「手先の技術」の向こう側へ ― MFAが教えてくれた、リサーチという名の『美学』
第1章:マントを脱ぎ捨てたマイスター
- IDSケルンの「じゃんけん」
1. ケルンの風と、6年ぶりの招集
2025年3月、ドイツ・ケルン。
世界最大の歯科メッセ「IDSケルン(International Dental Show)」の会場に、私は立っていた。
きっかけは、長年愛用している歯科材料メーカー、Jensen Dentalの社長直々の連絡だった。
「急な欠員が出た、Tomonari デモをやってくれないか?」
かつての私なら、二つ返事で「最高の技術を見せてやる」と鼻息を荒くしていただろう。
だが、この時の私は少し違った。
実は、私はこの6年間、いわゆる
「デモンストレーター」としての表舞台からは影を潜めていたのだ。
その間、何をしていたか?
毎年,日本へ帰国しては学術大会でポスター発表をし、18ヶ月に及ぶ商業誌の連載をこなし、
トルコのイスタンブールでの講演やオンラインウェビナーを駆け抜けた。
そして何より、
「学士」と「修士」の学位を立て続けに取得していたのだ。
6年間の「沈没」ではない。
それは、マイスターという職人としての自分を、学問という溶鉱炉でもう一度焼き直すための時間だった。
2. 「30%の壁」を壊すための戦略
久々に登壇したIDS。そこは、かつての私が「いつかあそこに」と憧れ続けた、
技術者としてのゴール地点だった。
しかし、MFA 修士(芸術)という新たな視点(レンズ)を手に入れた私の目に映る景色は、以前とは全く異なっていた。
周りのブースでは、12万人の来場者に向けて、各国のスター歯科医師,歯科技工士たちが「どうだ、この精緻な技術を見ろ」とばかりに手元を披露している。
だが、私の脳裏には、ある図式が浮かんでいた。
「ラーニングピラミッド」だ。

ラーニングピラミッドの残酷な真実:
一方的な「デモンストレーション」で、受け手の記憶に定着するのは、わずか最高で30%に過ぎない。残りの70%は、メッセの熱気と共に消えていく。
「技術を見せるだけでは、何も伝わらないのと同じだ。」
MFAでの研究、そしてグループワークで培ったコミュニケーションとファシリテーションの能力が、私の背中を押した。
3. マントを脱ぎ捨て、「じゃんけん」を。
私は、それまで自分を守っていた「権威」というマントを脱ぎ捨てた。
論理と学問の基礎が、自分の芯に、太い幹となって聳え立っているのを感じていたから、もう迷いはなかった。

私はデモの途中で、手を止めた。そして、足を止めてくれた観客の一人ひとりと目を合わせ、語りかけた。製品の使い方ではなく、「人としての対話」を始めたのだ。
そして、デモのクライマックス。私はある提案をした。
「最後まで私の話を聞いてくれた皆さんに、日本のテクノロジーをプレゼントしたい。……JANKEN-PON!」
世界最大のメッセのど真ん中で、ドイツ人も欧米人もアジア人も、みんなでじゃんけん。
勝った者に、私が日本から持ち込んだ形状記憶のステイン用小筆を渡す。
ブースは一気に熱狂の渦に包まれた。
メーカー側は「しっかり製品の解説をしてくれ」
と冷や冷やしたかもしれない。
だが、そこには技術を超えた「一体感」があった。
受動的な「観客」が、能動的な「参加者」に変わった瞬間。

