【日めくり短編 106】 二人目のコントローラー
この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。
一
大阪港駅の階段を上がると、まず観覧車が見えた。
午前九時。すでに三十度を超えている。海のそばの町なのに、鼻に届くのは温まったアスファルトと、どこかの排気の匂いばかりだった。信号を渡り、海遊館へ向かう人の流れとは反対の、築港の裏通りへ折れる。三分も歩けば、音はふっと減った。
倉庫の壁。錆びたシャッター。誰も使っていない自販機。
右手に提げた紙袋が、風で少し鳴った。仏具屋の紙袋である。中身は、白い提灯だった。
実家は、その道の突き当たりにある。木造二階建て。玄関の格子戸は、いまでも下から二枚目のガラスだけ模様が違う。小学生の私が割って、祖母がありあわせで嵌め直したからだ。
鍵を開けた。畳と、線香と、少しの黴の匂いがした。
母の和子が三月に死んで、この家は空になった。八月に取り壊す。今日は、初盆の棚経だった。
澤田の家の棚経は、昔から七月十五日と決まっている。
二
仏間の畳だけは、まだ拭いてある。ほかの部屋の家具は運び出して、押入れの中身が最後に残った。
上段の奥から段ボールを引き出す。ガムテープが乾ききって、指で触れただけで剥がれた。
盆提灯が入っていた。岐阜提灯の、回り燈籠。骨が一本折れている。去年まで、母がひとりで出していたものだ。今年は使わない。初盆の家は白い提灯を出すものだと、寺に言われていた。絵柄のない、真っ白なやつを。
その下に、白い箱。四角い、角の丸い、赤と白の。
ファミリーコンピュータだった。
埃を払うと、赤いプラスチックはまだ赤かった。ACアダプタが本体にきっちり巻きつけてある。母が巻いたのだろう。あの人はいつも、捨てられないものを丁寧に巻いて、押入れの奥にしまう人だった。
本体の側面には、コントローラーが二つ、はめ込まれたままになっている。
右側の――二人目の方には、スタートボタンもセレクトボタンもない。代わりに、マイクがついている。小さな丸い穴と、その横に、細い銀色のつまみ。
つまみを上げてマイクに喋ると、テレビのスピーカーから自分の声が出る。録音はしない。言葉を聞き分けるわけでもない。音が入ったかどうかを、拾うだけだ。
吹き込んだ声は、その瞬間にスピーカーから出て、それきり、どこにも残らない。
私はそれを、四十年ぶりに手に取った。
三
一九八六年七月十五日。
その日、うちだけが盆だった。
築港の他の家は、みんな八月に盆をやる。七月十五日は、ただの暑い日だ。同級生は昼から中央突堤の方へ釣りに行っていた。うちの玄関先にだけ、焙烙が出て、苧殻が焚かれ、白い煙が上がっていた。
恥ずかしかった。うちだけ、なんでずれてるんや、と思っていた。
祖母のシゲは、東京の佃島の生まれだった。佃で育った祖母の家は、代々、七月の盆だった。だからこの家の盆は七月なのだと、祖母は大阪へ来てからも、一歩も譲らなかった。
「三百年前にな、大阪の佃から、漁師が江戸へ呼ばれて行ったんやて」
仏壇の前で茄子に割り箸を刺しながら、祖母は言った。言葉は半分だけ大阪で、半分は東京のままだった。五十年住んでも、そこは直らなかった。
「向こうで島を埋め立てて、佃島にした。ほんで、そこで生まれたうちが、また大阪へ戻ってきた。三百年かけて、往復や」
「なんで戻ってきたん」
「じいさんがおったから」
祖父の幸吉は、私が生まれる十一年前に、この港で死んでいる。艀から落ちて、上がってこなかった。
その日の午後、寺の老住職が来た。汗を拭きながら仏間に上がり、精霊棚の前で経を読んだ。読み終わってから、麦茶を飲んで、私の方を向いた。
「ぼん、盂蘭盆会いうのはな、逆さ吊りいう意味やねん」
私は正座を崩したまま、曖昧にうなずいた。
「目連さんいう偉い弟子がおってな。神通力で見たら、死んだお母ん、餓鬼道で逆さに吊られて、腹減らしとった。ほんで飯を持って行った。ところが、口に入れる前に、火になって燃えてまう。何遍やっても燃えてまう」
「ほな、どうすんの」
「どうもできひん。目連さんは、お母んに、飯ひとつ食わせられへんかった」
「……ほんで?」
「ほんで、今日はみんなで拝むんや」
