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[短編小説]遠く、かなたのヴァシランド


【あらすじ】
 パッとしない大学3年生の沢村夏向は、就活先の大手外食会社の社員から、スピーチコンテストへの出場を誘われる。ただし条件は原稿を「障害のある父・凛太郎との思い出を交えながら、自分をヤングケアラーだったと社会に訴えかける」内容に改変すること。

 ヤングケアラーとは、家族の障害や病気の介護で忙しく、子どもらしい生活を送れなかった子どもたちのことだ。

 スピーチコンテストで優勝すれば就職も有利となるし、社会問題を広めることで子どもたちが救われるという意義を、夏向は理解していた。でも、本当は優しくて明るい父が自分を苦しめる存在だったと脚色することに、夏向は罪悪感を抱きつづける。
 
 スピーチコンテストの前日、原稿を知ってしまった凛太郎は、屋上から飛び降りようとする。駆けつけた夏向は凛太郎に抱く本心に気づき、ヤングケアラーという肩書と就職を捨てる決意をして、会場へと向かうのだった。

(ヘッダーイラスト……百さん|描き下ろし)

金曜の夕方、渋谷のオフィスビル。一階ロビーに隣接しているこのスターバックスコーヒーも、ひっきりなしに人が出入りしていて騒がしかった。

ぼくの目の前では、女の人が泣いていた。

「あなたもヤングケアラーだったんだね、夏向かなたくん」

今日、初めて会った四谷 美樹よつや みきさんが、鼻を鳴らして泣いていた。年上の女性に泣かれるなんて、生まれて初めてのぼくは、どうしたらいいかわからない。

いや、どうしたらいいかわからない理由は、もうひとつある。

突如として彼女がぼくに与えた、

“ヤングケアラー”

という肩書の意味が、よくわからなかった。


だけど、四谷さんはまるで、不時着してさまよい続けた砂漠で、100日ぶりに人間と巡り合ったような顔で興奮している。

だからとりあえず、ぼくは曖昧にうなずいて、その肩書を受け入れた。

四谷さんは、大手飲食サービス会社の社員だ。ぼくより四歳上で、ぼくと同じ大学を出ている。

数ヶ月前、就活に有利と聞き、その会社が主催するインターンシップに応募したら、飲食事業にまつわることを作文に書けといわれた。

作文が苦手なぼくは、深く考えることなく、締切ギリギリで書いた。

そう、こんな具合に。

沢村夏向、緑前大学3年生です。

高校生のころ、ぼくの父は入院していました。ぼくの夕飯はもっぱら、近所にあった牛丼屋でした。定番も期間限定も、全種類食べまくって、ひとりでトーナメントを開催しました。二年後に父が退院しました。ぼくの中で優勝した牛丼を、父と一緒に食べました。父はとても喜んでくれました。

以上。

いま読んでも、なにがおもしろいんだかわからないが、選考を担当した人事部の四谷さんには、刺さるものがあったらしい。

この作文でインターンシップ生として合格し、今日の顔合わせにも参加したあと、ぼくだけが四谷さんに呼び出されて、今に至る。

四谷さんは、喜怒哀楽が激しく、面倒見がよくて、とんでもなく聞き上手な人だった。それでつい、ぼくも身の上を、長々と話してしまった。

ぼくの父親が入院していたという話を聞いてから、四谷さんは泣き出したのだ。

「ごめん。わたしもお母さんがうつ病で、ヤングケアラーだったから、いろいろ思い出しちゃって……」

四谷さんは、紙ナプキンでそっと目頭を押さえた。

ぼくは、ふにゃふにゃになったカフェラテの紙ストローを、手でいじくりながら、苦笑いしてうなずいた。ヤングケアラーという同じ肩書を持つらしい四谷さんにも、やっぱり、なんて言ったらいいかわからなかった。

「あのね」

四谷さんは、合成皮革の角張ったリュックサックから、一枚のチラシを取り出した。

「お願いがあるんだ。夏向くんの話をもっと掘り下げて、ここで話してくれない?」

チラシには『フレーバー・オブ・ドリームカップ』というタイトルが、大きく描かれている。

「うちの会社がスピーチコンテストを主催してるの、知ってるよね」

ぼくは、うなずいた。

この会社が毎年『フレーバー・オブ・ドリームカップ』なるスピーチのコンテストを主催しているのは、有名な話だ。

とにかく規模が大きく、派手なイベント。都内の音楽ホールを貸しきり、芸能人の司会や演出をバンバン入れて、1000人を越える観客とともにYoutubeでも配信する。

スピーチをするのは、30歳以下の若者と決まっていた。人生と夢にまつわることを語り、選考を勝ち抜いて優勝すると、夢をバックアップする賞金1000万円が会社から贈られるのだ。

