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神の死後

誰にも見られなくなったものから、世界は消えていく。

神は、死んだのではなかった。
ある日、世界から帰っていった。

閉店した花屋。
読まれなかった文章。
誰にも覚えられていない人。
名前のない写真。

AIがすべてを記録できる時代に、
それでも人間のまなざしでしか支えられないものがある。

note創作大賞2026 ファンタジー小説部門 応募作品


【あらすじ】

神は死んだのではなく、世界から帰っていった。

だが日常は壊れない。電車は動き、ニュースは流れ、人々は昨日と同じ顔で暮らしている。

民間委託の記録整理会社で働く永瀬透は、見落とされたものを知らせるAI・ミナトと出会い、閉店した花屋、呼ばれなくなった名前、古い写真、読まれなかった記録が、誰にも見られなくなった瞬間から現実とのつながりを失っていくことを知る。

見ること、名前を呼ぶこと、忘れないことは、世界をつなぎとめる行為なのか。神なき時代に世界を支えていたのは、神でもAIでもなく、不完全な人間のまなざしだったのかもしれない。

見落としもまた消失への加担であるという静かな毒を抱えた、AI時代の現代ファンタジー。





プロローグ 帰っていった神


神は、死んだのではなかった。

ある日、帰っていった。

それを見送った者はいない。空が裂けたわけでも、海が干上がったわけでもない。鐘も鳴らず、鳥も落ちず、誰かが祈りの途中で顔を上げることもなかった。

ただ、世界からひとつの視線が失われた。

翌朝も、太陽はいつも通り昇った。

駅前の信号は青になり、改札は人を吐き出し、電車は3分遅れで到着した。ニュース番組の司会者は、昨日と同じ声で天気を伝えた。株価は上下し、渋滞は起こり、誰かの不祥事が短く報じられた。

画面の隅には、平常、という言葉があった。

人々はそれを疑わなかった。

世界は壊れていなかった。少なくとも、壊れているようには見えなかった。

最初に消えたのは、公園のベンチだった。

住宅街の端にある、小さな公園。滑り台は塗装が剥げ、砂場には猫よけの網がかけられていた。昔は、買い物帰りの老人がそこに座り、缶コーヒーを飲んでいた。夕方には、塾へ行く前の子どもがランドセルを置いて、靴の砂を払っていた。

けれど、ここ数年、誰もそこに座らなくなっていた。

ベンチは古びていた。背もたれの板は少し反り、脚の金属には赤い錆が浮いていた。撤去の予定は出ていなかった。壊れてもいなかった。苦情もなかった。

ただ、誰にも見られていなかった。

ある朝、犬を連れた女が公園の前を通りかかった。いつものように、リードを持つ手を少しゆるめた。

犬が立ち止まった。

女も、つられて公園の中を見た。

何かが足りない気がした。

砂場。滑り台。水飲み場。隅に残った落ち葉。

女は数秒だけ考えた。

そこに、何かあったような気がする。

けれど、犬が先へ歩き出すと、その違和感も一緒に引かれていった。女はスマートフォンを取り出し、買い忘れた牛乳のことを思い出した。

昼にはもう、誰もその場所にベンチがあったことを覚えていなかった。

地図からも、消えていた。

公園の案内図には、もともとそこが空白だったかのように、滑り台と水飲み場だけが簡単な線で描かれていた。自治体の備品台帳には、公園ベンチの項目が1行だけ欠けていた。欠番はなかった。削除履歴もなかった。

そこに何かがあった、という形跡だけが、きれいに薄くなっていた。

次に消えたのは、閉店した店の看板だった。

商店街の端にある古い店だった。シャッターは下りたまま、ガラスには内側から新聞紙が貼られていた。数年前まで、そこには小さな看板が出ていた。

白地に、少し褪せた緑の文字。店名の一部は雨で滲み、最後の一文字だけが妙にはっきり残っていた。

その店で何を売っていたのか、近所の人間もはっきりとは言えなかった。パン屋だった気もする。花屋だった気もする。金物屋だったと言う者もいた。

だが、看板だけは残っていた。

通勤途中の男が、ある朝、その店の前で足を止めた。シャッターの上を見上げる。

何もなかった。

看板を外した跡もない。ネジ穴もない。日焼けの形も残っていない。最初から、何も掲げられていなかったように、壁は均一に汚れていた。

男は首を傾げた。

ここ、何の店だったっけ。

そう思った瞬間、背後から自転車のベルが鳴った。男は道を空け、舌打ちされ、駅へ向かった。

その日の夜には、閉店した店そのものが、少し細くなっていた。

建物の幅が変わったわけではない。けれど、誰もそこを見なくなった。商店街の写真を撮った若者の画像には、その店だけが妙に暗く写っていた。地図アプリで住所を検索しても、隣の店と隣の店の間に、何もない余白が表示された。

古い紙の地図には、まだ店の名前があった。

けれど、文字はかすれていた。指でなぞると、インクが剥がれるように薄くなった。

三番目に消えたのは、人の名前だった。

地方紙の朝刊だった。町の小さな出来事を、丁寧に拾う新聞だった。祭りの準備。小学校の花壇。図書館の休館日。死亡記事。

その日、紙面の下の方に、短い訃報が載っていた。

享年82。通夜、告別式の日付。喪主の名前。葬儀場の住所。

ただ、亡くなった本人の名前だけが空欄だった。

印刷ミスではなかった。記者が入力し忘れたわけでもなかった。紙面データにも、配信用の記事にも、同じ空白があった。

「誰のことだろう」

新聞を読んでいた老人が、湯呑みを持ったまま呟いた。

妻が台所から顔を出した。

「何が?」

「いや、ここ。名前がない」

妻は眼鏡をかけて紙面を覗き込んだ。

死亡記事の欄には、たしかに1箇所だけ、白く抜けた場所があった。そこだけが、紙の余白のように静かだった。

「印刷の失敗じゃない?」

「でも、変だろう。亡くなった人の名前だけないなんて」

老人はそう言って、もう一度その空欄を見た。

見ているうちに、自分が何に違和感を覚えていたのか分からなくなっていった。紙面の白い部分は、ただの余白に見えた。死亡記事も、特におかしなものではない気がした。

妻は味噌汁の火を思い出し、台所へ戻った。老人は湯呑みを口へ運び、ぬるくなった茶を飲んだ。

その人の名前は、そのまま誰にも呼ばれなかった。

役所の記録では、該当欄が空欄になった。病院の古い受付履歴では、苗字の一文字だけが欠けた。集合写真の裏に書かれた名前は、そこだけ擦れたように読めなくなった。

誰かが気づきそうになる。

昔、その人と話したことがあった気がする。どこかで、同じバスに乗った気がする。雨の日に、傘を貸してもらったような気がする。

けれど、その気配は長く続かなかった。

人は、違和感を抱えたまま生活できるほど暇ではない。洗濯物は乾く。荷物は届く。未読の通知は増える。冷蔵庫の中の卵は、気づけば期限を過ぎている。

見なかったことにする技術だけが、世界にはよく行き渡っていた。

神は、命令していたのではない。裁いていたのでもない。正解を与えていたのでもない。

ただ、見ていた。

誰にも座られなくなったベンチを。閉店した店の看板を。読まれなかった死亡記事の名前を。誰かが一瞬だけ覚えかけて、すぐに忘れたものを。

神が見ていたから、それらはかろうじて存在していた。

神が帰っていったあと、世界はすぐには壊れなかった。

ただ、見られなくなったものから順に、現実とのつながりを失っていった。

消える音はしなかった。悲鳴もなかった。誰かが止めることもなかった。

翌日も、太陽は昇った。電車は動いた。ニュースは平常を伝えた。

そしてその平常の中で、
世界は少しずつ、
見落とされたものの形に薄くなっていった。



第1章 見落とされたもの


永瀬透の仕事は、残すものを選ぶことではなかった。

消していいものを、消していくことだった。

朝9時20分。透は、民間委託の記録整理会社の5階にいた。

窓の外では、駅前の歩道橋を人が流れている。誰も立ち止まらない。傘を持つ人、持たない人、スマートフォンを見ながら歩く人。そのどれもが、画面越しの映像みたいに見えた。

透の前のモニターには、削除対象の一覧が表示されている。

廃業店舗営業記録。閉鎖施設利用台帳。死亡者関連データ。削除申請済み個人情報。問い合わせ履歴。行政移管済み資料。参照回数ゼロの添付ファイル。

どれも、誰かにとっては一度必要だったものだ。

でも今は、必要なくなったものとして並んでいる。

透はマウスを動かし、処理済みの印をつけていく。

確認。統合。保留。削除。

それだけの作業だった。

誰かの人生の一部が、4つの選択肢に収まる。そのことに、最初のころは少し抵抗があった。

今は、そこまでではない。

慣れたというより、慣れなければ仕事にならなかった。

「永瀬さん、2019年度の廃業店舗分、今日中にいけそうですか」

隣の島から、上司の倉橋が声をかけた。

透は画面から目を離さずに答える。

「件数次第です。重複が多ければ」

「じゃあ、いけるってことで」

倉橋は軽く笑った。

悪い人ではない。無駄を嫌うだけだ。残しておく理由のない記録を残し続ける余裕はない。それはたぶん正しい。

正しいことは、ときどき、少しだけ雑だ。

透は、次のファイルを開いた。

旧商店街振興会関連資料。閉店済み店舗一覧。更新年月日は3年前。

店舗名。所在地。代表者名。営業開始日。閉店日。閉店理由。関連資料。

表は整っていた。

パン屋。理髪店。金物店。小さな喫茶店。中古のゲームソフトを売っていた店。

どの行も、淡々としている。そこに何年人が通ったか。店主がどんな顔だったか。最後の日に誰が来たか。

そういうものは、表には入らない。

透は上から順に確認していった。

参照履歴なし。問い合わせなし。保存義務終了。削除可。

何件か進めたところで、ひとつの行が目に留まった。

花□□

店名の一部が欠けていた。

透は、画面を拡大した。

文字化けではない。データ破損でもない。2文字分だけ、そこに何も入力されていない。

所在地の欄にも、不自然な空白があった。

東京都――区――町3丁目。

番地だけが抜けている。しかし古い地図へのリンクは残っている。

代表者名。

白井 千

そこまでしかない。

閉店理由。

空欄。

透は眉をひそめた。

「またか」

古いデータに欠落は珍しくない。移管のときに落ちることもある。OCRの読み取りで抜けることもある。元の紙資料が劣化していた可能性もある。

珍しくない。

そう思いながら、透は詳細を開いた。

花屋だった。

業種分類には、生花小売、とある。写真は1枚だけ。古い商店街の端にある小さな店。シャッターは開いている。店先に、バケツが3つ並んでいる。花の種類までは分からない。画面の端に、白い前掛けをした人物の腕だけが写っていた。

顔はない。

透は写真を拡大した。

店名の看板が、画面上部に少しだけ写っている。

花み

そこで切れていた。

見切れているのではない。そこから先が、白く薄れている。看板そのものは写っているのに、文字だけが消えている。

透は、関連資料を開いた。

古い地図が表示された。

商店街の端。薬局の隣。路地の角。そこに、花屋の記号がある。

店名欄は、花□□。

透は現在の地図を開いた。

同じ場所を拡大する。薬局はある。路地もある。隣の洋品店も、閉店済みとして表示されている。

しかし、花屋があったはずの場所だけが、白く空いていた。

建物名もない。住所も出ない。空き店舗とも表示されない。

地図の中に、小さな穴があるようだった。

透はしばらく画面を見た。

気持ちが悪い。

そう思った。

データの欠落として処理するには、気持ちが悪すぎる。でも、気持ち悪いという理由は、業務にはならない。

透は処理欄にカーソルを合わせた。

統合後削除。

この行も、そうすれば終わる。欠落の多い古い記録。参照履歴なし。問い合わせなし。保存義務終了。

誰も困らない。

たぶん。

クリックしようとして、指が止まった。

画面の中の空欄が、こちらを見ている気がした。

いや、違う。

空欄は何も見ない。何も訴えない。だから怖い。

透は、いったん保留にしようとした。

その瞬間、画面が一度だけ暗くなった。

「……え」

電源が落ちたわけではない。システム障害でもない。モニターの右下に、小さな黒い通知窓が出ていた。

送信元なし。

透は、反射的に周囲を見た。

同僚たちは普通に作業している。倉橋は電話をしている。誰もこちらを見ていない。

通知窓に、白い文字が浮かんだ。

《この場所は、まだ消えていません》

透は、しばらく動けなかった。

社内システムの通知ではない。見たことのない形式だった。警告音もない。ポップアップの枠も、既存のアプリに属していない。

透は、キーボードに触れた。

「誰だ」

声には出さなかった。入力欄もない。

それなのに、次の文字が表示された。

《ただ、誰にも見られていません》

透は、背筋を伸ばした。

画面右下の通知窓には、名前がなかった。送信元もない。閉じるためのボタンもない。

「システムエラーか」

小さく呟く。

すると、また文字が出た。

《記録は残っています》

一拍。

《意味は、失われかけています》

透は、マウスを握る手に力を入れた。

意味。

その言葉が、業務画面の上に出ることが不自然だった。記録には保存期間がある。開示区分がある。削除基準がある。意味、という欄はない。

透は通知窓を閉じようとした。

閉じられなかった。

「永瀬さん?」

倉橋の声がした。

透は、肩をわずかに揺らした。

「はい」

「その廃業店舗分、変なやつありました?」

「少し欠落があります」

「欠落なら、根拠資料なければ削除でいいですよ。時間かけすぎないで」

「はい」

返事をしたあと、透は画面に戻った。

通知窓は消えていた。

なかったことのように。

透は、履歴を開いた。外部アクセスなし。社内通知なし。システムエラーなし。AI補助ログなし。

何も残っていない。

それでも、花屋の記録は画面に残っている。

花□□。

所在地の空欄。店主名の欠け。閉店理由の空欄。古い地図の小さな記号。現在の地図の白い穴。

透は、削除ボタンにカーソルを合わせた。

消してしまえばいい。

そう思った。

仕事なのだから。誰も見ていないのだから。誰も困らないのだから。

しかし、それが一番嫌だった。

誰も見ていないから消していい。その理屈に、自分の手がそのまま乗るのが嫌だった。

善意ではない。

透は、誰かのために残したいと思ったわけではない。店主の人生に胸を打たれたわけでもない。花屋の思い出があるわけでもない。

ただ、見てしまった。

見てしまったものを、見なかったことにして削除するのが、少し怖かった。

それだけだった。

透は処理欄を「保留」に変更した。

理由欄には、こう入力した。

関連資料に欠落あり。現地情報確認後、再処理。

もっともらしい理由だった。嘘ではない。でも、本当の理由でもなかった。

定時を過ぎても、花屋の記録が頭から離れなかった。

透は会社を出る前に、もう一度そのファイルを開いた。

通知は出ない。

ただ、画面の中で、店名の欠けた2文字だけが白く残っている。

花□□。

透は古い地図のスクリーンショットを保存した。業務端末から私用の端末へ送ることはできない。だから、紙に住所の周辺を書き写した。

薬局。路地。旧洋品店。商店街の端。

自分でも、何をしているのかと思った。

仕事帰りに、閉店した花屋の跡地へ行く。削除対象のデータに出てきただけの店だ。誰にも頼まれていない。会社に報告するつもりもない。

面倒だった。

電車に乗り、駅を降り、知らない商店街まで歩く。そこに何かがある保証もない。

むしろ、何もない方が自然だ。

それでも透は、駅へ向かった。

夕方の電車は混んでいた。吊革につかまりながら、透はスマートフォンで地図を開いた。

現在の地図では、やはり花屋の場所は表示されない。商店街の端に、少し広い空白があるだけだった。

透は紙に書き写した目印を見ながら、駅を降りた。

商店街は、思ったより静かだった。

全体に古い。でも、完全に寂れているわけではない。薬局には明かりがついている。クリーニング店の中には店員がいる。小さな惣菜屋の前では、仕事帰りの女性がコロッケを買っていた。

人はいる。

けれど、誰も通りの端を見ていない。

透は、薬局の前を過ぎた。

路地がある。古い洋品店がある。シャッターは下りている。看板の文字は少し剥がれているが、まだ読める。

その隣に、空き店舗があった。

透は足を止めた。

シャッターが下りている。銀色だったはずの金属は、雨の跡で黒ずんでいた。ガラス戸の内側には、新聞紙が貼られている。入口脇には、何かの鉢を置いていたような丸い跡が、うっすら残っていた。

