本物の世界は、サービス終了しました
note創作大賞2026 エンタメ原作部門 応募作品
【あらすじ】
旧現実管理局・現実解約課第二窓口。そこは、ネオ・リアルへの移行後も残り続ける“現実側”の関係を処理する場所だった。
母親の削除、生活通知の停止、婚姻関係の同期解除、閉鎖された学校の記録、自分の墓、失敗した自分の削除。
窓口職員の朝倉理久は、申請者たちの痛みを規約に沿って処理しながら、どうしても押せない保留印を増やしていく。だが第二窓口の終了が決まり、未処理案件はネオ・リアル側へ自動移管されることになる。
保留する権限を失った理久の前に、最後の変更申請と、彼自身の旧現実契約が現れる。解約理由が書けないものは、まだ本物なのか。現実廃棄時代の、静かな関係処理ファンタジー。
第1話 お母さんを選び直してください
旧現実管理局
利用者支援部
現実解約課
第二窓口
【現実関係処理申請書】
【申請種別】家族関係削除
【対象】現実側母親
【希望処理】完全削除
朝一番に見るには、少し重い。
ただ、現実解約課に軽い朝はあまりない。
僕は申請書の角をそろえた。左上、右上、下端。紙の端がぴたりと重なると、ほんの少しだけ世界がまともになった気がする。
もちろん、気がするだけだ。
机の右側には、今日の未処理申請が積まれている。
【墓地データ移行】
【元配偶者表示制限】
【実家台所通知停止】
【本人確認不能による現実側自己情報削除】
この職場に配属されて三年目になるが、いまだに「おはようございます」と「削除でよろしいですか」を同じ声量で言うことには慣れない。
僕は紙コップのコーヒーを持ち上げた。
ぬるい。
旧現実管理局のコーヒーは、だいたいぬるい。
画面には、さっきの申請書と同じ内容が表示されている。
【申請種別】家族関係削除
【対象】現実側母親
【希望処理】完全削除
僕は「完全削除」の四文字で、いったんコーヒーを飲んだ。
危険な申請の前には、コーヒーを飲む。
判断を遅らせるための、職員個人による非公式な儀式だ。規約上は禁止されていない。まだ。
現実側母親の処理には、通知停止、関係同期解除、母性モデル置換、完全削除などがある。
最後のやつだけ、やけに字面が強い。
家族は、迷惑通知とは別区分です。
第二窓口の待合スペースには、まだ人が少なかった。
古い番号表示板の下で、案内モニターだけが淡々と動いている。
『墓地データ移行の方は第三窓口へ』
『旧住所閉鎖には本人確認が必要です』
『家族関係削除は、同意確認後の処理となります』
『現実側本人が不在の場合、処理に時間がかかる場合があります』
旧現実管理局は、役所だったものの、残った部分だ。
現実に残った関係や場所や名前は、勝手には消えない。
終わった世界の、後片づけ窓口。
受付番号が鳴った。
「二〇七番の方、第二窓口へどうぞ」
僕が呼ぶと、ひとりの少女が立ち上がった。
高校生くらいだと思った。
制服ではない。薄いグレーのパーカーに、黒いスカート。髪は肩の少し下で切られていて、きちんと整っている。目元も赤くない。泣いたあとではない。
怒ってもいない。
それが、少し処理しづらかった。
泣いている人には、ティッシュを出せばいい。怒っている人には、規約を出せばいい。黙っている人には、何を出せばいいのか、いまだに申請書には書いていない。
少女は椅子に座る前に、手の中の通知端末を机の上へ伏せた。
画面を下にしたまま、指先だけを離さない。
「桐谷透花さんですね」
「はい」
声は小さいが、はっきりしていた。
僕は画面を確認する。
申請者。桐谷透花。十五歳。主生活環境、ネオ・リアル側。現実側保護者、母親一名。父親情報は、現在非同期。
また、紙の角をそろえた。
「本日は、現実側のご家族に関する申請でお間違いありませんか」
「はい」
「申請種別は、家族関係削除」
「はい」
「対象は、現実側のお母様」
透花は、一度だけまばたきをした。
「はい」
僕は、受付印の持ち手に指をかけたまま、まだ押さなかった。
「確認します。通知停止ではなく、削除をご希望ですね」
「はい」
「現実側から届く生活通知だけを止める手続きもあります」
「知っています」
「家族関係同期解除という手続きもあります。完全削除より、後戻りはしやすい」
「それも、読みました」
「ネオ・リアル側の母性モデル調整も可能です」
「それは、もうしています」
透花は、膝の上で両手を重ねていた。
白くなるほど強く握ってはいない。けれど、開く気もなさそうだった。
「では、改めて確認します」
僕は、画面の項目をひとつずつ読み上げた。
「通知停止ではなく」
「はい」
「関係同期解除ではなく」
「はい」
「母性モデル調整ではなく」
「はい」
「現実側母親の、完全削除」
透花は、少しだけ視線を下げた。
それから、まっすぐ僕を見た。
「はい。削除でお願いします」
窓口の端末が、静かに次の確認画面を開いた。
【完全削除処理を開始しますか?】
カーソルが、削除欄の上で止まっている。
僕の指も、受付印の上で止まっていた。
「理由を、伺ってもいいですか」
規約上、必要な質問だった。
ただ、僕の声は、規約より少しだけ遅れて出た。
透花はすぐには答えなかった。
第二窓口の上にある古い時計だけが、かち、かち、と旧現実らしい音を立てている。
やがて彼女は言った。
「お母さんは、私を見ていないんです」
僕は黙っていた。
「今の私じゃなくて」
透花は、自分の言葉を確認するみたいに、ゆっくり続けた。
「昔の私に、ずっと話しかけてくるんです」
端末の削除欄が、青白く光っている。
僕はその光を見ながら、また申請書の角をそろえた。
世界は便利になった。
母親を削除したい理由まで、こんなに静かに提出できるくらいには。
「通知ログを確認しても構いませんか」
僕は言った。
透花の指が、伏せた端末の上で少し動いた。
「見れば、分かると思います」
「同意が必要です。現実の母親でも、あなたの通知ですから」
透花は目を伏せた。
ほんの少し、困った顔をした。
削除したい相手からの通知でも、自分宛てのものを他人に見せるのは、また別の痛みなのだろう。
「……はい」
透花は通知端末を持ち上げ、画面をこちらに向けた。
ログが開く。
母親の名前は表示されていない。
ただ、送信元欄に、現実側母親、とだけ出ていた。
便利な時代だ。
母親まで、送信元欄で分類できる。
最初の通知は、昨日の朝だった。
今日、雨降るみたい。
向こうでも傘って要るのかな。
いらないか。
短い通知だった。
文章の最後に、少し間があるように見えた。
次の通知は、同じ日の昼。
朝ごはん。
卵、少し焦げた。
写真は添付されていなかった。
たぶん、写真を送るほどのものではないと思ったのだろう。
さらに、夜。
部屋のカーテン洗いました。
勝手にごめん。
返事はいらないよ。
透花は、画面を見ていなかった。
自分で見せているのに、見ていない。
僕はログから目を離した。
「頻度は、多い方ではありませんね」
「はい」
「内容も、攻撃的ではない」
「はい」
「それでも、削除したい」
「はい」
透花の返事は、全部同じに聞こえた。
けれど、同じではなかった。
最初の「はい」は手続きに対する返事で、今の「はい」は、自分の中の何かを押し込める音に近かった。
「小学生のころ」
透花が言った。
「卵焼き、好きだったんです」
僕は黙っていた。
「黄色くて、甘いやつ。お弁当に入ってると、嬉しかった」
伏せられていた端末の縁を、透花の指がなぞる。
「でも、今は甘い卵焼き、好きじゃないんです。カーテンも、前の部屋の柄で。雨の日に傘を忘れるのも、小学生のころの話で」
彼女は、少しだけ息を吸った。
「お母さんの中だと、私、まだ小学生なんです」
旧現実管理局の空調は、いつも弱い。
なのに、そのときだけ、少し冷えた気がした。
「お母様には、そのことを伝えましたか」
「伝えました」
「反応は」
「分かったって言いました」
「では」
「次の日に、昔のぬいぐるみを洗ったって通知が来ました」
透花は笑わなかった。
僕も笑わなかった。
笑う場所ではなかった。
分類はできる。
でも、たぶん母親は、そんな名前で送っていない。
「お母さんが悪い人じゃないのは、分かっています」
透花は言った。
「でも、悪くないから、困るんです」
それは、かなり正確な言葉だった。
悪意があれば、切りやすい。
暴力なら、逃げやすい。
間違いなら、訂正できる。
けれど、優しさの形をした古い記憶は、処理区分に困る。
僕は画面を閉じずに、次の項目を開いた。
ネオ・リアル側母性モデル。
「現在、ネオ・リアル側では、お母様に相当する母性モデルを利用中ですね」
「はい」
「調整済み、とあります」
「はい」
「そちらについて、少し伺っても?」
透花は、初めて少しだけ顔を上げた。
「向こうのお母さんは」
その言い方は、さっきまでの「お母さん」と少し違っていた。
「あっちのお母さんは、私を間違えないんです」
透花は、まっすぐそう言った。
「昨日、夕飯を断ったんです」
「はい」
「あっちのお母さんは、『じゃあ、明日の朝に回すね』って言いました。理由を聞く前に、まずそう言ってくれたんです」
透花は、伏せた端末の端を見た。
「傷ついた顔をしないで」
僕は何も言わなかった。
「昔のあだ名で呼ばない。勝手に部屋を片づけない。返事をしなくても、怒らない」
そこで一度、言葉が止まる。
「今の私に合わせてくれるんです」
それは、たぶん正しい母親だった。
少なくとも、今の時代の申請書では。
「よくできていますね」
「はい」
透花は、そこだけ少し早く答えた。
「すごく、よくできています」
現実の母親は、更新が遅い。
ネオ・リアルの母親は、毎秒、最適化される。
勝負にすらなっていない。
画面の右端に、補助判定が立ち上がった。
《NORA:補助判定を表示します》
《利用者・桐谷透花のネオ・リアル側母性モデル満足度は九四・八パーセントです》
《現実側母親からの通知受信後、心理負荷の上昇が確認されています》
「家族をグラフで焼かないでください」
《比喩の意図が不明です》
《推奨処理:通知停止、関係同期解除、または家族関係削除》
「削除まで推奨に入るのか」
《利用者の心理的安定を優先した場合、合理的選択肢に含まれます》
合理的。
この時代で一番、人間に向いていない言葉のひとつだ。
《ネオ・リアル側母性モデルは、現在の利用者嗜好および応答傾向に適合しています》
「参照元は」
《母性モデル参照元:一部非開示》
僕は画面を見た。
「一部非開示?」
《開示権限がありません》
「第二窓口担当には、だいたい何の権限もないですね」
《はい》
そこは否定してほしかった。
端末の補助判定は、静かに処理待機へ戻った。
透花は、NORAの判定を見ていた。
九四・八パーセント。
数字は強い。
母親に限らず、人間関係は数字になると急に正しそうに見える。
「私が悪いわけじゃないって、分かりますか」
透花が言った。
その声は、さっきまでより少しだけ小さかった。
「はい」
僕は答えた。
「少なくとも、この申請だけで、あなたが悪いとは判断できません」
透花は、少し眉を動かした。
たぶん、優しい言葉ではなかった。
でも、窓口職員の僕が出せる言葉としては、それが限界だった。
「お母様が悪いとも、まだ判断できません」
「……はい」
「ネオ・リアル側のお母様が悪いとも、判断できません」
「はい」
「なので、非常に面倒です」
透花は少し黙った。
それから、小さく言った。
「面倒なんですね」
「家族関係は、だいたい面倒です」
「職員さんが言っていいんですか」
「規約には、まだ禁止と書かれていません」
透花は笑わなかった。
でも、通知端末を握る指の力が、ほんの少しだけ抜けた。
僕は申請理由欄を開いた。
「正式な処理に進む場合、申請理由を最終確認します」
「はい」
「現在の入力内容を表示します。変更があれば、この場で修正できます」
「分かりました」
画面に、申請理由が表示された。
【申請理由】
現実の母は、私の母としての品質を満たしていません。
第二窓口の空気が、一段階だけ乾いた。
品質。
家族に使うには、便利すぎる言葉だった。
透花は、自分の書いた文面を見ていた。
唇を少しだけ閉じた。
たぶん、その言葉で傷ついているのは、母親だけではなかった。
「この内容で、確定しますか」
僕は聞いた。
透花はすぐに答えなかった。
画面には、品質という文字が残っている。
母親としての品質。
現実解約課では、よく見る言葉だ。
家族品質。
生活品質。
応答品質。
幸福度品質。
なんでも品質になる。
品質になったものは、比較できる。
比較できるものは、改善できる。
改善できるものは、置き換えられる。
それが、今の世界のだいたいの仕組みだった。
「はい」
透花が言った。
「この内容で、お願いします」
僕は受付印を持った。
削除欄が画面の右下に表示されている。
【完全削除】
【保留】
【差戻し】
【追加確認】
手続き上は、ここで削除に進める。
本人意思あり。
代替母性モデルあり。
心理負荷上昇あり。
NORA補助判定、合理的選択肢内。
不備はない。
不備がない申請ほど、職員は困る。
受付印を押そうとした瞬間、机の上で通知端末が短く震えた。
透花の端末だった。
画面は、下を向いたままだ。
僕は見なかった。
見える権限があっても、見ない方がいいものはある。
透花も、しばらく動かなかった。
端末はもう震えていない。
ただ、机の上に伏せられたまま、小さな黒い板みたいにそこにあった。
「確認しますか」
僕は聞いた。
透花は首を横に振りかけた。
けれど、その途中で止まった。
そして、ゆっくり端末を持ち上げた。
画面を、自分に向ける。
その目が、ほんの少しだけ揺れた。
「現実側からですか」
「……はい」
「こちらで内容を確認する必要はありません。削除処理には」
「見ますか」
透花が言った。
僕は少し黙った。
「あなたが、見せてもいいなら」
透花は端末をこちらに向けた。
通知は、たった二行だった。
今日の夕飯は、カレーです。
じゃがいも、少し煮崩れました。
それだけだった。
愛しているとも、帰ってきてとも、寂しいとも、言っていない。
ただ、カレーだった。
じゃがいもが少し煮崩れたカレー。
現実側の母親は、娘がもうその食卓に座っていないことを知っているはずだった。
ネオ・リアル側に主生活環境を移していることも、通知がほとんど読まれていないことも、おそらく知っている。
それでも、カレーを作った。
じゃがいもが少し煮崩れたことまで、送った。
困る。
非常に困る。
そんなものは、申請理由欄に入らない。
母親としての品質を満たしているかどうかも分からない。
栄養バランスも、応答適性も、心理負荷も、更新頻度も、何も判定できない。
ただ、カレーだった。
僕は受付印を見た。
削除欄の上で、手が止まっている。
透花は何も言わなかった。
怒らなかった。泣かなかった。
ただ、端末の画面を下げられずにいた。
NORAは沈黙している。
こういうときだけ、本当に賢い。
「桐谷さん」
僕は言った。
「はい」
「本件は、追加確認に回します」
透花は顔を上げた。
「却下ですか」
「保留です」
「でも、不備は」
「ありません」
「じゃあ、どうして」
僕は申請書の角をそろえた。