若者にとっては、一日、一回のスピーチで、人生が変わる機会。

そんな夢みたいな舞台だから、ぼくはてっきり、四谷さんから、運営の手伝いにでも誘われているのだと勘違いした。

「毎年、出場の一枠は人事部から若手を推薦するんだよね」

「へえ」

「今年は夏向くんがいいって、わたしが推したら、人事部の反応もよくて。ほら、うちの会社、介護用の宅配弁当事業も始めたでしょ、それもあって」

「……えっ?」

「んっ?」

ぼくと四谷さんは、しばし見つめ合った。

「ぼくが、スピーチするんですか?」

「そうだよ!」

四谷さんは、澄んだ瞳で、ぼくのことをじっと見据えた。

「いやいやいや!むっ、無理ですよ、あんな短い作文で」

「そこはほら!夏向くんのインターンシップ中に、わたしがブラッシュアップを手伝うよ!さっき聞いたお父さんの話とか、スピーチに加えたら、すごくいいと思ったんだ」

いつの間にか、泣いていたはずの四谷さんの鼻息が荒くなっている。

ぼくは動揺した。

ぼくは今までの人生で、パッとするような活躍はなにもできやしなかった。そんなぼくが、人前で、それも、あんな大きな舞台で話すなんて、無謀としか思えなかった。

「自信ない?」

あるわけがない。ぼくの頬のあたりがひきつった。

「夏向くんは、夏向くんのままでいいんだよ。夏向くんのつらさを、このスピーチではなんにも遠慮せず語ってほしいな」

「はあ……」

四谷さんの熱すぎる勢いに飲まれそうになったけど、どうにも感情が噛み合わなくて、尻のあたりが浮きそうにむずかゆい。

つらい?

四谷さんは一体、あの単純な作文のどこに、つらさを見出したのだろうか。

「えっと、ぼく、つらいってわけじゃないんですが」

「……そうだよね。夏向くんがお父さんのことを大切に思ってたのは、作文からも伝わってくるよ」

四谷さんはすべてを包み込むように、優しく、うなずいた。

そのまま、ぼくの手でも握ってくれそうな慈悲すら感じたので、自意識過剰にも照れてしまったぼくは、テーブルの下に両手を引っ込めた。

「でもわたしたちって、よく考えると、まわりの友だちみたいに子どもらしくは生きられなかったと思うんだ。あの時は、自分がヤングケアラーっていう存在で、苦しんでいることにすら気づかなくて、わたしも助けを求められなかった。今、夏向くんがお父さんとのことをスピーチすれば、苦しんでる子どもを救えると思うの!」

四谷さんは、世紀の大発見でもプレゼンテーションするかのごとく、早口でまくし立てた。熱さと期待に気圧されて、カランッ。グラスの氷が、溶けて落ちる音がした。

「夏向くん、お願いっ!」

「でも……」

「四年生になったらうちの会社も志望するんだよね。だったら絶対、出演するだけで就職も有利になるよ。こんなこと、人事部のわたしが言っちゃいけないんだけど」

魅力的な響きだった。
おちゃめに舌を出す四谷さんも、魅力的だった。

この人は、本当に、本気で、ぼくのことを買ってくれているのだ。それだけは、これでもかとわかった。

同時に、ぼくの脳裏には、いろんな人の顔が浮かんでは消えた。バイトも、ゼミも、第一志望の大学推薦も、選考と名のつくものには落ち続けたぼくが、見返せるかもしれない人たちの顔。

気づいたらぼくは、チラシを受け取っていた。

それから小一時間、スピーチコンテストの作戦を立て、ぼくに加筆すべき宿題を与えると、四谷さんはそよ風のように走り去っていった。

興奮気味に褒められつづけたぼくには、無根拠な自信がぞくぞくと芽生えて、俄然、やる気になっていた。


まだ、浮ついている頭と身体でオフィスを後にし、生ぬるい風の美竹通りを下る。

宮下公園の前の信号で立ち止まっている間、ぼくはスマホを取り出した。

検索画面に、さっきまで知らなかった言葉を打ち込んでみた。

『ヤングケアラー』

『2023年4月に発足したこども家庭庁においての定義は、病気や障害のある家族・親族の介護などで忙しく、本来受けるべき教育を受けられなかったり、同世代との人間関係を満足に構築できなかったりする未成年のこと。』


そこに書かれていた単語ひとつひとつは、見慣れているのに、二度、三度と読み直さないと、意味を飲み込めなかった。

ぼくが送ってきた人生は、どうやら、ヤングケアラーに当てはまるらしい。そんなの、急に言われても、なあ。

スマホの画面が突然、黒くなる。電話の着信だった。

「おう夏向、ワンタンスープは終わったんか」

相手は、父だった。 

「インターンシップな。終わったよ」

「あのな、いまラジオで言うてたけど、西武線が止まっとんぞ」

「げっ、マジか」

「聞いて喜べ、舞い踊れ。いま車で渋谷おるから、乗っけたらあ」

場所を聞いて、電話を切る。

坂道を登り返し、広い青山通りまで出た。探しまわる手間すらなく、派手すぎる真っ赤なスポーツカーが視界に入った。

運転席には、ヒゲ面にティアドロップ型のサングラス、スキンヘッドにニット帽をキメた、デカくてイタいおっさんが乗っていた。

おっさんの表情は、絶望的にデレデレしている。

理由はすぐにわかった。大学生らしき女の子の二人組が、運転席の窓をのぞき込んでいた。

「えーっ、ホントに手だけで運転できちゃうんだあ」

「せやで。トップガンみてえでかっけーっしょ」

運転を褒められていい気になったおっさんは、チェンジギアの横から伸びるレバーを、ガチャガチャとわざと大きな音を立てて動かす。ブオオンッ。青山通りでエンジンが吠える。レバーはアクセルの機能を果たしていた。