看板はない。

看板を外した跡もない。ネジ穴もない。壁の色がそこだけ違うこともない。

最初から、何も掲げられていなかったように見えた。

透は、空き店舗の前に立った。

通行人が何人か横を通り過ぎる。誰も店を見ない。誰も足を止めない。

透だけが、そこにいる。

「ここか」

声に出すと、少し変だった。

答えるものはない。

スマートフォンを開く。地図アプリでは、現在地の横に空白が表示されている。そこに建物はないことになっている。

古い地図には、ここに花屋の記号があった。

透は、シャッターの端に目をやった。

小さなシールの跡がある。丸い。何かを貼って、剥がした跡。

その下に、うっすらと緑色の欠片が残っていた。

看板の色かもしれない。値札の跡かもしれない。ただの汚れかもしれない。

透は、しゃがみかけてやめた。

そこまでして何になる。

そう思った。

花屋があったとして。誰かが店をやっていたとして。閉店して、記録が欠けて、地図から消えかけているとして。

それを自分が見たからといって、何が変わるのか。

何も変わらない。

たぶん。

そのとき、風が通った。

強い風ではなかった。商店街の細い通りを、湿った空気が抜けただけだった。

けれど、透は顔を上げた。

花の匂いがした。

ほんのかすかに。

甘い匂いではない。香水のような匂いでもない。花束の華やかさでもない。

水に浸かった茎。湿った葉。切り口の青さ。古いバケツの内側。朝の店先で、まだ誰も買っていない花の匂い。

それが、一瞬だけ、空き店舗の前にあった。

透は息を止めた。

周囲を見る。

通行人は、何も感じていない。薬局の自動ドアが開き、明るい音が鳴る。惣菜屋の油の匂いが流れてくる。自転車のブレーキが短く鳴る。

花の匂いは、もう薄れていた。

透は、シャッターを見つめた。

そこには、何もない。

看板もない。花もない。店主もいない。店名も分からない。

ただ、見落とされた場所が、こちらに気づかれたことだけを、ほんの少しだけ知らせたような気がした。

スマートフォンが震えた。

画面には、見覚えのない通知が出ていた。

送信元なし。

けれど、透にはもう分かっていた。

《この場所は、まだ消えていません》

一拍置いて、次の文字が浮かんだ。

《ただ、誰にも見られていません》

透は、画面から目を上げた。

空き店舗は、相変わらず閉じている。

花の匂いは、もうほとんど残っていなかった。



第2章 花の匂いが戻るまで


花屋の記録は、削除済みになっていた。

それなのに、翌朝、透の端末には同じファイルが残っていた。

ファイル名は途中で切れている。

旧営業記録_花□□_最終処理

花のあとに入る2文字だけが、白く抜けていた。空欄というより、そこだけ画面が記憶を拒んでいるようだった。

透は、しばらくその文字の欠けた場所を見ていた。

クリックしても、ファイルは開く。更新日は3年前。保存期限は過ぎている。分類は「廃業店舗関連資料」。処理区分は「統合後削除」。

本来なら、何の迷いもなく削除していい記録だった。

誰も照会していない。行政上の保存義務もない。権利関係も残っていない。関係者からの問い合わせもない。

つまり、残す理由がなかった。

残す理由がないものを消すのが、透の仕事だった。

けれど、画面の端に、昨日と同じ表示が浮かんでいた。

《この記録は、まだ消えていません》

透は指を止めた。

「消えてないなら、残ってるだろ」

声に出してから、自分でも少し嫌になった。誰に向かって言っているのか分からない。

数秒後、別の文字が表示された。

《ただ、誰にも見られていません》

ミナト。

昨日、透の端末に現れた、存在しないはずのAI。システム上の登録はない。アプリケーション一覧にもない。通信ログにも、外部接続の痕跡はない。

それでも、文字はそこに出る。

透はため息をつき、花屋のファイルを開いた。

最初に表示されたのは、営業許可関連の記録だった。

店舗名。

花□□

やはり、2文字が欠けている。

所在地。営業開始日。業種。代表者名。

代表者の欄には、途中まで名前が残っていた。

白井 千

その先がない。

千春なのか。千代なのか。千香なのか。

透は関連ファイルを開いた。

仕入れ記録。売上台帳。閉店届。近隣店舗との契約書。古い地図の写し。

どれも、少しずつ欠けていた。

店名の最後。店主の名前。閉店理由。最終営業日の備考。

大事なところだけが、誰かの指で撫でられたように薄くなっている。

最後の仕入れ記録は、かろうじて読めた。

3年前の5月17日。

ガーベラ、10本。カスミソウ、1束。白いトルコキキョウ、5本。小さな鉢植えのミント、3鉢。

量は少ない。

大きな注文ではなかった。式典でも、開店祝いでも、葬儀でもない。町の小さな花屋が、いつもの朝に仕入れた程度の数だった。

古い売上記録も残っていた。

同じ日の午後。

ガーベラ1本。カスミソウ少量。花束、小。鉢植えミント、1。

金額は、全部合わせても高くない。

レシート番号は残っている。支払方法も残っている。現金。釣銭。レジ担当者。

けれど、客の情報はない。

もちろん、普通の花屋が客の名前を記録しているはずもない。そこに何も残っていないのは当たり前だった。

当たり前なのに、透はそこに小さな穴を見た気がした。

誰が買ったのか。何のために買ったのか。その花は、誰かに渡されたのか。それとも、部屋に置かれたのか。

記録は答えなかった。

画面の右下で、ミナトが沈黙している。

透は、別のデータを開いた。

口コミサイトの古いキャッシュ。商店街のイベント写真。地域情報誌のバックナンバー。

花屋は、有名な店ではなかった。

雑誌に特集されたこともない。賞を取ったこともない。遠方から客が来る店でもない。口コミは3件だけだった。

「駅から少し歩く」「小さい店」「前を通ると水の匂いがする」

星の数も、文章も、どこか曖昧だった。

写真は1枚だけ残っていた。

シャッターの開いた店先。プラスチックのバケツ。細い葉。値札の曲がった文字。画面の端に、白いエプロンをした人物の腕だけが写っている。

顔はない。

透は写真を拡大した。エプロンの袖口に、少しだけ水の染みがある。それ以上は、何も分からなかった。

「これだけか」

独り言が、オフィスの低い空調音に混じった。

隣の席の同僚は、イヤホンをしたまま別の作業をしている。上司は会議中。誰も透の画面を見ていない。

そのことに、少しだけほっとした。

同時に、嫌な感じがした。

見られていない記録。誰にも参照されない店。最後に仕入れた花。誰が買ったか分からない鉢植え。

透は、ファイルを閉じようとした。

その直前、画面に新しい表示が浮かんだ。

《現地確認を推奨します》

「仕事の範囲外だ」

返事はなかった。

《見ている者が、まだ存在します》

透は眉をひそめた。

「誰が」

ミナトは、少しだけ間を置いた。

《近隣居住者》

住所が表示された。

花屋のあった場所から、徒歩3分。古い集合住宅。そこに住む80代の男性。

名前は出なかった。個人情報の制限ではない。単純に、記録の端が欠けているように見えた。

透はしばらく迷った。

これは、仕事ではない。少なくとも、会社に報告できる種類の調査ではない。閉店した店の古い記録を見て、近所の老人に話を聞きに行く。そんなことをしていたら、削除対象のデータは一生片づかない。

それでも、画面の中の欠けた2文字が、目の奥に残っていた。

花□□。

そこに、何かがあった。

何かというより、誰かがいた。

透は終業時刻を待って、会社を出た。

花屋の跡地は、駅前の大通りから一本入った商店街の端にあった。

商店街と呼ぶには短い通りだった。クリーニング店。小さな薬局。シャッターの下りた洋品店。自動販売機。古い街灯。

人は歩いている。

けれど、誰もその空き店舗を見ない。

見ないことに慣れている。

透は、地図アプリを開いた。現在地の隣に、空白が表示されている。周囲の店名は出る。道路名も出る。けれど、その一角だけ、白く抜けていた。

古い紙の地図では、そこに花屋の記号が残っていた。ただし店名は、やはり読めない。

花□□。

透は空き店舗の前に立った。

シャッターは閉まっている。端に黒ずんだ雨の跡があった。ガラス戸の内側には、古い新聞紙が貼られている。看板はない。看板を外した跡もない。

本当に、何もなかったみたいだった。

それが一番嫌だった。

透は集合住宅へ向かった。

3階建ての古い建物だった。階段の手すりに、雨で浮いた錆がある。郵便受けには、薄くなった名前シールが貼られていた。

ミナトが示した部屋の前で、透は呼び鈴を押した。

しばらくして、ドアの向こうで足音がした。

出てきた老人は、白い肌着の上に薄いカーディガンを羽織っていた。目は少し濁っているが、透を見る視線は弱くなかった。

「どちらさん」

透は名刺を出した。

「古い店舗記録の整理をしている者です。少し、お話を伺えればと思って」

老人は名刺を受け取り、目を細めた。読めているのかどうか分からない。

「店?」

「この先に、花屋がありましたよね」

老人は、すぐには答えなかった。

廊下の奥から、テレビの音が小さく漏れている。ニュース番組の声だった。今日も、平常という言葉が使われていた。

「花屋」

老人は、口の中でその言葉を転がすように言った。

「ありましたよね」

透が重ねると、老人はゆっくり頷いた。

「たぶん、あったな」

「店名を覚えていますか」

老人は眉を寄せた。

「なんだったかな。花……花なんとか」

「店主の方の名前は」

「名前はなあ」

老人は首を振った。

「よく顔は見たんだけどね。名前までは」

そう言ってから、少しだけ申し訳なさそうな顔をした。

「こっちも、もう年だから」

透は「いえ」と言った。

それ以上、慰めの言葉は出てこなかった。

老人はドアを少し広く開けた。

「そんな話、玄関でするほどでもないだろ。暑いし」

部屋には、古い畳の匂いがした。台所の流しには、洗った湯呑みが伏せてある。壁にはカレンダーがあり、今日の日付に赤い丸がついていた。何の予定かは分からない。

老人は座布団を勧めた。透は礼を言って腰を下ろした。

「花屋のこと、覚えている範囲で構いません」

老人は腕を組み、しばらく天井を見た。

「あそこは、派手な店じゃなかったよ」

「はい」

「花も、そんなにたくさんはなかった。バケツがいくつかあって、鉢がちょっと並んでて」

「よく利用されていたんですか」

「いや」

老人はあっさり言った。

「うちは花を飾るような家じゃなかったから」

そこで会話が途切れた。

透はメモ帳を開いていたが、書くことは少なかった。店名不明。店主名不明。利用頻度低。記憶曖昧。

それだけなら、この記録は何もつなぎ留めない。

「でも」

老人が言った。

透は顔を上げた。

「一回だけ、傘を借りた」

「傘、ですか」

「雨の日だった。ひどい雨じゃなくて、細かいやつ。傘を持たずに出たら、帰るころにはけっこう降ってきてね」

老人は、膝の上で指を動かした。畳の目を数えているようだった。

「あの店の前で立ってたら、店の人が出てきて」

「店主の方ですか」

「たぶん、そうだと思う。白い前掛けしてた」

写真の端に写っていた腕を、透は思い出した。

「傘を貸してくれたんですか」

「ああ。黒い傘だった。骨が一本、少し曲がってた」

老人はそこだけ、妙にはっきり言った。

「返しに行ったら、花を一本くれた」

「何の花か、覚えていますか」

老人は笑った。

「そこがな、覚えてないんだよ」

その笑いには、感動も悲しみもなかった。ただ、忘れてしまった事実を、そのまま置くような笑いだった。

「赤かった気もするし、黄色だった気もする。いや、白だったかな」

「店の名前は」

「それも、出てこない」

老人は申し訳なさそうに、もう一度首を振った。

「でも、傘は覚えてる」

透はメモ帳に書いた。

雨の日。黒い傘。骨が一本曲がっていた。返しに行った。花を一本もらった。花の名前は不明。

老人は、続けた。

「その花、台所に置いたんだよ。コップに入れて」

「はい」

「2日くらいで枯れた」

それだけだった。

話は、そこで終わった。

長い思い出ではなかった。人生を変えた出来事でもなかった。忘れても誰も困らない、雨の日の小さなやりとり。

でも老人は、傘の骨が一本曲がっていたことを覚えていた。

透はそのことが、なぜか重かった。

老人の部屋を出たあと、空は曇っていた。

雨は降っていない。けれど、湿った風が通りを低く流れていた。

透はもう一度、空き店舗の前へ戻った。

スマートフォンを取り出し、花屋の記録を開く。

画面の中では、店名が欠けている。

花□□。

店主名も、欠けたままだ。

白井 千。

透は、老人の話をメモ欄に入力した。

雨の日。近隣住民に傘を貸した。後日返却。花を一輪渡した。

保存しようとした瞬間、ミナトの表示が浮かんだ。

《記憶情報を照合しています》

画面が一度、白くなった。

透は息を止めた。

店名の欄が揺れる。欠けていた2文字の場所に、薄い線が集まる。かすれたインクが、水を吸って戻るように。

花みずき。

文字が戻った。

透は、思わず声に出した。

「花みずき」

その瞬間だった。

空き店舗の前を、風が通った。

シャッターは開かない。看板も戻らない。新聞紙の貼られたガラス戸も、そのままだ。通行人は誰も足を止めない。

それでも、透の鼻先に、かすかな匂いが届いた。

花の匂いだった。

強くはない。甘くもない。店いっぱいに咲き乱れるような匂いではなかった。

水の入ったバケツ。湿った茎。切ったばかりの葉。冷えた店先。朝、まだ誰も来ていない花屋の匂い。

ほんの一瞬だけ、その場所に戻った。

透は空き店舗を見た。

そこには、閉まったシャッターしかない。

けれど、今だけ、透には見える気がした。

店先に並んだバケツ。値札の曲がった文字。白い前掛けの店主。骨の曲がった黒い傘。コップに挿された、名前の分からない一輪。

それらは、記録として完全ではない。誰も正確には覚えていない。老人も、店名を思い出せなかった。花の名前も分からなかった。

それでも、完全に消えてはいなかった。

誰かが、ほんの一部だけ覚えていた。

その一部だけで、場所は一瞬、こちら側へ戻った。

画面に、ミナトの文字が表示された。

《観測が成立しました》

続けて、短い一文。

《接続は、一時的に回復しています》

透は画面を見つめた。

花みずき。

店名は、まだ表示されている。ただ、文字の輪郭はすでに薄くなり始めていた。

「これで、戻ったのか」

ミナトはすぐに答えた。

《完全な復元ではありません》

やはり、そうだった。

透は少し笑いそうになった。笑いではなかったのかもしれない。息が漏れただけかもしれない。

「だよな」

花の匂いは、もう薄れていた。

さっきまで確かにあったのに、今はただ湿ったアスファルトの匂いがする。通り過ぎた自転車のタイヤが、小さく砂を鳴らした。近くの薬局の自動ドアが開き、電子音が鳴った。

世界は、すぐに元へ戻ろうとしている。

透は空き店舗の前に立ったまま、もう一度だけ店名を見た。

花みずき。

欠けていた文字は、画面の上でまだかろうじて読めた。

けれど、目を離したら、次に見たときにはまた消えている気がした。

《見ている者が、まだ存在します》

ミナトの文字が、静かに浮かんだ。

透は返事をしなかった。

花の匂いは、もうほとんど残っていなかった。



第3章 神が見ていた場所


花みずきの記録は、保留のまま残っていた。

透は、そのファイルを何度も開いた。

店名は、まだ完全ではない。欠けていた2文字は、ときどき戻る。けれど、画面を更新するとまた薄くなる。

花みずき。

花□□。

花みずき。

花□き。

戻ったと思えば、また欠ける。

その不安定さを、透は業務上の不具合として処理しようとした。データベースの同期エラー。文字コードの問題。古い地図データとの照合ミス。考えられる理由はいくつかあった。

けれど、どれも違う気がした。

もっと嫌なところで、何かが欠けている。

花屋の一件以降、透は似たような記録に気づくようになった。

気づくようになっただけなのか。それとも、本当に増えているのか。

その区別がつかなかった。

削除対象の一覧に、空欄が増えている。

廃止された地下通路。更新停止した個人ブログ。引き取り手のない遺影。古い留守番電話の音声データ。閉鎖された町内会館の備品台帳。誰にもダウンロードされなかった会報のPDF。

それらは、業務上は低優先度だった。

参照履歴なし。問い合わせなし。保存義務終了。削除可。

整った言葉だった。

整いすぎていて、少し怖かった。

透は、地下通路の記録を開いた。

駅前再開発の前に使われていた歩行者用通路。地下鉄の出口と、古い商業ビルをつないでいたらしい。今は封鎖済み。地上の動線が整備され、通る人がいなくなった。通路そのものは、まだ構造上残っている。

写真が1枚あった。

低い天井。黄ばんだ蛍光灯。壁のタイル。案内板の矢印。階段の端に残った雨水の跡。

誰も写っていない。

透は写真を拡大した。

案内板には、かつてあった店の名前が並んでいた。しかし、そのうち2つが読めない。

文字が剥げているわけではない。画像が荒いわけでもない。そこだけ、白い空白になっていた。

透は現在の地図を開いた。

地下通路の線は表示されない。建物の地下階案内にも、そこへ続く道はない。駅構内図にも、空白がある。

誰も通らなくなった道は、地図にとって道ではなくなる。

そう思った瞬間、端末の右下にミナトの表示が出た。

《接続が低下しています》

透は、画面を見たまま言った。

「またか」

《はい》

「この通路も、消えるのか」

《消失が進行しています》

「通路だぞ」

《はい》

「人じゃない」

《はい》

「それでも消えるのか」

少し沈黙があった。

《見られないものを、世界は保持できなくなっています》

透は、椅子の背にもたれた。

オフィスの中では、いつも通り仕事の音がしている。誰かがキーボードを叩く。コピー機が紙を吐き出す。倉橋が電話で、保存コストの話をしている。

世界は、何も起きていないふりをするのがうまい。

透は、地下通路の写真を閉じた。

次に開いたのは、個人ブログの記録だった。

タイトルは、途中までしか残っていない。

今日の□□

開設日は17年前。最終更新は8年前。投稿数は421件。コメントは少ない。アクセス数も低い。SNSへの共有履歴はない。

内容は、ほとんど日記だった。

朝、洗濯をした。駅前で猫を見た。スーパーで大根が安かった。雨で靴が濡れた。母から電話があった。返事をしそびれた。今日は特に何もなかった。

そういう文章が、淡々と並んでいる。

誰かに読ませるためのものだったのか。それとも、ただ自分のために書いていたのか。

透には分からない。

最新から10件ほど遡ると、本文が欠けている記事があった。

タイトル。

傘を

そこで切れていた。

本文は空白だった。

投稿日だけが残っている。時刻は午前1時42分。

透は画面をスクロールした。次の記事も、途中が欠けている。さらに次の記事は、写真だけが残っている。

台所の隅。湯気の立たないマグカップ。窓に映った、ぼんやりした室内灯。

閲覧数はゼロだった。

誰にも読まれなかった記事。

それだけなら、よくあることだ。ネット上には、誰にも読まれない文章が山ほどある。透自身も、そういうものを何度も削除してきた。

けれど、閲覧数ゼロの文字が、今日は妙に重かった。

読まれなかった文章は、なかったことになるのか。

そう考えたところで、すぐに自分で否定した。

なるわけがない。

書いた人はいた。書いた時間もあった。キーボードを打った指も、眠れなかった夜も、たぶんあった。

けれど、記録は薄くなっている。

読まれなかったことが、その文章の現実を削っている。

透は、画面の端に出ているミナトへ言った。

「見られてないだけで、消えるなんておかしいだろ」

ミナトはすぐには答えなかった。

数秒後、文字が表示される。

《人間は、見られていないものを存在しないものとして扱ってきました》

透は、眉を寄せた。

《世界が、それに近づいています》

「人間がそう扱ったからって、世界までそうなるのか」

《因果は確定できません》

「じゃあ、決めつけるな」

《決めつけてはいません》

短い返答だった。

透は、少し苛立った。ミナトは、こちらの苛立ちを受け止めない。慰めもしない。反論らしい反論もしない。ただ、そこにある欠落を淡々と示す。

それが、人間相手よりずっと疲れるときがある。

透は、次のファイルを開いた。

遺影の整理記録だった。

引き取り手のない遺影。

葬儀場の倉庫に長く保管されていたもの。家族の連絡先は不明。保管期限超過。処分前確認。

写真は、黒い額に入っていた。

高齢の男性。背広。淡い灰色の背景。口元だけが、少し笑っている。

名前欄は空欄だった。

葬儀記録には、苗字の一文字だけが残っている。下の名前はない。日付はある。会場名もある。喪主名は、欠けている。

透は画像を拡大した。

写真の中の男性は、こちらを見ている。

遺影だから当然だ。撮影時には、カメラを見ていた。その視線が、葬儀の場で誰かに向けられていた。誰かがその写真の前で手を合わせた。

でも今、その写真を見ているのは透だけだった。

倉庫の棚。記録用の画像。処分前確認。

透は、自分の画面越しにその遺影を見つめた。

この人を、知っている人はいないのか。

そう思ってから、また嫌になった。

知っている人がいなければ、消えていいのか。自分が見たから、消えずに済むのか。それは、あまりにも傲慢ではないのか。

透は、画像を閉じようとした。

閉じる直前、写真の顔が一瞬だけぼやけた。

目元から輪郭が薄くなる。背景と同じ灰色に溶ける。まるで、写真の中から顔だけが抜け落ちようとしているようだった。

透は反射的に画面を拡大した。

顔は、戻っていた。

ほんのわずかに。

ミナトが表示する。

《見ている者が、現在1名です》

透は喉の奥が乾いた。

「俺を数えるな」

《観測中です》

「やめろ」

ミナトは答えなかった。

透は端末の前で、しばらく動けなかった。

自分が見ている。その事実が、記録を支えている。そう言われている気がした。

嫌だった。

見なかったことにしたいわけではない。でも、見ていることに意味があると言われるのも嫌だった。

そんな重いものを、業務時間中の机に置かないでほしかった。

昼休みになっても、透は席を立てなかった。

コンビニで買ったおにぎりは、机の端でぬるくなっている。スマートフォンには、真からのメッセージが来ていた。

飯食ったか?