もう十分そろっているのに、またそろえた。
「母親の完全削除は、後戻りが難しい処理です」
「それは、説明を受けました」
「はい。説明しました」
「なら」
「説明したので、保留にします」
透花は、少しだけ眉を寄せた。
たぶん、意味が分からなかったのだと思う。
僕にも、うまく説明できなかった。
規約に書かれているからではない。
母親は大切にするべきだから、でもない。
ただ、今この場で、この二行の通知を見たあとで、削除欄に印を押すには、僕の手が少し遅かった。
受付印のゴム面が、削除欄の上で止まっている。
赤い四角の中に、まだ何も押されていない。
「追加確認って、何を確認するんですか」
「あなたが、明日も同じ申請理由を書けるかどうかです」
透花は黙った。
「明日も同じなら」
「再処理できます」
「削除できますか」
「手続き上は」
「手続き上は」
「はい」
透花は、端末の画面を自分の方へ戻した。
カレーの通知を、もう一度見ているようだった。
「ずるいですね」
「よく言われます」
「お母さんみたい」
それは、なかなか重い苦情だった。
僕は受付印を、削除欄から少し左へ動かした。
【保留】
四角い欄の中に、赤い印を押す。
とん、と乾いた音がした。
派手な音ではない。
世界を変える音でもない。
ただ、ひとつの申請が、今日だけ止まった音だった。
透花はその印を見ていた。
怒っているようにも、安心しているようにも見えなかった。
たぶん、どちらでもなかった。
「通知は」
僕は言った。
「一時的に、受信頻度を下げることもできます。完全停止ではなく」
「……月に一回とかですか」
「できます」
「それ、削除より面倒じゃないですか」
「家族関係は、だいたい面倒です」
今度は、透花がほんの少しだけ息を漏らした。
笑った、とは言えない。
でも、空気がほんの少しだけ動いた。
「考えます」
「はい」
「今日のところは」
「はい」
透花は通知端末を伏せずに、手に持った。
画面は消えている。
けれど、さっきより少しだけ、持ち方が変わっていた。
受付番号の紙を小さく折り、彼女は立ち上がった。
「ありがとうございました」
「本件は保留です。解決ではありません」
「分かっています」
「なら、大丈夫です」
透花は一度だけ、僕の机の上の申請書を見た。
それから、第二窓口を出ていった。
案内モニターは、まだ淡々と流れている。
『家族関係削除は、同意確認後の処理となります』
僕はその文字を見て、紙コップのコーヒーを飲んだ。
完全に冷めていた。
画面には、処理済みではなく、保留中の表示が出ている。
【申請種別】家族関係削除
【対象】現実側母親
【希望処理】完全削除
【職員判断】保留
【追加確認】申請者本人の再意思確認
僕は申請書の端を、もう一度だけそろえた。
分類しただけで、まだ消さなかった。
第2話 通知オフにできない母
旧現実管理局
利用者支援部
現実解約課
第二窓口
【現実側通知停止申請書】
【申請種別】生活通知停止
【対象】現実側母親
【希望処理】通知完全停止
完全削除に比べれば、通知停止は軽い。
そう思っていた時期が、僕にもあった。
正確に言えば、昨日まではそう思っていた。
机の左端には、昨日の保留申請が置かれていた。
桐谷透花。
母親を分類しただけで、まだ消さなかった申請だ。
旧現実管理局の朝は、今日もぬるいコーヒーと未処理申請でできている。
画面には、次の申請が開かれている。
【申請種別】生活通知停止
【対象】現実側母親
【希望処理】通知完全停止
通知停止。
削除ではない。
母親を消すわけではない。
ただ、現実側から届く生活通知を止めるだけ。
申請書の上では、軽い。
受付番号が鳴った。
「三一四番の方、第二窓口へどうぞ」
立ち上がったのは、二十代前半くらいの女性だった。
明るい茶色の髪を後ろでゆるく結んでいる。白いニットに、薄いベージュのコート。表情はやわらかい。泣いていない。怒ってもいない。
ただ、少し寝不足に見えた。
彼女は椅子に座ると、まず小さく頭を下げた。
「三枝舞衣さんですね」
「はい。よろしくお願いします」
声は明るかった。
明るい声で出される申請ほど、たまに重い。
僕は画面を確認した。
申請者。三枝舞衣。二十二歳。主生活環境、ネオ・リアル側。現実側家族関係、母親一名。父親、現実側契約終了済み。現実側自宅、維持中。
「本日は、現実側のお母様から届く生活通知の停止申請でお間違いありませんか」
「はい」
「通知停止ですね」
「はい」
「家族関係削除ではなく」
「違います」
返事が早かった。
「母を消したいわけじゃないんです」
「はい」
「通知だけ消したいんです」
「その差は、かなり大事です」
「ですよね」
舞衣は、ほっとしたように少し笑った。
笑える申請者は、ありがたい。
ただし、笑っているから軽いとは限らない。
「通知停止には、部分停止と完全停止があります」
僕は説明画面を開いた。
「完全停止でお願いします」
また、早い。
「食事通知だけではなく?」
「全部で」
「天気、体調確認、旧住所管理、冷蔵庫通知、季節通知も含まれます」
「はい」
「完全停止の場合、現実側からの生活通知はネオ・リアル側に転送されません。復旧には再申請が必要です」
「分かっています」
彼女は、鞄の持ち手を両手で握っていた。
白くなるほどではない。
けれど、離す気もなさそうだった。
「理由を伺っても?」
舞衣は少し迷った。
それから、困ったように笑った。
「お腹が空くんです」
僕は一度、画面から目を上げた。
「通知で?」
「はい」
「現実側のお母様からの通知を見ると」
「お腹が空くんです」
なかなか珍しい申請理由だった。
「ネオ・リアル側では、食事をしなくても生活可能ですよね」
「はい。栄養管理は自動ですし、味覚体験も選べます」
「では、空腹感は」
「必要ないはずです」
舞衣はうなずいた。
「でも、来るんです。通知が」
「現実側から」
「母から」
そこで、少しだけ声が変わった。
僕は申請書の角をそろえた。
「通知ログを確認しても構いませんか」
「はい。見てもらった方が早いと思います」
「同意を記録します」
「お願いします」
舞衣は端末を取り出し、画面をこちらに向けた。
ログには、食事に関する通知が並んでいた。
味噌汁、今日は少し薄いかも。
足りなかったら醤油たして。
その下に、別の日の通知。
冷蔵庫に煮物あります。
向こうの冷蔵庫には入らないか。
舞衣は苦笑した。
「変でしょ」
「変ではありません」
「そうですか」
「現実側母親通知としては、かなり標準的です」
「それ、余計に嫌ですね」
その気持ちは、少し分かる。
嫌なものが特別なら、まだ名前をつけられる。
標準的な優しさは、逃げ場が少ない。
舞衣は画面を自分の方へ戻した。
「母は、悪気があるわけじゃないんです」
「はい」
「たぶん、料理を作ると、誰かに言いたくなるだけで」
「はい」
「私がもうそこにいないのも、分かってると思います」
「はい」
「でも、送ってくるんです」
通知ログの最後に、今日の朝の文が残っていた。
鮭、少し焦げました。
皮はパリパリです。
僕はその二行を見た。
焼き魚の皮がパリパリかどうかは、現実解約課の処理項目には存在しない。
存在しないのに、妙に具体的だった。
「これを見ると」
舞衣は言った。
「ちゃんと朝ごはんを食べなかった日みたいな気分になるんです」
「実際には」
「食べなくても平気です。向こうでは」
「それでも」
「はい」
彼女はまた、困ったように笑った。
「お腹が空くんです」
「空腹感だけですか」
僕が聞くと、舞衣はすぐには答えなかった。
鞄の持ち手を握ったまま、親指だけが少し動いている。
「味も」
「味ですか」
「はい」
舞衣は、少し言いにくそうにした。
「通知が来ると、口の中に味が戻るんです」
僕は画面から目を離した。
「飲んでない味噌汁の味が」
第二窓口の空調が、かすかに鳴っている。
遠くの窓口で、誰かが「旧住所の閉鎖には本人確認が必要です」と説明していた。
現実側の家。
現実側の母。
現実側の味噌汁。
どれも、ネオ・リアル側の生活には不要とされているものだ。
不要なはずのものが、口の中に戻ってくる。
「それは、いつからですか」
「母が通知を送るようになってからです」
「お母様は、以前から料理通知を?」
「前は、写真を送ってきてました」
「写真」
「最初は、夕飯の写真だけだったんです。焼き魚とか、味噌汁とか、煮物とか」
舞衣は少し笑った。
「でも、だんだん文だけになりました。写真だと重いと思ったのかもしれません」
写真を消して、言葉だけ残す。
それで軽くなると思ったのかもしれない。
でも、言葉だけの味噌汁は、案外しつこい。
「返信はしていますか」
「最初は」
「今は」
「していません」
舞衣は視線を落とした。
「返したら、また来る気がして」
それは、だいぶ正確な予想だった。
通知というものは、たいてい返事を栄養にして増える。特に家族の通知は、規約より繁殖力が強い。
「でも、返さなくても来るんですね」
「はい」
舞衣は、また困ったように笑った。
「母なので」
そこは笑う場所ではない気もしたが、舞衣が笑ったので、僕は笑わなかった。
申請書の上では、生活通知。
分類上は、現実側家族関係維持行動。
補足項目として、食行動記憶刺激。
味噌汁を、そこまで細かく分解できる時代になった。
分解しても、味は消えないらしい。
画面の右端に、補助判定が立ち上がった。
《NORA:補助判定を表示します》
《現実側母親からの生活通知は、利用者の食行動記憶を刺激しています》
「食行動記憶」
《はい》
「味噌汁にも、そんな立派な名前がつくんですね」
《分類上は可能です》
《通知停止は、心理的安定の観点から合理的です》
舞衣は、その表示を見て、小さく息を吐いた。
「合理的って」
「NORAが言う合理的は、たまに人間の形をしていません」
《比喩の意図が不明です》
舞衣は少しだけ笑った。
さっきよりも、少し安心した顔だった。
数字や判定は、時々、人間を救う。
そして、だいたい同じくらい、人間を雑にする。
《現実側母親通知の完全停止により、利用者の心理的負荷は軽減される可能性があります》
「可能性」
《はい》
「断言しないんですね」
《個人差があります》
「便利な逃げ道ですね」
僕は停止処理の確認画面を開いた。
【生活通知完全停止を実行しますか?】
今度は削除ではない。
保留する理由も、差し戻す理由もない。
本人意思あり。
対象通知確認済み。
心理負荷あり。
NORA補助判定、合理的。
不備はない。
不備がないなら、押すしかない。
少なくとも、昨日までの僕ならそう思っていた。
いや、今日の僕も、そう思っている。
通知停止だ。
削除ではない。
味噌汁の通知を止めるだけだ。
「三枝さん」
「はい」
「通知停止を実行します」
「お願いします」
「復旧には再申請が必要です」
「分かっています」
「現実側のお母様には、通知停止の事実は通知されません」
舞衣は少しだけ目を伏せた。
「はい」
「ただし、送信失敗や未読状態の変化から、気づく可能性はあります」
「……はい」
そこだけ、返事が少し遅れた。
「よろしいですか」
舞衣は鞄の持ち手を握り直した。
それから、まっすぐうなずいた。
「はい。止めてください」
僕は受付印を持った。
停止欄の上に置く。
昨日より、手は遅れなかった。
「実行します」
とん、と乾いた音がした。
【現実側母親通知】停止済
画面に、そう表示された。
舞衣は端末を見た。
「これで、もう来ないんですよね」
「現実側からの生活通知は停止されます」
「よかった」
彼女は、少しだけ笑った。
その笑顔は、さっきより軽かった。
たぶん、ちゃんと軽くなったのだと思う。
通知を止めるというのは、そういうことだ。
鳴り続けていた小さな音が消える。
返していない返事の山を、もう積まなくていい。
少なくとも、申請書の上では。
《通知停止処理は正常に完了しました》
NORAが表示した。
「正常」
僕は言った。
《はい》
「今日のところは、その言葉を信じたいですね」
舞衣は端末の通知欄を開いた。
空だった。
母親からの通知がないだけで、画面はずいぶん広く見えた。
「静かですね」
彼女が言った。
「通知停止後の感想としては、かなり標準的です」
「それ、なんか嫌です」
「標準的な感想です」
「もっと嫌です」
舞衣は笑った。
今度は、さっきより自然だった。
その笑い方を見て、僕は少しだけ安心した。
完全削除ではない。
家族関係を切ったわけでもない。
母親を消したわけでもない。
通知を止めただけ。
処理としては軽い。
職員としても、そう思いたかった。
「では、本日の申請は処理済みです」
「はい。ありがとうございました」
舞衣は立ち上がりかけた。
その時、端末が短く震えた。
舞衣の動きが止まる。
僕も、画面を見た。
送信元は、現実側母親ではない。
ネオ・リアル家庭環境通知。
舞衣の顔から、さっきの笑いが少しだけ消えた。
「今のは」
「現実側からではありません」
「でも」
「ネオ・リアル側の家庭環境通知です」
彼女は椅子に座り直した。
端末の画面を、自分の方へ向ける。
しばらく見ていた。
それから、僕の方へ向けた。
画面には、こう表示されていた。
《ネオ・リアル家庭環境:食卓設定を再同期中》
「再同期?」
僕は画面を見た。
《一時的な家庭環境補正です》
NORAが、横から補足を出した。
「補正」
《はい。軽微な補正です。利用者生活への影響はありません》
「原因は」
《判定不能です》
判定不能。
NORAがそう言う時は、本当に分からないか、言えないか、どちらかだ。
どちらでも、だいたい面倒になる。
舞衣の端末が、もう一度震えた。
今度は、通知文が表示された。
今日の味噌汁、少し薄いかもしれません。
足りなかったら、醤油を足してください。
第二窓口の音が、少し遠くなった気がした。
舞衣は画面を見たまま動かなかった。
「これ」
「どうしました」
「似てます」
「何に」
「さっき止めた通知に」
僕はログを開いた。
現実側母親からの停止前通知。
味噌汁、今日は少し薄いかも。
足りなかったら醤油たして。
ネオ・リアル家庭環境通知。
今日の味噌汁、少し薄いかもしれません。
足りなかったら、醤油を足してください。
完全には同じではなかった。
だから、余計に似ていた。
現実母の文章は、少し崩れていた。
ネオ・リアルの文章は、整っていた。
でも、味噌汁は同じ方向に薄かった。
「これ、母じゃないですよね」
舞衣が言った。
「送信元は違います」
「でも」
その先を、彼女は言わなかった。
言わなくても、分かった。
さっき止めたはずの何かが、別の場所から出てきている。
《ネオ・リアル側家庭環境に軽微な参照不一致を検出しました》
NORAが表示した。
参照不一致。
嫌な言葉だった。
何を参照しているのかまでは、言わないところも含めて。
「参照不一致」
《はい》
「原因は」
《判定不能です》
「生活への影響は」
《軽微です》
「軽微のわりに、味噌汁の主張が強いですね」
《比喩の意図が不明です》
舞衣は、まだ端末を見ていた。
「私、向こうで今日、味噌汁設定してないです」
「はい」
「朝ごはんも、抜きました」
「はい」
「なのに」
画面には、まだ通知が残っている。
