの床から俺の足元へ伸び、少し遅れて重なる。

完全には戻らない。
輪郭は、まだ少しだけ揺れている。

俺が逃げたいと思った時。
誰かに片づけてほしいと思った時。

きっとまた、こいつは笑う。

それでも、今は。

俺は、胸の名札を指で押さえた。

痛い。
針のところが、少しだけ痛い。

その痛みを確認してから、もう一度言った。

「この名前は、俺のものだ。」


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