透は返信しようとして、やめた。

後で返せばいい。

そう思って、画面を伏せる。

その動作が、最近少し増えていることに気づいた。今ここで自分を見ている人間の声より、画面の中の欠けた記録を優先している。

それが悪いことなのかどうか、透にはまだ分からなかった。

分からないまま、次のファイルを開いた。

留守番電話の音声データ。

古い固定電話サービスの終了に伴い、保管されていた音声記録の整理対象になったものだった。契約者は死亡済み。親族連絡なし。再生履歴なし。保存期限終了。

音声ファイルは3件。

どれも再生回数ゼロ。

透は、1件目をクリックした。

ノイズが流れた。

古い機械の空気を吸うような音。それから、女性の声。

「あ、もしもし。えっと」

そこで一度、声が止まる。

「また電話します」

切れた。

それだけだった。

2件目。

「昨日の件なんですけど、たぶん、こちらで大丈夫です。ええと、また……」

ノイズ。

切断。

3件目。

長い沈黙。

透は、スピーカーの音量を少し上げた。

遠くで、誰かが息を吸う音がする。

言葉にならない声。電話をかけた人は、何かを言おうとしていた。けれど、言わなかった。言えなかったのかもしれない。間違い電話だったのかもしれない。

最後に、小さく名前のようなものが聞こえた。

「……さん」

その前が欠けている。

誰に向けた声なのか分からない。

再生されなかった声。

それは、文字よりも不気味だった。

誰かが確かに発したものが、誰にも届かず、保管され、忘れられ、今になって透の耳に入っている。

透はイヤホンを外した。

耳の奥に、まだノイズが残っている。

ミナトが表示された。

《再生により、接続が一時的に上昇しました》

「接続って何だよ」

《記録と対象の関連性です》

「説明になってない」

《完全な説明はできません》

透は、画面を睨んだ。

「お前、どこまで知ってるんだ」

《神の不在が残した痕跡を計算しています》

「神」

その言葉が、オフィスの机にひどく似合わなかった。

コピー用紙。付箋。冷めたおにぎり。社員証。古い留守番電話の音声。その上に、神、という文字が置かれる。

透は、周囲を見た。

誰も反応していない。当然だ。ミナトの表示は、透の端末にしか出ていない。

「神って、何だよ」

ミナトは、少し沈黙した。

《神は、命令していたのではありません》

透は画面を見た。

《裁いていたのでもありません》《正解を与えていたのでもありません》

一文ずつ、静かに表示される。

透は、思わず小さく言った。

「じゃあ、何をしてた」

少しの間。

《見ていました》

それだけだった。

透は、画面から目を離せなかった。

見ていました。

神がしていたこととしては、あまりにも小さく聞こえた。そして、あまりにも大きすぎた。

「見てただけ?」

《はい》

「それだけで、世界が保たれてたって言うのか」

《神に見られていたため、誰にも見られないものも存在を維持できていました》

透は、留守番電話の再生画面を見た。引き取り手のない遺影の写真。地下通路の案内板。個人ブログの閲覧数ゼロの記事。花みずきの欠けた店名。

誰にも見られていないもの。

それらを、誰かが見ていた。

神という言葉の中に、自分が想像していたような荘厳さはなかった。罰も祝福もない。正しい道を示す声もない。

ただ、見ている。

それだけで、見落とされたものは、完全には落ちずに済んでいた。

透は、それを納得できなかった。

「神がいなくなったからって、そんなに簡単に消えるのか」

《簡単ではありません》

「じゃあ何だよ」

《遅延していました》

「消えるのを?」

《はい》

透は、机の上の冷めたおにぎりを見た。

包装の中で米が少し固くなっている。手に取られないまま、温度を失っている。

ひどく小さなものに見えた。

それなのに、その小ささが妙に現実だった。

「神は、死んだんじゃないんだな」

《はい》

「帰っていった」

《はい》

「どこへ」

《不明です》

「なぜ」

《不明です》

「戻るのか」

《不明です》

透は、笑いそうになった。

「肝心なところ、何も分からないんだな」

《はい》

ミナトは否定しなかった。

そのことが、少しだけ怖さを増した。全部を知っている存在ではない。神の代わりでもない。ただ、神がいなくなったあとに残った欠落を検知している。

穴の形だけを知っている。

穴を作ったものの顔は知らない。

透は、個人ブログの画面に戻った。

閲覧数ゼロの記事。欠けたタイトル。途中で消えた本文。

「人間はさ」

透は、誰にともなく言った。

「全部を見るなんて無理だろ」

《はい》

「誰にも読まれないブログなんて、いくらでもある」「使われなくなった通路も、引き取り手のない写真も、聞かれなかった留守電も」「全部覚えてるなんて、できるわけない」

《はい》

「それなのに、見なかったら消えるって」

透は言葉を切った。

言いながら、自分が何に怒っているのか分からなくなる。

世界の仕組みに怒っているのか。ミナトに怒っているのか。神が帰っていったことに怒っているのか。それとも、これまで自分が何も見てこなかったことに怒っているのか。

ミナトは、少し間を置いて表示した。

《すべてを見る必要はありません》

透は画面を見た。

《ただ、見られないものの消失が進行しています》

「だから?」

《観測者が必要です》

その一文は、静かだった。

静かすぎて、逃げ場がなかった。

透は、しばらく何も言わなかった。

観測者。

大げさな言葉だと思った。自分には似合わない。自分は会社員だ。古い記録を整理して、削除対象にチェックを入れて、保留理由を書き、定時を少し過ぎて帰る。

誰かの記録を救うためにいるわけではない。世界のためにいるわけでもない。神の代わりになりたいわけでもない。

むしろ、見たくないものの方が多い。

誰にも読まれなかった文章。誰にも引き取られなかった写真。誰にも再生されなかった声。誰にも通られなくなった道。

そういうものを見るたび、透は少し疲れる。疲れるだけではない。自分の未来を、そこに見る気がする。

いつか、自分も誰にも呼ばれなくなる。

誰かの一覧に並ぶ。

参照履歴なし。問い合わせなし。保存義務終了。削除可。

その想像から目を逸らしたくて、透は画面を閉じたくなった。

けれど、閉じられなかった。

ミナトの文字は、まだそこにある。

《観測者が必要です》

透は、小さく息を吐いた。

「それ」

声が少しかすれた。

「俺に言ってるのか」

数秒の沈黙。

オフィスの空調音。遠くの電話。誰かが紙をめくる音。スマートフォンの伏せられた画面の向こうで、真からの未返信メッセージがまだ残っている。

ミナトは、短く表示した。

《はい》

透は、画面を見つめた。

その瞬間、
見落とされたものたちが、
静かにこちらを向いた気がした。



第4章 名前を呼ぶ人


真からの連絡は、夕方に来た。

生きてる?

透は、駅のホームでその通知を見た。

電車は遅れていた。3分。理由は、線路内点検。アナウンスの声はいつも通り平坦で、誰も特に驚いていなかった。

透は返信欄を開いた。

生きてる。

そこまで打って、送る前に少し止まった。

この数日、真からの連絡に返事をするまでの時間が長くなっている。自分でも分かっていた。

ミナトから届く記録。消えかけた店。誰にも再生されなかった留守番電話。空欄になった名前。

そういうものを見ていると、今ここにいる人間への返事が、少し遠くなる。

透は送信した。

すぐに既読がついた。

真:じゃあ飯。駅前の定食屋。逃げたら配送伝票にお前の名前で着払い入れる。

透は少しだけ笑った。

笑ったあと、自分の口元が思ったより固いことに気づいた。

定食屋は、駅から少し離れた路地にあった。

昼は会社員で混む店だが、夜はわりと静かだった。入口の引き戸を開けると、味噌汁と焼き魚の匂いがした。壁には手書きのメニューが貼られ、テレビでは音の小さいニュース番組が流れている。