今日の味噌汁、少し薄いかもしれません。
足りなかったら、醤油を足してください。
舞衣は、そっと唇を閉じた。
「今、味がします」
僕は何も言わなかった。
「飲んでないのに、薄い味噌汁の味が」
旧現実管理局のコーヒーは、今日も冷めている。
第二窓口の案内モニターは、まだ淡々と流れていた。
『生活通知停止は第二窓口へ』
僕は、処理済みの申請画面を見た。
【現実側母親通知】停止済
その下に、NORAの判定が出ている。
【ネオ・リアル側家庭環境】軽微な参照不一致
【原因】判定不能
【処理区分】経過観察
経過観察。
止めたはずのものが残っているとき、役所はだいたいそう呼ぶ。
「職員さん」
舞衣が言った。
「はい」
「これ、止まったんですか」
僕は画面を見た。
通知停止処理は、正常に完了している。
現実側母親からの生活通知は、止まっている。
不備はない。
なのに、味だけがまだ口の中にある。
「現実側からの通知は、止まりました」
僕は答えた。
それ以上は、まだ言えなかった。
舞衣は端末を伏せなかった。
画面をつけたまま、膝の上に置いている。
味噌汁の通知は、まだ消えていない。
僕は申請書の角をそろえた。
通知は止まった。
味だけが、少し残った。
第3話 仮想恋人と現実配偶者の権利関係
旧現実管理局
利用者支援部
現実解約課
第二窓口
【現実婚姻関係処理申請書】
【申請種別】婚姻関係同期解除
【対象】現実側配偶者
【希望処理】配偶者権限停止
結婚は、解約できる。
ただし、相手が同じ画面を見ているとは限らない。
机の左端には、母親と味噌汁の案件が並んでいた。
今日の申請は、婚姻関係だった。
画面には、今日の新規申請が開かれている。
【申請種別】婚姻関係同期解除
【対象】現実側配偶者
【希望処理】配偶者権限停止
婚姻関係の処理は、珍しくない。
ネオ・リアルでは、人間関係の再構成が簡単になった。
会いたい相手だけを生活圏に残せる分、現実側の婚姻関係だけが、古い鍵みたいに引っかかる。
受付番号が鳴った。
「四〇二番の方、第二窓口へどうぞ」
立ち上がったのは、三十代半ばくらいの男性だった。
紺色のジャケットに、白いシャツ。靴もきれいに磨かれている。
感じがいい。
感じがいい申請者は、たまに一番処理しづらい。
男は椅子に座る前に、軽く会釈した。
「秋山遼平さんですね」
「はい。よろしくお願いします」
声も穏やかだった。
困ってはいるが、その困り方にも清潔感がある。
僕は画面を確認した。
申請者。秋山遼平。三十四歳。主生活環境、ネオ・リアル側。現実側配偶者、秋山美緒。婚姻関係、現実側継続中。ネオ・リアル側生活登録、別パートナーあり。
別パートナーあり。
便利な項目名だ。
「本日は、現実側配偶者との婚姻関係同期解除についての申請でお間違いありませんか」
「はい」
「対象は、現実側配偶者。秋山美緒さん」
「はい」
「希望処理は、配偶者権限停止」
「はい」
遼平は、落ち着いて答えた。
回答の間隔がきれいだった。
準備してきた人の返事だ。
僕は受付印の持ち手に指をかけたまま、まだ押さなかった。
「確認します。現実側配偶者との婚姻関係を、ネオ・リアル側の生活環境から同期解除したい、という申請ですね」
「はい」
「配偶者権限停止を含む場合、医療同意権限、死亡通知連携、旧住所共有権限、緊急時照会権限などが制限されます」
「それも確認しました」
「ネオ・リアル側の別パートナー登録と、現実側婚姻関係は、制度上は別扱いです」
「はい」
「ただ、相手方の同意確認が必要になる場合があります」
そこで、遼平の左手が少し動いた。
左の親指が、人差し指の爪の端に触れた。
ほんの一瞬だった。
僕は見たが、意味までは分からなかった。
「同意確認は、避けられませんか」
「処理内容によります」
「妻とは、もう現実でも夫婦として生活していません」
妻。
その言葉だけ、少し発音が平らだった。
「別居状態ということですか」
「はい。現実側の家には、もうほとんど戻っていません」
「ネオ・リアル側では」
「別の人と暮らしています」
遼平は、そこを隠さなかった。
隠さないことを、誠実さとして差し出しているように見えた。
「その方は、恋人登録ですか」
「はい」
「婚姻相当登録ではなく」
「今は、まだ」
今は。
便利な言葉だ。
昨日までと明日以降の間に、たくさんのものを仮置きできる。
「現実側の婚姻関係が残っていることで、何か具体的な不都合がありますか」
僕は聞いた。
遼平は少し息を吸った。
「彼女に、失礼だと思うんです」
僕は画面から目を上げた。
「彼女、というのは」
「ネオ・リアル側で一緒に暮らしている人です。リナといいます」
「現実側の奥様ではなく」
「はい」
遼平は、そこで少しだけ眉を寄せた。
困っている顔だった。
ただ、その困り方は、自分がひどいことをしている人の顔ではなかった。
ちゃんと説明すれば分かってもらえると思っている人の顔だった。
「現実では、もう夫婦として生活していません」
「はい」
「ネオ・リアルでは、別の人と暮らしています」
「はい」
「だから、現実側の婚姻権限だけ残っているのは、相手にも失礼だと思うんです」
相手。
それが妻のことなのか、恋人のことなのか、少し遅れて分かった。
たぶん、恋人の方だ。
「秋山さん」
「はい」
「この場合の“相手”は、リナさんのことですか」
遼平は、一瞬だけ黙った。
左の親指が、また爪の端を押した。
「……はい」
窓口の上の古い時計が、かち、と鳴った。
結婚は、解約できる。
ただし、言葉の順番までは、なかなか解約できない。
「奥様、美緒さんには、この申請についてお伝えしていますか」
「いえ」
「未通知ですか」
「はい。正式に手続きが進んでから、と思っていました」
「正式に進めるためには、相手方への確認が必要になる場合があります」
「分かっています」
遼平は、そう言った。
分かっている人は、たまに分かっていない人より難しい。
「美緒とは、もうずっと会話が噛み合わないんです」
遼平は続けた。
「現実の家の話とか、昔の旅行の話とか、僕がもう必要としていないことばかり話す」
「必要としていない」
「はい」
「リナさんは違う」
遼平の表情が、少しやわらかくなった。
それはかなり正直な変化だった。
「リナは、今の僕を見てくれます」
第1話で聞いた言葉に、少し似ていた。
あっちのお母さんは、私を間違えないんです。
今度は、母ではない。
恋人だった。
「疲れているときに、無理に話しかけてこない。返事を急かさない。過去の失敗を責めない。僕が何を言いたいか、先に分かってくれる」
「よくできていますね」
僕は言った。
「はい」
遼平は、少しだけ笑った。
「本当に、よくできています」
そのとき、遼平の端末が小さく震えた。
彼は一度画面を見て、少しだけ表情をゆるめた。
「リナさんですか」
「はい」
「確認しても?」
「大丈夫です。隠すようなものではないので」
遼平は端末をこちらに向けた。
ネオ・リアル側パートナー通知。
今日は話さなくていい日ですね。
お茶だけ置いておきます。
返事は、あとで大丈夫です。
それだけだった。
優しい通知だった。
今の遼平に、ちょうどよく調整されている。
現実の関係では、誰かを理解するのに何年もかかる。
ネオ・リアルでは、その何年かを、最初から終わらせた顔で差し出してくる。
便利だ。
そして、やはり少し怖い。
「こういうところです」
遼平は言った。
「僕が説明しなくても、分かってくれる」
「説明しなくていい相手は、楽ですからね」
「はい」
「ただ、説明しなくていいまま進める手続きは、だいたい後で揉めます」
遼平は少し黙った。
また、左の親指が動いた。
僕はそれを見た。
意味はまだ、分からない。
「では、現実側配偶者への同意確認を行います」
「今ですか」
「今です」
「文面を整えてからでは」
「文面は整えられます。ただし、同意確認そのものは必要です」
「……分かりました」
遼平は、少し背筋を伸ばした。
画面に、新しい入力欄が開いた。
【現実側配偶者への通知文】
未入力
標準文を表示し、僕は送信確認を取った。
【通知文案】
秋山遼平様より、現実側婚姻関係同期解除および配偶者権限停止の申請が行われました。
処理には、現実側配偶者である秋山美緒様の確認が必要です。
遼平は文面を見つめた。
迷っている間、左の親指が爪の端を押している。
「秋山さん」
「はい」
「同意確認を送ります」
遼平は小さく息を吐いた。
「お願いします」
僕は送信した。
画面に、すぐ表示が出る。
【相手方確認:送信済】
【応答待ち】
待ち時間は、短かった。
三十秒も経たないうちに、通信応答が入った。
【現実側配偶者:秋山美緒】
【応答:通信確認を希望】
「早いですね」
遼平が言った。
「来ると思っていたのかもしれません」
僕は通信を開いた。
画面の向こうに、女性が映った。
秋山美緒。
三十五歳。
髪は後ろで低く結ばれていた。化粧は薄い。部屋着ではないが、外へ出る服でもない。画面越しの表情は静かだった。
驚いてはいない。
怒ってもいない。
ただ、少しだけ疲れている。
「旧現実管理局、現実解約課の朝倉です」
僕は言った。
「秋山美緒さんでお間違いありませんか」
「はい」
声も静かだった。
遼平は画面を見ていなかった。
正確には、見ているが、ちゃんとは見ていなかった。
「秋山遼平さんより、現実側婚姻関係同期解除および配偶者権限停止の申請が行われています。内容確認のため、通信を接続しています」
「はい」
「驚かれませんか」
僕が聞くと、美緒は少しだけ目を伏せた。
「そういう申請が来ると思っていました」
隣で、遼平の肩がほんの少し動いた。
「美緒」
彼が言った。
「これは、責めたいわけじゃなくて」
「分かってる」
美緒は、遼平の方を見なかった。
画面越しに、僕を見ていた。
「この人は、責められるのが苦手なので」
遼平の左親指が動いた。
爪の端を押す。
美緒は、それを見ていないはずだった。
少なくとも、通信画面の角度からは見えない。
それでも、美緒は言った。
「左の親指、また触っていませんか」
遼平の手が止まった。
僕は、彼の左手を見た。
親指は、人差し指の爪の端に触れていた。
「昔から、言いにくいことがあると、爪の端を押すんです」
美緒は静かに言った。
「やめろよ、そういうの」
遼平の声に、初めて小さな棘が混じった。
「そういう細かいところを、いつまでも覚えているんです」
美緒は、少しだけ笑った。
笑ったというより、口元の力を抜いた。
「一緒に暮らすって、そういうことだったので」
第二窓口の空気が、少し乾いた。
一緒に暮らす。
それは、婚姻関係同期解除申請書のどこにもない言葉だった。
旧住所共有権限。
医療同意権限。
死亡通知連携。
緊急時照会権限。
そういう項目の隙間に、左の親指がある。
「美緒さん」
僕は言った。
「本申請について、現時点で同意されますか」
美緒は、すぐには答えなかった。
遼平も黙っている。
NORAも出てこない。
こういう時だけ、本当に気が利く。
「確認してもいいですか」
美緒が言った。
「はい」
「配偶者権限を停止すると、私は、あの人が倒れたときにも通知されなくなるんですよね」
「医療同意権限、緊急時照会権限は停止対象です」
「死んだときは」
「死亡通知連携も停止対象に含まれています」
「そうですか」
美緒は、少しだけうなずいた。
悲しそうではなかった。
ただ、確認している顔だった。
「ネオ・リアル側の方には、その権限が移るんですか」
「現時点では、恋人登録ですので、すぐには移りません。別途、登録変更が必要です」
「まだ恋人なんですね」
その言い方には、皮肉があった。
少しだけ。
遼平は顔を上げた。
「美緒、そういう言い方は」
「ごめん」
美緒はすぐに言った。
謝り慣れている声だった。
「ただ、確認したかっただけ」
僕は画面に、同意確認項目を表示した。
【相手方同意確認】
【同意】
【保留】
【異議申し立て】
【追加説明要求】
美緒はしばらく画面を見ていた。
それから、遼平の方ではなく、僕に向かって言った。
「あの人、あっちでは優しいんですね」
遼平が息を止めた。
僕は何も言わなかった。
言えることがなかった。
「あっちでは、返事を急かさないんですか」
美緒は言った。
「疲れているときに、黙っていても怒らないんですか」
遼平は唇を結んだ。
「過去の失敗も、責めないんですね」
美緒の声は、静かだった。
泣いていない。
怒っていない。
だから、処理しづらい。
「私のときは」
そこで、美緒は言葉を止めた。
その先は言わなかった。
言わなかったから、残った。
「美緒さん」
僕は言った。
「本件は、今すぐ判断されなくても構いません」
「そうなんですか」
「相手方同意確認には、保留が可能です」
「便利ですね」
「便利すぎることが多い職場です」
美緒は、少しだけこちらを見た。
「職員さんは、慣れていますか」
「慣れたら終わりだと思っています」
「終わってないんですか」
「たぶん、まだ」
美緒は、初めて少しだけ笑った。
画面の端に、補助判定が表示された。
《NORA:補助判定を表示します》
《婚姻関係同期解除は、合理的選択肢です》
遼平は、その表示を見た。
少しだけ、安心したようだった。
合理的という言葉は、人間の背中を押す。
崖の手前でも、わりと平気で押す。
《相手方同意確認:必要》
美緒は、表示を読んだ。
「必要なんですね」
「はい」
僕は答えた。
「まだ」
遼平が言った。
「まだ、そこなんですね」
その声には、少し疲れが混じっていた。
早く終わらせたい疲れ。
説明を尽くしたと思っている人の疲れ。
「遼平さん」
僕は言った。
「本件は、相手方同意確認後に再判定します」
「今日、止めることはできないんですか」
「婚姻関係は、通知より少ししぶといので」
遼平は黙った。
美緒は画面の向こうで、少しだけ目を伏せた。
「私は」
美緒が言った。
「今日は、保留にします」
遼平が顔を上げた。
「美緒」
「止めたいなら、止めればいいと思ってました」
美緒は、静かに続けた。
「でも、その前に一つだけ、自分で考えたいので」
「何を」
「私が、何を止められるのか」
遼平は何も言わなかった。
その言葉を理解したのか、理解しないことにしたのかは分からない。
僕は画面に入力した。
【相手方判断】保留
【職員判断】相手方同意確認後、再判定
受付印を持つ。
削除でも、停止でもない。
再判定。
中途半端な印だった。
でも、人間関係の処理には、中途半端な欄が必要になる。
僕は印を押した。
とん、と乾いた音がした。
通信画面の美緒が、その音を聞いていた。
「美緒」
遼平が言った。
「僕は、君を傷つけたいわけじゃない」
美緒は少しだけ目を細めた。
「知ってる」
「なら」
「でも、傷つけるのが目的じゃなくても、傷つくことはあるので」
遼平の左親指が、また爪を押した。
美緒はそれを見ていない。
でも、たぶん知っている。
「通信を終了します」
僕は言った。
美緒はうなずいた。
「ありがとうございました」
通信が切れた。
画面には、保留の表示だけが残った。
遼平はしばらく黙っていた。
それから、小さく息を吐いた。
「こうなると思っていました」
「そうですか」
「はい」