「えー、わかんなあい」

「このグラサンでわからんか?トム・クルーズよ?そりゃあもったいねえわ!」

「えー、そうかなあ」

「おっしゃ!そんなら、どうよ?授業終わったら迎えに来ちゃるから、三人で映画でも」

「えー、やだあ」

女ふたりは顔を見合わせ、きゃらきゃら笑いながら、青山通り沿いの大学へと吸い込まれていった。見事なフェードアウト・スキルだ。

ぼくは、助手席に乗り込む。良いように使われただけで、がっくりきているおっさんの頭を、バシンッと叩いた。

「いでっ。……おう、夏向!」

暇さえあれば成功しないナンパをしている、マヌケなおっさんは沢村凛太郎りんたろう

ぼくの父親である。


赤いスポーツカーは、東京から埼玉に帰るだけのためには必要ないはずの爆裂的なターボエンジンを回しに回して、首都高速から関越自動車道へと滑り込んだ。

父・凛太郎は、カーステレオから流れる『田園』を野蛮に口ずさみながら、右手でハンドルを切り、急カーブを曲がり終えると、左手でレバーをガチャガチャと動かして、野蛮に車線を変更した。

凛太郎の左手が添えてあるレバーは、足元につながっている。手前に引けばアクセル、奥に押せばブレーキがかかる。

これは凛太郎が運転するための、特別な改造だった。

凛太郎の足には、障害があって、動かないからだ。


渋谷から一時間と少しで、ぼくらは自宅に到着した。

駐車場にスポーツカーが停まる。

先に降りたぼくは、後部座席から、凛太郎が雑に放り込んでいた車いすを取り出して、広げて、運転席の横に置いた。凛太郎がひとりの時は、凛太郎が自力でやるんだけど、ふたりの時はこうしたほうが早い。 

凛太郎はビールでこしらえた大きめの腹を揺らしながら、のそのそと車いすに乗り移り、

「よっこらショット」

「撃つなや」

自宅に続く坂道を、前のめりの姿勢でタイヤをめいっぱいこぎ、のぼっていった。すぐに凛太郎の息は上がった。

「押そか?」

「ハア、今日はいける、ハアッ」

ぼくはふたり分の荷物を持って、その後ろをついていく。

かつてニュータウンと呼ばれたなにもない街の、ボロでもないが新しくもない無機質で無難な団地の一階が、ぼくら沢村家だ。

駅徒歩20分、風呂、トイレつき、2LDK。
家賃は、破格の2万5000円。

ここに、ぼくと凛太郎はふたりで暮らしている。

なぜそんな値段で住めているかというと、凛太郎が、障害者の認定を受けているからだ。

五年前、とつぜん狭心症を起こした凛太郎は、手術で一命はとりとめたものの、へそから下が麻痺して、まったく動かなくなってしまった。

それまで住んでいたのは、階段しかないハイツの二階だったので、どうしたもんかと思ったけど、ありがたくもぼくらは自治体に補助された。

訳ありが多い、この団地の住人で、あんな目が覚めるようなスポーツカーに乗っているのは凛太郎ぐらいだ。

凛太郎は、アホなのだ。

入院の後、一時的にドカンと降りた保険金で、凛太郎は赤いスポーツカーを買ってしまった。

もちろん、ぼくは抗議した。

「ごめんて。せやけど、俺かて死にかけたんやから、夢ぐらい早めに叶えさせてくれや」

凛太郎は、歩けていた時と変わらない笑顔で、ゴネにゴネ倒した。ちゃっかり、足を使わずに運転する免許まで、教習所で取ってきやがった。

凛太郎は、障害者になって、夢を叶えた。
どさくさで、めちゃくちゃだ。

その代わり、というか、なんというか、凛太郎はなにかと理由をつけて、ぼくを車で送り迎えしてくれるようになった。学校にも、バイトにも、事あるごとに。ただスポーツカーを見せびらかしたいだけかもしれないが。

実際、凛太郎の送迎にはそれなりに助けられているので、悪い話ではない。

玄関で車いすのタイヤを拭いた凛太郎が、リビングに入ってきたので、ぼくは声をかけた。

「晩ごはん、どうする」

「ああ。今朝な、ヘルパーさんが長崎旅行してきたって、皿うどんもろたで。お前、好きやったやろ」

「モチモチのほう?パリパリのほう?」

「えっ……ど、どやろか?あんま考えたことないけど、60歳手前のわりには、モチモチしとるほうとちゃうか」

「ヘルパーさんじゃねえよ、皿うどんだよ!」

凛太郎は、露骨にホッとした顔をした。

「そんな違いがあるんかいな。どっちやったっけな……うわ、あかんわ、届かん」

台所の冷蔵庫の前で、凛太郎が背伸びした。足が動かないから、背伸びしても、冷蔵庫の上段には届かない。だからうちの冷蔵庫は、下半分だけに、ビールやつまみがミッチミチに詰まっている。