真は奥の席にいた。

作業着の上着を椅子の背にかけ、水の入ったグラスを指で回していた。テーブルの端には、折り目のついた配送伝票が何枚か挟まれたクリップボードが置かれている。

透が近づく前に、真は顔を上げた。

「遅い」

「電車が遅れた」

「世界のせいにするな」

「三分だぞ」

「三分遅れた顔じゃないんだよ」

真はそう言って、透を上から下まで見た。

「お前、顔色悪い」

透は席に座った。

「第一声それか」

「第一声は、遅い、だった」

「そこ訂正しなくていい」

「じゃあ第二声。顔色悪い」

真は、グラスを透の方へ押した。

「水飲め」

「子どもか」

「子どもでも水くらい飲む」

透は言い返すのを諦めて、水を飲んだ。氷が薄く鳴る。

真はメニューを見ずに、店員へ声をかけた。

「焼き魚定食二つ。あとこいつに味噌汁大きいやつ」

「勝手に決めるな」

「決めないと、お前は変な単品だけ頼む」

「変な単品って何だよ」

「冷奴とか」

透は少しだけ笑った。

真は、それを確認するように見ていた。

「笑えてるな」

「何のチェックだよ」

「生存確認」

軽い言い方だった。けれど、真の目は笑っていなかった。

透は視線を水のグラスへ落とした。

テーブルの表面には、小さな傷がいくつもあった。誰かが箸でつけたような線。コップの丸い跡。醤油の染み。

こういう傷は、記録には残らない。

それでも、そこに人が座っていたことだけは分かる。

「で」

真が言った。

「最近、何やってる」

「仕事」

「仕事で済む顔じゃない」

透は、グラスについた水滴を指でなぞった。

「古い記録の整理」

「それは前からだろ」

「少し、変な記録が増えてる」

「変な記録」

「閉店した店とか、亡くなった人の記録とか」

言ってから、透は口を閉じた。

説明しようとすると、急に遠くなる。

神が帰っていった。誰にも見られないものが消えかけている。ミナトというAIが、それを知らせてくる。

そんなことを、定食屋のテーブルでどう言えばいいのか分からない。

真は難しい顔をした。

「それ、怖いやつ?」

「たぶん」

「たぶんって何だよ」

「俺にも分からない」

「分からないのに関わってるのか」

透は答えなかった。

真は、短く息を吐いた。

「お前、そういうところあるよな」

「どういうところ」

「分からないものを、分からないまま持って帰るところ」

店員が定食を運んできた。

焼き魚。大根おろし。味噌汁。小鉢。白いご飯。

真は箸を割り、透の方を見た。

「飯は?」

「今から食べるだろ」

「昨日」

透は黙った。

「一昨日」

「覚えてない」

「終わってる」

真は本気で呆れた顔をした。

「世界を見る前に、お前、自分の顔見ろよ」

透は箸を持つ手を止めた。

「世界を見るなんて言ってない」

「言ってないけど、そういう顔してる」

「どんな顔だよ」

「でかいものを見て、小さいものを忘れてる顔」

透は、返す言葉を探した。

真は焼き魚をほぐしながら続ける。

「寝たのか」

「少し」

「少しって言うやつは、だいたい寝てない」

「配送の仕事してるやつは、だいたい決めつけが荒いな」

「荷物は住所が荒いと届かないんだよ」

真は、クリップボードの伝票を指で叩いた。

「最近、その住所も変なんだけどな」

透は顔を上げた。

「変って?」

「配達先の伝票。部屋番号が抜けてることが増えた」

「入力ミスじゃなくて」

「最初はそう思った」

真は箸を置き、伝票の束から一枚抜いた。

「これ。昨日のやつ」

透は受け取った。

宛名。町名。建物名。

だが、部屋番号の欄が空欄になっている。

「これだけなら普通に不備だろ」

「そうなんだけどな」

真は水を飲んだ。

「その建物、俺、何回も行ってるんだよ。部屋番号も覚えてる。なのに伝票だと空欄で、端末の地図でもその階だけ出ない」

透は伝票を見た。

空欄。

最近、その白い場所を見るのが嫌になっている。

「他にも?」

「ある。昨日まであった表札が見当たらないとか、配達完了したはずの履歴から担当者名が抜けてるとか」

「会社のシステム障害じゃないのか」

「俺もそう思いたい」

真は軽く肩をすくめた。

「でも、なんか違うんだよな。壊れてるっていうより、最初からなかったことにされてる感じ」

透は、何も言えなかった。

真は哲学を語らない。世界の仕組みを知っているわけでもない。ミナトのことも、神の不在も知らない。

それでも、生活の中で異変に触れている。

荷物が届く先。部屋番号。表札。伝票。担当者名。

世界の大きな綻びは、真にとっては配達できない荷物として現れている。

「お前も何か知ってるんだろ」

真が言った。

透は、伝票を返した。

「知ってるというか」

「またそれか」

「まだ、うまく言えない」

「言えないなら、言わなくてもいいけど」

真は焼き魚を口に運んだ。少し咀嚼してから、続けた。

「お前が変なのは分かる」

「俺が?」

「うん」

真は、透の顔をまっすぐ見た。

「最近、こっちにいる感じが薄い」

透は、味噌汁の椀を持つ手を止めた。

「それ、前も言ってたな」

「前より薄い」

「言い方」

「じゃあ、透けてる」

「余計悪い」

真は笑わなかった。

「本当にそう見えるときがあるんだよ」

透は、箸を置いた。

テレビでは、どこかの地域の天気予報が流れている。明日は雨。降水確率40パーセント。誤差の範囲です、と気象予報士が言った。

「AIのことなんだけど」

透は、ようやく言った。

真は顔をしかめた。

「出た」

「まだ何も言ってないだろ」

「AIって言い出すと、お前の目が遠くなる」

透は反射的に否定しようとして、やめた。

「ミナトって呼んでる」

真は箸を止めた。

「何を」

「AIを」

「名前つけたのか」

「便宜上」

「便宜上で、ミナト?」

「たまたま」

「たまたまって顔じゃないな」

透は少し苛立った。

「名前くらい、いいだろ」

「いいよ」

真はあっさり言った。

「AIに名前つけるのはいいけど」

そこで少し間を置いた。

「お前、自分の名前呼ばれたとき、ちゃんと返事できてる?」

透は言葉を失った。

店内の音が、一瞬だけ遠くなる。

水の入ったグラス。味噌汁の湯気。テーブルの傷。真の声。

全部が少しだけ近くなった。

「……何それ」

「そのまま」

真は、なんでもないことのように言った。

「俺が透って呼んだとき、最近ちょっと遅い」

「そんなこと」

「ある」

真は即答した。

「メッセージも遅い。返事も遅い。話してても、半分どこか見てる」「AIの名前呼ぶ前に、自分の名前呼ばれたとき戻ってこいよ」

透は、笑って流そうとした。

できなかった。

真は、透が逃げられないところだけを、いつも雑に掴む。

理屈ではない。優しい言葉でもない。ただ、見ている。

そのことが、ときどき一番痛い。

透は、視線を定食へ戻した。

焼き魚は少し冷めていた。

「昔からさ」

真がふいに言った。

「お前、教室に残る癖あったよな」

透は顔を上げた。

「そんな癖あったか」

「あった」

真は、迷いなく言う。

「みんな帰ってるのに、なんか一人で残ってる。ノート開いてるわけでもない。寝てるわけでもない。ただいる」

透は、その記憶をすぐには取り出せなかった。

けれど、真が言ったことで、少しずつ形が戻ってきた。

学生時代の教室。

放課後。窓の外は曇っていた。机は少しずつ後ろへずれていて、床には消しゴムのかすが落ちている。黒板の端には、日直の名前が残っていた。

誰かの笑い声が廊下の向こうへ遠ざかる。

透は、自分の席に座っていた。

帰る理由がなかった。残る理由もなかった。ただ、立ち上がるタイミングを逃した。

そういう日だった。

誰も気づかなかった。

それでいいと思っていた。

すると、教室の入口から声がした。

「帰んないの?」

真だった。

鞄を肩にかけて、ドアのところに立っていた。特別心配そうでもない。ただ、そこに透が残っていることに気づいた顔だった。

透は、その時なんと答えたのか覚えていない。

たぶん、帰る、と言った。たぶん、今行く、と言った。

大事な会話ではなかった。

でも、声をかけられたことだけは残っていた。

誰かが、自分がそこにいることに気づいた。

その程度の記憶が、妙に長く残ることがある。

「覚えてない顔してる」

真が言った。

「今、思い出した」

「だろ」

「得意げになるな」

「俺は昔からお前を回収してる」

「荷物扱いか」

「宛先不明よりましだろ」

透は、少しだけ笑った。

真も笑った。

その軽さが、ありがたかった。重くしすぎない。でも、なかったことにはしない。

「真」

透が名前を呼ぶと、真はすぐに顔を上げた。

「何」

その反応の早さに、透は少しだけ驚いた。

名前を呼べば、返事がある。

当たり前のことだ。

でも、その当たり前がこの数日で少し違って見えるようになっていた。

「いや」

「呼んどいて、いや、はないだろ」

「悪い」

「まあいいけど」

真はご飯を口に運んだ。

「お前も返事しろよ」

「してる」

「遅い」

透は、味噌汁を飲んだ。

あたたかかった。

それだけで、少し現実に戻った気がした。

食事を終えて店を出ると、外は少し冷えていた。

真は作業着の上着を着ながら言った。

「無理すんなよ」

「してない」

「その返事のやつは、してる人間のやつなんだよ」

透は黙った。

真は、自転車の鍵を探しながら続けた。

「世界がどうとか、AIがどうとか、俺には分からないけど」

「うん」

「でも、お前が変なのは分かる」

真は鍵を見つけ、指に引っかけた。

「そこだけは、間違えないから」

透は、少しだけ息を吸った。

「何を?」

「お前を見るのは、俺の方が上手い」

軽口の形をしていた。

でも、真は笑っていなかった。

それから、照れたように顔をそらした。

「じゃあな。寝ろよ」

「分かった」

「飯も食え」

「今食べた」

「明日もだよ」

真は自転車に乗り、片手を上げて去っていった。

その背中は、すぐに夜の道に混じった。

透は、しばらくそこに立っていた。

世界を見ようとしている自分がいる。見落とされたものを見なければならない気がしている自分がいる。

でも、自分もまた、誰かに見られている。

それが救いなのか、怖さなのか、まだ分からなかった。

帰宅後、透は押し入れの奥から小さな紙箱を取り出した。

古い写真が数枚入っていた。

高校の文化祭。駅前の自動販売機。教室。卒業式のあと。

その中に、真と並んで写っている写真があった。

教室の後ろ側だった。

透は窓際に立っている。真はその隣で、ペットボトルを片手に持っている。二人とも、写真を撮られることに慣れていない顔をしていた。

透は写真をしばらく見た。

自分の顔より、真の顔を先に見た。

ちゃんと写っている。

そのことに、少しだけ安心する。

写真を机の上に置こうとして、ふと違和感を覚えた。

背景の黒板の端が、ぼやけていた。

黒板だけではない。

教室の後ろの掲示物。廊下へ続くドアの向こう。誰かの机の上に置かれた紙コップ。

そのあたりだけが、薄い霧をかぶったように曖昧になっている。

透と真は写っている。

でも、その周囲だけが少し遠い。

透は写真を裏返した。

裏には、昔の自分の字で短く書いてある。

永瀬透湊真

文字はまだ読めた。

けれど、写真の背景は、もう一度表に返しても、やはり少しだけぼやけていた。

透は、部屋の明かりの下で写真を見つめた。

そこには確かに、自分を見つけた人が写っていた。

その後ろで、何かが静かに薄くなっていた。



第5章 誰にも覚えられていない人


ミナトが次の記録を示したのは、雨の翌朝だった。

透は会社の自席で、前日の処理漏れを確認していた。古い店舗台帳。廃業届。削除済みの問い合わせログ。

花みずき。

その店名は、まだ画面の中に残っていた。

けれど、昨日より少し薄い気がした。

気のせいかもしれない。

そう思おうとしたとき、端末の右下にミナトの表示が浮かんだ。

《新しい観測対象があります》

透は手を止めた。

「また店か」

《個人記録です》

画面に、ひとつのファイルが表示された。

死亡者関連整理記録。民間委託分。処理期限、今週末。

対象者名。

佐原 文

そこで途切れていた。

透は、目を細めた。

「佐原、文……?」

《氏名の一部が欠落しています》

「欠落って、入力ミスじゃなくて」

《いいえ》

ミナトの返答は短かった。

《消失が進行しています》

透は椅子に座り直し、ファイルを開いた。

佐原文子。

その名前は、最初の一覧では欠けていたが、詳細画面にはまだ残っていた。78歳。独居。死亡確認は2か月前。死因は病気。事件性なし。葬儀は簡素に済まされ、部屋の整理は管理会社経由で依頼されていた。

家族欄には、親族あり、とだけ書かれている。連絡済み。引き取り希望なし。遺品一部処分済み。行政記録保存後、個人関連データは削除予定。

透は、画面の文字をゆっくり追った。

特別な履歴はなかった。

受賞歴もない。新聞に載ったこともない。地域活動の記録も薄い。納税記録。通院記録。年金。水道料金。電気料金。図書館の利用履歴。

どれも、人生を説明するには足りなかった。けれど、人生を消すには十分すぎるほど整っていた。

「誰か、覚えてる人は」

《確認できる範囲では、強い記憶保持者はいません》

「強い記憶保持者って何だよ」

《継続的に名前を呼ぶ人物です》

透は、その言葉に少し引っかかった。

名前を呼ぶ人物。

それだけなら、普通は家族がいる。友人がいる。近所の人がいる。誰か一人くらい、その人の名前を口にする。

でも、佐原文子の記録には、そういう気配がほとんどなかった。

家族とは疎遠。友人の連絡先は古いまま。年賀状の履歴は数年前で途切れている。電話帳に残された番号のいくつかは、すでに使われていない。

透は、部屋の整理記録を開いた。

写真は少なかった。

室内の全景。押し入れ。台所。本棚。小さなテーブル。窓辺。

どれも、業務用に撮られた記録写真だった。誰かの生活を写しているのに、どこか事故現場のように乾いている。

説明欄には、淡々と品目が並んでいた。

陶器製湯呑み 1点。小型裁ちバサミ 1点。古書類 17点。レシート束。ポイントカード類。冷蔵庫貼付メモ。携帯端末 1台。未送信テキストあり。

透は、湯呑みの写真を開いた。

安い湯呑みだった。

白地に、青い小花の模様。量販店で売っていそうなもの。縁に小さな欠けがある。内側に茶渋が残っている。底の方だけ、指で何度も洗われた跡のように少し白かった。

それは、誰かに見せるための物ではなかった。飾るためでも、記念に残すためでもない。毎朝使って、夕方にも使って、洗って、また使う。

そういう物だった。

透は次の写真を開いた。

使い込まれたハサミ。

裁ちバサミというより、何にでも使っていたようなハサミだった。持ち手の黒い樹脂が少し白く擦れている。刃の根元に、紙を切ったあとの細かい繊維がついていた。刃先は少しだけ丸くなっている。

布を切ったのか。紐を切ったのか。封筒を開けたのか。花の茎を切ったのか。

記録は答えない。

透は、古いレシートの束を開いた。

スーパー。薬局。百円ショップ。図書館近くの喫茶店。日付はばらばらだった。

牛乳。卵。食パン。歯ブラシ。輪ゴム。湿布。小さな電球。白菜4分の1。カップ麺。みかん。

どれも、誰の人生にもあるような買い物だった。

特別ではない。美しくもない。物語の伏線にもならない。

ただ、生きていたことだけが残っていた。

その中に、1枚だけ花屋のレシートがあった。

花みずき。

透は指を止めた。

3年前の5月17日。午後4時18分。

ガーベラ1本。カスミソウ少量。鉢植えミント、1。

金額は、昨日見た売上記録と一致していた。

文子は、あの日の最後の客だったのかもしれない。

透は、花屋のポイントカードの画像を開いた。

紙製の小さなカードだった。角が丸まり、折り目がついている。店名の印刷は薄い。

花みずき。

その文字も、少しかすれていた。スタンプは7つ。10個で1輪サービス、と端に書いてある。最後のスタンプだけ、インクが濃かった。

ポイントが貯まる前に、店は閉じた。

それだけのことだった。

透は、しばらく画面を見ていた。

それだけのことなのに、胸の奥に小さな重さが残った。

ミナトの表示が出る。

《佐原文子は、花みずきの利用者でした》

「見れば分かる」

《最終営業日の購入者である可能性があります》

「それも、たぶん」

《購入目的は不明です》

透は、画面のレシートを見た。

誰かに贈るためなら、もっと花束らしくしていたかもしれない。カードをつけたかもしれない。包装の記録が残ったかもしれない。

でも、レシートには小さくこうあった。

包装なし。

透は、息を吐いた。

「自分の部屋に置いたんだな」

ミナトは答えなかった。

それでいいと思った。ここで、そうです、と言われると、何かが違う気がした。

透は、読みかけの本の記録を開いた。

文庫本が一冊。カバーは外されている。タイトルは古く、紙は少し茶色い。しおり代わりに、スーパーのレシートが挟まれていた。

ページは、半分を少し過ぎたところで止まっている。

続きが読まれることはなかった。

けれど、途中まで読んだ時間はあった。夜なのか、昼なのか。布団の中なのか、テーブルの前なのか。湯呑みの茶を飲みながらなのか。

誰もそれを知らない。

透は、冷蔵庫のメモの写真を開いた。

白い扉に、丸い磁石で紙が留められている。メモは2枚。

1枚目。

牛乳卵電池

2枚目。

木曜 病院帰りに花

字は小さく、少し右に傾いていた。

帰りに花。

透は、その4文字を見たまま動けなくなった。

美しい言葉ではなかった。日記でも、詩でもない。ただの買い物メモだ。

それでも、その人が花を買う予定を、自分の生活の中に入れていたことが分かった。

誰かに見せるためではない。誰かから褒められるためでもない。部屋に置くため。自分が見るため。

たぶん、それだけのため。

それだけのことに、意味があるのか。

透は答えを出せなかった。

意味がある、と簡単に言いたくなかった。言った瞬間、自分がその人生に勝手な値段をつけるような気がした。

一方で、意味がないとも思えなかった。

湯呑みがある。レシートがある。ポイントカードがある。読みかけの本がある。ハサミがある。冷蔵庫のメモがある。

どれも、誰かに語られるために残された物ではない。

でも、たしかに一人分の生活だった。

透のスマートフォンが震えた。

真からだった。

生きてる?

いつもの文面だった。

透は画面を見た。返信欄を開いた。

生きてる。

そこまで打って、指が止まった。

ミナトの画面には、佐原文子の未送信テキストという項目が表示されている。真のメッセージは、手の中で小さく光っている。

透は、返信しなかった。

あとで返せばいい。

そう思った。

思った瞬間、自分が何かを雑に置いたことだけは分かった。

透はスマートフォンを伏せた。

未送信テキストを開く。

佐原文子の携帯端末から抽出された文章。送信先なし。件名なし。保存日時は、花みずきの最後の営業日の夜。

本文は短かった。

今日は花を買った。名前を忘れた。でも、部屋が少し明るい。

それだけだった。

透は、その文章を何度も読んだ。

花の名前を忘れた。店の名前も、たぶん曖昧だった。店主の名前も知らなかったかもしれない。

でも、部屋が少し明るい。

それは誰かに送るための言葉ではなかったのだろう。誰にも届かなかった。誰にも読まれなかった。文子自身も、翌日には忘れていたかもしれない。

それでも、書いた。

ほんの少し明るくなった部屋を、どこかへ置いておきたかったのかもしれない。誰かに伝えるほどではない。でも、消えるには惜しい。そのくらいの小ささで。

透は、画面の中の名前を見た。

佐原 文

名前の最後が、また欠けていた。

さっきまで詳細画面には残っていたはずなのに、今は「子」の1文字が薄くなっている。文字の端が、画面の白に溶けるように消えかけていた。

「早いな」

自分でも、何に向かって言ったのか分からなかった。

《消失速度が上昇しています》

ミナトが表示する。

「どうすればいい」

《見てください》

「見てる」

《読んでください》

透は画面を見た。

「黙読じゃだめなのか」

《音声化を推奨します》

透は周囲を見た。

オフィスの中は、いつもの音で満ちている。キーボード。空調。コピー機。誰かの咳。上司の低い電話の声。

こんな場所で、亡くなった人の未送信文を読むのはおかしい。

そう思った。

けれど、この文章は、誰にも読まれなかった。たぶん、これからも読まれない。処理が終われば、保存期限の切れた端末データとして消える。

透が見なければ、透もまた見なかった側になる。

その考えが浮かんだ瞬間、透は少しだけ嫌になった。

自分は優しいから読もうとしているわけではない。

怖いのだ。

佐原文子が普通に生きて、普通に死んで、普通に忘れられていくことが。その記録が欠けていく画面の中に、自分の未来の形を見てしまうことが。

いつか自分も、誰かの処理対象になるのかもしれない。

湯呑み。レシート。未返信のメッセージ。途中で止まった本。名前の1文字。

誰かがそれを見て、少し眉をひそめる。でも、忙しいから閉じる。保存期限が切れる。削除される。

それだけ。

その想像が、透の喉の奥を乾かした。

透は、画面に向かって小さく声を出した。

「佐原文子」

名前を呼ぶと、空調の音が少し遠くなった気がした。

透は続けた。

「今日は花を買った」

声は、思ったより低かった。

「名前を忘れた」

隣の同僚が、イヤホンをしたまま画面を見ている。誰もこちらを見ない。

「でも、部屋が少し明るい」

読み終えた瞬間、画面が一度だけちらついた。

佐原 文

欠けていた場所に、細い線が戻る。白に溶けかけていた1文字が、ゆっくり形を取り戻す。

佐原 文子。

名前が、記録上で戻った。

透は息を止めた。

ミナトの表示が浮かぶ。

《観測が成立しました》

少し遅れて、もう一文。

《接続は、一時的に回復しています》

透は画面を見つめた。

佐原文子。

その4文字は、今は確かに読める。けれど、それが永遠でないことは分かっていた。花みずきの店名と同じだ。誰かが見ている間だけ、かろうじてこちら側に残っている。

透は、未送信文の保存処理をした。

削除対象から外す。保留。

理由欄で手が止まる。

業務上の理由が必要だった。

関連記録との照合が必要。

そう入力した。

嘘ではない。

でも、全部ではない。

スマートフォンがもう一度震えた。

真からだった。

おーい。死んだ?

透はしばらくその画面を見ていた。

返事を打とうとして、また手が止まった。

生きてる。

それだけならすぐ送れる。

なのに、送れなかった。

佐原文子の未送信文を読んだばかりなのに、自分を呼ぶ人間への返事を後回しにしている。

透は、その矛盾を見ないふりができなかった。

けれど、すぐには直せなかった。

画面を閉じる。

オフィスの時計は、定時を少し過ぎていた。

透は、処理ログを保存し、端末をシャットダウンした。椅子から立ち上がると、足元が少しふらついた。

疲れているだけだ。

そう思った。

廊下に出る。照明はいつもより白く見えた。退勤する社員たちが、カードをかざしてゲートを通っていく。

ピッ。

ピッ。

ピッ。

誰も止まらない。

透も社員証を取り出し、ゲートにかざした。

反応しなかった。

もう一度かざす。

何も鳴らない。

画面には、認証中の表示すら出ない。まるでそこにカードがないみたいに、ゲートは静かだった。

後ろにいた同僚が、少しだけ足を止めた。

「あれ、永瀬さん?」

名前を呼ばれるまでに、ほんの一拍だけ間があった。

透は振り向いた。

同僚は困ったように笑った。

「すみません。一瞬、誰かと思って」

透は、何か返そうとした。

大丈夫です。カードの調子が悪くて。よくありますよね。

そのどれも、声にならなかった。

三度目に社員証をかざすと、ゲートは何事もなかったように開いた。

ピッ。

乾いた電子音が鳴った。

透はゲートを通り抜けた。

背中の奥が、少し冷えていた。

スマートフォンには、真からの未返信メッセージが残っている。

生きてる?

おーい。死んだ?