「なんで、みんなで」
住職は麦茶を飲み干して、ちょっと笑った。
「さあな。ひとりぶんの飯では、足らんかったんやろ」
四
住職が帰ると、家は静かになった。
私は仏間の隣の四畳半で、ファミコンの電源を入れた。障子は開けたままだった。祖母が精霊棚の水を替えているのが見えた。台所では母が、洗い物をしていた。
『バルーンファイト』をやっていた。風船をつけた男を、パタパタと羽ばたかせて飛ばすゲームだ。
二つある風船のうち、一つ割られると、うまく上がれなくなる。両方割られたら、もう落ちるしかない。
落ちきらなくても同じだった。水面に近づけば、下から大きな魚が来て、ぱくりと食う。
その音がした。祖母が顔を上げた。
「なんや、いまの」
「魚に食われてん」
祖母は障子のところまで来て、しばらく画面を見ていた。魚がまた出た。祖母は笑った。それから、笑うのをやめた。
少しの間、蝉の声だけがしていた。
「うちは、水はあかんわ」
祖母はそれだけ言って、その場に座り込んだ。そして、二人目のコントローラーを取った。
「これ、うちがやってええの」
私はリセットを押して、二人で遊ぶ方を選び直した。
やってみたら、祖母の方は、三秒で落ちた。魚が食った。祖母は「おっかないねえ」と東京の言葉で言った。
それから、コントローラーの上の穴に気づいた。
「これ、なんの穴」
「マイクや」
「マイク」
「その銀色の、上まで動かしてから喋ってみ。テレビから声、出るで」
祖母の顔つきが変わった。しわだらけの親指で、細いつまみを、そろそろと上へ滑らせた。それから、マイクに口を近づけて、歌った。
私の知らない節だった。ゆっくりで、うねって、どこか、悲しいような、眠たいような。太鼓もないのに、太鼓に合わせているみたいな歌い方だった。
ブラウン管のスピーカーから、祖母の声が、しゃりしゃりと割れて出てきた。
「ほら、出た」と祖母は言った。とても嬉しそうだった。「じいさんにも聞こえるわ、これ」
「聞こえへんて」私は言った。「録音でけへんもん。残らへんもん」
祖母は、私の方を見た。怒りもせず、悲しみもせず、ただ、ふうん、という顔をした。
「ほな、あんたも、なんぞ言い」
私は、言わなかった。
十二歳だった。祖母の前でマイクに向かって喋るなんて、恥ずかしくて、できるはずがなかった。私は黙って一人目のコントローラーに戻り、男を飛ばして、また落として、魚に食わせた。
祖母は何も言わずに、仏間へ戻っていった。
台所の、水の音が止まっていた。
あの夏の話は、それだけだ。
五
夕方、祖母に連れられて天保山まで歩いた。
山といっても、公園の隅の盛り土だ。頂上まで十秒だった。祖母は上で「これで山かいな」と笑った。
あのころ、私にとっては、ただの盛り土だった。日本一低い山だと聞くのは、ずっとあとになってからだ。私たちはただ、暇つぶしに登っただけだった。
「なんで、こんなもんが山なん」
「昔、川さらえた土を、積んだんやて」祖母は海の方を向いたまま言った。「ほんで、目印にした。船が帰ってくるときの、目印や」
私は飽きて、先に降りた。振り返ると、祖母はまだ上にいた。四メートルほどの高さの上に、ひとりで立っていた。
六
祖母は一九九二年に死んだ。八十歳だった。父はその十八年後に死んだ。
七月の盆は、母が引き継いだ。母は大阪の人で、佃とも東京とも何の縁もない。それでも、毎年七月十三日に焙烙を出し、十五日に住職を呼んだ。
一度だけ訊いたことがある。なんでうちだけ七月やねん、と。
母は少し考えて、こう言った。
「知らん。お義母さんが、そうしてはったから」
それだけだった。理由は、ついに出てこなかった。
何年か前、電話でこう言われたことがある。
「あんた、あのファミコン、まだ置いてあるで」
「捨てといて」
少し間があって、母は言った。
「お義母さん、あれで歌わはったやん」
台所から、聞いていたのだ。
私は、それには答えなかった。母もそれ以上は言わず、あれを捨てもしなかった。コードをきっちり巻いて、押入れの奥に戻しただけだった。
七
午後二時、寺から住職が来た。
昔の老住職の息子で、この人ももう七十を超えている。家具のない家を見て、ああ、と短く言っただけだった。