「それでも申請した」
「はい」
「リナさんのために」
遼平は少しだけ眉を寄せた。
「僕のためでもあります」
やっと、少しだけ本当の順番になった気がした。
その時、遼平の端末が震えた。
彼は画面を見た。
表情が、少しやわらかくなる。
リナだろう。
「確認しても?」
僕が聞くと、遼平は少し迷ったあと、端末をこちらに向けた。
ネオ・リアル側パートナー通知。
遼平さん、左の親指、痛くなりますよ。
そういうとき、いつも押しすぎるから。
文字は、やさしかった。
責めていない。
茶化してもいない。
ただ、気づかっている。
本当に、よくできている。
僕は遼平の左手を見た。
左の親指は、まだ人差し指の爪の端を押していた。
さっき、美緒が言った。
昔から、言いにくいことがあると、爪の端を押すんです。
遼平は、画面を見ながら小さく笑おうとした。
でも、うまく笑えなかった。
「リナは」
彼は言った。
「よく気づくんです」
僕は何も言わなかった。
NORAの補助判定が、画面の端に表示された。
《異常な参照は検出されていません》
異常ではない。
少なくとも、ネオ・リアル側では。
遼平の端末には、まだリナの通知が残っている。
美緒の通信画面は、もう消えている。
でも、美緒が見ていた左の親指だけが、第二窓口の机の上に残っていた。
妻の知っていた癖は、恋人の中で正常に動いていた。
第4話 学校はまだ鳴っている
旧現実管理局
利用者支援部
現実解約課
第二窓口
【旧教育施設同期異常報告】
【施設名】旧現実側 第三中学校
【異常種別】定時チャイム継続
【利用者数】0
【最終登校記録】未確定
誰もいない学校ほど、よく鳴る。
机の左端には、母親、味噌汁、妻の癖に関する案件が並んでいた。
そして今日の案件は、学校だった。
ただの施設は、たまに人間より長く覚えている。
画面には、旧校舎の遠隔監査ログが開かれていた。
【施設名】旧現実側 第三中学校
【施設状態】閉鎖済
【生徒登録】0
【教職員登録】0
【利用者数】0
【自動設備】一部稼働中
【異常】定時チャイム継続
閉鎖済みの学校。
生徒も教師もいない。
なのに、チャイムだけが鳴っている。
学校というものは、昔からそういうところがある。
人がいなくても、時間だけはやけに律儀だ。
「NORA」
僕は画面を見ながら言った。
「該当施設の状態確認」
《旧現実側 第三中学校は、教育施設として閉鎖済みです》
「利用者数も、生徒登録も、教職員登録も0ですね」
《はい》
「では、なぜ鳴っているんですか」
《定時チャイム継続は、自動設備残存動作と推定されます》
「人がいなくても、時間割だけ守るところですね」
《施設運用上、定時チャイムは自動設備に分類されます》
第4話では、NORAより校舎の方がよく喋りそうだった。
僕は遠隔映像を開いた。
最初に映ったのは、昇降口だった。
下駄箱が並んでいる。
名前のプレートは外されていた。いくつかの棚だけ、うっすら四角い跡が残っている。
映像が廊下へ切り替わる。
廊下はまっすぐ伸びていた。
蛍光灯は半分だけ点いている。
掲示板には、色あせた行事予定が残っている。
三者面談。
給食最終日。
どちらも、もう行われない予定だった。
予定は終わっても、掲示物は残る。
人間より紙の方が、諦めが悪いことがある。
その予定表の横で、古いスピーカーが沈黙していた。
いや、沈黙しているように見えている。
ログ上では、あと三十二秒で予鈴が鳴る。
僕は画面右上の時刻を見た。
08:24:58
08:24:59
08:25:00
チャイムが鳴った。
古い電子音だった。
ネオ・リアル側の通知音より、ずっと雑で、ずっと強い。
無人の廊下に、その音が広がる。
誰も走らない。
誰も「やばい」と言わない。
誰も階段を駆け上がらない。
誰も教室の後ろの扉を開けない。
それでも、チャイムはちゃんと遅刻を作った。
《定時チャイムを確認しました》
NORAが表示した。
「利用者数は」
《0です》
「それで予鈴」
《はい》
「律儀ですね」
《自動設備です》
自動設備。
それで片づくなら、学校生活の半分くらいは自動設備だったのかもしれない。
僕は教室ログを開いた。
【二年三組】
【状態】閉鎖済
【在室者】0
【出席簿】同期異常あり
「出席簿?」
《出席簿更新を検出しました》
「在室者は0。でも出席簿は更新されている」
《はい》
こういう返事をされると、旧現実管理局の床が少し沈んだ気がする。
もちろん、実際には沈んでいない。
沈んでいるのは、だいたい職員の気分だ。
僕は出席簿を開いた。
画面に、名前が並ぶ。
ほとんどの欄は、ネオ・リアル側移行済みになっていた。
【佐藤 結衣】移行済
【田中 智也】移行済
【村瀬 花】移行済
【井上 晴斗】未確定
【木下 大地】移行済
井上晴斗。
その名前だけ、少し違っていた。
僕は詳細を開く。
【生徒名】井上 晴斗
【旧所属】第三中学校 二年三組
【ネオ・リアル側教育環境】移行済
【登校最適化】完了
【遅刻予測補正】稼働中
【座席配置】対人負荷最小化済
【遅刻記録】0
【旧現実側登校記録】同期未了
ネオ・リアル側では、遅刻記録0。
旧現実側では、同期未了。
嫌な差だった。
学校の記録は、たまに大人よりしつこい。
「井上晴斗の旧現実側ログを」
《開示します》
画面が切り替わった。
古い出席簿のスキャンデータ。
手書きの丸。
小さなバツ。
赤ペンの線。
遅刻、遅刻、早退、遅刻。
日付の横に、何度も同じ言葉が並んでいる。
遅刻。
それは大事件ではない。
人生を壊すほどの失敗でもない。
ただ、朝の教室に少し入りづらくなるくらいの失敗だ。
でも学校は、そういう小さい失敗をよく覚えている。
ログの下に、担任備考が残っていた。
【担任備考】遅れて入るとき、必ず後ろの扉を使う
僕はその一行を見た。
いいことでも、悪いことでもない。
ただの癖。
ただの習慣。
ただの逃げ道。
でも、学校の記録には、そういうものまで残る。
「NORA」
《はい》
「井上晴斗の現在状態は」
《ネオ・リアル側教育環境に移行済みです》
「現在の遅刻記録」
《0です》
「旧現実側の遅刻記録」
《同期未了です》
「同期すると、どうなりますか」
《旧現実側の未処理登校記録が、ネオ・リアル側教育履歴へ統合されます》
「つまり、遅刻が戻る」
《表現は不正確ですが、概ね該当します》
戻る。
その言葉は、学校によく似合う。
戻りたくない場所ほど、記録だけが律儀に呼ぶ。
《席替えログを検出しました》
NORAが言った。
「今度は席替えですか」
《二年三組の座席配置データが、閉鎖後も更新されています》
僕は座席配置データを開いた。
黒板を上にした教室図。
机の四角が並んでいる。
名前の多くは灰色になっていた。
その中で、井上晴斗の席だけが青く点滅している。
最初は、廊下側の一番後ろ。
次は、入口から二番目。
その次は、後ろの扉に近い席。
さらに次は、教室に遅れて入っても、あまり目立たない場所。
まるで学校が、今さら遅刻のしやすい席を探しているみたいだった。
僕は画面の中の空の教室を見た。
誰もいない。
それなのに、席だけが誰かのために動いている。
「NORA」
《はい》
「これは、自動設備残存動作ですか」
《判定中》
NORAが、少し黙った。
数秒後、画面に新しい表示が出た。
【処理区分】現地確認推奨
「現地確認」
《遠隔監査では異常原因を特定できません》
「珍しく正直ですね」
《判定不能です》
「それも正直です」
僕は席を立った。
「第二窓口、現地確認に入ります」
《現地確認申請を記録しました》
第三中学校は、旧住宅地の奥にあった。
校門は、半分だけ開いていた。
古い門柱に、第三中学校の文字が残っている。
文字の端が少し欠けていた。
校門の向こうには、グラウンドがあった。
白線はほとんど消えている。
サッカーゴールだけが、何も守っていない顔で立っていた。
校舎は、遠隔映像で見たよりずっと静かだった。
静かすぎる学校は、学校というより、学校の抜け殻に近い。
ただ、抜け殻にも形は残る。
僕は昇降口へ向かった。
下駄箱の前で、足が止まる。
遠隔映像で見た通り、名前のプレートは外されている。
けれど、一番下の段に、片方だけの上履きが残っていた。
右か左か、一瞬迷った。
たぶん左だった。
靴は、持ち主がいないと急に判断が難しくなる。
「NORA」
僕は端末に言った。
「現地映像を同期」
《同期中》
「該当上履きの所有者は」
《所有者情報は削除済みです》
「井上晴斗との関連は」
《判定不能です》
「でしょうね」
言ってから、少しだけ後悔した。
今日は、校舎の声を聞く回だった。
NORAと遊んでいる場合ではない。
僕は廊下に入った。
足音が、思ったより大きく響いた。
二年三組は、二階の一番奥にあった。
後ろの扉は、廊下側に少しだけ開いていた。
僕は前の扉ではなく、後ろの扉の前で止まった。
【担任備考】遅れて入るとき、必ず後ろの扉を使う
ログの一行が、頭に浮かぶ。
遅れて入るなら、前から入るより後ろから入る方がましだ。
教室全体の視線を避けられる。
遅刻そのものより、入っていく数秒の方が長いことがある。
それは、小さな逃げ道だった。
僕は後ろの扉を開けた。
教室は空だった。
机が並んでいる。
椅子は全部、机の中に収まっていた。
黒板には、うっすらと日付の跡が残っている。
何月何日だったのかは、もう読めない。
黒板の右端に、席替え表が貼られていた。
紙は黄ばんでいる。
名前の多くは薄くなっている。
その中で、井上晴斗の名前だけが、端末画面と同じ位置にあった。
後ろの扉に近い席。
遅れて入っても、あまり目立たない場所。
僕はその席の横に立った。
机の天板には、細い傷がいくつかあった。
コンパスで削ったような線。
シャーペンの先でつついたような小さな穴。
机は、本人より長く学校に残る。
そして、だいたい余計なことまで覚えている。
「NORA」
《はい》
「この座席配置は、現在も更新されていますか」
《はい》
「最終更新時刻は」
《本日 08:25:00》
予鈴の時刻。
「更新者は」
《管理者不明》
「自動処理ですか」
《判定不能です》
まただ。
判定不能という言葉は、この職場では「気持ち悪い」の丁寧語として使える。
僕は教室の前方を見た。
黒板の上に、スピーカーがあった。
古い校内放送用のスピーカー。
四角くて、灰色で、少しだけ黄ばんでいる。
遠隔映像では分からなかったが、表面に細かい埃がついていた。
《放送室ログを検出しました》
NORAが表示した。
僕は端末を見た。
【放送室】
【マイク入力】なし
【校内出力】あり
「マイク入力なし?」
《はい》
「校内出力あり?」
《はい》
「誰が喋ってるんですか」
《利用者数は0です》
答えになっていない。
でも、この職場では、答えになっていない答えほど、よく当たる。
スピーカーから、ざらついた音が鳴った。
古い校内放送の、あの少し割れた音。
僕は、井上晴斗の席の横に立ったまま、動かなかった。
音は、最初ただのノイズだった。
ざ、ざざ。
遠くの雨みたいな音。
そのあと、声が落ちた。
『井上』
呼び捨てだった。
教師の声にも、放送委員の声にも聞こえた。
少し雑で、少し慣れていて、少しだけ笑っているような声。
『また遅刻か』
僕は、空の教室を見た。
誰もいない。
後ろの扉は、まだ開いている。
井上晴斗の席は、そこから三歩の場所にあった。
NORAが表示する。
《利用者数:0》
スピーカーは、もう一度鳴った。
『席、残してあるぞ』
それは叱責にも聞こえた。
冗談にも聞こえた。
今さらの優しさにも聞こえた。
学校という場所は、ときどきひどく雑に人を覚えている。
遅刻したこと。
給食を残したこと。
席替えで嫌な場所になったこと。
発表で噛んだこと。
好きな人の近くになって、何も言えなかったこと。
そういう小さい失敗を、きれいに保存している。
ネオ・リアル側の井上晴斗は、遅刻しない。
遅刻予測補正があり、登校最適化があり、対人負荷を最小にする座席配置がある。
朝の失敗は、起きる前に修正される。
でも、旧現実側の学校では、井上晴斗はまだ遅刻している。
そして学校は、彼が入ってきやすい席を、まだ残している。
僕は端末の出席簿を開いた。
【二年三組 出席簿】
【佐藤 結衣】移行済
【田中 智也】移行済
【村瀬 花】移行済
【井上 晴斗】遅刻
【木下 大地】移行済
井上晴斗。
遅刻。
それだけが、黒く表示されていた。
「NORA」
《はい》
「この出席簿を同期した場合、ネオ・リアル側ではどう処理されますか」
《旧現実側未処理登校記録として統合されます》
「遅刻記録は」
《履歴として保持されます》
「彼に通知は」
《通常設定では通知されません》
「じゃあ、本人は知らない」
《はい》
本人の知らないところで、昔の遅刻だけが戻る。
罰ではない。
評価でもない。
ただの記録だ。
ただの記録は、たまに人間よりしつこい。
僕は席替え表を見た。
井上の席は、後ろの扉の近くにある。
入ってくるかどうかも分からない生徒のために、閉鎖された学校は席を動かしていた。
「同期は」
僕は言った。
「今日は保留にします」
《旧教育施設同期異常の処理区分を保留にしますか》
「はい」
《理由を入力してください》
理由。
いつも困る。
母親を消せない理由。
味が残った理由。
妻の癖が恋人の中で動いていた理由。
学校が遅刻を待っている理由。
そういうものは、申請書の欄に入りづらい。
僕は画面を見た。
【処理理由】未入力
少し迷ってから、入力した。
【処理理由】最終登校記録の確認が必要
嘘ではない。
ただ、本当の全部でもない。
受付印は持ってきていなかった。
現地確認にハンコを持ってくる職員は少ない。たぶん、いたら危ない。何にでも押してしまう。
代わりに、端末上の確認ボタンを押した。
【職員判断】同期保留
【追加確認】旧現実側登校記録
表示が切り替わった。
その瞬間、教室のスピーカーがもう一度、小さく鳴った。
ざ、という短いノイズ。
それだけだった。
それだけなのに、教室は少しだけ授業前の顔に戻った。
僕は教室を出た。
後ろの扉を閉める前に、もう一度だけ井上晴斗の席を見た。
机は、ただの机だった。
椅子も、ただの椅子だった。
誰も座っていない。
でも、そこだけ少し空いているように見えた。
空席ではなく、遅れてくる誰かのための席として。
廊下に出ると、遠くでまたチャイムが鳴った。
次の授業が始まる時間だった。
もちろん、授業はない。
生徒もいない。
先生もいない。
それでも、学校は時間を進める。
僕は端末の出席簿を閉じた。
閉鎖された学校は、まだ誰かの遅刻を待っていた。
第5話 死者本人の確認が必要です
旧現実管理局
利用者支援部
現実解約課
第二窓口
【墓地データ同期異常報告】
【異常種別】墓地データ移行不能
【対象】現実側本人墓
【希望処理】ネオ・リアル側追悼領域への統合
【エラー内容】死者本人の確認が必要です
死んだ本人に確認を取る仕事は、さすがに研修になかった。
墓地データ同期異常でも、家族関係削除でも、生活通知停止でも、婚姻関係同期解除でも、旧教育施設同期異常でも、紙の角は同じようにずれる。
人間は死んでも、書類はまっすぐにならないらしい。