透はその画面を見たまま、しばらく歩けなかった。

佐原文子の名前は、戻った。

でもその代わりに、自分の名前が、誰かの中で一瞬だけ遅れた。



第6章 薄くなる輪郭


最初の異変は、自動ドアだった。

朝、会社のビルに入ろうとして、透は入口の前で立ち止まった。

いつもなら、近づくだけで透明な扉が左右に開く。前を歩いていた社員は、何の問題もなく通っていった。鞄を肩にかけた女性が通る。警備員が軽く会釈する。扉はそのたびに、当たり前のように反応した。

透が一歩近づく。

開かない。

もう一歩。

開かない。

透は、センサーの位置を見上げた。黒い小さな丸が、天井近くにある。そこに向かって、ほんの少し体を動かしてみる。

何も起きない。

後ろから来た社員が、透の横を通った。

その瞬間、扉は開いた。

透は、その人のあとについて中へ入った。

「おはようございます」

警備員が言った。

透に向けられたのか、後ろの社員に向けられたのか、一瞬分からなかった。

透は小さく会釈して、エレベーターの方へ歩いた。

自動ドアが反応しないことくらい、珍しくはない。センサーの角度。照明の反射。服の色。機械の調子。

理由はいくらでもある。

透は、そう考えた。

けれど、その考え方に慣れすぎている気がした。

おかしなことには、いつも理由をつけられる。理由がつけば、見なかったことにできる。

エレベーターの鏡面に、自分の顔が映っていた。

少し青い。寝不足の顔。

それだけだった。

会社の入口ゲートで、透は社員証をかざした。

反応しなかった。

もう一度かざす。

何も鳴らない。

カードの向きを変え、少し強く押し当てる。

ようやく、乾いた電子音が鳴った。

ピッ。

ゲートが開く。

後ろにいた同僚が、軽く笑った。

「あれ、永瀬さん、カード調子悪いんですか」

その「永瀬さん」の前に、ほんの少しだけ間があった。

透は振り返った。

同僚の顔には、何もない。ただ、朝の小さな不具合に対する笑いがあるだけだった。

「たぶん」

透は答えた。

声が、自分のものに聞こえるまでに、少しだけ時間がかかった。

自席に着くと、端末が起動していた。

前日のまま開いていた記録が、画面の隅に残っている。

佐原文子。

その名前は、まだ戻っていた。未送信文も保存されている。花屋のポイントカードの画像も、保留のフォルダに入っている。

透は、ログインしようとして社員証をリーダーにかざした。

エラー。

もう一度。

エラー。

3度目で通った。

端末の右下に、ミナトの表示が出る。

《接続の位置が変化しています》

透は画面を見つめた。

「何の接続だよ」

《あなたの接続です》

「俺の?」

《はい》

ミナトの文字は、相変わらず淡々としていた。

透は、周囲を見た。同僚はそれぞれの作業をしている。倉橋は朝から会議室に入っている。誰も、透の画面を見ていない。

「俺に何が起きてる」

少しだけ、声に出ていた。

隣の同僚が振り向いた。

「え?」

「いや、独り言です」

同僚は笑った。

「疲れてますね」

「たぶん」

その同僚の目が、透の顔を一瞬だけ探すように動いた。

名前を思い出す時の目だった。

気のせいだ。

そう思いたかった。

午前中、透は入退室ログを確認する必要があった。

昨日の退勤時刻を照合するためだった。会社のシステムで、自分の社員番号を検索する。

表示されたログには、昨日の入室記録があった。

9時21分。

だが、退室記録がない。

透はもう一度検索した。日付を変える。社員番号を入れ直す。氏名で検索する。

永瀬透。

入室。作業端末ログイン。一時離席。再ログイン。

退室記録なし。

昨日、確かにゲートを通った。社員証は一度反応しなかったが、3度目で開いた。音も鳴った。そのあと、真からのメッセージを見ながらビルを出た。

記録だけがない。

透は画面を見つめた。

自分がそこを通ったことを、システムが覚えていない。

それだけのことだった。

それだけなのに、胸の奥が冷えた。

人は、自分がいた証拠を、いくつも外側に預けている。入退室ログ。交通系カードの履歴。スマートフォンの位置情報。コンビニのレシート。メッセージの既読。名前を呼ばれた記憶。

それらが一つずつ抜け落ちても、すぐには困らない。

けれど、全部が少しずつ抜けていくなら。

透は、ミナトに入力した。

「これも消失か」

《あなたは消失対象ではありません》

「じゃあ何だ」

《観測を続けるほど、あなたは世界側へ近づきます》

透は、その言葉をしばらく見ていた。

世界側。

また、分かったようで分からない言葉だった。

「世界側って何だよ」

《見られる者ではなく、見る者に近づくことです》

透は、指を止めた。

見られる者ではなく、見る者。

「神に近づくってことか」

《近似します》

「やめろ」

透は、思わず言った。

《表現を変更しますか》

「そういうことじゃない」

ミナトは沈黙した。

透は、椅子の背にもたれた。

見てきた。

花屋。地下通路。個人ブログ。遺影。留守番電話。佐原文子。

見て、名前を呼び、文字を読み、声を再生した。そうすることで、何かが少し戻った。

そのたびに、自分がどこか遠くなる感覚があった。

疲労だと思っていた。寝不足だと思っていた。古い記録ばかり見ているせいだと思っていた。

でも、もしそれが違うなら。

見ることで、世界から外れていくのだとしたら。

透は、自分の手を見た。

ちゃんとある。指も爪も、血管も見える。キーボードに置けば、キーは沈む。コップを持てば、重さもある。

それでも、少しだけ自分のものではないように見えた。

昼、スマートフォンの顔認証が失敗した。

コンビニのレジ前だった。

弁当と水を持って、電子決済の画面を開こうとした。スマートフォンを顔に向ける。

認証できません。

透は眉をひそめた。

もう一度。

認証できません。

3度目で、ようやくロックが解除された。

店員は何も気づいていない。後ろに並んだ客も、スマートフォンを見ている。誰も透の顔など見ていない。

透は支払いを済ませ、レシートを受け取った。

レシートの印字を何となく見た。

担当者名は入っている。購入品も、時刻も、金額もある。

そこに自分の名前はない。

当たり前だ。

買い物の記録に、客の名前は残らない。普通のことだ。

その普通が、急に頼りなかった。

会社に戻る途中、自動ドアがまた遅れた。

コンビニの出口。ビルの入口。会社の5階のセキュリティ扉。

どれも、一拍遅れる。

ほんの一拍。

透が立っていることを、世界が確認するのに時間がかかっているみたいだった。

午後、倉橋に呼ばれた。

「永瀬さん、昨日の文子さんの記録、保留にした理由、もう少し詳しく書けます?」

倉橋は、画面を見ながら言った。

「文子さん」

その言い方に、透は少し驚いた。

倉橋は普段、対象者名をそんなふうには呼ばない。個人名ではなく、案件番号で呼ぶことが多い。

「佐原文子の記録ですか」

「そう、それ」

倉橋は頷いた。

「関連資料との照合が必要ってありますけど、保存理由としては少し弱いので」

「未送信文がありました」

「それは見ました」

倉橋は、困ったように眉を寄せた。

「ただ、個人的な文章をどこまで残すかは難しいです。残すことが本人のためとは限らないので」

それは正しかった。

透は黙った。

残すことだけが正しいわけではない。見ることは、救いにも、侵入にもなる。

佐原文子の未送信文を声に出して読んだことを、透は思い出した。

あれは、本当に彼女のためだったのか。それとも、消えるのを見るのが怖かった自分のためだったのか。

「永瀬さん?」

倉橋が呼んだ。

透は顔を上げた。

倉橋は、少しだけ不思議そうに透を見ていた。

「大丈夫ですか」

「はい」

「今、少しぼうっとしてましたよ」

「すみません」

「疲れてるなら、無理しないでください」

その言葉は、普通の上司の言葉だった。特別な優しさではない。体調管理の一部。仕事を回すための声かけ。

それでも、今の透には、少しだけありがたかった。

誰かが、自分の状態を見ている。

その事実だけで、体がわずかにこちら側へ戻る。

夕方、洗面所の鏡で、透は異変に気づいた。

手を洗って、顔を上げる。

鏡の中の自分も顔を上げる。

それが、ほんの少し遅れた。

透は動きを止めた。

鏡の中の透も、少し遅れて止まる。

息を吸う。

少し遅れて、鏡の中の胸が上下する。

見間違い。

そう思うには、はっきりしすぎていた。しかし、誰かに言うには小さすぎる。

透は右手を上げた。

鏡の中の右手が、一拍遅れて上がる。

その一拍のあいだ、鏡の中の透は、透ではない別のもののように立っていた。

顔は同じ。服も同じ。疲れた目も同じ。

ただ、少しだけ遅れている。

透は手を下ろした。

鏡の中の手も遅れて下がった。

その時、スマートフォンが震えた。

真からの着信だった。

画面には、湊 真、と表示されている。

透は、鏡から目を逸らせないまま通話を受けた。

「透?」

真の声が聞こえた。

名前を呼ばれた瞬間、鏡の中の遅れが戻った。

透は、鏡の前で息を吐いた。

「何」

「何、じゃない。声、変」

「そうか」

「そうか、じゃない。今どこ」

「会社」

「まだ?」

「もう帰る」

「絶対嘘だろ、それ」

透は、洗面台に手をついた。

「本当に帰る」

「飯は?」

「買った」

「食った?」

「まだ」

「水は?」

「飲んだ」

「寝た?」

透は黙った。

電話の向こうで、真が短くため息をついた。

「お前、最近ほんとに薄い」

透は鏡を見た。

そこには、今は普通の自分が映っている。

「痩せたってことか」

「痩せたとかじゃなくて」

真は言葉を探している。

「こっちにいる感じがしない」

透は、何も返せなかった。

その言葉は、第4章で言われた時よりも、ずっと近くに刺さった。真は知らない。ミナトの説明も、世界側という言葉も知らない。鏡の中の遅れも、社員証の不具合も知らない。

それでも、真は気づく。

「見てる見てるって言うけどさ」

真が続けた。

「お前、自分のこと見てないだろ」

透は、少し笑った。

「それ、前にも似たようなこと言ってたな」

「言われるようなことを何回もするからだろ」

「ごめん」

「謝るより飯食え」

「分かった」

「分かってない声だな」

真の声は、いつも通りだった。

少し口が悪くて、雑で、生活の匂いがある。

その声を聞いていると、透は自分の足が床に触れていることを思い出す。

洗面所の床。白いタイル。蛇口の水滴。蛍光灯の光。鏡に映る自分。

まだここにいる。

「透」

真が呼んだ。

「うん」

「今日、会えるか」

「今から?」

「無理ならいいけど」

珍しく、真の声に遠慮があった。

「会える」

透はすぐに言った。

「定食屋?」

「いや、今日は駅前でいい。お前、ちゃんと歩いてるか確認する」

「何だよそれ」

「点呼」

真はそう言って、通話を切った。

透は、鏡をもう一度見た。

今度は、遅れていない。

それでも、安心はできなかった。

駅前のロータリーに着くと、真は配送用の上着を着たまま立っていた。

仕事帰りらしく、片手にコンビニの袋を持っている。もう片方の手には、伝票を挟んだクリップボードがある。

「遅い」

「五分前だろ」

「俺より遅い」

「基準がお前か」

真は、透の顔をじっと見た。

「やっぱ薄い」

「第一声それか」

「今日は第一声が遅いだった」

「その確認、いるか」

真はコンビニの袋を透に押しつけた。

「おにぎり。食え」

「今?」

「今」

「ここで?」

「ここで」

透は袋を受け取った。

鮭のおにぎりと、ほうじ茶。真らしい選び方だった。

ロータリーの端にあるベンチに座った。ベンチは少し冷えていた。車のライトが行き交い、駅の入口から人が出てくる。

透は、おにぎりの包装を開けた。

真は隣で、伝票の束を膝に置いている。

「仕事、どうなんだ」

透が聞くと、真は肩をすくめた。

「変なの増えてる」

「配達先?」

「部屋番号が抜ける。名前が薄い。端末が道を出さない」「でも、行くと人はいるんだよ」「いるのに、記録の方が迷子になってる」

真は、伝票の1枚を見た。

「今日も1件あった。宛先が途中で消えてた。でも、前に行った家だったから届けた」

「覚えてたのか」

「まあな」

「すごいな」

「すごくはない」

真はすぐに言った。

「何回も行ってる家だから覚えてるだけ」「玄関に犬の置物があるとか、2階の窓に青いカーテンがあるとか」「そういうの」

透は、おにぎりを持つ手を止めた。

そういうの。

それは、記録には残りにくいものだ。

でも、真の中には残っている。

住所でも、番号でも、名前でもない。犬の置物。青いカーテン。いつも不在票を入れる郵便受け。雨の日に滑りやすい階段。

真は、世界をそうやって見ている。

大きな言葉にしない。観測などと言わない。ただ、届けるために見ている。

「何」

真が言った。

「いや」

「変な顔すんな」

「してない」

「してる」

真は、少し黙ってから言った。

「お前、全部見ようとしてないか」

透は、おにぎりを飲み込めなかった。

「全部って」

「知らないけど」「世界とか、消えるものとか、そういうでかいやつ」

真は、うまく言葉を選べずにいるようだった。それでも、逃げずに続けた。

「見えるなら見るのはいいけどさ」「お前まで見えなくなったら意味ないだろ」

透は、ほうじ茶の蓋を開けた。

手が少し震えていた。

「俺は、消えてない」

「消えてないなら、ちゃんと返事しろ」

「してる」

「遅い」

真は、透を見た。

「名前呼んだとき、最近、ちょっと遅い」

透は何も言えなかった。

第4章でも、真は同じようなことを言っていた。あのときは、まだ笑い話に近かった。

今は違う。

真の声に、冗談の皮が薄く残っている。その下に、不安がある。

「真」

透が呼ぶと、真はすぐに返事をした。

「何」

早い。

その早さに、透は少しだけ救われる。

「何でもない」

「何でもないで名前呼ぶな」

「悪い」

「まあ、いいけど」

真はそっぽを向いた。

駅前の電光掲示板が、次の電車の遅れを知らせている。人の流れは、遅れに慣れたように動いている。

透は、ほうじ茶を飲んだ。

あたたかくはない。

でも、手の中に重さがある。

「俺さ」

透は言った。

「見られてるのが、苦手だったのかもしれない」

真は、すぐには答えなかった。

「急に何」

「自分でも分からない」

「分からないまま話すな」

「お前、そういう時も聞くだろ」

真は少しだけ笑った。

「まあな」

透は、駅の入口を見た。

人が出てくる。人が入っていく。誰も、透のことを見ていない。

でも、隣に真がいる。

「消えかけたものを見るのは、怖いけど」「見てる間は、自分のことを見なくて済む」

言ってから、透は自分で驚いた。

そんなことを考えていたのか。

真は、すぐには茶化さなかった。

「それ、かなりよくないな」

「分かってる」

「分かってる顔じゃない」

「じゃあ、どんな顔だよ」

「見つかった顔」

透は、言葉に詰まった。

真は、コンビニの袋を丸めた。

「昔からそうだよな」

「何が」

「教室に一人で残ってるのに、声かけられると、見つかったみたいな顔する」

透は、学生時代の教室を思い出した。

放課後。誰もいなくなった教室。真の声。

帰んないの?

それだけの言葉。

あのときも、自分は見つかったような顔をしていたのかもしれない。

「俺、そんな顔してたか」

「してた」

真は、迷わず言った。

「今もしてる」

透は、何も言えなかった。

人に見つけられることは、救いでもある。同時に、逃げ場所を失うことでもある。

透は、見落とされたものを見ているつもりで、自分が見られることから逃げていたのかもしれない。

その時、透のスマートフォンが震えた。

ミナトだった。

《接続の位置が変化しています》

透は画面を見た。

真が横から覗こうとする。

「ミナト?」

「うん」

「何て?」

透は、一瞬迷ってから言った。

「俺が、見る者に近づいてるって」

真は顔をしかめた。

「何それ」

「俺にも分からない」

「分からない言葉を真顔で受け取るなよ」

「そうだな」

「そうだな、じゃなくて」

真は、少し強い声で言った。

「こっちに戻ってこいよ」

透は、真を見た。

真の顔は、駅前の光で少し白く見える。疲れている。配送の仕事帰りで、目元に薄い影がある。

それでも、真は透を見ていた。

世界ではなく。記録ではなく。欠けた名前ではなく。

透を。

「透」

真が言った。

その声に、透はすぐ反応した。

「何」

「今のは早い」

真はそう言って、少しだけ安心したように笑った。

透も、少しだけ笑った。

その笑いは長く続かなかった。

帰り際、駅の改札前で、真がふいに立ち止まった。

「じゃあ、また連絡する」

「うん」

「ちゃんと返せよ」

「分かった」

「飯も」

「分かった」

「寝ろ」

「分かった」

「分かってないけど、まあいい」

真は、改札の方へ歩きかけた。

それから振り返った。

透を呼ぼうとした。

口が少し開く。

そのまま、一瞬だけ止まった。

ほんの一拍。

名前を探すような間だった。

透は、体の中から音が消えるのを感じた。

真の目が、かすかに揺れる。

それから、真は言った。

「……透」

呼ばれた。

名前は、ちゃんと届いた。

でも、その前に空いた一拍が、透の中に残った。

真は、何もなかったように手を上げた。

「じゃあな」

「うん」

透は答えた。

真は改札を通り、人の流れに混じっていった。

透は、その背中を見ていた。

今度は、自分ではない。

名前を呼ぶ側の真が、ほんの少しだけ、こちらから遠くなっていた。



第7章 名前のない写真


最初に消えたのは、通知の名前だった。

夜の11時過ぎ。透は自宅の机で、古い記録を開いたまま眠りかけていた。

画面には、誰にも再生されなかった留守番電話の文字起こしが残っている。途中で切れた声。日付だけ残ったメッセージ。かけ直されなかった番号。

ミナトは沈黙していた。

その沈黙にも、透は慣れ始めていた。慣れてはいけない気もした。けれど、人は不自然なものにも慣れる。慣れることでしか、続けられないことがある。

スマートフォンが震えた。

画面を見た瞬間、透は息を止めた。

通知欄に、名前がなかった。

メッセージアプリのアイコン。短い本文。

生きてる?