「ちょっと、のいて」

ぼくは凛太郎の横から手を伸ばし、冷蔵庫の上段から皿うどんを取る。ぼくが好きなパリパリの麺だ。今日の夕飯は決まりだ。

「夏向の好きなやつやったか」

「……あのヘルパーさん、こんな好みはよく覚えてるのに、下段に置くっていう気は効かないんだな」

あるあるやな、と凛太郎は笑った。
ぼくは冷蔵庫を閉じて、フライパンを取り出した。

「昨日漬けといた味玉と無限ピーマンもあるから、好きにつこてくれや」

我が家で料理の担当は、ぼくの時も、凛太郎の時もある。各々、外で食べてくるときもあれば、コンビニや出前にもテキトーに頼る。

凛太郎は昔から、酒のつまみを作るのが得意だった。ぼくが中学生の時は、異常に白飯が進むつまみたちを弁当箱に詰めて、持たせてくれることもあった。

できあがった皿うどんを食べながら、凛太郎は目を見開く。

「うまっ。これうまいわ。店出せるで!」

「店のやつだしな」

「夏向が行っとるワンタンシップも、なんや、メシの会社やろ。そのへんのろくに料理したこともないボンボン大学生なんか蹴散らしたれよ」

凛太郎は、インターンシップと就活を、どっちの料理ショーか何かだと思っているらしい。

はるか昔に高校を中退した凛太郎だったが、ぼくの大学への進学は、それが第二志望の滑り止めであっても、やけに誇らしく思ってくれているようだった。

「料理は関係ないけど、なんか、いい感じかも。今日も学生の代表で選ばれて、スピーチすることになった」

「ほっ、ほんまか!お前はやっぱ天才やな!」

天才。凛太郎は何かにつけて、ぼくをそう褒めちぎる。

インスタント麺を調理しても、クレラップの端っこを見つけても、インターンシップに受かっても、なんでも天才と称する。天才のストップ安だ。

「ほんま、母さんによう似て、天才やあ」

これもストップ安だ。死んだ母さんをぼくに重ねる。でも今日は、事が事なだけに、ぼくも褒められて誇らしかった。いつも雑に重ねられて気の毒であろう母さんにも、誇らしかった。

凛太郎は上機嫌で、めずらしく二本目のロング缶チューハイを開栓した。

「早いって。飲みすぎんなよ」

「めでたいんやから祝わせてくれや。夏向のビールも買っといたで。スーパードゥルァァァァイちゃうで。プレモルやでえっ!」

ちょっと高いやつ。ああ、そうか、凛太郎も給料日か。どうりでいつものナンパにも、気合いが入ってたわけだ。

いま、凛太郎は、近所のパチンコ屋の換金所でバイトをしている。車いすのまま掘っ立て小屋みたいなとこに入って、客が来たらヌッと手を出すんだそうだ。

今のご時世で信じられない条件だが、タバコを吸いながらやっていいのと、時給が高いというだけで、凛太郎は楽しく勤めている。

「ほんで、そのスピーチとやら、何を話すんや」

凛太郎の鋭い質問に、ドキッとした。

「……まだ決めてないけど、今までの人生とか、飲食業の未来とか、そういうのだよ」

「ふうん、堅苦しいな」

「就活だし、こんなもんだろ」

なんとなく、うまく説明ができない気がして、ヤングケアラーのことはくわしく伝えなかった。凛太郎が、その単語を知ってるとは思えない。

内容は黙っていよう。スピーチさえ成功して、就活さえうまくいけば、結果で凛太郎が喜んでくれる。ぼくはそう決めた。

皿を片づけて、ぼくは自分の部屋に行こうとすると、凛太郎はリビングのテレビをつけて、阪神タイガースを応援しはじめた。もう4回裏だ。

もっと早く、食事しながら見たらいいのに、凛太郎はそうしない。

理由は、なんとなくわかっていた。ぼくが、小学校、中学校と続けていた野球部を、高校一年生であっさり辞めたからだ。凛太郎は、気を遣って、ぼくの前では大っぴらに野球を観なくなった。

ぼくは、まったく気にしてないのに。

「うおっ、木浪、打っとるやん……」

凛太郎がボソッとつぶやいた。野球好きを隠せないんなら、堂々と見りゃいいのにと思うが、わざわざ気遣いを確認するのも気まずくて、そのままにしている。

一時間半ぐらい経って、凛太郎がぼくの部屋の扉をノックした。ノックというか、車いすのタイヤを、コツッとぶつけた。

阪神タイガースの戦績はさんざんだったけど、めずらしく、凛太郎の機嫌はよかった。

「夏向、フロ入ったか?」

「ちょっと時間かかりそうだから、さき入ってて」

「して、ほなほな、お先」

謎の返事を残し、凛太郎は風呂場に向かった。

凛太郎の方はぼくが風呂に入ったかどうかは気づかないのに、ぼくの方は凛太郎が風呂に入ったらすぐ気づく。

凛太郎は風呂の準備が、とにかくうるさいからだ。

ガチャガチャ、ガチャガチャ、キュッキュッ!