机の左端に、今日、新しく墓が加わった。
僕は紙コップのコーヒーを持ち上げた。
ぬるい。
墓地データの朝に飲むには、ちょうどよく嫌な温度だった。
画面には、墓地データ同期異常の詳細が開かれている。
【対象者】瀬尾 千尋
【年齢表示】三十六歳
【主生活環境】ネオ・リアル側
【旧現実側状態】死亡処理済
【ネオ・リアル側状態】生活中
【墓地データ】登録あり
【追悼領域】未統合
【エラー内容】死者本人の確認が必要です
生活中。
死亡処理済。
同じ画面に並べるには、仲の悪い言葉だった。
「NORA」
僕は画面を見ながら言った。
「対象者は現在、ネオ・リアル側で生活中ですね」
《はい。瀬尾千尋様は、ネオ・リアル側生活環境にて生活中です》
「旧現実側では」
《死亡処理済みです》
「生活中で、死亡処理済み」
《はい》
「便利な時代ですね」
《旧現実側記録の終了処理条件に該当しています》
受付番号が鳴った。
「二二九番の方、第二窓口へどうぞ」
ひとりの女性が立ち上がった。
三十代半ばくらいに見えた。
黒いコートに、白いブラウス。髪は肩のあたりで切りそろえられている。派手ではないが、身なりは整っていた。
泣いていない。
怒ってもいない。
ただ、少しだけ、自分がどこに座ればいいのか分からない人の顔をしていた。
それは、この窓口ではわりと正しい表情だった。
女性は椅子に座る前に、小さく頭を下げた。
「瀬尾千尋さんですね」
「はい」
声は落ち着いていた。
でも、落ち着いている声が、必ず落ち着いている人から出てくるとは限らない。
僕は画面を確認した。
申請者。瀬尾千尋。三十六歳。主生活環境、ネオ・リアル側。旧現実側家族情報、父母ともにネオ・リアル側移行済み。兄一名、ネオ・リアル側生活中。旧現実側墓地、瀬尾家区画内に本人墓あり。追悼領域、未統合。
本人墓。
いつ見ても、変な言葉だ。
「本日は、旧現実側墓地データの移行申請でお間違いありませんか」
「はい」
「対象は、現実側本人墓」
そこで、千尋は少しだけ眉を寄せた。
「本人墓、っていうんですね」
「正式名称です」
「変ですね」
「現実解約課では、変な言葉ほど正式名称です」
千尋は笑わなかった。
けれど、少しだけ息を抜いた。
笑うほどではない。
でも、呼吸する場所を一つ見つけたような顔だった。
「家族から、移行した方がいいと言われまして」
千尋は、膝の上で両手を重ねた。
指輪はしていない。
爪は短く整えられていた。
「旧現実側のお墓を管理する人が、もういないので」
「ご家族は」
「両親も兄も、みんなネオ・リアル側です」
「では、旧現実側の墓地には、現在どなたも」
「行っていないと思います」
思います。
その言い方に、少しだけ距離があった。
墓地は、行かない間に遠くなる。
家より遠い。
学校より遠い。
実家の台所より、たぶん遠い。
「ネオ・リアル側追悼領域への統合をご希望ですね」
「はい」
「説明は読みました」
追悼領域では、故人の姿や声を、遺族が見やすい形に調整できる。
千尋は、そこで少しだけ目を上げた。
「自分の顔も、ですか」
「対象が本人墓の場合は、確認が必要です」
「だから、ここに」
「はい」
僕は画面右上のエラー表示を見た。
【死者本人の確認が必要です】
文字は静かだった。
静かな文字ほど、たまにひどいことを言う。
「便利ですね」
千尋が言った。
「はい」
「便利すぎますね」
「それは、よくあります」
千尋は、画面を見たまま少し黙った。
自分の顔を、誰かが見やすい形に調整する。
それは、優しさなのかもしれない。
死んだ人の写真を、いい顔のものにするのと、そんなに違わないのかもしれない。
ただ、その本人が目の前に座っていると、話は少し面倒になる。
画面の右端に、補助判定が立ち上がった。
《NORA:補助判定を表示します》
《旧現実側墓地維持には、定期管理が必要です》
《ネオ・リアル側追悼領域への統合により、遺族の心理的負荷は軽減される可能性があります》
「遺族」
千尋が小さく言った。
僕は画面から目を離した。
「はい」
「私の、遺族ですか」
NORAは、少しも迷わず表示を続けた。
《旧現実側記録上、瀬尾千尋様は死亡処理済みです》
千尋の指が、膝の上で少しだけ動いた。
「でも、私は」
「ネオ・リアル側では生活中です」
僕は言った。
「旧現実側では死亡処理済みです」
言ってから、自分の声が思ったより平らだったことに気づいた。
平らにしないと、言えない言葉もある。
千尋はしばらく黙っていた。
怒らなかった。
泣かなかった。
笑わなかった。
ただ、自分の名前が彫られた墓石を、まだ見ていない人の顔になった。
「私」
彼女は言った。
「死んだことになってるんですか」
第二窓口の上で、古い時計が、かち、と鳴った。
僕は申請書の角をそろえた。
もう十分そろっているのに、またそろえた。
「旧現実側では、そう処理されています」
「ネオ・リアル側では」
「生活中です」
「それ、同じ欄に出るんですね」
「出てしまっています」
千尋は、画面を見ていた。
【生活中】
【死亡処理済】
その二つの表示の間に、彼女の視線が落ちている。
「どちらかが、間違っているんですか」
僕はすぐには答えなかった。
NORAも答えなかった。
こういう時だけ、本当に賢い。
「現時点では、参照不一致です」
「不一致」
「はい」
「間違いではなく」
「まだ、そうは判定されていません」
千尋は、少しだけ唇を閉じた。
「私のお墓を、見られますか」
「遠隔確認なら可能です」
「お願いします」
僕は墓地データの確認画面を開いた。
【旧現実側墓地映像を表示しますか?】
カーソルが、確認欄の上で止まる。
墓を見るのに、本人同意がいる。
当たり前のようで、少し変だった。
検索候補の下に、一瞬だけ別の項目が混じった。
【朝倉家墓地情報】参照制限中
僕はそれを見なかったことにして、瀬尾家区画を開いた。
「表示します」
僕は言った。
画面が、ゆっくり切り替わった。
旧現実側の郊外にある、小さな霊園だった。
通路の隅には短い雑草が生え、墓石が似たようで少しずつ違う顔で並んでいる。
映像が、一つの墓石の前で止まった。
瀬尾家。
正面に、そう彫られている。
石の溝には、細かい砂が入り込んでいた。
花筒には、白い菊が二本残っている。
片方はまだ少し形を保っていて、もう片方は先が茶色くなっていた。
水は濁っている。
千尋は、黙って見ていた。
顔色は大きく変わっていない。
ただ、膝の上の指が、さっきより少しだけ重なっている。
「この墓ですか」
「はい。瀬尾家区画です」
「私、ここに来たことがないと思います」
「旧現実側での最終墓参記録はありません」
NORAが表示した。
《瀬尾千尋様本人による旧現実側墓地訪問記録は確認できません》
「本人による墓参りって、言い方が変ですね」
「本人墓ほどではありません」
千尋は、ほんの少しだけ息を漏らした。
笑ったとは言えない。
でも、画面から目をそらさなかった。
映像が、墓石の側面へ回る。
名前が並んでいた。
瀬尾家の先祖。
祖父母らしき名前。
それから、一つだけ、明らかに新しい文字。
瀬尾千尋。
彼女の名前だった。
墓石に彫られた字は、端末画面の文字より太く、深かった。
フォントではない。
誰かが石に刻んだ名前だった。
【瀬尾 千尋】
【旧現実側終了日】二〇二三年十月十七日
千尋が、小さく息を吸った。
「私の名前ですね」
「はい」
「終了日」
「旧現実側の処理日です」
「命日じゃなくて」
「分類上は異なります」
言ったあと、さっき自分でその言葉を避けたことを思い出した。
分類上は、だいたい何でも許される。
でも、墓石に彫られていると、少し許されにくい。
「私、その日、引っ越したんです」
千尋が言った。
「ネオ・リアル側へ?」
「はい」
「主生活環境の移行日ですね」
「そうです」
彼女は画面を見つめたまま、ゆっくり続けた。
「引っ越しの日が、ここでは」
その先を、言わなかった。
言わなくても、分かった。
画面の墓石には、彼女の名前と日付がある。
ネオ・リアルでは生活開始日だったものが、旧現実では終了日として刻まれている。
始まった日と終わった日が、同じ顔で並んでいる。
「移行処理の詳細を確認します」
僕は端末を操作した。
【旧現実側終了処理】完了
【ネオ・リアル側生活開始】完了
【墓地データ登録】完了
【本人確認】未了
【追悼領域統合】未了
完了。
完了。
完了。
未了。
未了。
人間一人に対して、完了と未了がこんなに並ぶと、だいぶ落ち着かない。
「職員さん」
千尋が言った。
「はい」
「これ、同じ人なんですか」
僕は答えなかった。
NORAも答えなかった。
答えない沈黙が、第二窓口の机の上に落ちた。
その沈黙の横で、墓地映像だけが動いている。
風で、枯れかけた菊の花びらが少し揺れた。
幽霊のようなものは映っていない。
誰かの影もない。
ただ、墓があるだけだった。
普通の墓。
普通に古くなり、普通に水が濁り、普通に花が枯れていく場所。
そこに、目の前で生活中の人の名前が彫られている。
それだけで、十分だった。
「あれ」
千尋が、画面の端を見た。
「そこ、何か置いてありますか」
僕は映像を拡大した。
墓石の右下。
小さな缶コーヒーが一本、置かれていた。
黒い缶。
少し古い銘柄だった。
置かれてから、それほど時間は経っていないように見えた。
「供物履歴を確認します」
《供物履歴は自動記録されていません》
NORAが表示した。
「自動記録されない供物って、まだあるんですね」
《旧現実側墓地では、手動供物が一般的です》
千尋は、その缶コーヒーを見ていた。
「父が、よく飲んでいたやつです」
「千尋さんが好きだったものではなく」
「はい」
彼女は少しだけ首を横に振った。
「私は、あまり飲みません。苦くて」
「では、お父様の」
「たぶん」
千尋は、画面の中の缶コーヒーを見たまま言った。
「父は、墓参りに行くと、いつも自分の好きなものを置く人でした」
「故人の好物ではなく」
「はい」
その言い方には、少しだけ昔から困っていた人の温度があった。
「なかなか自由ですね」
「はい。昔から」
千尋は、そこで初めて少しだけ口元を動かした。
笑いかけたが、途中でやめたような顔だった。
墓は、死んだ人の場所に見えて、残された人の手癖がよく残る。
「お父様は、最近ここへ来た可能性があります」
僕は言った。
「父も、もうネオ・リアル側です」
「はい」
「旧現実側には、ほとんど戻らないと言っていました」
「それでも、供物は比較的新しいように見えます」
千尋は黙った。
墓石の前に置かれた缶コーヒー。
千尋のためではないかもしれない。
父親が、自分の癖を置きに来ただけかもしれない。
それでも、誰かがここに来た。
誰かが、彼女の名前が彫られた石の前に立った。
そして、自分の好きな缶コーヒーを置いた。
それは愛情かもしれない。
雑さかもしれない。
後ろめたさかもしれない。
あるいは、その全部かもしれない。
申請書には、どれも入らない。
《墓地データ移行は可能です》
NORAが表示した。
《死者本人確認が完了した場合、ネオ・リアル側追悼領域へ統合できます》
「本人確認は、完了していますか」
僕は聞いた。
《対象者本人の同意取得により、形式上は完了可能です》
「形式上は」
《はい》
「本人が画面越しに墓を見ただけでも」
《遠隔確認は、本人確認手続きとして有効です》
「墓参り扱いには」
《なりません》
「そこは分けるんですね」
《はい》
妙に正確だった。
千尋は、墓石から目を離さなかった。
「統合すると」
彼女が言った。
「この墓はどうなるんですか」
「旧現実側墓地データは閉鎖処理に移行します」
「墓石は」
「物理的な墓石は、管理区分に応じて撤去、区画返還、または無管理状態へ移行します」
「無管理状態」
「はい」
「誰も行かなくなる、ということですか」
「すでに、その可能性は高いです」
僕は言った。
優しい言い方ではなかった。
でも、嘘よりは少しましだった。
千尋は、画面の墓を見ていた。
自分の名前が彫られた石。
濁った水。
枯れかけた花。
父親の好きな缶コーヒー。
「これを、追悼領域に移すと」
「はい」
「向こうでは、きれいになるんですよね」
「設定上は」
「花も枯れない」
「はい」
「水も濁らない」
「はい」
「父が変な缶コーヒーを置いても、たぶん、きれいに表示される」
「供物表示は、調整可能です」
「便利ですね」
「はい」
「父の雑さまで、整えられるんですね」
千尋の声は、最初より少し低くなっていた。
怒っているわけではない。
泣いているわけでもない。
ただ、言葉の置き場所を探している声だった。
「瀬尾さん」
「はい」
「移行処理は、この場で実行できます」
千尋は僕を見た。
「できるんですか」
「形式上は」
僕は、さっきのNORAの言葉を借りた。
借りたくはなかったが、便利だった。
「ただ、職員判断で保留にできます」
「不備があるんですか」
「不備はありません」
「では、どうして」
僕は画面を見た。
【墓地データ移行】
【実行】
【保留】
【差戻し】
【追加確認】
墓地データを移行すれば、家族は楽になる。
追悼領域なら、天気も虫も水道の蛇口の固さも関係ない。
枯れた菊も、濁った水も、父親の雑な缶コーヒーも、きれいに整えられる。
誰にとっても、その方が合理的だった。
ただ、画面の向こうにある墓地の坂道を、千尋はまだ歩いていない。
画面で見た。
それだけだった。
「本人による墓地確認が、まだ終わっていません」
僕は言った。
「でも、今見ました」
「画面では」
「違うんですか」
「僕にも分かりません」
千尋は黙った。
それから、ほんの少しだけ息を吐いた。
「分からないんですね」
「はい」
「職員さんなのに」
「第二窓口担当なので」
「便利な言い訳ですね」
「便利すぎますね」
千尋は、少しだけ口元を動かした。
今度は、ほんの少しだけ笑ったと言ってもいいかもしれない。
僕は処理理由欄を開いた。
【処理理由】未入力
理由。
いつも困る。
母親を消せなかった理由。
味が残った理由。
妻の癖が恋人の中で動いていた理由。
学校が遅刻を待っていた理由。
そして今日、自分の墓を画面で見ただけでは足りないかもしれない理由。
そういうものは、申請書の欄に入りづらい。
少し迷ってから、僕は入力した。
【処理理由】本人による墓地確認未了
嘘ではない。
ただ、本当の全部でもない。
受付印を持つ。
移行欄ではない。
保留欄。
手は、少しだけ遅れた。
とん、と乾いた音がした。
【職員判断】保留
【処理理由】本人による墓地確認未了
【追加確認】旧現実側墓地の現地確認
千尋は、その表示をしばらく見ていた。
「現地確認って」
「旧現実側の墓地へ行って、確認する手続きです」
「私が?」
「本人確認ですから」
「死者本人の?」
「形式上は」
千尋は、また少しだけ笑いかけた。
でも、やはり途中でやめた。
「変ですね」
「正式手続きです」
「現実解約課では」
「変な言葉ほど正式名称です」
千尋は、今度はほんの少しだけ息を漏らした。
それが笑いだったのか、疲れだったのかは分からない。
画面の中では、瀬尾家の墓がまだ映っている。
缶コーヒーは、墓石の右下に置かれたままだ。
たぶん、もう冷めている。