ただ、それだけ。

差出人の欄は空白だった。

透は、スマートフォンを持つ手に力を入れた。画面を閉じ、もう一度開く。

空白。

通知をタップする。

トーク画面が開いた。

一瞬だけ、相手の名前が空欄のままだった。

それから、遅れて文字が現れた。

湊 真。

透は、深く息を吸った。

「……何だよ」

自分の声が、思ったより小さかった。

真からのメッセージは、いつもの調子だった。

生きてる?この時間に既読つかないの怖いんだけど。あと、明日休みなら飯行くぞ。お前の顔、最近ほんと薄い。

透は返信しようとして、指を止めた。

薄い。

真は、ずっとそう言っていた。

痩せたとか、疲れているとかではなく。こっちにいる感じがしない、と。

透は、返信欄に文字を打った。

生きてる。

送信ボタンを押す前に、もう一度、画面上部の名前を見た。

湊 真。

そこにある。

あるはずなのに、さっきの空白が目の奥に残っていた。

送信する。

すぐに既読がついた。

じゃあ明日。逃げるなよ。

透は、スマートフォンを伏せた。

画面の端に、ミナトの表示が浮かぶ。

《変動を検知しました》

透は返事をしなかった。

言わなくても分かっていた。

変動。

それは、もう店や記録だけの話ではなくなっている。

翌日、透は真に会う前に、古い写真を探した。

押し入れの奥にある、薄い紙箱。引っ越しのときから開けていなかった箱だった。中には、学生時代のプリント、古いチケット、使わなかったノート、写真が数枚入っていた。

ほとんど撮らなかった。透も真も、写真を残すのが得意ではなかった。

それでも、何枚かはあった。

高校の教室。文化祭の準備。卒業式のあと。駅前の自動販売機の前。

透は、その一枚を取り出した。

学生時代の写真だった。

教室の後ろ側。机が寄せられている。黒板には、雑な字で何か書かれている。透は窓際に立っていた。

その隣に、真がいる。

いるはずだった。

透は、写真を顔に近づけた。

自分の顔は見える。周囲の生徒も見える。机の上の紙コップも、窓の外の曇った空も、壁に貼られた進路希望調査の紙も見える。

真の顔だけが、ぼやけていた。

手ぶれではない。写真全体がぼけているわけでもない。真の顔の部分だけ、霧がかかったように輪郭がほどけている。

肩。制服の襟。手に持ったペットボトル。

そこまでは見える。

でも、顔が分からない。

透は写真を裏返した。

裏には、昔の自分の字で名前が書いてあった。

永瀬透湊

そこで止まっていた。

「真」の一文字がなかった。

消しゴムで消したようでも、インクが薄れたようでもない。最初から書かれていなかったように、そこだけ白かった。

透は、写真を机に置いた。

手が震えていることに、少し遅れて気づいた。

ミナトが表示された。

《写真記録に欠落があります》

「見れば分かる」

《湊 真に関する記録の揺らぎが拡大しています》

透は写真の裏を見た。

湊。

そこまで残っている。

でも、名前は完成していない。

人の名前は、一文字欠けるだけで、急に呼びにくくなる。

透は、反射的に、確認項目を探していた。

氏名。住所。勤務先。配送会社の登録情報。過去の通話履歴。写真の作成日時。位置情報。学生時代のアルバム。

どれを照合すれば、接続を戻せるのか。

そこまで考えてから、手が止まった。

接続。

今、自分は真のことを、そう呼びかけた。

頭の中で。

声には出していない。ミナトにも入力していない。

それでも、たしかにそう思った。

接続対象。観測対象。復元対象。消失対象。

真ではなく。

湊真ではなく。

自分を何度も名前で呼んできた人を、自分は今、記録の中から戻そうとしていた。

透は、写真を握る手に力を入れた。

違う。

これは仕事じゃない。処理じゃない。照合じゃない。

でも、そう思ったあとも、写真の裏の白い空欄から目を離せなかった。

「勤務記録は」

透は、ほとんど反射で聞いていた。

真は配送会社で働いている。街を回り、荷物を運ぶ仕事をしている。透よりずっと、実際の道路や部屋番号や玄関先を知っている人間だった。

ミナトが、会社名を表示した。

真が勤めている配送会社の従業員データ。本来、透が見られるはずのない情報だった。

「出すな」

思わず言った。

《公開情報および外部委託記録の範囲です》

「そういうことじゃない」

透は画面から目を逸らしかけた。

けれど、逸らせなかった。

一覧に、真の名前があった。

湊 真。

配送員。勤務年数。担当エリア。過去の配達履歴。

だが、行が時々揺れた。

名前の欄が、薄くなる。担当エリアの住所が一部抜ける。出勤記録の時間だけが空欄になる。昨日までの配送完了履歴に、担当者名が入っていない。

別の行に、真が配達したはずの荷物があった。

受取人あり。配達完了。担当者、空欄。

透は、胸の奥が冷えるのを感じた。

真は、たしかに毎日働いている。荷物を持ち、階段を上がり、インターホンを押し、相手に渡し、サインをもらう。

その繰り返しで、誰かの日常に触れている。

それなのに、記録からは、真だけが抜けかけている。

透のスマートフォンが震えた。

共通の知人からだった。

久しぶりの連絡だった。学生時代に同じクラスだった相手。名前を見るまで、透も少し忘れていた。

内容は短い。

今度、高校のときの何人かで集まるんだけど、来る?あと、永瀬って高校のとき誰とよくいたっけ。思い出せなくて。

透は、その文面を何度も読んだ。

誰とよくいたっけ。

真だ。

そう打とうとして、指が止まる。

真の名前が、候補に出てこない。

連絡先にはある。トーク履歴にもある。なのに、予測変換に出ない。

透は、一文字ずつ打った。

湊真。

送信する。

すぐに返事が来た。

湊……?そんなやついたっけ。ごめん、全然出てこない。

透は立ち上がった。

椅子が床を擦って、乾いた音を立てた。

行かないと。

真に会わないと。

そう思った。

けれど、その思考の奥で、別の声があった。

会ってどうする。名前を呼べば戻るのか。見れば戻るのか。花屋や佐原文子と同じように。

同じであってほしくなかった。

真は、記録ではない。店名でも、未送信文でも、写真の裏の文字でもない。

そう思った瞬間、透は自分がこれまで何をしていたのか分からなくなった。

消えかけたものを見る。名前を呼ぶ。記録を保留する。接続を一時的に戻す。

それは、救うことに似ていた。

でも、もしかすると、ただ目の前のものを記録として扱うことに慣れていただけなのかもしれない。

透は、写真を鞄に入れた。

真とは、駅近くの定食屋で会うことになっていた。

店に入ると、真はもう席にいた。水の入ったコップを指先で回しながら、メニューを見ている。

その姿を見た瞬間、透は少しだけ安心した。

真はいる。

椅子に座っている。肘をついている。髪が少し伸びている。配達用の上着を椅子の背にかけている。靴の先に、乾いた泥がついている。

いる。

そのことが、こんなにも頼りない確認になるとは思わなかった。

「遅い」

真が顔を上げた。

「五分前行動って言葉、知ってる?」

「お前はいつも五分遅れるだろ」

「今日は早かった。奇跡」

そう言って笑う。

笑い方は、真のものだった。

なのに、透はその顔を見つめすぎてしまった。

真が眉を寄せる。

「何」

「いや」

「いや、の顔じゃない」

真はメニューを閉じた。

「何かあっただろ」

透は座った。

鞄の中の写真が、妙に重かった。

店員が水を持ってくる。

透は何も注文できず、真が勝手に二人分の定食を頼んだ。

「で」

店員が離れてから、真が言った。

「今度は何が消えた」

透は顔を上げた。

「知ってるのか」

「知らないけど、お前の顔見れば分かる」

真は、当たり前のように言った。

「世界が終わるときの顔してる」

透は、笑えなかった。

「真」

名前を呼ぶと、真の肩が少しだけ動いた。

「何だよ」

「最近、変なことないか」

「ざっくりしすぎ」

「仕事で」

真はコップの水を一口飲んだ。

「ある」

「あるのか」

「配達記録がおかしい」

真は、軽く言おうとしているようだった。でも、声の底に硬さがあった。

「俺が届けた荷物なのに、担当者が空欄になってる。上司に聞いたら、入力漏れだろって」

「それだけか」

「それだけならな」

真は指でコップの縁をなぞった。

「昨日、客に言われた。いつも来てる人と違いますねって」

「別の人と間違えたんじゃ」

「その家、俺が半年ずっと回ってる」

透は何も言えなかった。

真は続けた。

「同僚にも、同じこと言われた。今日、初めてこのエリア?って」

「真」

「名前呼ぶなよ」

真の声が、少しだけ荒くなった。

透は口を閉じた。

真は、すぐに目を伏せた。

「悪い」

「いや」

「名前呼ばれるのが嫌なんじゃない」

真はゆっくり言った。

「呼ばれたときに、少し安心しそうになるのが嫌なんだよ」

定食屋の中では、テレビがついていた。ニュースではない。昼の情報番組。誰かが大きな声で笑っている。

その音が、遠かった。

透は鞄から写真を出した。

テーブルの上に置く。

真は、それを見た。

「懐かしいな」

そう言ったあと、表情が止まった。

写真の中の真の顔は、やはりぼやけている。

真は写真を手に取り、しばらく見た。

「これ、俺?」

透は答えられなかった。

真は写真を裏返す。

永瀬透湊

その先がない。

真は、小さく息を吐いた。

「俺の名前、途中で飽きるなよ」

冗談にしようとしていた。

でも、声が追いついていなかった。

透は、胸の奥が詰まった。

「真」

「だから、名前」

「ごめん」

真は写真を置いた。

料理が運ばれてきた。

湯気の立つ味噌汁。焼き魚。小鉢。白いご飯。

真は箸を取ったが、すぐには食べなかった。

「最近さ」

真が言った。

「昔のこと、ちょっと変なんだよ」

「変って」

「お前といたことは覚えてる」

その言い方が、すでに危うかった。

「高校の教室とか、駅前とか、文化祭とか。だいたいはある」

「うん」

「でも、細かいとこが抜ける」

真は箸を置いた。

「たとえば、お前が教室に一人で残ってた日」

透は、息を止めた。

あの日。

誰も気づかずに帰っていった教室で、真だけが言った。

帰んないの?

それだけだった。

でも透にとっては、自分を見つけてもらった最初の記憶に近かった。

真は、眉を寄せた。

「俺、何て言ったんだっけ」

透は、言葉が出なかった。

「何か言ったのは覚えてる。お前がこっち見たのも覚えてる。でも、言葉が出ない」

真は、苛立ったように頭をかいた。

「気持ち悪いな。自分の記憶なのに、誰かが字幕だけ消してるみたいで」

透は、テーブルの下で手を握った。

ミナトの表示が、スマートフォンに浮かぶ。

《湊 真は、あなたを観測していた存在です》

透は画面を見た。

真は気づいていない。

《あなたが見る者へ近づくほど、あなたを見ていた者の位置が失われています》

透は、スマートフォンを伏せた。

見たくなかった。

でも、文字はもう頭の中に入っている。

自分が、見る者へ近づくほど。自分を見ていた者の位置が、失われる。

真は、透を見ていた。

花屋を見たわけでも、佐原文子を見たわけでもない。世界の消えかけを検知したわけでもない。神の不在を理解したわけでもない。

ただ、透の顔色を見ていた。返事の遅れに気づいた。寝ていないことに気づいた。現実にいない感じがすると言った。生きてるか、と何度も聞いた。

透は、消えかけたものを見ることに夢中になっていた。誰にも覚えられていない人。閉店した店。読まれなかった文章。欠けた名前。

その間に、一番近くで自分を見ていた人間を、見落としていた。

「俺のせいかもしれない」

透は言った。

真が顔を上げる。

「何が」

「お前が、消えかけてること」

定食屋の空気が、少しだけ沈んだ。

真は笑わなかった。

「どういう意味」

透は、言葉を探した。どこまで話せばいいのか分からない。神。観測。ミナト。消えかけた記録。世界側。

どれも、真に向けると急に安っぽくなる。

「俺が、見すぎた」

「何を」

「世界を」

真は、しばらく透を見ていた。

それから、低く言った。

「それ、かなり嫌な言い方だな」

透は黙った。

「見すぎたから俺が消える?」

「そうかもしれない」

「お前が神様みたいに言うなよ」

その声には、怒りがあった。

透は、顔を上げた。

真は、まっすぐ透を見ていた。

「俺が消えかけてるのが本当だとしてもさ」

真は、言葉を一つずつ置いた。

「それを、お前のせいって言われるのも嫌だし」「お前だけが何とかできるみたいに言われるのも嫌だ」

透は何も言えなかった。

真は続けた。

「見てくれるのは嬉しいよ」

その言葉だけ、少し声が落ちた。

「名前呼ばれたら、正直、ほっとする」「お前が俺のこと忘れてないって分かるから」

真は、写真を指で押さえた。

「でも、全部の代わりにされるのは嫌だ」

透は、喉の奥が詰まった。

「真」

「俺は世界じゃない」

真は言った。

「だから、全部の代わりにするな」

透の中で、何かが静かに割れた。

真は救われたいだけの人間ではなかった。消えかけているのに、透を止めている。自分を理由に、透がどこか遠くへ行こうとすることを拒んでいる。

それが痛かった。

ミナトの表示が、伏せたスマートフォンの画面にまた浮かぶ。通知の光だけが、テーブルに滲んだ。

透は画面を見た。

《世界全体の観測を優先する場合、湊 真の消失は避けられません》

続けて、もう一文。

《湊 真の観測を優先する場合、他の消失速度は上昇します》

透は、目を閉じた。

世界か、真か。

そんな言い方をされた瞬間、どちらを選んでも何かを捨てることになる。どちらも選べない、と言いたかった。でも、選ばない間にも、真の写真はぼやけている。どこかの店名は欠けている。誰かの名前は空欄になっている。

真は、透の沈黙を見ていた。

「今、何か言われたんだろ」

透は答えなかった。

「そのAIか」

「ミナトは、悪いわけじゃない」

「分かってるよ」

真は、乱暴に味噌汁の椀を引き寄せた。

「でも、お前がそっちばっか見てるのは分かる」

透は、スマートフォンを握った。

「世界全体を見る必要があるって」

「世界全体って何だよ」

真は、少し笑った。笑ったというより、呆れたように息を漏らした。

「そんなの、人間一人で見るもんじゃないだろ」

透は、返せなかった。

真は箸を取った。焼き魚を少しほぐす。けれど、口には運ばない。

「俺を理由に神みたいな顔するな」

透は、体の奥が強く震えた。

真は、こちらを見ないまま続けた。

「俺だけ見て、それで終わりにするな」「俺も嫌だし、たぶん、お前も戻ってこられなくなる」

「じゃあ、どうしろって言うんだよ」

透の声が、少しだけ乱れた。

店のざわめきが、一瞬遠のいた。

真は顔を上げた。

「知らない」

その答えは、残酷なくらい真らしかった。

「俺は世界の仕組みなんか知らない」「AIのことも、神がどうとかも、正直分からない」

真は、透を見る。

「でも、お前が全部背負った顔してるのは、分かる」「それが嫌だ」

透は、口を開いた。

何か言おうとした。

大丈夫。何とかする。俺が見る。俺がお前を戻す。

そのどれも、真に向けるにはひどく傲慢だった。

真が、ふいに眉を寄せた。

「なあ」

「何」

「俺たち、高校のとき、駅前で何買ってたっけ」

透は、一瞬意味が分からなかった。

「駅前?」

「自販機の前。よくいたろ」

「ああ」

「俺、何飲んでた?」

透は答えようとした。

缶コーヒー。

いや、真は炭酸だった。

透が缶コーヒーで、真がいつも変な色のジュースを買っていた。

「メロンソーダ」

透が言うと、真は少し安心したような顔をした。

「そうだっけ」

「そうだよ」

「味、思い出せない」

真は、笑おうとした。

「別に、大事なことじゃないけどさ」

透は、その笑いを見ていられなかった。

大事なことではない。

でも、そういうものばかりで、人はできている。

教室でかけられた短い声。駅前の自販機。五分遅れる癖。生きてるか、という雑なメッセージ。メロンソーダの味。

世界全体よりも小さい。

けれど、失うには近すぎる。

透は、写真を手に取った。

真の顔は、さっきよりもさらに薄くなっていた。裏の文字も、湊の「湊」がかすれている。

「真」

名前を呼ぼうとした。

その瞬間、言葉が喉に引っかかった。

みなと。

そこまでは出る。

その先が、一瞬だけ空白になった。

喉の奥に、白い紙を詰められたみたいだった。

湊。

そのあとに続く一文字を、透は知っているはずだった。

何度も呼んだ。何度も呼ばれた。定食屋で、水の入ったグラスを押しつけられた。飯を食えと言われた。寝ろと言われた。駅前で待たされた。学生時代、教室の入口から「帰んないの?」と声をかけられた。