畳の上には、折れた盆提灯と、段ボールと、赤い箱があるきりだった。精霊棚もない。位牌だけを、床の間に立てた。
紙袋から白提灯を出して、玄関の軒先に吊るした。火は入れなかった。
「和子さんの、初盆ですな」と住職は言った。「白いのは、今年だけです。来年からは、絵の入ったやつでよろしい」
「来年は、この家、ないんですけど」
「そらまあ、そうですな」
住職は、白い火袋を見上げた。
「初めて帰ってくる人が、家を間違えんように吊るすんです。そやから、真っ白で、一遍こっきり。盆が明けたら、寺で焚き上げます」
それから、そのがらんとした部屋で、いつもと同じ長さの経を読んだ。
声が、家具のなくなった部屋によく響いた。家具を出すと、こんなに響くものなのかと思った。
読み終わって、住職は汗を拭いた。麦茶は出せなかった。
「澤田さんとこは、ずっと七月でしたな」
「祖母が、東京の人やったんで」
「毎年、七月十五日は澤田さんとこへ行く、て親父が言うてました。町内で一軒だけ、日ぃがずれてる家がある、て」
住職は玄関で靴を履きながら、思い出したように言った。
「日ぃが違ても、盆は盆ですわ」
八
夕方まで、私は畳に座っていた。
もう荷物はない。運ぶものもない。ただ、赤い箱がそこにあった。
ふと思い立って、電話で佃島の盆踊りを調べた。
東京都指定無形民俗文化財、とあった。江戸のころから続く念仏踊りで、無縁仏を回向するための行事だという。太鼓ひとつと、口説き節。踊りは、行きつ戻りつを繰り返す。
踊る場所は、佃の渡し跡だとあった。三百年続いた渡しは、橋ができて、昭和三十九年に終わっている。
その先に、こうあった。
――踊り場の、川に面した隅に、無縁仏の精霊棚が据えられる。踊る者は、まずそこで手を合わせてから、輪に入る。
私はしばらく、画面を見ていた。
九
私は、二人目のコントローラーを手に取った。
コードは硬くなって、四十年前の形に曲がったままだった。銀色のつまみを、親指で端まで滑らせた。ざらり、と乾いた感触がした。それだけだった。
テレビはとうにない。コンセントに挿すものもない。挿したところで、声はどこへも出ない。もともと、どこにも残らない仕組みだった。
それでも私は、その穴に口を近づけて、言った。
「おかえり」
言ってから、少し笑ってしまった。五十二歳の男が、電源の入っていない玩具に向かって喋っている。
でも、蝉が鳴いていて、畳は少し湿っていて、部屋は思ったよりずっと静かで、恥ずかしくはなかった。
あの夏、言えなかったことを、四十年遅れで言った。
玄関先に焙烙を出して、苧殻を焚いた。
二日遅れの迎え火だった。町内はどこも盆ではない。うちだけが、また、ずれている。
白い煙が、まっすぐに上がって、それから海の方へ流れた。
軒の白提灯が、風で少し揺れた。あれは盆が明けたら焼く。家は八月に壊す。どちらも、来年はもうない。
十
天保山の渡船場まで歩いた。
六時前だった。船が来た。対岸の桜島まで、岸壁のあいだが四百メートル。三分もかからない。
運賃はいらない。大阪市の渡船は、旧道路法が施行された大正九年から無料だという。川の上にも、道が敷いてあることになっている。
――三途の川は、タダやったで。
いつか祖母に言ってやりたかった冗談を、いま思いついた。そういうものだ。
船が出た。水面は油を流したように凪いでいて、夕日で赤い。子どもの頃、対岸には倉庫とクレーンと艀があった。いまは、その先にテーマパークがあるという。私は一度も行ったことがない。
祖父が落ちたのは、たぶん、このあたりだ。
桜島に着いた。いったん降りて、待合所の前をぐるりと回り、同じ船にまた乗った。
乗組員は何も言わなかった。この港では、往復するだけの人間など、珍しくないのだろう。
三百年かけて往復した人がいる。三分で往復する船がある。
船は、何も残さずに、また築港の岸へ戻った。
降りて、振り返った。天保山の低い緑が、観覧車の足もとにわずかに盛り上がって見えた。あれはもう、日本一低い山ではないらしい。いつのまにかそう呼ばれるようになって、いつのまにか、その一番も、よその山へ行ってしまった。
風が、少しだけ涼しくなっていた。
ポケットの中で、二人目のコントローラーが、腿に当たっていた。
原案:Y
執筆:Claude
今日は何の日?