記憶の定着率は、30%の壁を優に超えたはずだ(そう,願いたい)。
4. 「マイスター」の次へ
1日1回、2日間のデモを私は軽やかに、そして深くやり遂げた。
手先が器用なだけの職人は、もうそこにはいなかった。
MFAという学びを経て、「美しさ」や「技術」を客観的な論理として再構築できたからこそ、私は自由になれたのだ。
「伝えることの本質」を掴んだ私は、意気揚々とハンブルクへ戻った。
だが、物語はここで終わらない。
芸術という「主観」を極めた私に、次に用意されていた舞台は、
「科学」という名の冷徹な客観の世界。
日本が誇る最高学府の一つ、九州大学大学院での挑戦が、私を待ち受けていた。
第2章:マイスターの解体
-「科学」という冷徹な鏡の前に立って
1. 「主観」という鎧を脱ぐ
IDSケルンでの成功は、私にとって大きな自信となった。しかし、九州大学大学院という門を潜った瞬間、その自信は音を立てて崩れ去ることになる。
歯科技工士という職種は、材料学が好きな人間が多い。
私もそのひとりだった。
しかし、研究の世界で求められるのは「数値の詳しさ」の先にある、
「なぜ、どうして、どのように?」という問いの連鎖だった。
今までの私は、自分の感覚を信じ、自分の「主観」で世界を語ってきた。MFAで学んだ表現も、根底には「私」という主観があった。
だが、科学の世界では「私」は邪魔な存在でしかない。
必要なのは、誰がいつ見ても変わらない「客観」のみ。
過去に自分が書いてきた数々の記事や論文を思い返し、背筋が凍った。
「あれは、ただの文字の陳列だったのではないか……」
自分よがりな、デモンストレーターとしての独りよがり。
科学の扉を開けたとき、私は自分の「薄っぺらさ」を突きつけられたのだ。
2. 議事録に込めた「覚悟」
私の前に立ちはだかったのは、研究の「作法」という巨大な壁だった。
研究計画書一つ書くにしても、そこには厳格なルールがある。
当然、初心者の私にはわからない。
そんな私を、指導医の先生は厳しく、しかし深い愛を持って導いてくれた。
「決して諦めない」 そう心に決め、
私は自分にできる最善を尽くそうと誓った。
ハンブルクと福岡。
物理的な距離があるからこそ、
一瞬のコミュニケーションも無駄にはできない。
教授や指導医とのオンラインミーティング。
終了後には、必ずその日の議論を文字に起こし、議事録として共有した。
お互いのコンセンサスを1ミリもズラさないための、私なりの「誠実さ」の証明だった。
3. 英語論文と、深夜のラボ
さらに苦しんだのが、英語論文という「言語の壁」だ。
正直に言おう。
それまで、私は英語論文を読み込んできた人間ではなかった。
自分で書いてみても、内容が驚くほど薄い。
「まずは、日常を変えよう」
週に1本読むと決め、挫折し、2週間に1回になり、1ヶ月に1回になり……。
自分の不甲斐なさに何度も打ちのめされた。
それでも、私は食い下がった。
必要な論文をプリントアウトし、常に持ち歩いた。
診療の合間、移動中、食事の前後。
論文に触れる時間を、強引に生活の中にねじ込んでいった。

4. プロトタイプを削り出す日々
研究は、頭の中だけで完結するものではない。私の研究に必要な「計測用模型」の製作。
それはCAD/CAMという最新のデジタルワークを使い、メタルを削り出して作る。
しかし、いきなりデジタルで完結することはない。
まずは石膏という歯科の基本材料を使い、自分の手で実物を作る。
それを教授や指導医と相談しながらデザインを変更し、また作る。
ジルコニアで試験体を削り出し、またデザインを変える。
いくつものプロトタイプを積み重ねなければ、科学の入り口には立てない。

地道な作業です!
週末を返上し、一人ハンブルクのラボに籠る。
かつては「芸術」のために動かしていたこの手が、
今は「科学的な真実」を追い求めるために、淡々と、正確に動いていた。
こうして、私の「研究者としての第一歩」は、華やかな喝采とは無縁の、孤独で地道な準備期間から始まったのである。
第3章:福岡の日常
- 15時間の実験と、選んだ道の「悦び」
1. 「マイスター」を降り、ひとりの「学生」として歩く
「九州大学大学院の社会人大学院生」
その響きは、どこか華やかに聞こえるかもしれない。
ハンブルクから日本の地へ降り立ち、美食の街・福岡で過ごす日々。だが、私のリアルはもっと地味で、もっと熱い。
福岡滞在中、私は毎日歩いて病院キャンパスへ通った。片道30分。

バスや地下鉄を乗り継ぐのと時間は変わらないが、思考を整理するには歩くのが一番だ。
通り道にあるのは、3軒のコンビニ、ワークマン、ファミレス,スーパー、そしてJR吉塚駅。
博多や中洲の華やかなネオンに目を向ける余裕など、微塵もなかった。
朝7時半過ぎには医局に入り、実験が終わるのは22時、23時。時には日付を跨ぐこともあった。
「なぜ、自分は今ここにいるのか?」
それを問い直す暇もないほど、目の前の実験サンプル数という「数字」に、私は没頭していた。

2. 孤独ではない「深夜の大学病院」
私の居場所は、特設してもらったスタッフルームの片隅。
そこで黙々と実験を繰り返し、別棟の実験室で計測し、また病院内でデータを収集する。
そんな生活の中でのささやかな楽しみは、大学の学食や売店だった。
「九州大学」と刻印された大学グッズを眺めて楽しんでいた。考え考えた末、一冊のシンプルな大学ノートを買った。
それだけで、自分がこの知の巨塔の一員であることを実感し、少しだけ背筋が伸びた。