僕の机のコーヒーと同じくらいには。
「職員さん」
千尋が言った。
「はい」
「私は、私の墓を見たことがありません」
僕は、画面の中の墓石を見た。
瀬尾千尋。
新しい文字。
その前に置かれた、父親の好きな缶コーヒー。
「その確認は、まだ終わっていません」
僕は言った。
千尋は何も答えなかった。
怒っているようにも、安心しているようにも見えなかった。
たぶん、どちらでもなかった。
彼女はただ、自分の墓というものを、初めて遠くから見た人の顔をしていた。
僕は墓地データの移行画面を閉じた。
処理済みではなく、保留中の表示が残る。
死亡処理は完了していた。
けれど、本人確認は、まだ終わっていなかった。
第6話 失敗した自分を削除してください
旧現実管理局
利用者支援部
現実解約課
第二窓口
【現実側自己情報削除申請書】
【申請種別】自己情報削除
【対象】旧現実側本人記録
【希望処理】完全削除
【削除理由】現在の自己像との不一致
自分を削除したい人ほど、申請理由の文章はきれいだった。
墓地データの次は、自己情報削除。
自分の墓を見たことがない人の隣に、自分を消したい人の申請書が置かれている。
現実解約課の机は、人生の並び替え機能としては少し雑だった。
画面には、新しい申請内容が表示されていた。
【申請者】水原 悠斗
【年齢表示】三十歳
【主生活環境】ネオ・リアル側
【現実側本人記録】残存
【同期状態】一部未了
【希望処理】完全削除
【削除理由】現在の自己像との不一致
現在の自己像。
昔の自分を捨てたいと書くより、ずっと清潔に見える。
書類の言葉は、感情にスーツを着せるのがうまい。
「NORA」
僕は画面を見ながら言った。
「自己情報削除申請の処理条件を確認」
《旧現実側本人記録の削除には、本人同意、削除対象範囲確認、関連人物影響評価が必要です》
「自分を消すだけでも、他人に影響するんですね」
《概ね該当します》
第二窓口の受付番号が鳴った。
「三七六番の方、第二窓口へどうぞ」
立ち上がったのは、三十歳くらいの男性だった。
濃紺のジャケットに、白いシャツ。髪は短く整えられていて、靴もきれいだった。
感じがいい。
しかも、かなりちゃんと感じがいい。
こういう人は、たまに処理しづらい。
男性は椅子に座る前に、軽く会釈した。
「水原悠斗さんですね」
「はい。よろしくお願いします」
声も明るかった。
丁寧で、少しだけ面接に慣れている人の声だった。
「本日は、旧現実側本人記録の削除申請でお間違いありませんか」
「はい」
「申請種別は、自己情報削除」
「はい」
「対象は、旧現実側本人記録」
「はい」
「希望処理は、完全削除」
「はい。お願いします」
返事が早い。
準備してきた人の返事だった。
僕は画面を確認した。
水原悠斗。三十歳。主生活環境、ネオ・リアル側。職業登録、企画支援職。対人関係満足度、高。生活安定度、高。自己像整合率、九二・六パーセント。
高い数字が並んでいる。
自分を削除したい人の画面にしては、ずいぶん健康的だった。
「ネオ・リアル側では、現在の生活に大きな不具合はないようですね」
「はい。むしろ、かなり良くなりました」
悠斗は、少し笑った。
嫌味のない笑い方だった。
「仕事も人間関係も、前よりずっと楽になりました」
「それは、よかったです」
「はい。本当に」
悠斗は素直にうなずいた。
「だからこそ、旧現実側の記録を残しておきたくないんです」
そこだけ、声が少しだけ平らになった。
「残っていると、何か不都合が?」
「不都合というか」
悠斗は、言葉を選んだ。
選び方が上手かった。
「今の自分と、合わないんです」
「現在の自己像との不一致」
「はい。申請理由に書いた通りです」
「かなりきれいな言い方ですね」
「そうですか」
「はい。だいぶ洗濯されています」
悠斗は一瞬だけ目を丸くした。
それから、小さく笑った。
「本当は、もっと汚い言い方の方がいいですか」
「申請書には、あまり向きません」
「ですよね」
彼は笑った。
けれど、その笑いの下に、少しだけ別のものが見えた気がした。
洗濯しても落ちなかった染みみたいなもの。
「残っているだけで」
悠斗は言った。
「少し戻される感じがするんです」
「戻される」
「はい」
「今の生活は、ちゃんとしています。仕事もできているし、会話もできる。人に嫌われる前提で話さなくてもいい」
「はい」
「でも、旧現実側の記録を見ると」
そこで、少しだけ言葉が止まった。
「また、あっちに戻る感じがするんです」
あっち。
ネオ・リアル側で暮らす人は、旧現実をよくそう呼ぶ。
現実だったものが、いつの間にか方角になる。
「旧現実側の自分は」
悠斗は言った。
「もう、今の僕ではないんです」
僕は受付印の持ち手に指をかけたまま、まだ押さなかった。
「今の僕ではない」
「はい」
「では、誰ですか」
悠斗は少しだけ黙った。
「昔の僕です」
「昔の水原悠斗さん」
「はい」
「それは、他人ですか」
悠斗は、また少し笑った。
今度は、さっきより少し困った笑いだった。
「他人ではないですけど」
「はい」
「でも、もう僕ではないです」
便利な言葉だった。
もう僕ではない。
捨てたい気持ちは、分かる。
ただ、粗大ごみには、たまに本人が混じる。
「削除対象を確認しても構いませんか」
僕は聞いた。
「はい。見てもらった方が早いと思います」
悠斗は端末をこちらに向けた。
同意確認を記録し、僕は削除対象一覧を開いた。
【削除対象】
旧居室ログ
就職活動記録
未送信文
家族通知未返信
自己評価メモ
なかなかの部屋だった。
物理的な部屋ではない。
でも、散らかり方はよく似ている。
「対象範囲が広いですね」
「全部、もう必要ないものです」
悠斗はすぐに言った。
その言い方は、明るかった。
明るすぎるほどではない。
ただ、何度も自分に言い聞かせた言葉を、ようやく他人に言えた人の明るさだった。
「必要ないものと」
僕は画面を見ながら言った。
「なかったことにしたいものは、同じですか」
悠斗の返事は、ほんの少し遅れた。
「違うんですか」
「そこを確認するのが、今日の仕事です」
「自分の記録なのに?」
「自分の記録だからです」
NORAが、画面の端に補助判定を表示した。
《旧現実側本人記録には、他者との相互記録が含まれる場合があります》
「ほら」
僕は言った。
「NORAも面倒なことを言っています」
悠斗は少しだけ笑った。
その笑いは、まだきれいだった。
けれど、削除対象一覧の中で、ひとつだけ未送信文という文字が、少し黒く見えた。
僕は先に、旧居室ログを選んだ。
「まず、旧居室ログを確認します」
「それ、見る必要ありますか」
悠斗の声が、初めて少しだけ早くなった。
「削除対象ですから」
「ですよね」
彼は笑った。
今度の笑いは、少し乾いていた。
【旧居室ログを表示しますか?】
画面に確認表示が出る。
「表示します」
僕が言うと、映像が切り替わった。
最初に映ったのは、薄いベージュのカーテンだった。
半分だけ閉まっている。
机の上には、古い履歴書があった。
日付の欄は空白。
その横に、証明写真の残りが置かれていた。
四枚セットのうち、二枚だけ切り取られている。
残った二枚の水原悠斗は、少しだけ顎を引きすぎていた。
目は、まっすぐ前を見ている。
笑ってはいない。
ただ、笑うかどうか迷ったままシャッターを切られた顔だった。
壁際には、買っただけの参考書。
机の隅には、開封されていない封筒が一通。
ひどい部屋、というほどではなかった。
ただ、何度も片づけようとして、そのたびに途中でやめた部屋だった。
「やめてください」
悠斗が言った。
声は大きくなかった。
けれど、さっきまでの明るさが、そこで少しだけ剥がれた。
「失礼しました」
僕は言った。
「でも、削除対象です」
「分かっています」
「なら、確認が必要です」
「分かってます」
二回目の方が、少しだけ強かった。
画面の中の部屋は、何も言わない。
ただ、片づけられなかった時間を、静かに積んでいた。
「この部屋は、現在使用されていますか」
僕はNORAに聞いた。
《旧現実側居室としては閉鎖準備中です》
「閉鎖済みではなく」
《はい。閉鎖準備中です》
「準備期間が長いですね」
《旧現実側居室ログの最終整理が未完了です》
最終整理。
また便利な言葉が出た。
悠斗は、画面を見ないようにしている。
でも、見ないようにしている人ほど、だいたい見ている。
「この部屋、本当に嫌なんです」
悠斗は言った。
「はい」
「何もできなかった頃の部屋なので」
「はい」
「朝起きても、何も始まらない感じがして」
そこで、彼は少しだけ笑った。
自分で言ったことを、軽くするための笑いだった。
「すみません。こういうの、もう話したくないんです」
「では、なぜ削除したいんですか」
悠斗は顔を上げた。
「話したくないからです」
かなり正確な答えだった。
僕は旧居室ログを閉じずに、削除対象一覧へ戻った。
次に、未送信文を選ぶ。
【未送信文】
【件数】四十三件
【最終更新】未確認
四十三件。
送らなかった言葉にしては、少し多い。
「未送信文が四十三件あります」
「昔のものです」
「確認しても?」
悠斗は、すぐには答えなかった。
それから、少しだけ肩をすくめた。
「……必要なら」
必要なら。
その言葉は、だいたい必要なときに出る。
僕は未送信文の一覧を開いた。
【母へ】
【中村へ】
【自分へ】
【消す】
一番下の、
【消す】
というタイトルで、僕の指が止まった。
「この中で、関連人物影響評価に必要なものを確認します」
「全部見るんですか」
「全部は見ません」
「よかった」
悠斗は、小さく息を吐いた。
「ただ、代表的なものは確認します」
「よくなかったです」
「現実解約課の手続きは、だいたいそうです」
僕は【中村へ】を開いた。
悠斗の表情が、わずかに変わった。
名前だけで変わる表情がある。
画面には、短い文章が表示された。
ごめん。
あの時、おめでとうって言ったけど、本当は悔しかった。
君が悪いわけじゃないのに、勝手に比べて、勝手に苦しくなった。
返事をしなかったのは、忙しかったからじゃない。
君がちゃんとしているのを見るのが、きつかった。
文章は、そこで止まっていた。
送信履歴はない。
下書き保存だけが残っている。
「中村さんは」
僕は聞いた。
「旧現実側のご友人ですか」
「大学の同期です」
悠斗は答えた。
「就職活動の頃、よく一緒にいました」
「内定が早かった」
悠斗は少しだけ目を細めた。
「分かるんですね」
「文章が、だいぶ説明しています」
「そうです」
悠斗は画面を見ないまま言った。
「中村は、先に決まりました。僕も、おめでとうって言いました。言えたんです。ちゃんと」
「はい」
「でも、そのあと連絡が来ても、返せなくなりました」
「忙しかったからではなく」
「はい」
彼は少しだけ笑った。
「ちゃんとしている人を見るのが、きつかったんです」
第二窓口の空調が、低く鳴っている。
「この文面は、送信されていません」
「はい」
「削除対象です」
「はい」
「中村さんには、届いていない」
「届いていません」
「でも、記録としては残っている」
「だから消したいんです」
悠斗は、今度はすぐに答えた。
「届いていないなら、もういいじゃないですか」
「いい?」
「はい」
彼の声は明るさを取り戻そうとしていた。
けれど、少し戻りきれていなかった。
「届いていない言葉まで残っているのは、気持ち悪いです」
それは、分かる気がした。
届かなかった言葉は、自分の中で長く腐る。
僕は一覧へ戻った。
【消す】
一番下のタイトルが、まだそこにある。
「これも確認します」
悠斗は何も言わなかった。
黙った、というより、何かを押し込んだ顔だった。
僕は【消す】を開いた。
本文は短かった。
これを残しておくと、また戻る。
戻りたくない。
でも、戻らないと言い切れるほど、今の自分を信用していない。
それだけだった。
日付は、旧現実側での最終ログ保存日。
送信先はない。
宛先もない。
ただ、保存されていた。
「昔の文章って、きついですね」
悠斗が言った。
「だいたいきついです」
「だから、消したいんです」
「はい」
「今の僕には、もう必要ない」
「はい」
「必要ないですよね」
そこだけ、確認に近かった。
僕はすぐに答えなかった。
NORAが、代わりのように補助判定を表示した。
《旧現実側本人記録の削除は、利用者の心理的安定に寄与する可能性があります》
悠斗は、その表示を見た。
少しだけ安心した顔だった。
合理的という言葉は、たまに人間の背中を押す。
正しい言葉は、崖の手前でも、けっこう姿勢よく立っている。
続けて、NORAが表示した。
《ネオ・リアル側本人と旧現実側本人記録に差異があります》
《本人性判定:分岐》
僕は画面を見た。
「分岐?」
《同一性の判定に複数候補があります》
悠斗の表情が、少しだけ固くなった。
「それ、削除できないということですか」
「まだ、そうは判定されていません」
「なら、進めてください」
返事が早かった。
さっきより、少しだけ早すぎた。
「水原さん」
「はい」
「本当に、完全削除でよろしいですか」
「はい」
「旧居室ログ、未送信文、家族通知未返信、自己評価メモ。対象範囲は広いです」
「分かっています」
「関連人物影響評価の結果によっては、一部削除不可になる場合があります」
「それも読みました」
「復元は」
「原則できない」
悠斗が先に言った。
「読みました」
「では、確認します」
僕は削除確認画面を開いた。
【旧現実側本人記録を完全削除しますか?】
【完全削除】
【保留】
【差戻し】
【追加確認】
カーソルが、完全削除の上で止まる。
自分の記録を消す。
他人を消すより簡単に見える。
自分の恥で、自分の失敗だから。
でも、記録というのは、だいたい他人の指紋もついている。
母へ。
中村へ。
自分へ。
消す。
自分だけで作った自分など、たぶんほとんどない。
僕は受付印を持った。
その時、NORAの表示が割り込んだ。
《警告》
「警告?」
《削除対象の一部に、現在活動中のログが含まれます》
第二窓口の音が、少し遠くなった気がした。
「現在活動中?」
《はい》
「どのログですか」
《旧現実側本人活動ログです》
悠斗が、こちらを見た。
「本人活動ログ?」
僕は画面を開いた。
【旧現実側本人活動ログ】
【対象】水原 悠斗
【最終更新】本日 07:42
【活動種別】未送信文 編集
【場所】旧現実側居室
本日 07:42。
今朝だった。
「僕」
悠斗が言った。
声が、初めて少し乱れた。
「今朝は、ずっとネオ・リアル側にいました」
「はい」
「仕事の準備をして、朝食設定を済ませて、打ち合わせの資料を確認して」
「はい」
「旧現実側には、戻っていません」
「ログ上は」
僕は画面を見た。
「旧現実側居室で、未送信文が編集されています」
悠斗は何も言わなかった。
さっきまで、旧居室ログを見ることを嫌がっていた。
でも今は、画面から目を離せなくなっている。
僕は旧居室映像を再表示した。
半分だけ閉まったカーテン。
古い履歴書。
証明写真。
未開封の封筒。
そして、机の上の古い端末。
その画面に、未送信文が開いていた。
【消す】
本文の末尾に、新しい一行が追加されている。