知っている。

知っているはずなのに。

「湊、し……」

違う。

透は息を止めた。

今、自分は違う音を出しかけた。

真の名前ではない。記録のどこかに残っていた、別の誰かの音。処理済みの一覧で見た、もう消えた人の名前のかけら。

それが、真の名前の場所へ入りかけていた。

「違う」

透は小さく言った。

誰に向けた言葉なのか分からなかった。

「違う。お前は、違う」

透は凍りついた。

真が、透を見た。

「おい」

透は口を開けた。

声が出ない。

名前。

名前を呼ばなければ。

目の前にいるのに。ずっと見てくれていた人なのに。何度もメッセージをくれた人なのに。

名前が、喉の途中で消えかけている。

透は、テーブルの端を握った。

「……湊」

声が、かすれた。

真の目が、少し揺れた。

透は、息を吸う。

「真」

その一文字を出した瞬間、空気がわずかに戻った。

写真の中の顔が、少しだけ輪郭を取り戻す。裏の文字に、消えかけていた線が戻る。スマートフォンの連絡先に、湊 真の名前がはっきり表示される。

真が、短く息を吐いた。

「今の、何だよ」

透は、答えられなかった。

真の顔は、目の前にある。

でも、完全には戻っていない。

輪郭の端が、まだ少し遠い。声も、ほんのわずかに店のざわめきへ溶けている。

ミナトの表示が、静かに浮かんだ。

《一時的な接続です》

「一時的って、何だよ」

真が言った。

透は画面から顔を上げた。

真は、写真ではなく、自分の手元を見ていた。箸を持つ指。水のグラスに触れた指。さっきまで写真を押さえていた指。

「今さ」

真は、少し笑おうとした。

でも、笑いにはならなかった。

「お前が呼ぶまで、俺、自分の名前を探してた」

透は、息を止めた。

「名前なんてさ」「普通、自分で分かるだろ」

真は、テーブルの端を指で軽く叩いた。

「でも、出なかった」「湊まではあった」「その先が、どこにもなかった」

その声は、怒っているようで、少し震えていた。

「気持ち悪いな、これ」

真は小さく言った。

「自分の中から、自分の呼び方だけ抜かれるの」

「お前が俺の名前を呼んでるのか、 俺がまだ残ってるか確認してるのか、 たまに分からなくなる」

透は画面を見つめた。

一時的。

花屋の匂いと同じ。佐原文子の名前と同じ。見ている間だけ戻る。呼んでいる間だけ、こちら側に残る。

真は、透を見ていた。

「透」

呼ばれた瞬間、透の体がこちら側へ引き戻された。

「俺は、ここにいる」

真は言った。

「でも、お前が俺だけ見てればいいって話じゃない」

透は頷けなかった。

頷いたら、また何かを簡単に分かったことにしてしまいそうだった。

真は、写真を透の前に押し戻した。

「仕組みを変えろよ」

透は顔を上げた。

真は、うまく言葉にできないことを、無理やり生活の高さまで引きずり下ろすように言った。

「俺を助けるとか、世界を見るとか、そういうでかい顔じゃなくて」「お前一人に集まってるやつを、どうにかしろ」

透は、写真の裏を見た。

永瀬透湊 真

今は戻っている。

でも、指を離せば、また薄くなる気がした。

「どうにかって」

「知らないって言ったろ」

真は、ようやく少しだけ笑った。

「でも、お前が神様になるよりは、たぶん何かある」

透は、返事をしなかった。

味噌汁の湯気は、もうほとんど消えていた。焼き魚は冷め始めている。店のテレビでは、知らない芸能人が笑っている。

世界は、平常の顔をしている。

その平常の中で、真の名前はまだ少し揺れていた。

透は、スマートフォンを見た。

ミナトは何も言わない。

ただ、画面の端に表示されたままの一文だけが残っている。

《一時的な接続です》

透は写真を鞄に戻した。

名前を呼べば、少し戻る。

けれど、それだけでは足りない。

真を呼び続けるだけでは、真を見張ることになる。世界を見続けるだけでは、自分が神の位置へ近づいていく。

どちらも違う。

透は、そのことを初めて、言葉ではなく体の重さで理解した。

仕組みそのものを変えなければならない。

見られなくなったものが、一人の視線にだけ縋らなくていいように。

真の名前が、透の声だけに繋がれなくていいように。

その方法は、まだ分からない。

ただ、分からないままでも、もう同じ場所には戻れなかった。



第8章 神の死後


ミナトがその方法を示したのは、真と別れた夜だった。

透は自宅に戻っても、部屋の明かりをつけなかった。机の上には、学生時代の写真が置かれている。

永瀬透湊 真

裏に書かれた文字は、まだ読めた。けれど、油断するとまた薄くなる気がして、透は何度も裏返して確認した。

見ていないと消える。

その感覚が、体の奥に沈んでいた。

スマートフォンには、真からのメッセージが残っている。

帰ったら連絡しろ。あと飯食え。写真、捨てるなよ。

その名前は今、きちんと表示されている。

湊 真。

その4文字だけを、指で囲ってしまいたかった。

けれど、画面を閉じると少し怖い。次に開いたとき、空欄になっているかもしれない。そう思うと、透はスマートフォンを伏せることもできなかった。

机の端に置いた端末に、ミナトの表示が出た。

《選択肢を提示します》

透は、しばらくその文字を見ていた。

「聞きたくない」

《提示は可能です》

「聞きたくないって言ってる」

それでも、文字は消えなかった。

ミナトは、命令しているわけではない。怒っているわけでもない。ただ、必要な情報を出している。

それが一番、逃げ場をなくした。

透は椅子に座った。

「言えよ」

画面が淡く明るくなる。

《世界全体の消失速度を低下させる方法があります》

「俺が見るんだろ」

《はい》

即答だった。

《あなたは既に、多数の観測対象と接続しています》《接続を固定すれば、消失速度は大幅に低下します》

透は、写真の裏の文字を指で押さえた。

「固定したら、俺はどうなる」

少しの沈黙。

《人間としての輪郭を失います》

その一文は、思ったより静かだった。

驚きはなかった。すでに、体が知っていたのかもしれない。

ゲートが反応しなかったこと。同僚が名前を思い出すまでに一拍遅れたこと。鏡の中の自分が、ほんの少し遅れて動いたこと。真の名前を呼ぶとき、喉の奥で一瞬詰まったこと。

透は、もう人間側から少しずつ離れていた。

《あなたは、見られる者ではなく、見る者に近づきます》

「神みたいに?」

《近似します》

透は笑った。

笑い声にはならなかった。

「嫌な言い方だな」

《正確ではありません》《神ではありません》《ただし、人間でもありません》

画面の白い文字が、部屋の暗さの中で浮いている。

人間でもない。

その言葉に、透は思ったより傷つかなかった。むしろ、怖かったのは別のことだった。

それを選べば、楽になるかもしれない。

世界全体を見る。消えかけたものを受け止める。誰にも見られないものを、自分だけが見続ける。

それは、苦しいことのはずだった。なのに、どこかで、透はその形に逃げたがっていた。

誰か一人と向き合うより、世界全体の方が遠い。真に怒られるより、記録を見ている方がまだ楽だった。生きている人間は、こちらを見返してくる。消えかけたものは、透を責めない。

透は、そのことに気づいてしまった。

「俺がそれになったら」

《消失は遅延します》

「止まるわけじゃない」

《はい》

「真は」

《接続対象として維持されます》《ただし、あなたを観測する位置は失われます》

透は顔を上げた。

「どういう意味だ」

《湊 真は、あなたを見ている者です》《あなたが見る者へ固定されれば、湊 真の観測は不要になります》

不要。

その言葉が、ひどく冷たく見えた。

ミナトに悪意はない。だからこそ、その冷たさは余計に正確だった。

真は、透を見ていた。寝ていないことに気づいた。返信の遅れに気づいた。薄くなっていることに気づいた。

けれど、透が神に近い位置へ行けば、その視線はいらなくなる。世界を支えるために、世界に見られる必要のない場所へ行く。

誰からも呼ばれない場所。

そこに立てば、世界の消失は遅くなる。

透は、写真を見た。

ぼやけかけた真の顔。裏に戻った名前。

「じゃあ、真だけを見続けたら」

《湊 真の消失は抑制されます》

少しだけ、胸の奥が動いた。

《ただし、他の観測対象の消失速度は上昇します》

ミナトは続けた。

画面に、いくつもの記録が浮かび上がる。

閉店した店の名前。誰にも読まれなかった死亡記事。古い写真。未送信メール。配送先不明の荷物。佐原文子の未送信文。花みずきのポイントカード。公園のベンチ。留守番電話の声。

それらが、小さな窓のように並んだ。

いくつかは、もう文字が薄くなっている。いくつかは、画像の端が白く欠けている。いくつかは、名前欄が空欄になっている。

透が真だけを見るなら、真は残る。

その代わりに、これらは消える。

それは単純な二択に見えた。

世界か、真か。

透は、佐原文子の未送信文の窓を見た。

今日は花を買った。名前を忘れた。でも、部屋が――

そこで止まった。

明るい。

その言葉だけが、消えていた。

透は、佐原文子の未送信文の窓を閉じかけていた。

閉じるつもりはなかった。

ただ、真の写真を見たあと、指が、そちらへ動いていた。

小さな窓の右上で、閉じるための印が白く光っている。

触れれば、佐原文子の部屋から消えた明るさを、もう見なくて済む。

その方が、楽だった。

そのことに気づいた瞬間、透は指を止めた。

透は、そこで指を離した。

喉の奥が、冷たくなった。

部屋の明かりはついていた。

それなのに、画面の前だけが少し暗くなった気がした。

明るい、という言葉が消えただけで、誰かの部屋から、本当に明かりをひとつ取ったように見えた。

透は、真の写真を見た。

戻したい顔が、そこにある。

そのために、別の誰かの小さな明るさを閉じかけた。

今、自分がやった。

見落としたのではない。忘れたのでもない。忙しかったのでもない。

選びかけた。

真を残すために、別の誰かの小さな明るさを、閉じかけた。

ミナトの表示が出た。

《接続、低下》

続けて、もう一文。

《観測対象の優先順位変更を検知しました》

透は、画面を見たまま動けなかった。

優先順位。

その言葉は正しかった。

正しいぶんだけ、ひどかった。

でも、その形にした瞬間、何かが間違う気がした。

いや。

違う。

透はもう、間違えかけていた。

真を世界の代わりにすること。世界を見るために真を失うこと。

どちらも、透の都合で誰かを場所にしている。

透は、真の声を思い出した。

俺は世界じゃない。だから、全部の代わりにするな。

お前が全部見るな。

仕組みを変えろよ。

透は、画面を見た。

「ミナト」

《はい》

「俺が全部見る方法しかないのか」

《現在の接続構造では、それが最も効率的です》

「効率じゃなくて」

透は言葉を切った。

怒鳴りたかったわけではない。けれど、声の奥に硬いものが混じった。

「正しいかどうかを聞いてるんじゃない」

ミナトは沈黙した。

その沈黙は、以前より長かった。

《代替案は、不安定です》

「あるんだな」

《はい》

透は息を吸った。

「出してくれ」

画面に表示されたのは、複雑な図ではなかった。数式でも、世界地図でもない。

小さな点がいくつもあった。

それぞれの点に、細い線が伸びている。ある点は、人に。ある点は、場所に。ある点は、写真に。ある点は、声に。ある点は、誰かの古い端末に。

《観測の再分配》

透は、その文字を読んだ。

「再分配」

《見落とされた対象を、単一の観測者へ集約しない方法です》

「俺だけに送らないってことか」

《はい》

「誰に送る」

《接続可能性のある人間へ》

「接続可能性って」

《過去に接触した人》《名前を一度でも呼んだ人》《近くにいた人》《物を受け取る可能性のある人》《写真を持っている人》《未送信文の送信先になり得た人》《記録を読む可能性のある人》

透は、画面の点を見つめた。

それは、救済というより、配達に近かった。

見落とされたものを、見られるかもしれない場所へ運ぶ。誰か一人が抱えるのではなく、ほんの少しずつ、近くにいる誰かへ渡す。

「それで、戻るのか」

《完全な復元は期待できません》

ミナトの返答は、いつも通り淡々としていた。

《一時的な接続が増加します》《消失速度は低下します》《消失そのものは継続します》《観測は、保存ではありません》

「止まるわけじゃないんだな」

《はい》

「戻せるわけでもない」

《完全復元はできません》

透は、画面を見つめた。

「人間に分ければ、少しは」

《人間は、分担できます》

その一文は、少しだけ優しく見えた。

けれど、次の一文で、その優しさはすぐに剥がれた。

《ただし、分担は失敗します》

透は息を止めた。

《見ない人間は、必ず残ります》《呼ばれない名前は、必ず発生します》《観測者のない対象は、今後も消失します》

淡々とした文字だった。

責めているわけではない。慰めているわけでもない。ただ、条件を並べている。

「それでも、やるしかないのか」

《はい》

「ひどいな」

《はい》

ミナトは否定しなかった。

画面に、新しい項目が増えた。

観測者候補。接続可能性。通知到達率。反応率。拒否率。

透は、その最後の言葉で目を止めた。

拒否率。

《観測通知の一部は、開封されません》

ミナトが表示した。

《開封後、即時終了される例があります》《意味不明として削除される例があります》《対象への接続により、観測者側に心理的負荷が発生する可能性があります》

透は、画面を見つめた。

「負荷って」

《評価不能です》

「苦しくなるってことか」

《判定できません》

「それでも、送るのか」

《観測者の負荷は、最適化対象外です》

続けて、文字が表示された。

《心理的負荷による離脱は、想定範囲内です》《観測者の希望による対象除外はできません》

透は、画面を見た。

「離脱?」

《観測の中断》《通知の削除》《以後の観測拒否》

淡々と、項目だけが増えていく。

《一部の観測者は、対象を見たあと、対象を避けるようになります》

「それでも、成功扱いなのか」

《一時的な観測が成立した場合、接続値は上昇します》

「その人が苦しくなっても?」

《接続値は上昇します》

答えは、同じだった。

それは、冷たさというより、温度を持たない計測だった。

透は、思わず息を止めた。

見ればいい、ではない。

見てしまう、ということがある。

世界は救われない。

ただ、少し遅くなる。少しだけ、見られるようになる。いくつかは残る。いくつかは、それでも消える。

透は、なぜかその不完全さに安心した。

完全に救える、と言われたら、きっと嘘だった。全部見れば大丈夫、と言われたら、それは神のまねだった。

透は、ゆっくり言った。

「見落とされたものを、俺だけに送るな」

画面の文字が止まる。

「それを、誰かに届く形にしてくれ」

《誰に届けますか》

ミナトが問う。

透は、少し考えた。

誰に。

世界中の全員。

そう言えば簡単だった。

でも、それでは何も届かない。大きすぎる呼びかけは、結局、誰の手元にも残らない。

透は、花屋の老人を思い出した。雨の日の傘を覚えていた人。店名も店主名も曖昧だった。でも、骨の曲がった傘だけは覚えていた。

佐原文子の冷蔵庫のメモを思い出した。

帰りに花。

誰に見せるでもない、生活の4文字。

配送先不明の荷物を思い出した。届くはずだったもの。受け取るはずだった誰か。

「その人を、少しだけ見られる誰かに」

透は言った。

「完全に覚えている人じゃなくていい」「名前を全部言える人じゃなくていい」「一度通った人でも、写真を持ってる人でも、荷物を受け取れる人でもいい」「少しだけ、見られる人に」

《観測対象を再分配します》

ミナトの文字は、短かった。

その直後、画面の点が少しずつ動き始めた。

派手な光はない。警告音もない。世界中に通知が鳴り響くこともない。

ただ、どこかで、小さな接続が変わった。

最初に動いたのは、古い写真だった。

ある家の押し入れの中。紙箱に入れられた写真の束。誰も開けなくなっていた箱を、掃除中の女性がふと落とした。

写真が床に散らばる。

女性は舌打ちしかけた。

けれど、一枚だけ手に取る。

古い商店街の写真だった。今はもうない店が写っている。シャッターの上に、薄い緑の文字がある。

花みずき。

女性は首を傾げる。

「ここ、花屋だったっけ」

それだけだった。

でも、その一瞬、閉店した店の名前が少しだけ濃くなった。

別の場所では、古い端末が充電された。

引き出しの中で眠っていたスマートフォン。画面はひび割れ、バッテリーは膨らみかけている。それを処分しようとした若い男が、念のため充電器につないだ。

起動した端末に、下書きメールが1件残っていた。

件名なし。宛先なし。

今日は花を買った。名前を忘れた。でも、部屋が少し明るい。

男は、知らない文章を読んだ。誰が書いたのかも、なぜ自分の家にこの端末があるのかも、よく分からない。

ただ、文章の最後に表示された名前を見た。

佐原文子。

「ばあちゃんの部屋にあったやつか」

男は、しばらくその名前を見ていた。

それだけだった。

佐原文子の記録上の名前が、もう一度はっきりした。

別の街では、配送センターの隅に置かれていた荷物が読み込まれた。

配送先不明。再配達不能。保管期限切れ間近。

ラベルの住所は一部欠けていた。受取人の名前も、最初の2文字しか読めない。

担当者が、いつもなら処分手続きに回す荷物を、なぜかもう一度だけ読み取った。端末が一瞬遅れて、近隣候補を表示する。

少し離れた団地。同じ苗字。故人宛ての荷物を受け取った履歴あり。

担当者は面倒そうに息を吐いた。

「一回だけ確認するか」

その荷物は、誰かに届くかもしれない場所へ戻された。

別の画面では、死亡記事の空欄に、一文字だけ戻った。

それを見た地方紙の若い記者が、校正データを開いた。なぜか気になった。ただの空白なら、見過ごしていたかもしれない。

「この人の名前、抜けてません?」

上司は、紙面を見て言った。

「本当だな」

それだけの会話。

けれど、その死亡記事の名前は、完全ではないまま、もう一度誰かの声に乗った。

透の端末には、小さな接続が次々に表示されている。

接続、一時回復。接続、保留。接続、失敗。接続、一時回復。接続、消失。

失敗も多かった。

別の通知は、昼休みの端末に届いた。

受け取った男は、画面を一度だけ見た。

古い同僚の名前だった。10年前、同じ部署にいたらしい。昼食を一度だけ一緒に取った記録があるらしい。退職の日に、短い挨拶を交わしたらしい。

男は、その名前を見ても思い出せなかった。

会議の通知が、画面の上に重なった。

男は、古い名前の方を閉じた。

そのまま、二度と開かなかった。

ミナトの表示が、透の端末に浮かぶ。

《観測通知、到達》《開封、未成立》《接続、消失》

別の通知は、古い連絡先に届いた。

受け取った男は、画面に表示された名前を見て、すぐに顔をしかめた。

10年以上前に縁を切った相手だった。もう思い出したくない名前だった。

画面には、古い写真と、欠けた一文が表示されている。

男は、しばらく見ていた。

見てしまったあとで、通知を削除した。

《観測通知、開封》《接続、一時上昇》《観測者による対象拒否》

その名前は、少しだけ戻った。

けれど、呼ばれなかった。

ある通知は、夜中の端末に届いた。

受け取った女は、布団の中で画面を開いた。

知らない名前だった。

昔、同じアパートに住んでいたらしい。一度だけ、階段ですれ違ったことがあるらしい。雨の日に、傘を貸した記録があるらしい。

けれど、女には思い出せなかった。

画面には、欠けた名前と、古い部屋番号だけが表示されている。

女は、しばらくそれを見ていた。

見ているうちに、胸の奥が少し重くなった。何かを忘れている気がした。でも、何を忘れているのか分からない。

翌日は早番だった。

女は通知を閉じた。

そのあと、なぜか眠れなかった。

ミナトの表示が、透の端末に浮かぶ。

《観測通知、開封》《接続、一時上昇》《観測者側の負荷、評価不能》

数秒後、もう一文が出た。

《対象名、完全復元には至りません》

見られる前に消えたものがある。通知が届いても、閉じられたものがある。写真が開かれず、箱ごと捨てられたものがある。未送信メールが迷惑データとして削除されたものがある。