うるっせえ。

車いすのブレーキをかける音。凛太郎がすべり降りる音。風呂場のタイルに車いすや足をぶつける音。風呂場の中でありとあらゆる騒音が反響する音が断続的に聞こえてくる。風呂場の中がなんかの工場になったかと思うほどだ。

しばらくすると、急に静かになって、代わりにシャワーの水音と音痴な鼻歌が聞こえてくる。

入浴まで、だいたいいつも、10分はかかる。

ぼくなら10分あれば、もう風呂あがりのビールまで飲んでる。

ぼくが凛太郎を風呂に入れるのを手伝えば、もっと早いんだろうけど、やったことはない。凛太郎は、風呂とトイレには、絶対にぼくを連れていかない。聖域を守るみたいに、一人で済ませる。

一度、凛太郎が車いすから滑り落ちて、頭を打った時は、さすがにぼくも介助を提案した。

すると、

「これぐらい一人でやらな、腕がなまるわい!筋トレやと思って、そっとしといてくれやあ」

凛太郎はロッキーみたいなポーズを取って、ぼくを聖域から追い出した。まあ、ぼくも、そこまでして凛太郎と風呂に入りたいわけではないので、納得した。

凛太郎が風呂を出るまで、あと40分はかかる。

ぼくは部屋のベッドに寝転がりながら、『フレーバー・オブ・ドリームカップ』の昨年の配信動画を眺めていた。

カンボジアで給食センターを立ち上げたいという、新米栄養士の女の子が、満場一致で優勝を勝ち取り、観客とともに歓喜の涙を流していた。賞金1000万円のパネルを掲げている姿に、ぼくを重ねて、目を閉じる。



それからのぼくは、会社でインターンシップが終わるたびに、四谷さんと合流し、コンテストに向けてスピーチの指南を受けた。

一にも、二にも、原稿の出来が肝心だ。

ぼくのクソつまんない原作に対して、四谷さんの修正案は、こうだった。

病気で障害を抱えることになった父・凛太郎との日々を振り返りながら、リハビリや見舞いで料理どころではなかったぼくの苦しみにもスポットライトを当てる。味気ない日々を支えてくれた牛丼の思い出も、大人の事情で上手い具合に混ぜながら、最終的にはヤングケアラーという存在と問題を、世の中に啓発していくという社会性あふれる物語にする。

壮大すぎて、本当にぼくのことか、わからなかった。

「もちろん、嘘は書かせないよ。夏向くんがお父さんにしてあげたことを、思い出しながら書いてみよう」

四谷さんに言われるがまま、ぼくは、

  1. 退院したてで慣れない凛太郎の車いすを、ぼくが押したこと

  2. リハビリで忙しい凛太郎に代わって、役所へ手続きをしに行ったこと

  3. 高校を何日か休んで、ふたりで団地への引っ越しをしたこと

思いついた順に、挙げてみた。

でも、こんなの、凛太郎に“してあげた”うちに入らない。手伝いですらない。ぼくと凛太郎が生きていくための、役割分担にすぎない思っていた。

でも、四谷さんは、原稿に入れたいと熱望した。

「夏向くんは自覚がなくても、実際に、それで困っている子どもがいるんだよ。この話を聞くことで、自分のことだって気づいて、福祉の支援につながれる子どもたちを増やしたいんだよね」

「はあ……」

そういうもんなのか。

書きなおした原稿の上では、凛太郎が弱々しく、身動きのとれない存在に変わっていた。テキトーで、酒とタバコとナンパが好きで、ぼくを天才と褒めちぎる、機嫌の良い凛太郎は、そこにいない。

そう書いた方がわかりやすいとはいえ、ぼくも現実以上に、大げさな弱音を吐いていることが、すこし気になった。

でも、不安は、翌週のリハーサルで吹っ飛んでしまった。

大きな会議室に、四谷さんほか、インターンシップの同期の仲間や、人事部の先輩たちが集まって、ぼくのスピーチを聞いてくれた。

とても良かったと言ってくれた。泣いてくれた人もいた。
実際、四谷さんは、また泣いていた。

「夏向くんは今まで、たったひとりで抱え込んで、よくがんばったよ。すごいよ。あの日のわたしにも、聞かせてあげられたらどんなによかったかな……」

四谷さんは、ぼくに自分を重ねているのだとわかった。救われるべき存在だったと認めることが、かつてヤングケアラーであった四谷さんの願いだった。

四谷さんの涙を見て、考えた。
ぼくも、救われるべき存在、だったんだろうか。


インターンシップのプログラムも終了し、スピーチコンテストも目前に迫っていた。あとは本番の舞台でのリハーサルだけだ。

今日は、渋谷で凛太郎と合流する予定だった。

「打ち上げに、飯でも食って帰ろや。とびっきりの美女も連れてきちゃるからよ!」

凛太郎は息巻いていたが、どうせヘタクソなナンパ頼みだろうから、美女は無理だろうなと思った。それでもあの手、この手で、果敢に打ち砕かれに挑む凛太郎には、感心してしまう時すらある。

会社のロビーで待っていると、凛太郎から電話があった。

「ちょお、ごめんやけど、来てくれへんか」

ぼくは、オフィスの向かい側にある駐車場に向かった。赤いスポーツカーが立ち往生している。車いすマークが地面にプリントされた、横幅の広い駐車スペースだけが空いているのだが、そこには赤い三角コーンが置いてあった。