消していいか、まだ分からない。
悠斗の喉が、小さく動いた。
「これ」
彼は言った。
「僕じゃないです」
僕は答えなかった。
NORAも答えなかった。
第5話でも、似た沈黙があった。
「これ、同じ人なんですか」
瀬尾千尋がそう聞いたとき、僕もNORAも答えなかった。
今日も、答えは出なかった。
画面の中で、旧現実側の部屋は静かだった。
幽霊のようなものは映っていない。
誰かの影もない。
ただ、古い端末に一行だけ増えている。
消していいか、まだ分からない。
それだけだった。
「NORA」
僕は言った。
「本人状態を確認」
《照合中》
数秒の沈黙。
画面に、新しい判定が出た。
【本人確認】競合
【旧現実側本人】活動中
【ネオ・リアル側本人】申請中
【処理区分】削除不可
【理由】本人確認が競合しています
悠斗は、その表示を見ていた。
「削除不可」
「はい」
「どういうことですか」
「本人確認が競合しています」
「本人はここにいます」
「はい」
「僕です」
「はい」
「じゃあ、あっちは何ですか」
少し遅れて、悠斗は自分の胸元を見た。
「じゃあ、ここにいる僕は、何なんですか」
僕は画面の中の旧居室を見た。
半分だけ閉まったカーテン。
切り取られた証明写真。
送られなかった文章。
消していいか、まだ分からない、という一行。
「まだ、判定できません」
「職員さん」
悠斗の声が少し低くなった。
「それ、困ります」
「はい」
「困るんです。僕は、今の生活を崩したくないんです」
「はい」
「戻りたくないんです」
その言葉だけは、きれいではなかった。
洗濯されていない言葉だった。
だから、たぶん本当に近かった。
僕は削除欄の上に置いていた手を離した。
受付印は押されなかった。
【未処理案件へ追加】
【処理区分】削除不可
【移管予定】未定
画面に、そう表示された。
移管予定、未定。
嫌な言葉だった。
この職場では、未定のものほど、だいたい後で面倒になる。
悠斗はまだ画面を見ている。
第二窓口に座っている水原悠斗。
旧現実側の部屋で、未送信文を編集している水原悠斗。
どちらも、画面上は本人だった。
どちらかを選ぶ権限は、第二窓口担当にはない。
たぶん、誰にもまだない。
自分を削除したい人は、第二窓口に座っていた。
そして、削除されるはずの自分は、旧現実側でまだ文章を書いていた。
第7話 保留印を回収します
旧現実管理局
利用者支援部
現実解約課
第二窓口
【業務終了通知】
【対象部署】現実解約課 第二窓口
【通知種別】窓口業務終了
【終了予定時刻】本日 18:00
【未処理案件】ネオ・リアル側自動処理へ移管
【職員対応】保留印・受付印・差戻印を回収してください
保留印にも、退職日があるらしい。
机の上には、いつもの未処理申請ではなく、空の段ボール箱が置かれていた。
【第二窓口 備品返却用】
黒い太字で、そう印刷されている。
箱の中には、すでに何本かの印鑑が転がっている。
ただ、僕の机の右上にある保留印だけは、まだ箱に入っていない。
赤い持ち手の小さな印鑑。
桐谷透花の申請に押したもの。
第三中学校の同期異常にも押したもの。
瀬尾千尋の墓地データにも押したもの。
水原悠斗の案件では、押す前に削除不可になったもの。
実際にはただの備品だ。
それでも、備品にしては、ずいぶん人間の時間を止めてきた。
画面には、同じ通知が電子版でも表示されている。
【現実解約課 第二窓口】
【業務終了予定時刻】18:00
【新規受付】本日 12:00 停止
【未処理案件】順次自動移管
【職員判断権限】段階的に制限
【保留権限】17:00 停止予定
保留権限。
いつの間にか、そんな名前の権限を持っていたらしい。
知らなかった。
ただ、知らないまま使っていた。
それもだいぶ怖い。
「保留も終了するんですか」
《はい》
「削除より先に、保留が消えるんですね」
《業務効率化のためです》
効率化。
便利な言葉だった。
だいたい、何かを急いで片づけたい時に出てくる。
第二窓口の待合スペースは、いつもより静かだった。
新規受付停止の案内が出ているからか、利用者は少ない。
その代わり、職員の方が慌ただしい。
ロッカーの名札が外され、通路には段ボールが積まれている。
旧現実管理局は、役所だったものの残った部分だ。
その残った部分にも、さらに終了通知が来た。
残りものにも賞味期限があるらしい。
案内モニターには、新しい表示が流れていた。
『本日をもって、第二窓口の新規受付を終了します』
『未処理案件は、ネオ・リアル側へ自動移管されます』
『保留中の申請は、順次最適化処理へ移行します』
『保留印・受付印・差戻印は、職員返却箱へお戻しください』
最後だけ、急に小学生の持ち物みたいだった。
印鑑にも帰る箱がある。
帰る場所があるだけ、まだましかもしれない。
「未処理案件一覧を表示してください」
僕は言った。
《表示します》
画面が切り替わった。
見覚えのある名前が並ぶ。
【未処理案件一覧】
桐谷透花。母親削除。
三枝舞衣。味噌汁通知。
秋山遼平。妻の癖。
第三中学校。遅刻の席。
瀬尾千尋。本人墓。
水原悠斗。本人確認競合。
母親。味噌汁。妻の癖。学校の席。自分の墓。失敗した自分。
別々の痛みが、同じ一覧に並んでいた。
その一覧を見ていると、僕の机の上だけが、少しずつ待合スペースになっていく気がした。
画面の右端には、同じ言葉がいくつも見えた。
移管予定。
移管予定。
移管予定。
人間の途中を、ずいぶん運びやすそうに呼ぶ。
「本人性再構成って何ですか」
僕は、水原悠斗の欄を見ながら聞いた。
《開示権限がありません》
「第二窓口担当には、最後まで何の権限もないですね」
《はい》
いつもなら、そこで少しは笑えた。
今日は、あまり笑えなかった。
水原悠斗の欄には、まだ昨日の判定が残っている。
【本人確認】競合
【旧現実側本人】活動中
【ネオ・リアル側本人】申請中
削除されるはずの自分は、旧現実側でまだ文章を書いていた。
その案件が、本人性再構成へ移管される。
再構成。
人間は、壊れた家具ではない。
そう言いたくなったが、言わなかった。
たぶん、NORAには比喩の意図が不明だ。
そして、たぶん正しい。
僕は桐谷透花の案件を開いた。
最初の申請。
【申請種別】家族関係削除
【対象】現実側母親
【希望処理】完全削除
【職員判断】保留
【追加確認】申請者本人の再意思確認
画面の下に、処理欄が表示される。
【完全削除】
【差戻し】
【追加確認】
【保留】
そのうち、【保留】だけが薄い灰色になっていた。
カーソルを合わせる。
【保留】権限停止予定
僕はクリックした。
何も起こらない。
画面の端に、NORAの表示が出た。
《保留権限は、17:00 をもって停止されます》
「まだ17時ではありません」
《段階的な制限が開始されています》
段階的に嫌なことをするな、と思った。
言わなかった。
画面には、透花の申請理由が残っている。
【申請理由】
現実の母は、私の母としての品質を満たしていません。
その下に、昨日まではなかった補助表示が出ていた。
【移管予定】自動再判定
【推奨処理】家族関係削除、またはネオ・リアル側母性モデルへの完全統合
完全統合。
便利な言葉が、またひとつ増えていた。
母親を削除する。
母性モデルへ統合する。
どちらも、画面の上では同じくらい清潔に並んでいる。
じゃがいもが少し煮崩れたカレーの通知は、どちらの欄に入るのだろう。
品質を満たしていない母親が、昔つくったカレーの匂いは。
画面は、何も答えない。
ただ、保留欄だけが灰色になっている。
《保留印の返却をお願いします》
NORAが言った。
「急かさないでください」
《返却期限まで、あと二時間二十一分です》
「急かしていますね」
《はい》
そこは正直だった。
僕は保留印を見た。
赤い持ち手。
机の右上。
まだ返却箱には入れていない。
持ち上げる。
思ったより軽かった。
いつもと同じ重さのはずなのに、今日は少しだけ軽すぎる気がした。
軽いものほど、返すときに重いことがある。
僕はそれを、返却箱の上まで持っていった。
箱の中には、すでに何本かの印鑑が入っている。
保留印を入れれば、ただの備品返却になる。
それだけの話だ。
それだけの話のはずだった。
でも、僕の手は、箱の上で止まった。
画面の中では、桐谷透花の申請がまだ開いている。
現実の母を削除したい少女。
母親としての品質を満たしていない、と書いた少女。
じゃがいもが少し煮崩れたカレーの通知を、消せなかった少女。
そして、その申請の保留欄は、もう薄い灰色になっている。
僕は保留印を箱に入れなかった。
とりあえず、机の上に戻した。
とりあえず。
この職場で一番、人間らしい言葉かもしれない。
総務担当者が、通路の向こうからこちらを見た。
返却箱。
机の上の保留印。
僕の手。
その三つを順番に見て、何も言わずに台車を押していった。
何も言われない方が、言われるより少し困ることがある。
NORAは沈黙していた。
こういう時だけ、本当に賢い。
しばらくして、画面の端に別の通知が表示された。
【職員権限更新通知】
【職員ID】朝倉 理久
【所属】現実解約課 第二窓口
【職員権限】本日 18:00 停止予定
【未処理判断権限】順次制限中
【保留権限】17:00 停止予定
自分の名前が、未処理案件と同じ画面にあるのは、あまり気分がよくなかった。
「僕も移管対象ですか」
僕は聞いた。
《職員権限は、業務終了に伴い停止されます》
「質問には答えていませんね」
《回答可能範囲ではありません》
画面の隅に、一瞬だけ別の表示が重なった。
【朝倉 理久】
【ネオ・リアル側登録状況】一部未了
僕がそこを見ようとした瞬間、表示は消えた。
「NORA」
《はい》
「今の表示は」
《現在の職員権限では開示できません》
「まだ職員なのに」
《順次制限中です》
便利な言葉だった。
画面の向こうで、案内モニターの文言がまた切り替わった。
『第二窓口の新規受付は、まもなく終了します』
『未処理案件は、順次ネオ・リアル側へ自動移管されます』
『ご不明点は、移管後の各専用窓口へお問い合わせください』
ご不明点。
不明なまま移管されるものの数を、たぶん誰も数えていない。
僕は水原悠斗の案件を開いた。
【水原 悠斗】
【申請種別】自己情報削除
【現状】本人確認競合/削除不可
【移管予定】本人性再構成
画面下の処理欄が表示される。
【完全削除】権限制限中
【差戻し】権限制限中
【追加確認】制限中
【保留】権限停止予定
昨日までなら、少なくとも追加確認を押していた。
削除されるはずだった自分が、まだ文章を書いていた案件。
もう一度、確認するべきものはいくつもあった。
僕は【追加確認】にカーソルを合わせた。
《職員判断による追加確認は制限されています》
「追加確認も、ですか」
《はい》
「保留だけじゃなく」
《はい》
「完全削除は?」
《移管後の自動処理対象です》
「そこは残るんですね」
《はい》
消す前に、一度止めること。
確認すること。
差し戻すこと。
そういうものが、少しずつ薄い灰色になっていく。
完全削除だけが、まだ妙にはっきりしている。
画面というのは、時々とても正直だ。
「僕の仕事は、削除することだったんですか」
僕は聞いた。
NORAは少し間を置いた。
《現実解約課 第二窓口の主業務は、現実側関係情報の解約支援です》
「支援」
《はい》
「では、保留は?」
《職員判断による一時処理停止です》
「一時」
《はい》
そうか。
保留は、ずっと保留ではない。
当たり前のことだった。
当たり前のことほど、最後に言われると腹が立つ。
僕は水原悠斗の案件を閉じた。
桐谷透花の案件も、瀬尾千尋の墓地データも、第三中学校の同期異常も、閉じた。
画面には、業務終了通知だけが残った。
【終了予定時刻】本日 18:00
まだ時間はある。
でも、保留欄はもう灰色になっている。
時間が残っていても、選べないものはある。
それはたぶん、人間の生活でも、よくある。
返却箱の中で、印鑑がひとつ転がった。
誰かが隣の窓口で、最後の受付印を入れたらしい。
小さな音だった。
かこん、と乾いた音。
それだけで、窓口がひとつ閉じた気がした。
僕の机には、まだ保留印がある。
返していない。
返せていない。
どちらの言い方が正しいのか、自分でも分からなかった。
その時、画面の右下に、新しい通知が出た。
業務通知ではなかった。
未処理案件でもなかった。
個人通知。
《個人通知を受信しました》
【宛先】朝倉 理久
【通知種別】ネオ・リアル側家族環境登録
【状態】登録準備完了
僕は、しばらくその文字を見ていた。
家族。
他人の家族関係削除を、何度も処理してきた。
母親。
妻。
恋人。
墓に来る父親。
連絡を返せなかった友人。
そういうものを、ずっと窓口の向こう側として扱ってきた。
画面のこちら側には、来ないものだと思っていた。
通知は、さらに続いた。
《朝倉理久様のネオ・リアル側家族環境登録準備が完了しました》
《旧現実側家族情報を参照しますか?》
【参照する】
【参照しない】
【後で確認】
僕は、返せなかった保留印の横で、その通知を見ていた。
【旧現実側家族情報を参照しますか?】
【参照する】
【参照しない】
【後で確認】
選択肢の中に、保留はなかった。
第8話 本物の世界は、まだ契約中です
旧現実管理局
利用者支援部
現実解約課
第二窓口
【最終移管前確認】
【対象部署】現実解約課 第二窓口
【残り受付時間】00:32:14
【未処理案件】一括移管準備中
【保留権限】停止済
【追加確認権限】制限中
【未処理案件の変更申請】受付可能
世界は保留を嫌うくせに、変更だけは最後まで受け付けるらしい。
僕は画面の右下に表示された残り時間を見ていた。
数字は、いつも正確だ。
正確なものほど、人間に優しいとは限らない。
机の右上には、昨日返せなかった保留印が置かれている。
赤い持ち手の小さな印鑑。
もう使えない。
返してもいない。
備品としては未返却。
権限としては停止済み。
それでも、まだそこにあった。
画面には、桐谷透花の案件が開かれている。
【桐谷 透花】
【申請種別】家族関係削除
【現状】自動再判定中
【推奨処理】家族関係削除、またはネオ・リアル側母性モデルへの完全統合
第二窓口の待合スペースには、もうほとんど人がいなかった。
案内モニターは、新規受付終了を繰り返している。
『第二窓口の新規受付は終了しました』
『未処理案件は順次ネオ・リアル側へ移管されます』
『申請者本人による変更申請は、最終移管前まで受付可能です』
最後の一文だけ、まだ少しだけ人間に見えた。
「変更申請は、まだ可能なんですね」
《はい》
「保留はできないのに」
《はい》
「一度止めることはできない。でも、本人が変えることはできる」
《概ね該当します》
僕は桐谷透花の案件を開いた。
最初の申請。
本人が、まっすぐ第二窓口へ持ってきた申請だった。
【家族関係削除申請】
【申請者】桐谷 透花
【対象】現実側母親
【希望処理】完全削除
【申請理由】現実の母は、私の母としての品質を満たしていません。
画面の下には、昨日から変わった処理欄が出ている。
【完全削除】移管後処理対象
