虹の始まりは落とし穴 10
ヨンは男の肩に手を置いた。
「誠か?! 誠に本心だと?!」
ーお?! 信じた?!ー
サムノムが満面の笑みで振り向くと怒りを含んだ若様の目と目が合う。
ーあれ?ー
ヨンは肩に置いた手で男の背を強く押した。
「?!」
サムノムはつんのめりながら振り向く。
「では屋敷へ案内しろ、どこの子息かこの目で確かめる故」
ーくっそぉ! 騙したな!ー
サムノムは背を向けて唇を噛むと振り仰いで若様を睨む。
自分を睨み上げてくる男にヨンは「さっさと行け」とにべもなく言い放った。
「行けって…だからどこへ…」
「行け」
ヨンは問答無用で男の背を更に強く押した。
サムノムは再びつんのめってたたらを踏む。
若様はかなり怒っているが、だからといってドッコの屋敷に案内など出来るわけがない。
サムノムは焦りを悟られまいと大きく咳払いをし、後ろ手に手を組むと大股で歩き出しながら、とにかく何とかしてこの男から逃げなければと脳みそをフル回転させた。
***
その頃、サムノムが恋を実らせた29組目のカップルの屋敷では大騒ぎになっていた。
「家門に泥を塗りおって! 我が嫁と駆け落ちするとは!」
屋敷の主は吏書判書だった。
大いに恥をかかされた吏書判書の手には2人を唆したとされるサムノムの人相書きの紙が握られている。
「何をしておる! さっさと連れ戻してこい!」
吏書判書は腹立ち紛れに配下の者に蹴りを入れた。
***
船着場では屋敷から逃げ出した下男と吏書判書の嫁が船に乗ろうとしていた。
同じ船で清へ留学していた領議政の孫 キム・ユンソンが都へ帰国し、ちょうどそのカップルと擦れ違った。
なんとも幸せそうな雰囲気に思わず足を止めて微笑む。
明らかに身分の差がありそうな2人だが、ま、自分には関係ない。
屋敷に戻る前に久方ぶりの都で羽を伸ばそうと考えていたユンソンは桟橋を渡ろうとして足を止めた。
橋の向こうに屋敷からの迎えが来ている事に気付き舌打ちする。
「出迎えなどいらぬと言ったのに…」
ー見つかったら面倒だなー
どうしたものかと考え、荷物に挿していた傘を思い出して妙案を思い付く。
ユンソンは傘を差しながら前を歩く女人の肩を抱いた。
「?!」
急に肩を抱かれて驚いた娘がユンソンを見上げその美男子ぶりに息を呑むのが聞こえる。
「…これは…なんたる無礼ですか?」
服装から中流階級の娘だろうと当たりを付けたが、どうやら正解らしい。
この手の女はそこそこプライドは高いがイイ男には弱いのが常だ。
ユンソンは差した傘ごと空を見上げた。
「無礼なのはこの日射しです。 刺すように強いので美しいお顔が傷付かぬか心配になりまして」
自分を見つめて甘い台詞を吐くイイ男に娘はまんざらでもなさげにはにかんで自分の頬に手を添える。
ーチョロいな♪ー
ユンソンは迎えの者から見えないように傘で身を隠し橋を渡りきった。
「…ところで私を気遣って下さるあなた様は一体?」
ユンソンは足を止める。
「“私を”?」
娘は笑顔で己を指した。
「ああ(笑) “美しい顔” か…それは私の事だ♪」
「?!」
唖然とした顔で自分を見る娘の肩を軽くポンポンと叩くと、ユンソンはイタズラが成功した子供のような顔で歩き去って行った。
***
「まったく…疑り深いなぁ」
「さっさと歩け」
一方サムノムは男に見張られていてまだ逃げられずにいた。
なんとか撒けないかと歩いている内に人気のない林の中に足を踏み入れていた。
「本当にこっちなのか?!」
「近道なんですよ!」
言いながらふと気付く。
ーあれ…ここは…ー
拓けた場所に見覚えのある朽ち果てた石塔を見つけ、半月ほど前にここで例の高利貸しに3日の内に利子を支払えと逆さ吊りにされ手下が掘った穴に埋められそうになった事を思い出した。
「……」
地面を見ると草で隠されてはいるが穴はそのまま残っている様子。
サムノムは逃げる手立てを思い付いた。
「ちょっとここで用を足したい」
「?!」
野っ原で用など足した事のないヨンは驚いて男を見る。
「何だ、見物か? それとも一緒にどうだ?」
明らかに面白がっている顔にヨンは忌々しげに男に背を向けた。
「……………?」
だが何か嫌な予感がして振り返ろうとした所でいつの間にか背後に回っていた男に思い切り蹴りを入れられ更に背中を押される。
「ぅあ?!」
しかし、ヨンも負けてない。
前に倒れながらも必死で男の足を掴んだ。
「わぁ!!」
結果、2人は見事に穴に落ちたのだった。
***
ヨンは「イッテテ…腰打った…」と自分の体の上で呻いている男を乱暴に払い除けた。
体を起こし殺気立った目で男を睨むと、ガッ! と片手で男の細い首を締め上げる。
「ぁ…!」
苦しさに男は締め上げるヨンの手をパンパンと叩くがヨンの怒りは頂点に達していた。
「……何のマネだ…」
「お…怪我はありません…か…っ」
男が声を絞り出す。
「どうしていきなり押した?!」
「…それは…そのっ…………」
何か言いかけた男が目を見開いてヨンの背後を指差した。
「……蛇」
「首を刎ねられないと分からな…!」
怒鳴りかけたヨンは呟かれた男の言葉に動きを止めた。
ーえ?ー
思わず首を締め上げていた手が緩む。
「蛇!!」
何かが背中の辺りを這う感触にヨンは恐る恐る自分の肩口に目を向けた。
「シュ~~」
チロチロと舌を出す蛇と目が合う。
「──っぎゃーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!」
ヨンは恥も外聞もなく、ありったけの悲鳴を上げた。