窓を開けた凛太郎は、舌打ちをした。

「ボケが!どこのどいつやねん。こんなもん置きくさりよって!」

ほかの人がむやみに停めないための措置だろうが、その思いやりはあっても、足の動かない人がひとりで車を運転してくるというケースまでは想像できない人が置いたのだろう。

こういう残念な思いやりは、かなり、よくある。

ぼくは三角コーンを移動させ、凛太郎の機嫌に左右された荒っぽい駐車をボケーッと見守っていた。それで、油断していた。

「夏向くん!」

オフィスから出てきた四谷さんが、走ってきていた。

四谷さんの後ろにもうひとり、スーツを着た男の人もいた。さっきリハーサルの場にいた、人事部の、四谷さんの上司だ。

「あっ、どうも」

「沢村くんだっけ。さっきのスピーチ、よかったよ。ヤングケアラーって、ニュースで聞いたことしかなくて、ぼかあ恥ずかしかった」

「えっと……はは」

四谷さんの上司も、四谷さんに似たまっすぐで輝きに満ちた視線を、ぼくに送ってくる。さすが、インターン生の育成担当なだけある。

「うちの部長も聞き入っててさ、こういう苦労してきた若者が入ると会社は変わるんだって、感動してたよ!」

ぼくは、背中にずっと、冷たい汗をかいていた。

四谷さんも上司も、まさか、思いつかなかっただろう。後ろの赤いスポーツカーが“苦労してきた”ぼくの家の車で、運転席にいる上半身だけイカつくてチャラいおっさんが“障害のある”父親だなんて。

駐車場にコーンを置いた人と、きっと、同じだ。
普通は思いつかない。

「じゃあ、明後日、楽しみにしてるね」

四谷さんたちとなにをしゃべったか、ほとんど覚えてない。ぼくは、ただひたすらに早く帰ってほしいと願っていた。

凛太郎は、まだ、車から降りてきていなかった。ぼくはホッとした。

四谷さんたちの姿が見えなくなってから、凛太郎は自分で車いすを引っ張り出し、全開にしたドアの脇へ置いた。

「なんや、あれ、お前が世話んなってる会社の人か」

「うん、まあ」

「あんなべっぴんさんに仕事を教わっとんかいな。うらやましいやっちゃなあ。俺、いらんこと言うてまいそうやから、降りるんやめといたわ」

「なに考えてんだよ」

凛太郎は笑った。あやうく四谷さんがナンパされるところだった。

「……ほんで言うてはった、ヤングケアラー、ってなんや」

冷たい汗が、ピタリと止まった。

凛太郎には、窓から聞こえていたのだ。

「いや、べつに……」

「ヤングケアラーってのが、夏向がスピーチする内容とちゃうんかいな」

ちくしょう。いつもはカタカナワードをでたらめに覚えるくせに、なんで今日だけは合ってるんだ。

「ちがうよ。なんかそれは、あの、会社の用語だよ。アジェンダとかコンセンサスとかミエセスとか、俺もよくわかんねえの!」

凛太郎はぽりぽり、と頭をかいた。

「ほうか。ほいだら俺も、わからんなあ」

よかった、ごまかせた。どうせ凛太郎は、よく知らないカタカナの用語なんて、すぐに忘れてくれるだろうと思った。

渋谷の、味のわりに高い中華料理を食べ終わったあと、凛太郎はスマホをいじっていた。いやな予感がした。

「なあ、ヤングケアラーって、これかいな」

凛太郎が見せる画面には、Wikipediaが表示されていた。ぼくが最初にヤングケアラーを調べて、行き着いた先と同じだった。

「ヤングとか言われたら、なんか照れるなあ」

そういう意味じゃねえよ。いつもなら呆れてるのに、今は言葉に詰まってしまう。

凛太郎は、老眼の始まりつつある目を細めて、Wikipediaを読み、

「こんな大層な名前のん、うちの家とはちょっと違うよなあ!」

餃子を箸で掴んで、ガハハハと豪快に笑った。凛太郎らしい大ざっぱな反応に、ぼくは胸をなでおろしながら、うなずいた。


翌日。

凛太郎は、団地の屋上から飛び降りようとした。

金網をよじのぼろうとしているところを、植え込みを掃除していた管理人に見つかり、叫び声が団地中を驚かせた。

騒ぎをいち早く知った住人が、ぼくの家のインターフォンを鳴らし、一瞬ですべてを理解したぼくは、死にものぐるいで屋上に走った。

ベチョベチョに涙を流し、獣のようにうなり声をあげている凛太郎へ、飛びついて羽交い締めにし、金網から引き剥がした。

凛太郎は指一本になっても金網に食らいついた。
すごい力だった。

「登れへんのかいやああああああああああ」

凛太郎はコンクリートの床にへたり込んで、泣いた。

破裂しそうなほどにバクバクしているぼくの心臓を、いったん鷲掴みにして止めるぐらい、凛太郎の激しい怒りと悲しみだった。

「俺ァ、金網すら登れへんのかてえ」

凛太郎は顔から出しうる液体を、しこたままき散らして、泣いていた。死ねないことに泣いていた。

「うおおあああああああああん」

なんて情けない生き物なんだろう、と思った。
ぼくも泣いていた。
情けないからだ。凛太郎が、情けないからだ。

「夏向ァ、ごめんなあ、ごめんなあ」

凛太郎のでっぷりとした上半身とは対照的な、鳥みたいにガリッガリの足を見た。膝小僧がコンクリートで擦り切れて、血が流れている。足に感覚のない凛太郎は気づかない。見ているだけの、ぼくのほうが痛い。