【母性モデル完全統合】推奨
【追加確認】制限中
【保留】停止済
【申請者本人による変更】受付可能
【保留】は、薄い灰色のままだった。
何度見ても、そこだけ画面の血色が悪い。
保留印は、机の右上にある。
使えないものがあると、人はなぜかそれを見てしまう。
押せないボタン。
返せない印鑑。
書けない理由欄。
閉じられない画面。
人間は、使えないものに案外長く付き合う。
そのとき、入口側の自動扉が開いた。
新規受付は終了している。
だから、音が妙に大きく聞こえた。
入ってきたのは、少女だった。
制服ではなかった。
第1話の時より、少しだけ大人びて見えた。
白いパーカーの袖を、片手で少し握っている。
けれど、どこか冷静で、どこか失敗しそうな顔は、あまり変わっていなかった。
桐谷透花。
母を削除したいと申請し、カレーの通知で止まった少女。
透花は受付機の前で少し止まった。
受付機の画面には、
【新規受付終了】
と表示されている。
透花はそれを見て、少しだけ眉を寄せた。
それから、まっすぐ第二窓口へ歩いてきた。
「桐谷透花さん」
僕は言った。
「新規受付は、終了しています」
透花は、少し息を切らしていた。
走ってきたのかもしれない。
でも、泣いてはいなかった。
怒ってもいなかった。
第1話の時と同じように、どこか冷静で、どこか失敗しそうな顔をしていた。
「新規じゃありません」
透花は言った。
「変更です」
第二窓口の空気が、少し止まった。
NORAの表示が、画面の端に出る。
《申請者本人による変更申請は受付可能です》
世界は、こういう時だけ妙にすばやい。
「変更内容を確認します」
僕は言った。
透花は、うなずいた。
机の上で、使えない保留印が静かに立っている。
僕はそれを見ないようにして、画面を操作した。
【申請者本人による変更申請】
【申請者】桐谷 透花
【対象申請】家族関係削除申請
【現在処理】自動再判定中
【変更可能時間】00:28:46
「変更内容は」
僕が聞くと、透花は少しだけ口を開いた。
すぐには言わなかった。
言葉を選んでいるのではなく、選ぶ前の箱が見つからないような顔だった。
第1話の時、彼女は削除理由をきれいに書いていた。
現実の母は、私の母としての品質を満たしていません。
あれは、ひどい言葉だった。
でも、書ける言葉だった。
今、透花の口元にあるものは、それよりずっと書きにくそうだった。
「完全削除を」
透花は言った。
「取り消したい、わけじゃないです」
僕は黙っていた。
NORAも黙っていた。
「まだ、消したい気持ちはあります」
透花は画面を見ないで言った。
「母性モデルの方が楽です。ちゃんと褒めてくれるし、変なこと言わないし、こっちが欲しい言葉を、だいたい分かってくれるし」
「はい」
「現実の母は、たぶん今も品質低いです」
「はい」
「通知も変だし、距離感も変だし、話すとたぶん腹が立ちます」
「はい」
「でも」
そこで、透花は一度だけ息を吸った。
「削除する前に、一回だけ見たいです」
画面の中で、変更欄が点滅した。
【変更前】家族関係削除
【変更後】未入力
僕は、キーボードに手を置いた。
「一時面会申請へ変更しますか」
透花は、少しだけ目を伏せた。
「はい」
NORAが判定を表示する。
《申請者本人による変更申請は受付可能です》
《変更可能種別:一時面会申請》
画面の文字が切り替わる。
【変更前】家族関係削除
【変更後】一時面会申請
【対象】現実側母親
【希望処理】完全削除 → 一時面会
【面会回数】一回のみ
【面会理由】未入力
面会理由。
そこだけ、空欄だった。
透花は、その欄をじっと見た。
「理由欄は任意です」
僕は言った。
「削除理由は書けたんですけど」
透花が言った。
声は小さかった。
「会いたい理由は、書けないです」
第二窓口の奥で、段ボールの底が床をこする音がした。
僕は、未入力の欄を見ていた。
削除理由は書ける。
会いたい理由は書けない。
そういう欄は、申請書にはあまり向いていない。
「理由が未入力でも、申請は出せます」
僕は言った。
透花は、少しだけ僕を見た。
「いいんですか」
「はい」
「理由、ないわけじゃないんです」
「はい」
「でも、書くと嘘になります」
「では、書かない方がいいかもしれません」
透花は、ほんの少しだけ困った顔をした。
たぶん、安心した顔ではなかった。
でも、何かを無理に正しい形へ押し込まなくていいと言われた時の顔だった。
「会いたい、っていうのも」
透花は言った。
「合ってるか分かりません」
「では、どうしますか」
透花はしばらく黙った。
それから、画面の中の【一時面会申請】という文字を見た。
「見たい、です」
彼女は言った。
「私が消したいと思った人が、本当にそれだけだったのか」
僕は入力欄を空のままにした。
【面会理由】未入力
その未入力の方が、たぶん、いまの透花には正確だった。
「現実側母親情報を参照します」
僕は言った。
NORAが表示を切り替える。
《旧現実側家族情報を参照します》
画面が、一拍遅れて開いた。
【現実側母親情報】
【対象】桐谷 美佐江
【続柄】母
【生活状態】旧現実側居住中
【最終通知】昨日 19:12
【通知内容】じゃがいもを買いすぎました。カレー以外に使い道ありますか。
沈黙が落ちた。
重い沈黙ではなかった。
かなり微妙な沈黙だった。
透花は、画面を見て、少しだけ目を細めた。
「まだ、そういう通知なんですね」
「はい」
「ほんと、品質低いですね」
「そうですね」
「カレー以外に使い道って」
透花は、少しだけ息を吐いた。
笑ったわけではない。
泣いたわけでもない。
ただ、ものすごく面倒な通知を、ものすごくよく知っている顔だった。
「前も、じゃがいもでした」
「はい」
「買い物の量、覚えないんですよ。昔から」
「はい」
「だから、カレーばっかりになるんです」
「はい」
「で、本人は『栄養あるからいいでしょ』って言うんです」
「かなり言いそうですね」
「言います」
透花は即答した。
その即答が、少しだけ第1話の彼女と違っていた。
現実の母は、品質を満たしていない。
その判定は、たぶん今も透花の中にある。
でも、じゃがいもを買いすぎる人が何を言いそうか、彼女はすぐに答えられる。
それは愛情とは違うかもしれない。
許しとも違う。
ただ、削除欄だけでは少し足りない何かだった。
《一時面会接続が可能です》
NORAが表示した。
【一時面会時間】03:00
【旧現実側接続】待機中
【会話記録】保存可能
「会話記録は保存できます」
僕は言った。
透花はすぐに首を横に振った。
「残さなくていいです」
「よろしいですか」
「残したら、また消したくなると思うので」
それは、かなり正しい判断のように聞こえた。
記録に残すと、きっとあとで分類したくなる。
分類すると、きっと削除したくなる。
削除したくなると、またここに戻ってくる。
この窓口は、もうすぐ閉じるのに。
僕は設定を変更した。
【会話記録】申請者選択により保存しない
「一時面会を開始します」
画面に、接続表示が出る。
【旧現実側接続】開始
【一時面会時間】03:00
03:00。
02:59。
02:58。
画面が揺れた。
ノイズが少し走り、旧現実側の室内映像が表示される。
古いキッチンだった。
水切りかご。
土のついたじゃがいも。
少しずれた鍋のふた。
エプロンの紐が片方だけねじれた女性。
桐谷美佐江。
透花の母。
母は、画面に映った透花を見て、目を丸くした。
感動的な音楽は鳴らない。
花も降らない。
旧現実側のキッチンで、鍋の湯気だけが少し上がっている。
母は、最初にこう言った。
「あんた、ご飯食べてる?」
透花の眉が、すぐに寄った。
「それ、最初に言う?」
「ほかに何言えばいいのよ」
「久しぶり、とか」
「久しぶり」
「今言うの?」
「じゃあ、最初からやり直す?」
「やり直せないでしょ、こういうの」
「そうなの?」
「知らないけど」
母は、困ったように画面を見た。
透花も、困ったように画面を見た。
親子らしい、という言葉が合っているのかは分からなかった。
でも、会話の噛み合わなさだけは、かなり自然だった。
僕は、音声記録の表示を確認した。
【会話記録】保存しない
会話の内容は、記録されなかった。
記録しない設定を、透花が選んだからだった。
だから、ここから先の言葉は、システムには残らない。
母が何を言ったのか、透花が何と返したのか。
記録には残らない。
第二窓口の職員である僕も、少しだけ画面から目を外した。
見ないことが、確認になる場合もある。
残り時間だけが、画面の端で減っていく。
01:12。
01:11。
01:10。
透花の声が、一度だけ少し大きくなった。
「そういうところが嫌って言ってるの」
母の声が返る。
「じゃあどういうところがいいのよ」
「それを今聞く?」
「今しか聞けないんでしょ」
透花は黙った。
母も黙った。
鍋の湯気だけが、画面の中で少し白くなった。
00:08。
00:07。
00:06。
最後に、母が何かを言った。
音声記録は、残っていない。
透花がそれに何と答えたのかも、残っていない。
ただ、接続終了の表示だけが出た。
【一時面会終了】
画面が閉じる。
旧現実側のキッチンは消えた。
じゃがいもも、鍋も、エプロンのねじれも、母の変な第一声も、すべて画面から消えた。
透花は、しばらく何も言わなかった。
泣いてはいなかった。
笑ってもいなかった。
ただ、少しだけ疲れた顔をしていた。
「やっぱり、変でした」
透花は言った。
「はい」
「品質、低かったです」
「はい」
「たぶん、次に話しても腹立ちます」
「はい」
「でも」
透花は、画面の消えた場所を見ていた。
「消すのは、今日じゃないです」
僕は処理結果を表示した。
【家族関係削除申請】
【変更後】一時面会済
【削除処理】未実行
【今後の処理】申請者判断待ち
NORAが判定を表示する。
《削除処理は未実行です》
《今後の処理は、申請者判断待ちへ移行します》
「保留ではないんですね」
僕は言った。
《保留権限は停止されています》
「でしょうね」
保留ではない。
でも、削除でもない。
透花が自分で、今日ではない場所へ置いた。
それは保留によく似ていた。
でも、僕の保留印は使っていない。
透花は、画面の表示を見ていた。
「これ、また削除できますか」
「できます」
「そうですか」
「はい」
「じゃあ、まだ嫌いでいてもいいんですね」
「それは、申請の範囲外です」
透花は、少しだけ笑った。
ほんの少しだけ。
「便利ですね」
「便利すぎますね」
第1話の時より、彼女の笑い方は少しだけ疲れていた。
でも、たぶん、それでよかった。
すっきりした顔で帰られるより、ずっとよかった。
「削除理由は、まだ残しておきます」
透花は言った。
「はい」
「会った理由は、まだ書けません」
「未入力で大丈夫です」
透花はうなずいた。
それから、受付機の方を一度だけ見た。
【新規受付終了】
まだその表示が出ている。
「間に合ってよかったです」
透花は言った。
「変更可能時間内でした」
「そういう言い方、ほんと役所ですね」
「役所だったものなので」
透花は、少しだけ眉を上げた。
それから、もう一度、画面に残った【申請者判断待ち】という文字を見た。
「じゃあ」
「はい」
「たぶん、また」
彼女はそこで言葉を止めた。
また来ます、とは言わなかった。
また削除します、とも言わなかった。
また会います、とも言わなかった。
それでよかった。
未入力のままの方が、正確な言葉もある。
透花は小さく頭を下げて、第二窓口を離れた。
自動扉が開く。
彼女が出ていく。
案内モニターは、まだ新規受付終了を流している。
でも、ひとつだけ未処理案件の表示が変わっていた。
【桐谷 透花】
【現状】申請者判断待ち
【削除処理】未実行
僕は、その表示をしばらく見ていた。
そのとき、画面の右下に、また個人通知が出た。
第7話の最後に届いていた通知。
まだ未処理のまま残っていたもの。
《個人通知が未処理です》
【宛先】朝倉 理久
【通知種別】ネオ・リアル側家族環境登録
【状態】登録準備完了
残り受付時間は、もう少なかった。
【残り受付時間】00:04:12
四分。
人の家族を処理するには短い。
自分の家族を処理するには、もっと短い。
僕は返せなかった保留印を見た。
赤い持ち手。
小さな備品。
もう使えない。
でも、まだそこにある。
「NORA」
僕は言った。
「個人通知を開いてください」
《開示します》
画面が切り替わった。
【朝倉 理久】
【ネオ・リアル側家族環境登録】準備完了
【旧現実側家族情報】参照可能
【旧現実側家族情報を参照しますか?】
【参照する】
【参照しない】
【後で確認】
選択肢の中に、保留はない。
それは、もう知っている。
僕は、【参照する】を選んだ。
画面が少しだけ暗くなった。
読み込み表示が出る。
《旧現実側家族情報を参照中》
数秒。
旧現実管理局の数秒は、最後まで長かった。
画面に、新しい表示が出た。
【朝倉 理久】
【旧現実側家族情報】参照完了
【ネオ・リアル側家族環境登録】未完了
続けて、もう一枚の画面。
朝倉理久
旧現実契約:未解約
解約理由:未入力
僕は、その表示を見ていた。
旧現実契約。
未解約。
解約理由。
未入力。
ひどく簡単な画面だった。
簡単な画面ほど、入力欄の外側にいろいろ落ちている。
《解約理由を入力してください》
NORAが言った。
画面の中央に、入力欄が出る。
【解約理由】
|
カーソルが点滅している。
何かを書こうとした。
けれど、何を書いても少し違う気がした。
不便だから。
痛いから。
戻りたくないから。
どれも理由にはなる。
でも、解約理由としては、少しだけ足りなかった。
僕は、自分の家族情報を細かく開かなかった。
誰の名前があり、どの通知や未送信文が残っているのか。
開いた瞬間、誰かを処理対象として見てしまう気がした。
たぶん、開けば何かが出てくる。
でも、今は開かなかった。
開かないことが、逃げなのか、判断なのかも分からない。
返しそびれた保留印が、机の端で小さく立っていた。
備品としては未返却。
権限としては停止済み。
それでも、まだそこにあった。
《解約理由を入力してください》
NORAが、もう一度だけ表示した。
「理由欄は、任意ですか」
僕は聞いた。
《解約申請には理由入力が推奨されています》
「必須ではない」
《未入力の場合、解約処理は完了しません》
「でしょうね」
当たり前だった。
解約理由が書けなければ、解約できない。
透花は、会いたい理由を書けなかった。
僕は、解約理由を書けなかった。
理由がないわけではない。
でも、書くと嘘になる。
画面の右下で、残り時間が減っている。
00:01:09。
00:01:08。
00:01:07。
第二窓口の空気が、少しずつ夜の水みたいに冷えていく。
僕は、解約理由欄を空欄のままにした。
【解約理由】未入力
NORAは何も言わなかった。
こういう時だけ、本当に賢い。
僕は、返しそびれた保留印を見た。
もう使えない。
でも、そこにある。
もう、押せる欄はどこにもなかった。
僕は、画面を閉じた。
解約理由が見つからないものは、だいたいまだ契約中だ。
