虹の始まりは落とし穴 9
「あれが悪態? ああやって客を楽しませているのでしょう? どの家もあんな感じですよ。 祖母を思い出させてくれて親しみを感じるってもんです♪」
ヨンは呆れて鼻で笑った。
「馬鹿を言え、私の祖母は悪態など吐かなかった。一緒にするな」
ー育ちの良さを自慢したいわけ?! 感じ悪!ー
「…左様ですかっ」
「ああ」
「それでは千字文を間違えてお爺さんに叩かれた事は?」
「基礎の基礎だ、間違えるわけなかろう」
さも当然とばかりに即答する若様にサムノムはむかっ腹が立ってくる。
「では、夜に寝小便をして殴られた事は?!」
「寝小便などした事がないし、したとしてもこの私に手を上げる者などいるわけなかろう」
若様は懐から手拭いを取り出すと優雅な手つきで膝の上に広げた。
ーうわ…嫌味かよー
寝小便なんて人間なら必ず一度は通る道、した事ないなんて信じられない。
サムノムは不意をついて若様に向かって腕を突き出した。
「?!」
若様が咄嗟に避けたのを見て、澄ました顔で腕を引っ込める。
ーあんたに手を上げる者はここにおりますよーだ!ー
訳の分からない行動をとる男にヨンは舌打ちしながら匙を取ると手拭いで丁寧に拭いて雑炊の器に差し込んだ。
「要するにあなたは“花若様”ですね…」
「花…若様?」
「はい、裕福な家に生まれ苦労する事なく、それはそれは大切に花の様に育てられたという意味です」
「花か…」
自分を花に喩えられヨンは自嘲気味に笑う。
「……私はその様な者ではない」
ーなに、この人…まさか褒められたと思ったの?!ー
どうやら世間知らずの温室育ちなのは間違いないらしい。
まぁ…見た目は文句のつけようも無い美男子だが腕っ節は弱そうだ。
「いやぁ、男だからといって皆、岩の様に頼もしくなければいけないなんて事はありませんよ、花の様にか弱く美しい男がいたって…(笑)」
どこか馬鹿にした様な物言いが癇に障る。
「違うと言っただろっ」
確かにこの上なく裕福な家に生まれはしたが苦労を知らないというのは聞き捨てならない。
「…はいはい、そういう事にしておきましょ!」
明らかに馬鹿にした口調に「こやつ…!」と言い返そうとした時、バン! と女将がキムチの器を机に置いた。
「?!」
ヨンは驚いて女将を見る。
「❌❌野郎共! くっちゃベってないでさっさと食って帰りな!」
「………」
ヨンは静かに女将を睨み据えた。
「なんだい若造が、何を睨んでんだい生意気な!」
しかし、ヨンの顔を改めてよく見た女将の顔色が変わる。
「……どこかで見たような」
ヨンはニヤリと笑った。
「!!!」
女将の顔から血の気が引く。
「世…! 世…!」
こんな所で正体を明かされては色々面倒くさい。
ヨンは無言で “向こうへ行け” と命令する。
「はい! ……私ったら…なんて事を!」
女将は恐れおののいて奥に引っ込んだ。
サムノムはそんな2人の秘かな遣り取りには気付かず、出されたキムチを素手で千切るとヨンの持つ匙の上に置いた。
「?!」
ヨンは口に運ぼうとしていた手を止める。
ー…素手で…だと?!ー
「何のマネだ…」
「雑炊にはキムチです!」
笑顔で言ってそのまま素手でキムチを頬張る。
「旨い! さすがは女将♪」
どうやらこの若様は少し潔癖の気があるらしいから必ず引くはず。
ヨンはあまりの下品さに一気に食欲が失せ匙を机に叩きつけた。
「付いて来い!」
「え? どちらへ? 全然食べてないのに!」
行ってしまった若様に慌てて雑炊を流し込むと半分以上残った雑炊とキムチに後ろ髪を引かれながら席に代金を置いて若様を追いかけた。
***
ヨンは我慢の限界にきていた。
間違いなくあの男は両班ではない、下品過ぎる。
それにどうも怪しい。
男の言動を最初から思い返してみると、どうやら自分を恋文の相手だと勘違いしている節がある。
しかも男の自分に疑問すら抱かないとは馬鹿にするにも程がある。
ー相手の顔も、性別すらも知らずに “黒真珠” だの “柘榴” だのとぬかしておったのか!ー
ヨンの胸には沸々と怒りが湧いていた。
ー我が妹を弄びおって!ー
「お待ち下さい! まったく腹が減ってないならそう言えばいいのに! 一口も口を付けずに出てくるなんて勿体ない!」
ヨンは責めてくる男の手を掴むと力任せに木に押し付けた。
「痛!」
手首を強く掴まれ乱暴に木に押し付けられたサムノムは若様がこんな往来で本懐を遂げる気かと焦る。
「ちょ……こんな所で…困ります」
しかし、若様はサムノムの首に短剣を押し当てた。
「?!」
「人を使って捕らえる事はせず今日自ら出向いたのは、心の片隅では立派な男が現れるのを期待していたからだ」
ーえ…? どういう…ー
「しかし…己が送った恋文の相手も分からず似合わぬ両班の振りまでして…」
ー恋文の相手? っていうか…もしかしなくても代理だってバレてる?!ー
「どうやって殺そうか…」
ヤバイ。
これはケリをつけるどころではない。
通報されれば捕まってしまう。
ここはシラを切り通して逃げるしかない。
「振りだなんて!」
サムノムは若様を突き飛ばした。
「私は間違いなく両班です! 恋文もすべて本心でした…っ」
言いながらどうやって逃げようかと若様に背を向ける。
ーあくまでシラを切るつもりだな…ー