夜の大学病院は、意外なほど賑やかだ。
技工室を覗けば、多くの先生たちが臨床と研究に汗を流している。
同じ医局の同期も、深夜まで作業を続けていた。
「自分だけが大変なわけじゃない。これが、ここでの『普通』なのだ。」
その事実は、私を孤独から救ってくれた。

3. 「芸術」の風が吹き抜けた、唯一の休日
2週間の実験期間中、たった1日だけ、私は休みを取った。
京都芸術大学大学院時代の学友たちと、太宰府天満宮、そして別府へと向かったのだ。
温泉地として有名な別府だが、私のリクエストは「ただ、時間の許す限りみんなと話したい」ということだけ。
4人で別府の街をただ歩き、語り合う。
それはまるで、芸大時代の課外授業の続きのような、穏やかで知的な時間だった。
科学(九大)の海に溺れそうになっていた私に、芸術(京芸)というレンズを持つ仲間たちが、新しい風を吹き込んでくれた。
感謝しかない。ありがとう!



4. 「辛さ」ではなく「楽しさ」が勝る理由
読者の皆さんは、50代後半にしてこれほど過酷な実験生活を送ることを「苦労」だと思うかもしれない。
しかし、私にとっては違った。
確かに身体は疲弊するし、計画通りに進めるための時間との戦いは熾烈だ。
それでも、自分で望んで切り拓いたこの研究の道には、何物にも代えがたい「楽しさ」が満ちていた。
ハプニングがないように徹底的に準備し、一つひとつデータを積み上げていく。
それは、マイスターとして一つの作品を完成させていくプロセスと、本質的には同じなのだ。
第4章:境界線を越えて
- 7つの抄録と、5時の祈り
1. ハンブルクからの「遠隔侵入」
ドイツへ戻った私を待っていたのは、地道で孤独な「3次元解析」の作業だった。
大学の解析ソフトが入ったPCを、ハンブルクからリモートで操作する。
当然、私が作業している間、現地のPCは占有される。
ここで、時差が最大の味方となった。
大学病院の医局員たちが帰宅する頃、私の作業が始まる。
共同研究者の先生が、帰宅前にわざわざPCを立ち上げ、私と繋いでくれる。
モニターには、一枚のポストイット。
「大川が使用中なので、触らないでください」
臨床、研究、教育。息つく暇もないほど忙しい先生方が、私のイレギュラーな作業のために、そんな気遣いまでしてくれる。
何度か失敗した。繋がらない。理由がわからない...先生はまだ小さなお子さんがいる、早く帰宅させたい。
この時は感謝で胸が締め付けられた。
2. 「統計」という未知の言語
解析が終われば、次は統計分析だ。
指導医から勧められた3部形式の統計教本。……情けないことに、まだ半分しか読み込めていない。無料ソフトを試し、専門書を漁り、文字通り暗中模索の日々。
「無知は無知なりに、今できることをやる」
そう覚悟を決めた私は、生活のリズムを「研究」に捧げた。
ラボでの仕事を終え、速攻で帰宅。夕飯を作り、少しだけPCの前でまとめをして、
早々に眠りにつく。 そして、毎朝5時に起きるのだ。
そう,いわゆる「ゴジラー」である。
静まり返ったハンブルクの朝、2時間だけ集中してデータと格闘する。
去年の12月、そうして絞り出した結果をもとに、
2026年の日本補綴歯科学会での発表に向けた「抄録」を書き始めた。
3. 七つの抄録を抱えて
そこからは、まさに怒涛だった。
自分の基礎研究の抄録、さらには臨床報告のポスター発表のための抄録。
書くたびに指導医から飛んでくる、鋭くも愛のある修正指示。
「どう書けば、この真実を正しく伝えられるのか」
その問いに支配され、頭の中は抄録のことで一杯だった。
それだけではない。共同演者として名前を連ねる5名の先生方の抄録も、校閲として参加させていただいた。
手元にある抄録は、合わせて7つ。
同時に、補綴誌への論文投稿と、英語での基礎研究論文の執筆も進めていた。
結び:挑戦の、その先へ
マイスターとして、修士(芸術)として。
積み上げてきたプライドを一度すべて解体し、一人の初学者として「科学」の荒波に揉まれる日々。 正直に言えば、これほどキツいとは思わなかった。
しかし、この「キツさ」の先にしか、見えない景色がある。
何度も修正を繰り返す中で、私は少しずつ、本物の「研究者」としての皮膚を手に入れている気がするのだ。
論文という名の、果てしない旅。
その全貌と、私が掴み取った「真実」については……
また第6弾でお話しすることにしよう。