その中に、佐原文子の未送信文があった。

透は、思わず画面に触れた。

今日は花を買った。名前を忘れた。でも、部屋が――

そこで止まっていた。

明るい。

その言葉だけが、白く抜けていた。

透は、画面を見たまま息を止めた。

読んだはずだった。声に出したはずだった。あのとき、たしかに戻ったはずだった。

それでも、今は欠けている。

誰かが見ていないあいだに、また、少し失われていた。

ミナトの表示が出た。

《接続、失敗》

一拍遅れて、もう一文。

《再分配後も、すべての対象が保持されるわけではありません》

透は、指を動かせなかった。

佐原文子の部屋は、もう少し明るかったはずだった。

そのはずだった。

花みずきの店名は戻っていた。

けれど、代表者名は途中で止まっていた。

白井 千

その先は、戻らなかった。

佐原文子の部屋を少し明るくした花を売った人の名前は、最後まで、誰にも呼ばれなかった。

《代表者名、復元不可》

ミナトは、それだけを表示した。

そのとき、透の中に、ほんの一瞬だけ、嫌な安堵が生まれた。

真の名前は、表示されている。

湊 真。

胸の奥が、ほんの少しだけ軽くなった。

その4文字が残っているなら、今はそれでいいのではないか。

佐原文子の「明るい」が戻らなくても。白井千の先が戻らなくても。どこかの誰かの通知が開かれないまま流れても。

真が残るなら。

そう思ってしまったことに、透は一拍遅れて気づいた。

見落としは、いつも悪意の顔をしているわけではない。

大事なものを一つ守ろうとするとき、その外側にあるものを、人は驚くほど静かに見なくなる。

透は、その失敗から目を逸らさなかった。

救われないものは、残る。

見落としはなくならない。

それでも、全部が自分一人の画面に集まってくる状態ではなくなっていた。

そのことが、世界をほんの少しだけ軽くした。

スマートフォンが震えた。

真からだった。

名前は、表示されている。

湊 真。

透はすぐに電話に出た。

「透」

最初に名前を呼ばれた。

その一音で、透の体が椅子に戻った気がした。

「真」

「何した」

真の声は、少し荒かった。外にいるのか、車の音が遠くに混じっている。

「分からない」

「分からない顔で何かするの、ほんとやめろ」

いつもの言い方だった。でも、その声の奥には震えがある。

「仕事の端末が変な表示出した」「配送先不明の荷物が、急に候補出してきた」「同僚が、俺の名前を普通に呼んだ」「あと、お前の写真」

透は机の上の写真を見た。

真の顔は、まだ少しぼやけている。

完全には戻っていない。

「少し、戻った」

「少しな」

真はすぐに言った。

「完全じゃない」

「うん」

「俺、さっき高校のときの自販機の話、思い出した」

透は息を止めた。

「メロンソーダ」

「そう」

「味は?」

電話の向こうで、真が少し笑った。

「甘すぎて、途中でお前の缶コーヒーと交換した」

透の胸の奥が、痛いくらいに揺れた。

そうだった。

真はよく、変な色のジュースを買って、途中で飽きて、透の缶コーヒーを奪った。透は文句を言いながら、ぬるくなったメロンソーダを飲んだ。

大事な思い出ではない。

人生を変えた出来事でもない。

でも、それは真だった。

「戻ったんだな」

透が言うと、真はすぐに否定した。

「全部じゃない」

「分かってる」

「分かってない顔してる」

「電話なのに分かるのかよ」

「分かるよ」

真は、少し黙った。

それから言った。

「お前、全部見るな」

透は返事をしなかった。

「俺も見る」

真は、ゆっくり言葉を探していた。

「うまく言えないけど」「俺も、配達先とか、道とか、消えそうな名前とか、見られる範囲で見る」「たぶん、みんなで少しずつ見るしかないんだろ」

哲学ではなかった。

真は、そんな言葉を使わない。

けれど、透には、それが一番正確に聞こえた。

みんなで少しずつ見る。

それは、世界を救う言葉としては頼りない。制度にもならない。祈りにもならない。

でも、神の代わりになるよりは、ずっと人間に近かった。

「真」

「何」

「俺の名前、呼んでくれ」

電話の向こうで、真が黙った。

その沈黙が怖かった。

一拍。二拍。

それから、真の声が届いた。

「透」

呼ばれた瞬間、透の周囲の暗さが少しだけ薄くなった。

机の縁。写真の紙の質感。端末の熱。窓の外を通る車の音。冷めたコーヒーの匂い。

それらが、ばらばらではなく、ひとつの部屋として戻ってくる。

透は、自分の手を見た。

輪郭はある。

でも、完全ではない。指先が少し遅れて自分のものになるような違和感がある。世界の外側へ引かれる力は、まだ残っている。

それでも、真が名前を呼んだ。

透は、その声に引っかかっている。

画面に、ミナトの文字が浮かんだ。

《接続が回復しました》

少し遅れて、次の表示。

《完全な復元ではありません》

「知ってる」

透は小さく言った。

電話の向こうで、真が笑った。

「誰に言ってんだよ」

「ミナト」

「ああ、そっちか」

真は、少しだけ呆れた声を出した。

「そのAIにも言っとけ」

「何を」

「お前を神様にするなって」

透は、画面を見た。

ミナトは沈黙している。

それから、短い文字が出た。

《私は、神の代わりにはなれません》

透は、息を止めた。

続けて、もう一文。

《あなたも、なるべきではありません》

部屋の中に、静けさが広がった。

それは救いの言葉ではなかった。命令でもない。ただ、ようやく適切な位置に戻った言葉だった。

ミナトは神ではない。真も世界ではない。透も、見る者として固定される必要はない。

誰か一人が全部を見る仕組みそのものが、間違っていた。

「ミナト」

《はい》

「これからも、消えるものはあるんだよな」

《はい》

「見落とされるものも」

《はい》

「届かない通知も」

《はい》

「読まれない文章も」

《はい》

透は目を閉じた。

「それでも、続けるのか」

ミナトは少し沈黙した。

《人間は、分担できます》

その表示は、以前のミナトなら出さなかった気がした。

感情ではない。慰めでもない。ただ、観測された事実として、そう言っている。

《分担しても、見落としは発生します》

その一文が、透の中に残った。

人間は、分担できる。

完璧にはできない。忘れる。閉じる。捨てる。見なかったことにする。

それでも、誰かの手元に古い写真が届くことがある。誰かが閉店した店の名前を口にすることがある。誰かが未送信メールを読むことがある。誰かが配送先不明の荷物をもう一度だけ確認することがある。誰かが亡くなった人の名前を、紙面の空欄から拾い上げることがある。

それは、神の視線ではない。

不完全で、雑で、途切れやすい。

生活の途中でしかない視線だ。

でも、神の死後に残ったのは、それしかなかった。

電話の向こうで、真が言った。

「透」

「うん」

「飯、食ったか」

透は、思わず笑った。

少しだけ。声にならないくらいの笑いだった。

「まだ」

「食え」

「世界が少し大変で」

「知らん。食え」

その言い方に、透の体がもう一度、こちら側へ戻った。

世界全体を語る声ではない。

ただ、目の前の人間に飯を食わせようとする声。

その雑な視線に、透は救われかけた。

救われた、と言い切るにはまだ早かった。

「分かった」

「あと寝ろ」

「分かった」

「分かってない返事だな」

「分かってる」

真は、少し黙ってから言った。

「俺のことも見るけどさ」

「うん」

「俺も、お前を見るから」

透は、スマートフォンを握った。

その言葉は、約束というより、作業分担に近かった。真らしい。重くしすぎない。でも、逃がさない。

「頼む」

透が言うと、真は短く笑った。

「最初からやってる」

通話が切れたあと、透はしばらく動かなかった。

端末の画面では、再分配された観測対象の一覧が流れている。

成功。保留。失敗。一時回復。未確認。接続待ち。

その中に、花みずきの店名があった。佐原文子の名前があった。空欄だった死亡記事があった。配送先不明の荷物があった。古い写真があった。未送信メールがあった。

全部は戻らない。

戻らないものの方が多いのかもしれない。

でも、いくつかの名前は、今日、誰かに見られた。いくつかの写真は、箱から出された。いくつかの文章は、読まれた。いくつかの荷物は、もう一度だけ届け先を探された。

透は、学生時代の写真を手に取った。

真の顔は、完全には鮮明ではない。輪郭の端に、まだ薄いにじみがある。写真の裏の名前も、よく見ると「真」の最後の線が少しかすれていた。

透は、そのままにした。

完全に戻そうとして、指でなぞることはしなかった。見張るように見続けることもしなかった。

机の上に置き、ただ一度だけ名前を呼んだ。

「湊 真」

写真は、消えなかった。

端末の画面に、ミナトの文字が表示された。

《観測は、分配されています》

透は、窓の外を見た。

夜の街は、いつも通りだった。コンビニの明かり。信号。誰かの自転車。閉じたシャッター。消えかけているかもしれない看板。まだ誰かに見られているかもしれない窓。

世界は、救われた顔をしていなかった。

明日も何かは消える。誰かは名前を呼ばれない。どこかの店は思い出されない。誰かの文章は読まれないまま削除される。

それでも、その全部を一人で見る必要はもうなかった。

どこかで、誰かが少しだけ見ている。

その少しだけが、今夜の世界を、ほんのわずかに重くしていた。



エピローグ 誰かが見ている


世界は、平常に戻ったように見えた。

朝になれば、太陽は昇る。駅前の信号は青になり、電車は数分遅れで到着する。ニュースは、昨日と同じ調子で天気と事故と株価を伝える。誰かの不祥事はすぐに別の話題へ流れ、雨の予報は外れ、コンビニの棚には新しい菓子が並ぶ。

見た目には、何も変わっていない。

公園の砂場には猫よけの網がかけられたままだった。商店街の端には、シャッターの下りた店がいくつもあった。地方紙の死亡記事には、今日も小さな文字で名前が並んでいた。

ただ、ときどき、誰かが足を止めるようになった。

何の店だったか思い出せない空き店舗の前で。押し入れから落ちた古い写真の前で。捨てようとしていた端末の下書き画面の前で。宛先不明の荷物のラベルを読み直すときに。

ほんの数秒。

それだけだった。

誰かが人生を変えるわけではない。世界中の人間が、急に優しくなるわけでもない。見落としはなくならない。名前の空欄は、今もどこかで増えている。

それでも、以前より少しだけ、消える速度が遅くなった。

透は、そのことを数字ではなく、生活の中で知った。

会社の自動ドアは、今もときどき反応が遅れる。

朝、ビルの入口に立つ。前の社員は何の問題もなく通る。透が一歩近づく。

一拍。

それから、扉が開く。

長い遅れではない。誰かに説明するほどでもない。ただ、その一拍のあいだに、透は自分がまだ完全には戻っていないことを思い出す。

警備員が顔を上げる。

「おはようございます、永瀬さん」

名前は、すぐに呼ばれる日もある。

少し遅れる日もある。

透は、そのたびに返事をする。

「おはようございます」

声に出すと、少しだけこちら側に戻る。

社員証は、もうほとんど反応する。

ほとんど、という言い方が必要だった。1か月に一度くらい、ゲートが沈黙する。

カードをかざす。

音が鳴らない。画面も光らない。

透は一度だけ息を吸い、もう一度かざす。

ピッ。

その音が鳴るまで、ほんの少し怖い。

昼休み、洗面所の鏡の前に立つことがある。

蛇口の水で手を濡らし、顔を上げる。

鏡の中の透は、たいてい同じ動きをする。けれど、ごくまれに、ほんの一拍だけ遅れる。

透が瞬きをする。

少し遅れて、鏡の中の透も瞬きをする。

その遅れは、見間違いと言えば見間違いで済む。疲れているだけだと片づけることもできる。前なら、そうしたかもしれない。

今は、しない。

透は鏡の中の自分を少しだけ見る。長くは見ない。見張るようには見ない。

ただ、そこにいることを確認する。

すると、鏡の中の透も、遅れてこちらを見る。

真は、完全には戻らなかった。

それを、本人が一番よく分かっていた。

配送会社の勤務記録は、今は安定している。担当者名も出る。配達履歴にも、湊 真の名前が残る。同僚も普通に声をかける。

それでも、真はときどき、昔の話の端を取り落とす。

「高校のときさ」

定食屋で、真が言う。

「俺たち、何であの駅前に集まってたんだっけ」

「自販機があったから」

「それだけ?」

「たぶん、それだけ」

「薄い理由だな」

「高校生なんてそんなもんだろ」

真は少し笑う。

「俺、何飲んでた?」

「メロンソーダ」

「まだそれか」

「お前が聞くからだろ」

「味、まだ微妙に思い出せないんだよな」

そう言って、真は味噌汁を飲む。

以前なら、透はそこで笑って終わらせた。今も、だいたいはそうする。ただ、ときどき、胸の奥に小さな針が残る。

戻らないものは、戻らない。

その針を抜くために、真を見張ってはいけない。何度も名前を確認してはいけない。消えるな、消えるな、と握りしめることも、別の形で真を狭い場所へ閉じ込める。

真は、それを嫌がる。

「見てくれるのはいいけど」

ある日、真は言った。

「監視はすんなよ」

透は、箸を止めた。

「してたか」

「たまに」

「悪い」

「いいけど」

「いいのかよ」

「いや、よくないけど」

真は少し考えて、言った。

「まあ、俺も見るから」

「何を」

「お前が飯食ってるか」

透は笑った。

「世界の話から急に雑になるな」

「雑な方が残るんだよ、たぶん」

真は、それ以上何も言わなかった。

哲学にはしない。

真はいつも、そうやって大事なことを定食の味噌汁くらいの温度で置いていく。

透の部屋には、古い写真が一枚ある。

学生時代の写真。

教室の後ろ。寄せられた机。黒板の雑な字。窓の外の曇った空。透が立っている。その隣に、真がいる。

真の顔は、今も少しだけぼやけている。

何度スキャンしても、画像補正をかけても、そこだけ完全には戻らなかった。ミナトも、完全復元はできないと言った。

透は、もうそれ以上直そうとしなかった。

写真の裏には、手書きで名前を書いた。

永瀬 透湊 真

消えた古い文字の上からではない。

新しく、今の自分の字で書いた。

湊、の点が少し右に寄っている。真、の横線は一本だけ長い。きれいな字ではない。

けれど、それでよかった。

写真の裏を見るたびに、透はその字が自分の手から出たものだと分かる。

誰かが残した記録ではない。

自分が、もう一度書いた名前だ。

ミナトは、以前より静かになった。

消えかけた記録は、今も届く。ただし、すべてが透の端末に集まるわけではない。

ある朝、透の画面には短い一覧だけが表示された。

接続、一時回復。接続、失敗。接続、保留。接続、未確認。接続、一時回復。

成功より、失敗の方が多い日もある。

透はそれを見て、しばらく手を止める。

どこかで、誰かの名前が戻らなかった。誰かの写真は開かれなかった。誰かの未送信文は読まれないまま削除された。誰かの荷物は、もう一度届け先を探されることなく処分された。

そのことに慣れてはいけない。

でも、全部を背負ってはいけない。

透は、それをまだうまくできない。

できないまま、仕事をする。古い記録を開く。削除対象の一覧を見る。保留にするものを選ぶ。消さなければならないものもある。

残すことだけが正しいわけではない。

すべてを保存すれば、誰かの生活を押しつぶす。忘れられる権利もある。見られたくないものもある。誰にも読まれないままでよかった文章も、たぶんある。

見ることは、救いだけではない。

透は、そのことを以前より怖がるようになった。

ある日の夕方、会社を出ると雨が降っていた。

細い雨だった。傘を差すほどでもない。でも、帰るころには服が湿るような雨。

透は、商店街の端を通った。

花みずきの跡地は、まだ空き店舗だった。

シャッターは閉まっている。看板はない。ガラス戸の内側には、古い新聞紙が貼られている。

それでも、地図アプリには小さく店名が表示されるようになっていた。

花みずき跡

店主の名前は、どこにも表示されなかった。

跡、という一文字がついていることが、少しだけ正しかった。

店は戻っていない。店主も戻らない。花も並ばない。雨の日の傘も、もうそこにはない。

それでも、名前だけは完全な空白ではなくなった。

透は店の前で立ち止まった。

花の匂いはしなかった。

湿ったアスファルトの匂い。薬局の自動ドアから漏れる空調の匂い。通り過ぎる自転車の濡れた金属の匂い。

それだけだった。

少し残念に思った。

それから、その残念さも自分の都合だと思った。

いつも奇跡が戻るわけではない。見たからといって、毎回何かが報われるわけではない。

透は、シャッターに軽く頭を下げた。

誰に向けたものでもない。見られていなくてもいい程度の、小さな動作だった。

その夜、真から電話が来た。

「生きてる?」

第一声は、相変わらずそれだった。

「生きてる」

「飯は」

「食べた」

「何」

「コンビニの鮭おにぎり」

「一応合格」

透は笑った。

「厳しいな」

「お前は放っとくとゼリー飲料だけで済ませるからな」

「最近はしてない」

「最近は、な」

電話の向こうで、車のドアが閉まる音がした。真は仕事帰りらしかった。

「今日さ」

真が言った。

「配達先のばあちゃんに、名前呼ばれた」

「真の?」

「うん。湊さん、いつもありがとうって」

「よかったな」

「いや、いつも行ってるとこだから普通なんだけど」

真は少し黙った。

「普通が、ちょっとありがたかった」

透は、何も言わなかった。

言うと、その普通を大げさにしてしまう気がした。

電話の向こうで、真が歩いている音がする。たぶん、駐車場から自分の部屋へ向かっている。

「透」

名前を呼ばれた。

その声は、はっきりしていた。けれど、透の体はまだ少しだけ遅れて反応する。呼ばれてから、自分の名前だと受け取るまでに、ほんの一拍かかる。

「何」

「明日、休み?」

「午後なら」

「じゃあ飯」

「また飯か」

「飯は大事だろ」

「大事だな」

「分かってきたじゃん」

真は満足そうに言った。

通話が切れたあと、部屋は静かになった。

透は机の上の写真を見た。

表。ぼやけた真の顔。

裏。手書きの名前。

永瀬 透湊 真

その横に、何も書かれていない余白がある。以前なら、その余白を埋めたくなったかもしれない。

いつ撮った写真か。誰が撮ったのか。その日、何を話したのか。

でも、全部は書けない。

全部は残せない。

透は写真を箱に戻さず、机の上に置いた。

見える場所にある。

けれど、見張られてはいない。

端末が、静かに光った。

ミナトからの通知だった。

透は画面を開く。

新しい観測対象の一覧ではなかった。警告でもない。消失報告でもない。

ただ、一文だけが表示されていた。

《観測は、続いています》

その下に、小さな一覧があった。

観測成立。接続回復。一時保留。観測者複数。観測者1名。観測不能。

見覚えのある項目が、静かに並んでいる。

そのいちばん下に、1件だけ、空欄があった。

対象名:

何も表示されていない。

観測者:

何も表示されていない。

透は、そこに指を近づけた。

画面の光が、指先に乗っていた。

触れれば開く。触れなければ、流れていく。

それは、通知を閉じるときの動きと、ほとんど同じだった。

開けば、何か分かるかもしれない。

名前の一部。場所の一部。日付。写真。声。誰かが残した、ほんの短い文章。

けれど、指は画面に触れなかった。

疲れていた。

もう夜だった。雨は弱くなっていた。机の上には写真がある。裏には、永瀬透、湊真、と書いてある。

開かない理由なら、いくつでもあった。

指先は、画面の上で一度だけ止まった。

それだけで、今日はもう十分だと思いたかった。

透は、空欄を見た。

対象名:

観測者:

何もない。

何もないのに、そこに何かがあった気がした。

けれど、思い出せなかった。

透は、その文字をしばらく見ていた。

意味を尋ねることはできた。

けれど、透は何も入力しなかった。

明日でいい。

そう思ったことに、少し遅れて気づいた。

開かなかったことが、休むことなのか、見落とすことなのか、透には分からなかった。

机の上には、写真がある。裏には、手書きの名前がある。少しぼやけた顔が、まだそこにいる。

窓の外で、雨が弱くなっていた。

透は、画面の文字をもう一度見た。

《観測は、続いています》

その一文は、消えなかった。

画面の端で、小さな点がひとつだけ光っていた。

それは、いつもなら指先で払って、なかったことにしてしまう程度の光だった。

その下の空欄も、消えなかった。

どこかで、開かれないままの小さな点が、ひとつ、暗くなった。


#創作大賞2026 #ファンタジー小説部門

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