「ヤングケアラーってなあ、そんなんにしてもうたこと、俺は知らんかった。アホやった」

予想していた言葉が出てきたことに、ぼくは息を飲んだ。

「夏向、つらかったよなあ。母さんもおらんでさあ、学校もあんのにさあ、俺の見舞い来てくれて、なんでも持ってきてくれて、引っ越しもやってくれて」

腕で体重を支えきれなくなった凛太郎は、ドサッと前に倒れた。土下座するみたいになった。

コンクリートの床を殴りつけながら、凛太郎は言う。

「ほんまは気づいてたんや。夏向に苦労させてるって、俺は気づいてた。俺は父ちゃんやから、ちゃんと夏向を守ったらなアカンのに、俺は、俺のことばっかで……」

「待てって、凛太郎」

「そんだら野球まで辞めてしもて、なあ、俺はな、怖かったんや。俺のせいで辞めたん、わかってんのに、お前の口から言われるんが」

「アホか!野球は、嫌いだったつってんじゃん!」

ぼくは凛太郎の肩をつかんで、引きずり起こした。重かった。絶望しきった凛太郎の身体は、こんなにも重かった。

「丸刈りにされんのも、きっついだけの練習も、クソ怖ェ先輩も!マジで、すっげえ嫌いだった!だから、凛太郎の見舞いで忙しいって辞める口実できた時、ぶっちゃけ喜んだんだよっ」

凛太郎は、ぼくを見ていた。
情けない本音を打ち明けるぼくを、情けない顔で見ていた。

「俺が何しても泣かず飛ばずなの、凛太郎も知ってるだろ!なんで、なんでずっと二人でいんのに、わかんねえんだよ!アホ!」

ぼくにも凛太郎の情けなさが移ってしまった。ぼくも泣いていた。こんな情けないぼくたちが二人でいるから、わかんないんだとも思った。

屋上の鍵を開けた管理人が唖然として、喚き散らすぼくたちを見つめていた。凛太郎の膝の傷を見て「きゅう きゅう しゃ」と口をパクパクさせてた。

「だいじょうぶです、すぐ連れていきますからっ」

ぼくは凛太郎を車いすに乗せようとした。ぼくの肩に回る、凛太郎の腕は重い。すごい筋肉がついてるからだ。でも青黒いあざもある。

腕にも、足にも、似たようなあざがある。その、消えないあざを見るだけで、ぼくはまた腹が立って、また猛烈に泣けてきた。

そのあざは、凛太郎の努力の証だと、ぼくは知っていた。

凛太郎は狭心症を起こしてから、二年間も入院していた。狭心症の治療は三ヶ月で終わったのに、凛太郎は二年間も病院から帰ってこなかった。

なぜかというと、凛太郎は病院を一度退院したあと、家から三時間もかかるリハビリ専門の病院に入院しなおしたからだ。軍隊みたいに厳しくて、暗くて、汚いと有名な病院だった。

凛太郎が自分で調べて、自分で希望して、自分で入院した。

車の運転と、風呂とトイレをひとりで済ませる練習を、その病院の訓練でマスターするためだった。

当時の医者やヘルパーはみんな心配していた。下半身が動かない人間が、腕だけで、身体を支えるには、信じられないほどの筋力と体幹がいる。手の力だけで風呂とトイレを済ませるなんて、苦労は目に見えていた。プロのスポーツ選手でも泣いて逃げ出すと言われるほど、つらくて、地味なリハビリだった。