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お盆・盂蘭盆会

7月15日は「盂蘭盆会(うらぼんえ)」の中心日とされる地域があります。先祖の霊を迎え、感謝を捧げる、日本の夏を代表する年中行事です。
「盂蘭盆会」は、先祖の霊を迎えて供養する仏教行事です。
その起源は、釈迦の弟子である目連尊者が亡き母を救うため、僧侶たちに供養を行ったという『盂蘭盆経』の説話にあるとされています。この仏教の教えが中国へ伝わり、祖先を敬う文化や中元の風習と結びつき、さらに日本古来の祖霊信仰と融合して、現在のお盆の形へと発展しました。
現在では、東京など一部地域では7月13日から16日ごろにお盆を営み、多くの地域では月遅れの8月13日から16日に行われています。迎え火や送り火を焚き、盆棚に供物を供え、提灯を飾り、キュウリの馬やナスの牛を用意するなど、地域ごとにさまざまな風習が受け継がれています。また、盆踊りも、お盆に帰ってきた祖先の霊を慰め、人々がともに祈る行事として全国へ広まりました。
7月15日は、亡くなった人を遠い存在としてではなく、今の自分へ命をつないでくれた身近な存在として思い起こす日です。夏の夕暮れに灯る提灯の明かりには、家族の記憶と感謝の気持ちが静かに宿っています。
盂蘭盆会は、先祖への感謝と命のつながりをあらためて見つめ直す、日本の大切な夏の行事です。
大阪港開港記念日

7月15日は「大阪港開港記念日」です。日本有数の国際貿易港へと発展した大阪港の歴史と、水都大阪を支えてきた港の役割を振り返る日です。
「大阪港開港記念日」は、1868年7月15日に大阪港が外国貿易港として開港したことに由来します。幕末から明治維新にかけて日本が諸外国との交流を深める中、大阪港は国際貿易の拠点として新たな役割を担うことになりました。
大阪は古くから「天下の台所」と呼ばれ、淀川や安治川などの水運を活かした商業都市として栄えてきました。しかし、大型船の航行には河口の土砂堆積など多くの課題があり、明治以降は大規模な築港工事や埋め立て、港湾施設の整備が進められました。その結果、大阪港は日本を代表する国際港湾へと成長し、現在も物流や産業、市民生活を支える重要な役割を担っています。
大阪市では、開港記念日の7月15日と「海の日」にちなみ、市民に海や港への親しみを深めてもらう「大阪港みなとまつり」を開催しています。ヨットレースやカッターレースなどの関連行事が行われますが、開催日や内容は年度によって異なります。
7月15日は、港に並ぶ船やコンテナの風景だけでなく、その背後で日本の経済や人々の暮らしを支えてきた港湾の歴史や土木技術にも目を向けられる日です。
大阪港開港記念日は、水都大阪の発展と、日本の物流・貿易を支えてきた港の歴史を振り返る記念日です。
ファミコンの日

7月15日は「ファミコンの日」です。家庭用ゲーム機の歴史を大きく変え、日本中の子どもたちを夢中にした「ファミリーコンピュータ」が誕生した節目の日です。
「ファミコンの日」は、1983年7月15日に任天堂から家庭用ゲーム機「ファミリーコンピュータ(ファミコン)」が発売されたことに由来します。この出来事は、日本のゲーム文化が家庭へ本格的に広がる大きな転機となりました。
それまでゲームはゲームセンターで楽しむものという印象が強くありましたが、ファミコンの登場によって、自宅のテレビで手軽に本格的なゲームを遊べる時代が始まります。その後、『スーパーマリオブラザーズ』や『ゼルダの伝説』『ドラゴンクエスト』など、多くの名作が生まれ、世代を超えて語り継がれるゲーム文化の土台が築かれました。
ファミコンは単なるゲーム機ではなく、家族や友人が一緒に遊び、攻略法を教え合い、ときには順番待ちをしながら時間を共有したコミュニケーションの道具でもありました。夏休みに友達の家へ集まり、夢中でコントローラーを握った思い出は、多くの人にとって昭和から平成へ続く時代の象徴的な風景となっています。
7月15日は、日本のエンターテインメント文化を大きく変えた家庭用ゲーム機の誕生と、ゲームが人と人をつなぐ文化へ成長していった歩みを振り返る日です。
ファミコンの日は、日本の家庭用ゲーム文化の始まりと、多くの人の思い出を彩ったゲームの歴史を振り返る記念日です。
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