でも、凛太郎は、やり遂げた。

体重を支えるために腕と足を何度もぶつけて、特に、感覚の通わない足からは、痛々しいあざが消えなくなった。

凛太郎は、黙って、やり遂げた。

退院してきた日に、凛太郎が言っていたことを、ぼくは覚えてる。

「安心せえ!夏向にそない手伝ってもらうこたあないから、今までどーり、暮らしてくれや」って、勝手に言っていた。

あれは、弱くなった凛太郎の、強がりな愛情だった。

屋上で、ぼくは凛太郎を車いすに乗せた。腕のあざを、ぎゅうとつねった。

「いでででででで」

こんなに努力した凛太郎でも、歩けないというだけで、ぼくのことを不幸にしたと思ってしまう事実が、耐えられないほど悲しくて、仕方がなかった。

かわいそうで不幸な、救われるべき、ヤングケアラー。

肩書がぼくの人生に、勝手に意味まで覆いかぶせてきた。

急に、なんか、全部いやになった。

「凛太郎がそんなに死にたいんやったら、もう、一緒に死ぬか」

「びゃえっ!?」

放心していた凛太郎は、ふいを突かれて珍妙な返事をした。

「でも、俺、あの世で凛太郎のこと、全力で呪うからな。今んとこ、不幸じゃない人生だったのに、凛太郎のせいで不幸にも死にましたって、永遠に呪うからな」

「待て、夏向、どうした」

屋上の肩網は高く、不格好な肩車をしたところで登れるはずなどない。ぼくは掃除用の蛇口に手を伸ばして、めいっぱいひねり、ホースから冷水を出した。

これをかぶって、ふたりで凍死しようと思った。

無論、10月にこんな方法で死ねるわけなどなく、凛太郎が「ちべたあ」と叫んだだけだった。

ぼくらがアホ極まりない自棄を起こしているだけと悟った管理人が、ブチギレてホースを奪い、警察に電話をしたので、ぼくらは心中をやめた。


結局『フレーバー・オブ・ドリームカップ』で、スピーチをするか、ぼくは迷った。

だってこれは、平均点より少し下を取り続けたぼくの人生にとって、またとない好機であることは間違いないのだから。

就職活動がうまくいかなければ、生活も安定しない。いつまでも、凛太郎に食わせてもらうわけにはいかない。

でもぼくは、ヤングケアラーの定義を受け入れても、ヤングケアラーと名乗ることが、どうしてもできなかった。

本番当日。

ぼくは無数のスポットライトを浴び、喝采とともに、舞台に踊り出る。ワイヤレスマイクを握る。

「ぼくは沢村夏向です。父は沢村凛太郎です。凛太郎の足は動きません、障害者ってやつです。でもいいやつなんです。ぼくは凛太郎を助けたかもしれないけど、それよりも、凛太郎はぼくのことを助けてくれました。ぼくらは必死でした。凛太郎みたいな父がいて、不幸せに見えるかもしれないけど、今んとこ、幸せでした。ヤングケアラーなめんんじゃねえ。じゃっ、そこんとこよろしくゥ!アチョーッッッ!」

マイクを華麗に投げ捨て、ぼくは舞台から逃げ去った。

……などという、パンクな芸当が、このぼくにできるわけはなく!

ぼくが選んだのは、謝罪に次ぐ、謝罪の道だった。会社の各方面に謝りすぎて、ぼくは謝罪の扇風機と化した。

原稿を変えさせてくださいと、頼んだ。

四谷さんがあんなに怒っているところを見るのは、胸が痛かったけれど、凛太郎のあざを見た時の痛さよりはましだった。

何者でもなくなったぼくの、ただの薄っぺらな自己紹介と化した、なんの教訓も啓発も持たないスピーチが、審査員と観客からどんな評価を受けたかは、思い出すと非常に悲しくなるので、ここでは割愛する。


ぼくは敗残兵のように疲れ切った姿で、会場を立ち去った。

すると、道路を挟んで向かい側の駐車場に、真っ赤なスポーツカーがいた。

「夏向ァ!すまん、コーン動かしてくれんか」

運転席から、凛太郎が叫んでいた。駐車スペースをまたもや三角コーンが邪魔していた。

凛太郎は、しばらく往生していたのか「しまった」と「よかった」が、入り混じった、情けない顔をしていた。こっそりスピーチを観にきたのだとわかり、ぼくは、今日だけは三角コーンに感謝した。

凛太郎の真っ赤なスポーツカーは、荒々しくも清々しい速度で、首都高速を走り抜ける。東京をはるか彼方へと置き去りにする。

「なあ、凛太郎」

「なんや」

「俺、あの会社、落ちたと思う」

「ほうか」

「東京で就職見つかんなかったらさ、どっか、大阪とか、遠い会社も受けるのってありかな」

「ありありのありやろ。お前は天才やから、どこでもやってけるわ。すずめの小便ほどの仕送りも、俺に任しといてくれ」

「きったねえな。すずめの涙だろ」

涙より量は多いから、ここは喜ぶべきだったんだろうか。

「俺のことは、心配すんな」

凛太郎が、笑いながら言った。

「あの忌々しい三角コーンもな、そのへんの美女つかまえて、のかしてもらうわ。やから夏向は、無理に帰ってこんでもええがな」

「帰りたくないときは、ちゃんと言うよ」

「ほうかあ」

凛太郎は、永遠に似合わないサングラスを押し上げた。息子から帰りたくないと言われたくせに、穏やかで、機嫌がよかった。


ぼくは確かに、障害のある父と暮らしていた。ヤングケアラーと定義された、ぼくの日々に、大人になった今のぼくが戻れるとしたら。

ぼくは、ぼくに、なんて声をかけるだろうか。

手を差し伸べるだろうか?
部活を辞めてまで見舞いなんか行くなって、言うだろうか?
うんざりしながらも続けてたら、なにかの奇跡が起きて、ベンチ入りできるかもしれないって、励ますだろうか?

凛太郎は、あざを作らなかっただろうか?
ひどいケンカも、気まずい仲直りも、なかっただろうか?

救われることも、あっただろうか?
もっと、いい人生に、なっていただろうか?

わからない。

ぼくと凛太郎の人生が、救われるべき悲惨なものであったか、幸福なものであったかは、いつか名前がつくんだろう。途中でコロコロと変わるかもしれないし、死ぬ間際になってやっと名前がつくのかもしれない。

その名前は、ぼくがつけるということだけを、今は決めておく。

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